上 下
15 / 32
第二章 瞑色を抱く

2. 冥色を抱く(6)

しおりを挟む
「みそら」
 食堂の椅子に腰掛けていると、遠くでそう呼ぶのが聞こえた。みそらは声のしたほうを振り向き、葉子ようこに軽く手を振った。葉子は生徒の間をすり抜け、窓に近い席に歩いてくる。長い髪に高めの身長という葉子の立ち姿は、やはり生徒より垢抜けて見えた。
「昨日、どうだった?」
「楽しかったよ。――誘ってもらったのにごめんね」
 みそらが微笑んで首を横に振ると、葉子は彼女の向かいの席に腰を下ろした。
「ご飯ついでに演奏会の進捗も話したんだけど、今年もいい感じに作曲家がバラバラになるから、聴いてて楽しいと思うわ」
「準備は順調?」
「今年で五回めだからね……みんなだいぶ慣れてきた感じはあるかも。あとはプログラム作らないと」
 葉子は自販機で買ったらしいペットボトルの紅茶をテーブルに載せると、蓋を捻った。空気の鳴る音が耳をかすめる。
「今年も聴きに来る? チケット用意するよ」
「うん。というかそのつもりでいた……言うの忘れててごめんね」
 みそらの返事に、そうだろうと思ってた、と葉子は笑った。そのまま紅茶に口をつけて、
「みっちゃんなら普通だったよ」
 と言った。
「顔に出にくい子ではあるけど、少なくとも伴奏法の講義中は普通に見えたよ」
 みそらが見つめると、葉子はペットボトルの蓋を閉めながら、わかるのよ、と微笑んだ。
「それなりに講師やってると、生徒が近くにいたらその子のコンディションがわかるものなの。他の先生方もきっとそう。みそらだって木村先生には隠し事できないでしょう?」
「……たまにエスパーかと思うよね」
「そんなものよ」
 とんとん、とつややかな指先で軽やかに蓋を叩いて、葉子はかすかに首をかしげた。
「みっちゃんはとても頭のいい子だから、そういうこともあるっていうのは理解できるし、何も言えないっていうのもわかってるんだと思う。でもまあ、あれは内心落ち込んでるんじゃないかなー」
「ちょっと――葉子ちゃん」
 みそらは思わずテーブルに身を乗り出した。
「さっき普通だったって言ったじゃん」
「それは見た目の話よ。あんまり顔に出ない子だって言ったじゃない」
「そ、それは知ってる」
「そうだよね」
 葉子は動じない。右手の指先を緩めて、そっと頬杖をついた。慌ててしまった自分との違いをその仕種で感じてしまって、みそらは少しだけ眉をしかめた。
「葉子ちゃん、余裕ありすぎ」
「ごめんごめん、みっちゃんが落ち込んでるのなんて、一年生の時にレッスンでめちゃくちゃ怒った時以来だから楽しくって。頭がいいのはいいんだけど、理性的に処理するのがうますぎるのもいつかウィークポイントになりかねないんじゃないかと心配してたんだよね」
 朗らかに言う葉子に、みそらは小さくうわあ、と声を上げた。
「先生たちってほんっと、ドSですね……」
「てことは木村先生も?」
「きみもそんなことされるようになったなんて嬉しいよ、って言われたら、ああそうですかって色々悟るよ」
 ひとつだけ遠慮なく息を大きくついて、みそらは椅子にもたれかかった。硬い木の感触が背中を押してくる。みそらは隣の席に置いていたカバンに手を伸ばして、入れっぱなしにしていたペットボトルを取り出した。
「一応これでも伴奏をやってもらったことはないんだよ」
「うん?」
「空き時間に遊んだり相談に乗ったりしてもらってるけど、三谷みたにに伴奏をしてもらったことないの。弾いてもらったことはあるけど」
「とは言っても、林さんにしてみたらほとんど同じでしょう」
「やっぱりそうなのかな……」
 みそらは神妙な顔をして口元を押さえた。
「わたしが見る限り、林さんのプライドの高さがそうさせるんだと思う。程度はどうあれ、自分の伴奏者と仲良くされるのは癇に障るんでしょうね」
「――そう見える?」
「見えますとも。大事にされて育ったお嬢様で、自分に技術があることも自認してる。歌科でもポピュラーな人種だと思うけど」
 よどみない葉子の返事に、みそらは黙った。だからこそ木村先生があんなにも嬉しそうだったのだ。野次馬根性などではなく、声楽専攻の女子によくある摩擦を目の当たりにして、それをどう処理するか――つまり、それを芸の肥しにできるかどうかという局面にみそらが立っていることに指導の火がついてしまったのだ。そうみそらは解釈しているし、葉子の反応を見てもそれが間違いだとは思えなかった。
「だからって、喜んじゃう先生もひどい……」
「そういうものよ。とくに木村先生はプロなんだから。それにみそらだってわかってたでしょう、うちの学校がどういうところかは」
「そうだけど……」
 みそらはペットボトルを掴んだ。それをそのまま顔の下に持ってきて、その上に手を載せて、さらにその上に顎を載せた。そんな生徒の様子を見て、葉子は軽く首をかしげた。
「みそららしくないねえ」
「友人に迷惑かけたなと、そこに落ち込んでおります」
 そっちね、とうなずいて、だが葉子はすぐにひらめいた顔をした。
「迷惑かけずにすむ方法ならあるじゃない」
「い、や、で、す」
 一音ずつはっきりとアクセントがついた発音に、葉子は何度も瞬きながらみそらを見た。
「ちゃんと付き合ってることにすれば外野も黙るでしょ」
「ことにすればって、そういうこと言う葉子ちゃんやだなー」
「あんたはわたしにどんな夢を見てるのよ」
 呆れたように葉子が言うと、みそらは今度こそ頭を抱えた。
「うう……ごめんなさい」
 うつむいて素直に言うみそらに、葉子はかすかに苦笑した。その表情は担当講師というよりも姉と言ったほうがしっくりくるような雰囲気だった。葉子はそっと手を伸ばすと、乱れたみそらの髪にそっと触れた。
「みそらは本当に学校が好きね」
「……好きだよ。どうしても入りたかった学校でちゃんと勉強できるもの。毎日が楽しいよ」
「うん」
 また柔らかく返事をして、葉子はみそらの髪を撫でた。その感触が絶妙に心地よくて、みそらはつい目を閉じた。
「だから、音楽の上で全力で喧嘩していたいんだ」
「みっちゃんのこと?」
「も、含めてってこと。あと二年と少ししかここにはいられないんだから、終わる時に後悔したくない」
「――恋愛してる暇はない?」
「しないつもりはないよ。肥しになるからしたほうがいいのもわかってる。優先度は低くなるけど」
「だったら余計に」
「だめだよ、全力で喧嘩できなくなっちゃう」
 頭から手が離れたのを感じて、みそらは顔を上げた。葉子はしっかりと手入れされた両手で口元を押さえると目を細めた。
「……こじらせたなあー」
「……そんな嬉しそうに言わなくても……」
 みそらが呆れたように言うと、葉子は屈託なく笑った。
「わたしにとってみっちゃんは可愛い可愛い生徒だもの。年の離れた弟みたいな感じかな。だから幸せにしてあげたいの」
「葉子ちゃんのほうがこじらせてる気がする……」
「わたしの感覚は普遍的なもので、どの先生だって何かしらこういうものを持ってるよ。木村先生だってそう。みそらのことが好きだから、こういうことがあっても以前と同じように歌わせてくれるんでしょ」
「そうだね……」
 みそらはゆっくりと身体を起こした。そうして自問するように呟いた。
「……全力で喧嘩していたいっていうのは、へんなのかな」
「そんなことないよ」
 葉子はもう一度頬杖をついて、みそらをゆったりと見つめた。傾いてきた陽の光が葉子の髪をオレンジ色に染めている――それを見つめながらみそらは口を開いた。
「今回ね、ちょっと悩んでたの。曲の解釈をどうしようかと思ってて」
「曲、何だったっけ」
「『ミミ』」
「プッチーニか。……ああ、なるほど」
 納得したような声をもらした葉子を見て、みそらは少しだけ笑った。打てば響くような反応に、すっかり安心している自分がいることに気づいたのだ。
「だから今回の件はある意味渡りに船というか、――どんな状況であろうと、『ミミ』をしっかり自分のものにしたいと思ったの」
「……『全力で喧嘩できる』?」
「うん」
 端的な言葉ではっきりとうなずいたみそらを葉子はしっかりと見つめ、そして微笑んだ。
「じゃあ、しっかりやらないとね」
「うん」
 また同じようにはっきりと頷き、みそらは苦笑いにほんの少しはにかんだ色を混ぜて、そっと言った。
「ありがとうね、葉子ちゃん」
「うん」
 嬉しそうにうなずく葉子の瞳に夕方の光が差した。もしかしたら自分にもその色が映っているのかなと、みそらは心の片隅でつぶやいた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

もしもしお時間いいですか?

ベアりんぐ
ライト文芸
 日常の中に漠然とした不安を抱えていた中学1年の智樹は、誰か知らない人との繋がりを求めて、深夜に知らない番号へと電話をしていた……そんな中、繋がった同い年の少女ハルと毎日通話をしていると、ハルがある提案をした……。  2人の繋がりの中にある感情を、1人の視点から紡いでいく物語の果てに、一体彼らは何をみるのか。彼らの想いはどこへ向かっていくのか。彼の数年間を、見えないレールに乗せて——。 ※こちらカクヨム、小説家になろう、Nola、PageMekuでも掲載しています。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

色彩と律動

山本しお梨
ライト文芸
「――ますます音楽というのは、律動づけられた色彩と時間だと思うようになった」 大学最後の学内選抜演奏会、何を弾くか。三谷夕季は悩んでいた。 地元で開催されたコンサートをきっかけに、三谷はもう一度、みそらとともに地元を訪れる。 そこで見たもの、聞こえたもの、肌に触れたものは――。 ---------- 連載中の「恋するハンマーフリューゲル」の後日譚(番外編)です。 好きな曲や好きなシーンや好きな空気をぎゅうぎゅうにつめこんだ短編で、個人的にはお気に入りの一本なので供養を兼ねてアップします。 大きなネタバレはありませんので(主人公ふたりの関係性くらいで…)、こちらを読んで興味を持った方はぜひ本編もよしなにお願いします。 ---------- ■山岡みそら 声楽専攻四年(木村門下)、ソプラノ。 副科ピアノは羽田門下。 ■三谷夕季 ピアノ専攻四年(羽田門下)。 ■羽田葉子 ピアノ専攻の非常勤講師。 三谷夕季の担当講師。講義では伴奏法も担当。 ■三谷喜美子 三谷のおばあさん。 ■木村先生 声楽専攻の非常勤講師。 みそらの担当講師で現役バリトン歌手。 ■小野先生 ピアノ専攻教授。葉子の師匠。

ガラスの世代

大西啓太
ライト文芸
日常生活の中で思うがままに書いた詩集。ギタリストがギターのリフやギターソロのフレーズやメロディを思いつくように。

見習いシスター、フランチェスカは今日も自らのために祈る

通りすがりの冒険者
ライト文芸
高校2年の安藤次郎は不良たちにからまれ、逃げ出した先の教会でフランチェスカに出会う。 スペインからやってきた美少女はなんと、あのフランシスコ・ザビエルを先祖に持つ見習いシスター!? ゲーマー&ロック好きのものぐさなフランチェスカが巻き起こす笑って泣けて、時にはラブコメあり、時には海外を舞台に大暴れ! 破天荒で型破りだけど人情味あふれる見習いシスターのドタバタコメディー!

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

鮮血への一撃

ユキトヒカリ
ライト文芸
ある、ひとりの青年に潜む狂気と顛末を、多角的に考察してゆく物語。

処理中です...