人形の天使

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人形の天使

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 学校の帰り道、僕は恵と二人で破壊のつめあとの感じられなくなりつつある街中を歩いていた。二年前は壊れた家や瓦礫の山が多く見受けられたものだが、そういう土地は、今はもう、サラ地になっているか、または新しい家が建っているかしていた。僕や恵も、そういった新しくできた家に住んでいる。前に住んでいた家は崩れてしまったのだ。二年前に。
 僕と恵の関係はどんなものかというと、ただのしゃべり友達だったりする。しょっちゅういっしょにいるから恋人同士だと思われることもあるが、決してそんな間柄じゃない。ただなんということのない話題をとりとめもなくしゃべるだけで、二人でどこかに遊びに行くとかいうこともない。
 今日もいつもと同じように何か議題を見つくろっては、二人で議論したり、感想を言ったりしながら下校していた。帰る方向が同じなのだ。長い通学路を一人寂しく帰るよりは、誰か話し相手がいたほうが楽しく、そんなこんなで、いつのまにか恵と仲良くなっていて、このように会話しながら下校するようになっていた。
 最近の政治家は信用がおけないという話をしていたとき、ふと、恵が天使の人形のキーホルダーを鞄につけているのに気が付いた。
「そんなもの前から付けてあったっけ?」
 指差してきいてみた。
「ん~ん。今日はじめてつけてきたの。いいでしょ」
 ほれほれとうれしそうに見せびらかしてくる。その人形の表情は、線だけで描かれてあって、ニコニコ顔をしていた。屈託のない、無邪気な、何の悩みもなさそうな笑顔だった。
 そんな顔を見ているうち、それとは全く反対の表情を持った、ある人の顔が浮かんできた。
「どうかした?」
 ぼ~っとしていた僕に恵が眉をひそめながらきいてきた。
「いや、ちょっとね」
「あ、そう」
 恵はあまり深く詮索せずに歩を進めた。
それから少し間を置いて、僕は恵に聞こえるよう呟いた。
「昔さ、天使に会ったんだ」
 僕の言葉を聞くや否や、恵はさっきよりもはっきりと怪訝そうな顔をした。
「それ、何かの比喩?」
 その言葉に僕は薄く笑いながら答えた。
「比喩でもないし、例えでもないよ。本当に本物の天使に会ったんだ。二年前にね。でも、当時はあの人が天使だなんてとうてい思えなかったけどね・・・・・・」

 二年前、この町を直下型の大地震が襲った。多くの家は倒壊し、町はけが人であふれた。家族を失って嘆き悲しむ人も大勢見受けられた。
 そうすると僕は幸運な人間なのかもしれない。僕は、自身のとき、たまたま広場を歩いており、怪我らしい怪我はひとつも負わなかった。それに家族を失うようなこともなかった。
 失うようなことはなかったのだが、無傷というわけにはいかなかった。むしろ重体だった。父も母も弟も。みな壊れた我が家の下敷きとなってしまったのだ。
 特にひどかったのは父だった。頭に強い衝撃を受けたらしく、意識の戻らない状態が何日も続いていた。このままでは死んでしまうかもしれないとまで言われた。
 家をなくして帰る場所をなくした僕は、父を始め、家族全員がかつぎこまれた病院内で寝泊りしていた。だから、毎日父の様子を見に行った。いつ死んでしまうかわからない、眠り続ける父の姿はなんとも痛ましかった。
 あの日、僕は母の病室で、傷の完治していない母と、夜までおしゃべりをしていた。会話の中で父のことが話題に出ることもあったが、「父が死ぬ」などということはお互いけして口にしなかった。僕も母も、父のことをとことんけなした。いびきがうるさいだの、すぐ怒るだの、味の好みがうるさいだの、と。
 母の病室から出ると、廊下の窓から丸いきれいな満月が見えた。「きれいだなあ」と思い、僕はしばらく窓の産に手をかけて、月に見入っていた。既に十二時近いため、廊下の電気はすべて消えていて、そのため月はいっそう輝いて見えた。
 月が真南に、つまり中天に達したそのとき、
「あっ!」
 驚きのあまり思わず声が漏れた。
 ひとかたまりの青白い光が空からゆっくりと降ってきていた。僕はその光から目をそらすことができず、ただ馬鹿みたいに光を眺めていた。
 「人魂だろうか?」という考えも浮かんできたが、怖いというよりも、まず驚きが心の中を支配していた。
 光は宙にただよい、しばらく左右に揺れ動いていたが、ぴたと一瞬止まると、今度は速度を速めて一直線に動き出した。光を目で追う必要はなかった。何故なら光は僕に向かって飛んできたからだ。
 「ぶつかる!」と、心の中で叫んだ。近づいてくる光の迫力に勝てず、僕はついに目を閉じた。閉じた目の向こうが一瞬真っ赤に染まったかと思うと、再び、真っ暗に戻った。
 目を開けてみると、光はなくなっていた。
 反射的に首を振って、左右を確認した。月明かりだけのはずの廊下が、ほのかに不自然な青白い光にてらされていた。その光は並ぶ病室の一室から発せられていた。
 だがやがて、その光も消えうせ、廊下は再び月明かりだけとなった。
 僕は、あの青白い光が入っていったのだと思われる病室に忍び寄った。そして、そこが父の病室であるということに気づいた。
 どくどくとはやる心臓を抑えつつ、僕は病室の扉を少しだけ開けて、中をのぞき見た。当然のことながら、そこには父や、そのほかの患者がベッドの上で眠っていた。
光らしきものは見当たらなかった。そのかわり、父の寝ているベッドの脇で一人の少女が椅子に座っていた。僕と同じくらいの年齢だと思えた。その少女は父を無表情にじっと見つめていた。
「何をしているのだろう」と思いはしたが、口には出さず、僕は部屋の外からその少女の様子をうかがっていた。
 しばらくして、不意に少女が立ち上がった。そしてドアに、つまり僕に向かって歩きだした。思わず物陰に隠れて身を潜めていると、ドアの開く音、そしてこつこつと廊下を歩く音がして、やがて聞こえなくなった。そろそろと部屋をのぞきなおすと、やはり少女の姿はなくなっていた。
 病院の待合室のソファ。そこが僕の寝床だった。家族が病院に入っていた間だけであったが。その日はその上で何度も寝返りをうった。眠れなかった。芽を閉じると、あの不思議な光、そして謎めいた少女の姿がまぶたの裏を駆け巡った。頭の中では未知との遭遇という単語が反響していた。
 あの光の正体はあの少女だったのだろうか? そんな馬鹿なと思う一方で、その想像を打ち消すことができなかった。
 だが、いつの間にか眠ってしまったらしく、やがて朝になった。
「竜一君、竜一君」
という、看護婦の声で目を覚ました。
「はい、どうかしましたか?」
目をさすりながら、僕が答えると、看護婦はニコニコしながら言った。
「お父さんの意識が戻られたわよ」
「えっ!? 本当ですか!?」
 僕はその看護婦に、知らせてくれたことに礼を言うと、父の病室へと駆け込んだ。
 父はベッドの上で上半身を起こしていた。顔色もいいように見える。病室の中には弟の哲もいて、その腕にはギプスがはまっていた。
「おお、竜一か」
 父は僕に目をとめるなり、顔をほころばせながらそういった。
「おはよう、父さん。体はもう大丈夫?」
「ああ、体はまだ痛むし、うまく動かないが、気分だけはすこぶるいい」
父がそういったとき、哲がふっと笑った。
「哲、どうかしたか?」
僕は哲にきいた。哲はどうやら苦笑いをしているようだ。
「親父、変な事いうんだぜ。夢の中に神様が出てきたんだとかさ」
「神様ぁ?」
これには思わず引いてしまった。まさか頭を打ったショックで宗教に目覚めてしまったとかいうのではあるまいか? じと目で父をにらんでいると、父は憮然として言った。
「お前までそんな顔することないだろ。父さんはただ、夢の中で起きたことをそのまま述べただけで、別に神様のお告げがどうとかと言って、新興宗教などを始めるつもりはさらさらない!」
 その物言いがおかしくて、僕は思わず笑ってしまった。哲も笑っていた。父も声には出さないが笑っている。
「はは、わかったよ。それで神様はお告げとかくれたりしたわけ?」
「それがだな・・・・・・」
「なぁ~んにも言わなかったんだと」
哲が口をはさんだ。
「親父の方を無表情にじ~っと見ていたかと思うと突然ぱっときえちまったんだと」
僕はなんとなくひょうしぬけしてしまい、あきれながら父を問い詰めた。
「それじゃ何でその人が神様だって分かったわけ?別に、余は神であるとか名乗ったわけじゃないんだろ?」
「そんなこといわれても、分かったもんはわかったんだからしょうがないだろうが」
 まあ、夢にそういうことがよくあるものだと納得するしかなかった。
「ま、意識が戻ったのは神様のおかげかもしれないと、がらにもなく思ったりするわけだ。もっともさっき言ったとおり、信仰に生きるつもりはさらさら無いがな」
「見つめられただけで、元気になってんじゃねぇよ」
哲が例によって苦笑しながら言った。
「無表情で見つめられてもねぇ」
 ふと、昨夜見た少女が頭をよぎった。「無表情」、「じっと見つめる」と言った単語に、脳が反応したのだろうか。
「ところで、その神様って男だった? 女だった?」
気が付いたら口がそう動いていた。
「変なことにこだわるな。わからんかったよ、そんなこと」
これも、夢においてよくあることなのでしょうがない。
 しばらく談笑していると、病室に車椅子に乗った母が入ってきた。もちろん看護婦の付き添いがいるが。母は父を見て大いに喜んだ。よかったよかったと何度も繰り返しながらないていた。
 夜になるまで、僕たちは、久しぶりにそろった家族の会話をしていた。
 解散した僕たち家族はそれぞれの病室、僕にいたっては待合室のソファだが、に戻った。しかし、夜も一時をまわろうとしているのにいっこうにねむくならない。しばらくごろごろしていたが、気分転換のために少し歩くことにした。
 僕は父の病室に向かって歩いていた。それは父の様子を見るためだったのか、それとも・・・・・・。
 ひっそりとしている病院の廊下で、僕のものでない足音がコツコツと響いてきた。誰かがこっちに来る。その音は僕の左手の方にのびている廊下から聞こえていた。
 コツ、コツ、コツ。ゆっくりと。僕は立ち止まって、その音がやってくるのを待った。
 やがて姿をあらわしたその足音の主は、例の少女だった。やはり、と思った。
 少女は僕に一瞥くれただけで、そのまま横を通り抜けようとした。
「ちょっと待った」
 僕はついに声をかけた。が、それに続く言葉が出てこない。言いたいことはいろいろあるはずなのに。
「なにか用?」
 何も言わない僕に痺れをきらしたのか、うざったそうに少女は言った。
「あ、その、あ、りがとう」
慌ててしまった僕はしょっぱなからそんなことを口にしていた。
「話はそれだけ?」
それだけなら失礼させてもらうと言外に言いながら、少女はきびすを返しかけた。
「いや、そうじゃなくて、あの」
あわてるあまり、頭が熱くなってこんがらがってきた。だが、
「父さんの意識を戻してくれたのは君なのか?」
ついに、なんとかそれをたずねた。
「そうよ」
少女はこともなげに言った。
「き、君は神様なのか?」
僕はなおも答えていた。
「私は神じゃなくて天使よ」
 嘘か本当かはわからない。が、その少女は確かにそう言い、僕はそのさらっとした答えに肝をつぶした。少女はなおも続ける。
「神の命令で、この病院の人間を助けに来たの」
「そ、そうなのか」
「そうよ」
 僕はもう何もたずねることができなかった。ただ、彼女を見つめることしかできなかった。
 無表情だが綺麗な顔をしている。その姿からはこの世のものでないかのような雰囲気を感じた。
「もう行くわよ」
少女は今度こそ本当にきびすを返した。僕は去っていく後ろ姿をやはりじっとみつめていた。
 翌日、僕は病院の中をぶらぶらと歩き回った。
「・・・さん、意識が戻られたそうよ」
「・・・君、もう歩けるようになったんですって。はやいわね」
そういった会話が聞こえてきた。そんないい知らせを耳にするたびに僕はあの少女のことを思い出した。その「いい知らせ」はすべてあの少女のおかげではないのだろうかと思ってしまう。かんぐりすぎかもしれないとは自分でも思った。第一、あの少女の言うことが正しいとは限らないのだ。彼女は震災の被害者で、頭を打って、精神に以上をきたしていると考えたほうが自然な気もする。が、やはり、彼女が言ったことを否定する気にはなれなかった。
「・・・号室の患者の様態が急変しました! 急いできてください!」
不意にそんな切迫した声が聞こえてきた。医者と看護婦が廊下を走っていく。僕はその姿を目で追っていた。
 その後、僕はそのまま父の病室を訪ねた。部屋には父しかいなかった。
「気分は?」
「爽快だ。もう少し体が動くようになれば大部屋に移るそうだ。怪我が治っていくって事は、優遇されなくなるって事でもあるんだな」
くくっと笑いながら父はぼやいた。
「父さんは運がいいな。奇跡的に意識を取り戻したんだから」
「運とはなんだ。父さんの日ごろの行いがいいからだ」
父は僕の言葉にむっとしたように答えた。
「さっき様態が急変した人がいるって聞いたから、しんみりとそう感じたんだよ」
「まあな・・・」
「神様はその人を助けたりしないかな」
ポツリと僕は言った。
「俺みたいにか?」
やはり笑いながら父が言った。僕は小さくうなずいた。
「助けてくれるといいな」
とうさんはそう言った。
 その日の夜も、やはり僕は眠ることができなかった。またもやそろそろと暗い病院の中を歩き始めた。
 行く先は、あの、様態が急変したというあの人の病室。僕が行ったからといってどうなるものでもないし、僕にはどうすることもできないのだか、僕はそこに向かっていた。
 こつこつこつ。足跡が僕の前方から聞こえてきた。あまり警戒はしなかった。もはや、足跡の主が誰であるかの見当はついていた。
 やがて、昨日と同じように、あの少女が姿をあらわした。
「おつかれさま、あの病室に行っていたんだろ」
僕はそう声をかけ、病室があるほうをあごでさした。彼女はこちらを見たが、何も言わない。
「僕が言う筋じゃないけど、ありがとう」
「それがわたしの使命だもの」
「そうか」
そのまま彼女は去っていった。
 なにか、胸の中がもやもやした。そのもやもやが体を突き破ってきそうな気がした。そのもやもやのせいでふらふらとする体を引きずって、例の病室の前まできた。中をのぞいてみると、一人の青年が気持ちよさそうに眠っていた。ほっとした。が、それと同時にもやもやが濃くなってきた。僕はたまらず、急いで寝床まで帰ると急いで毛布を引っかぶって横になった。
 目を閉じても心の中は苦しいままだった。
 次の日はぼーっとソファに座ったまま、ずっと彼女のことを考えていた。すると、テクテクと、哲がやってきた。
「兄貴、どうした? 元気ないな」
「哲、神って何だと思う?」
「・・・兄貴、親父の話に触発されて宗教に目覚めたか?」
「いいから答えてくれ」
「人間が作り出した、すがりつく対象」
「じゃあ天使は?」
「神が人間に何かしてくれると信じた人間の妄想」
「存在しないと思うか?」
「当然」
「仮にいるとすればどんな奴だと思う?」
「いないって」
「仮にだ」
「考えたこともないからなぁ」
「僕の持ってる天使のイメージはいつも微笑んでいて優しく人間に尽くしてくれるって感じなんだけど」
「けど?」
「今考えたのでいいから、お前のイメージを教えてくれないか。たのむ」
「うーん、神様にこき使われる、かわいそうな奴隷ってとこか?」
哲は答えた。
「ありがとう」
僕は哲に礼を言っとくと、ごろりとソファの上に横になった。
「兄貴、ほんとにやばいんじゃないか? 病院行ったほうがいいぞ、ってここだけどな」
哲が冗談交じりに言う。一応心配はしてくれてるようだ。
「そうだなあ・・・。一度、とびっきり腕のいい奴にみてもらうとするかなあ」
ふわあとあくびしてから僕は言った。
 夜になり、病院内の電気が消えると、僕はまた院内を歩きだした。目的地はなく、あの少女に出くわすまでうろうろうろうろと歩きつづけた。
 やがて、あの少女が、とある病室から出てくるところに遭遇した。
「やあ」
まずは声をかけた。
「毎晩毎晩たいへんだね。ごくろうさん」
「仕事だもの」
彼女はやはりさらりとそんなことをいった。表情は無表情のままだった。
「君は自分のしていることを、命令だからとか使命だからとか仕事だからとかいうけど、それは君自身の本心なのか?」
「そうよ」
「でも、君自身に患者たちを助けてあげたいという思いがあるから、君はここにきているんじゃないのか?」
僕は訊こうと思って用意していた言葉を述べた。どうしても、それが確かめたかった。その答えがききたかった。
「私がどう思っているかなんて関係ないわ。神は私にこの病院に来るように命令した。だから私はここにいるの」
たんたんと述べる少女。その言葉をきいて僕の中のもやがついに噴出した。
「やめてくれ」
僕は静かに言った。少女はこちらを見ている。
「命令だからなんて、もう言わないでくれ」
僕は彼女の目をしっかりを見据えた。彼女の目は、澄んでいるがとても冷たそうに見えた。
「君が好きでやってるっていうんならかまわないんだ。命令でも何でも。君のやってることはすばらしいことだと思う。僕の父みたいに救われた人間が何人もいるんだと思う。でも、君が好きでなくて、ただ命令だからやってるって言うんなら、もう、やめてほしい」
僕は必死に言葉をしぼり出した。なんとかして彼女にわかってほしかった。
「好き嫌いの問題じゃないわ。神が命令すれば私はただ従うのが当然のことなの」
彼女はやはりたんたんと答える。
「そんな、命令に従って生きる君を見たくないんだ。そんなんじゃなくて、自分の意志で、自分の思うように生きる君を見たいんだ」
「私たちは神の命令があるまで何もしない。神の命令があるまで何もしない。神の命令であればそれが何であれ実行する。神の命令でないことは本来すべきことではないのよ」
心なしか、彼女の目の冷たさが増したような気がして、思わず寒気がはしった。
 あの子が遠のいていく。そんな感じがした。今、今しっかりつかんでおかないと、もはや絶対に手の届かないところへいってしまう。そんな気がした。今しかないのだ。今、すべてを伝えきるしかないのだ。そう悟った。
「僕は君が好きだ。だから命令なんかとっぱらった、ありのままの君が見たい。ありのままの君自身でいてほしいんだ!」
僕は言った。最後はほとんど叫びのようになっていた。
 若干の沈黙が流れる。
 そして、少女がふと口を開いた。
「話はそれだけ?」
 変わらぬ調子で彼女は言った。
 僕は彼女の姿をあらためてながめた。あいかわらず、きれいな顔で無表情だ。しかし、今はその顔が、そして体全体が透き通って見えた。実際に透き通っているはずがない。彼女の存在がとてつもなく空虚なものに感じられたからだ。言われないとしない。言われたことしかしない。自分の意志をもとうとしない。それが当然なんて。
「もう行くわよ」
少女は背中をむけて歩きだした。遠のいて行く背中にむかって、僕は新たに声をかけた。
「命令されるだけの人生なんて楽しいのか?」
無性に悔しかった。体中を何かが駆け巡っているようだった。
「命令されない人生なんて楽しいの?」
少女は振り向かずに答えた。
「カラッポ!」
少女にむかって最後にそう叫ぶと、僕は後ろを向いて駆け出した。
「そっちこそ」
背後から少女の声が聞こえた。その声を振り切るように走る僕の目からは、知らぬ間に涙がこぼれていた。
 そして、その声が、僕が聞いた彼女の最後の声となった。

「なんだかんだいっても、僕は結局あの人に、自分の持っていた天使のイメージを押し付けようとしてたのかもしれない。でも、哲の言ったとおりだった。あの人は神の奴隷だったよ。天使という名にふさわしい正真正銘筋金入りの。だから、結局、僕はあの子の笑顔を見れなかったんだよな」
 恵は僕の長い話をうんうんとあいづちをうちながら聞いてくれた。
「天使ねぇ・・・。でも、ほんとにその子、天使だったの?」
「わからないよ。あの人が本当はなんだったかなんて。でも、あの人が自分自身のことを天使だと思っていたのは間違いない
「今も、その子のこと、好きだったりする?
「さあ、どうかな・・・」
恵はふぅーんといいながら天使のキーホルダーをながめていたが、しばらくながめたあと、おもむろにそれを鞄からはずすと、僕のほうに投げてよこした。
「今日はおもしろい話をありがとう。そのキーホルダーあげるから大事にしてよね。じゃあね」
 そういうなり、恵は走っていってしまった。
僕の手もとには、天使のキーホルダーが残った。それをあらためてながめてみる。
 ニコニコと笑っている。でもそれは生き物ではなく人形に過ぎない。表面では笑っているが、その中は実は・・・・・・。
『カラッポ』『そっちこそ』『カラッポ』『そっちこそ』『カラッポ』
 少女と交わした最後の言葉が頭の中でリフレインし、背すじがふいにゾクッとなった。
 チリンチリン。
 僕の脇を、自転車がベルを鳴らしながら通って、はっとなる。
 あわててキーホルダーをポケットの中にねじこむと、僕は新築の家への帰路をはしった。
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