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第1話 たい焼き屋『こちょう』③

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「なんで急に値上げなんですか!?」
「もろもろ考えれば、これくらいもらわないと割に合わねーんだよ。『たい焼きは安いから旨いんじゃ!』って尭は言ってたが、本人がいねーなら話は早ぇ」
 もしや、おじいちゃんが不安がっていたのはこうなることを見越していたのだろうか。
 おじいちゃんが大切にしているお店だから、気がかりでつい今日は立ち寄ってしまった。だからと言って、私に何ができるだろう。店長代理をやるという気力も、度胸も、実力もないというのに。
 それでも、このままここを離れることもできなかった。
「そんなに高くて、本当に売れるんですか?」
「売れる! 間違いなくな!」
 四九〇円もするたい焼きなんて聞いたことがない。それなのに、彼の満ち溢れる自信は何なのだろう。
 営業でもし、彼みたいに自信たっぷりにできていれば……とそこまで考えて頭を振った。今は自分の思考に浸っている場合ではない。
「おじいちゃんがお店のこと心配してたので、様子を見ていてもいいですか?」
「いいけど。どうせ店にいるなら、ちょっとそこの洗い物やっといてくれよ」
「はぁ……」
 まぁ、洗い物くらいなら特に難しいこともないだろう。暖簾と同じ『こちょう』とロゴの入ったエプロンを拝借して、店の洗い場に立った。たい焼きの生地を混ぜた後のボウルやミキサーを洗うが、その間、これと言って客がやってくることはなかった。
 しかし和泉さんはそんなこと気にも留めず、時計の針が五時を過ぎると、思い出したかのように型に生地を流し込み始めた。
 型は一度に六つのたい焼きが焼けるらしい。生地が型に伸びたのを確認すると、艶々とした粒の残るあんこを四角い大きなへらのようなもので掬い取り、流し込んだ生地の上に乗せていく。
 皮の焼ける香りが漂い始めた頃、反対側の型にも生地を注ぐと、和泉さんは型の持ち手を掴み、ひょいとあんこが乗った方の板を返して型同士をくっつけた。彼が板を操る鮮やかな流れに、つい洗い物の手を止めて眺めてしまう。
「食べてーか?」
 ニヤッと笑みを浮かべる和泉さんは、これみよがしに返した方の型を開いた。現れたたい焼きたちは片面が見事な小麦色に色づき、甘い香りが漂ってくる。でこぼことした鱗一枚一枚が歯当たりの軽やかさを主張してくるようで、口の中にじゅわりと唾液が溢れた。
「そこの洗い物、全部終わったらひとつやるよ。働かざる者、食うべからずだ。もしくは四九〇円払うかだな」
「これだけ売れなくても値段はそのままなんですね」
「当たり前だろ。このたい焼きにはその価値がある!」
「ちゃんと売ってからじゃないと、説得力ないですよ……」
 確かに美味しそうに焼けているが、一二〇円のたい焼きとそれほど違いは分からない。それなのに、彼の売れるという確信は揺るがないらしい。
 その時、受取口から銀髪を頭の後ろでくるりとまとめたおばあさんが顔を覗かせた。
「お、カナエちゃん! いらっしゃい!」
 和泉さんの声に、おばあさんはにっこりと笑い皺を増やす。どうやら、カナエちゃんというのがおばあさんの名前らしい。
「和泉ちゃん、何だかたい焼きが高くなってなぁい?」
「まぁ、いろいろあってさ。でも味は保証するから! ひとつ食べてみてよ」
「そうねぇ……」
 そわそわと二人のやり取りに耳を傾ける。
 本当に四九〇円もするたい焼きを買う人がいるのだろうか。カナエさんは会話から察するに常連さんのようだけれども、値段が倍以上になったたい焼きに追い逸れと手を出すとは思えない。下手をすれば、これは常連を失うかもしれない賭けではないのだろうか。
 病院で表情を曇らせていたおじいちゃんの顔を思い出し、ドクドクと心臓は嫌な音を立てる。
「じゃあ、美味しくなかったらタダでいいよ」
「えっ!?」
 和泉さんの提案に私もカナエさんも驚きの声を上げた。カナエさんの曲がっていた腰が、先ほどよりも少し伸びている気がする。
「その代わり、ちゃんと美味しいって思ったら四九〇円。これでどうだ?」
 店の前には二人掛けの竹の椅子が置かれており、そこに腰かけて食べていくこともできるが、料金後払いの、しかも満足できなければタダのたい焼き屋なんて聞いたことがない。下手したら食い逃げをされるだけになるのではないだろうか。
 すっかり洗い物の手を止めて、じっと受取口の二人を見つめてしまう。カナエさんは、うーんと考え込み、やがてゆっくりと口を開いた。
「和泉ちゃんがそこまで美味しいって言うなら、ひとつ食べてみようかしら」
「ありがとー! カナエちゃん!」
 和泉さんは出来立てのたい焼きを紙袋に入れて手渡す。店の窓から外を覗くと、曲がった小さな腰でちょこんとカナエさんが椅子に腰かけた。
 そして、受け取ったたい焼きをまじまじと見つめると、やがて頭の方からぱくりと口に含む。
 商店街の喧騒が、今だけはひどく遠くに聞こえる。じっとカナエさんの反応を待っていると、やがて彼女は顔を上げた。
 カナエさんは蕩けるような笑みを綻ばせ、周りにほわほわと花まで飛んでいるように見える。一口目を堪能し終えると、また一口、続けてまた一口、と一心にたい焼きを食べていく。言葉が無くとも、十分にたい焼きの美味しさが伝わってくるような食べっぷりで、包んでいた紙袋まで一緒に食べてしまうのではないか、という勢いだった。
「ごちそうさま」
 そう言いながら、カナエさんは受取口に再び顔を出すと、和泉さんの手に五百円玉を乗せる。
「う、うそぉ……」
 気付けば驚きの言葉が転がり出ていた。そんな私の呟きを掻き消すように、和泉さんが声を張り上げる。
「ありがとうございまーす! ちなみにお釣りの十円はどうする?」
 どうするも何も、お釣りなんだから返すものだろう。
 と心の中でツッコミを入れていたが、カナエさんは聞かれることを待っていたかのように、はいはいと頷いた。
「それは和泉ちゃんへのお駄賃よ。お賽銭箱に入れておきなさい」
「カナエちゃーん! ありがとう、大好き!」
 お釣りだったはずの十円玉が、彼が首から下げていた段ボール箱に入れられる。『奉納』と書かれた箱には既視感があったが、ようやくそれが賽銭箱だったと思い至った。
 なぜお駄賃が賽銭箱行きなのか。和泉さんへのチップのようなものなのだろうか。疑問ばかりが頭に浮かぶ。
 帰り際、もうひとつ四九〇円のたい焼きを買っていったカナエさんが去っていくのを、和泉さんがぶんぶんと長い腕を振って見送っていた。
「まさか二つも売れるなんて……」
「だから言っただろ? 売れる、って。いつもとあんこが違うんだよ。ただ、すげーいい小豆を使ってるから、一二〇円じゃ割に合わなくて尭がいる前では使えなくてさー」
 言葉が出ないまま和泉さんを見つめていると、店の中に声が飛び込んでくる。
「すみませーん!」
 受取口の方を見れば、いつの間にかわらわらと人だかりができていた。
「さっき、そこでおばあさんが食べてたのと同じやつください!」
 カナエさんは、確かに視線を留めてしまうほど美味しそうに食べていた。それが呼び水になったのか行列が生まれ、それに目を留めた通行人がまた集まりの中に加わっていく。
「四九〇円のたい焼きとか、どんなのか気になるー!」
「絶対、美味しいよね!」
 普通ならあり得ないと切り捨てそうなところを、カナエさんのおかげか好印象と期待とともに受け入れてくれているようだった。
 呆然としていた私の背を和泉さんがぽんと叩く。
「列整理しねーと周りの店にも迷惑だから。孫、やってこい」
「わ、私ですか!?」
「しょうがねーだろ。こんだけ客来たら、会計と作るのだけでも手一杯なんだよ」
「でも……」
 目の前に広がる人々の視線が、ふいに自分に集中したような錯覚を覚えて胃が鉛を飲んだように重くなる。
 向かってくるざわめきが、関係ないはずの上司の怒鳴り声にぐにゃりと形を変えて、襲い掛かる。唇が震え、しゃがみこみそうになったその時だった。
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