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しおりを挟む彼の事件以降、ルイス以外には笑顔を見せても、ルイスにはそれを見せず、見せたとしても作られたものばかり。それが何よりもルイスには苦痛だった。
「12年。されど、12年。聡明すぎた殿下は、それ故に幼く柔い心とのバランスを崩し、上手く受け入れられず、自分を責め続けている」
「……質悪いのは、それが不毛だって理解している事。自分の所為でもない、賊の所為であって、他の誰の所為でもない事を理解している事。でも、今なお受け入れられていない事」
アルバートとルイスは重いため息をついた。繊細だった彼の心は、身動き取れなくなり、出口を見失っている。触れれば簡単に崩れ消える傷だらけの状態で。
「誰もが、それこそ殿下ご自身も自覚されているが、それでも治らない時点で大問題。そんな状態で王位なんて継ごうものなら……」
エルドレッドの心は修復できない程に壊れるだろう。
「しかし、継がなかった場合も、イリアスを死なせてしまったのに王位も継げなかったとなりませんか?」
ルイスの懸念も一理ある。しかし、アルバートはにやりと笑った。いきなり深刻な空気が失われ、ルイスが半眼になる。
「なんですか」
「そりゃあ、あれだろ。お前が、どうにかしろ」
どうにかって、どうすれば。ルイスは天を仰ぐ。今ですら手に負えない状況なのに、と呻きそうになるのを全身全霊で押しとどめる。それを言ったら終わりだ。現に、楽しそうな顔しながら、アルバートの目は鋭くルイスの出方を伺っている。
「ええ、ええ。どうにかしますよ。なんだってしますとも。それが俺の役目だし、他の誰にも譲りませんよ」
「おう。その意気だ。悩めよ、青少年!」
かっかっかと笑うオヤジをジトっと眺めると、ため息をついた。アルバートはと言うと、片肘を机について顎を乗せたかと思うと苦笑する。
「まあ、確かにどっち転んでも殿下の心にダメージがある可能性は少なくない。それでも、後者の方が傷つかない、あるいは傷の大きさが小さくなる可能性が大きい。なんせ、殿下ご自身が王位継承権を放棄して離宮に行くことを望まれているのだからな」
「それもどうかと思うんですけどね」
頭を振ると、話は終わりとルイスは踵を返した。特に引き留めなかったアルバートだったが、ふと思い出したようにその背に告げる。
「そうそう。ここに呼んだ本題は、陛下が殿下をお呼びだってことだ。伝えておけ」
ぴたっと足を止めたルイスは、振り向くことなくそっと目を閉じた。今までの話からの王からの呼び出し。内容を言われずとも察しがつく。たった一人の繊細な心を残して、時は残酷にも過ぎてゆく。
「……了解」
騎士団長の部屋を出ると、握った拳を額に押し付ける。そのままじっとして、込み上げる激情を無理やり飲み下す。ゆっくりと顔を上げたルイスは、決意を込めた顔をして、エルドレッドの下へと足を踏み出した。
団長の部屋を辞したその足で向かった為、どうにか逃がさずに済んだようだ。ルイスの顔を見た瞬間に、ふいっと顔を逸らした姿を見て微苦笑する。とは言え、暖かなカップを大事に抱きしめている事と、ルーナの凄みを帯びた笑顔を見る限り脱走できなかった線もありそうだが。
「父さまからの呼び出し?」
嫌そうな顔をするエルドレッドに要件を伝えると、その大きな瞳を丸くした。久方ぶりにあった視線に、ルイスの瞳が柔らかく和む。それを目敏く見つけたエルドレッドはぎゅっと口元を引き結び、乱暴に抱えていたカップを机に戻す。いささかエルドレッドらしくないその仕草に、ルーナの目が見開かれる。
「エルドレッド様?」
「……父さまの所に行ってくる」
無造作にソファから立ち上がると、そのままスタスタと扉の方へと歩き出す。一瞬遅れたものの、コンパスの長さの違いによって先にたどり着いたルイスが扉を開けてエルドレッドを通す。エルドレッドは一瞬立ち止まってルイスを睨みつけ、ふんっと鼻を鳴らしたが、ふとニヤリとした笑いをうかべ、部屋の外で警護していた騎士を呼ぶ。
「はい。いかがいたしましたか殿下」
「父さまの所へ行く。ついてこい」
「しかし、護衛はルイス殿が……」
「この俺直々に護衛に就けと言っているのだ。逆らうのか?」
「しかし……」
「お話し中失礼します」
若い騎士相手に駄々をこねるエルドレッドとしどろもどろの騎士。頭痛を堪えながら割り込み、エルドレッドを睨みつける。慇懃無礼だぞ、と顔に大きく書いてアピールされるがそこは無視をする。
「護衛騎士は各要人毎に決められています。皆さまをお守りする為の決まりですが、それを違えろ、と?」
「ふん。部屋の警護を任せられるくらいなんだ。身辺調査も安全性も確認済みだろう?ならば誰でも変わらん」
シレっと痛い所を突いてくる王子。無駄に頭と口が回りやがってとルイスの額に青筋が浮かび、周囲の騎士から同情の視線がそれとなく向けられる。確かに、例の一件の後、護衛に着く騎士の基準は酷く厳しくなった。実力が伴っているかは前提であり、その上で厳しい身辺調査等が課さられ、絞り込まれてようやくつける任となったのだ。逆に言えば、部屋の護衛についている時点で最低限のラインをクリアしているという事なのだ。エルドレッドの言も間違いではない。さり気なく過去の一件に触れるあたり、エルドレッドの自虐気質と心の傷が垣間見える。やれやれと頭を振って眦を吊り上げる。
「そういう訳にはいきません。第一、彼を連れ出している間、部屋の護衛はどうするのですか。万一にも不審者が入り込んだら?」
「そんなの単純な解決方法があるだろう?お前がソイツと交代してここで警護してろ」
「このくっそ面倒な王子め……!」
万事解決、とドヤ顔をして指先を突き付けてくる王子の指をそれとなく握って降ろさせる。すぐに振り払われたが。悪態をついても何時もの事。いつの間にか特別枠に入ってしまっているルイスが多少不躾な事をしても見逃されるのだ。この王子——かつては王子たち——を相手に出来るのが彼だけだという残念な理由で。
「それで?途中で彼を追い払い、王の下へ行って、それから身を隠すと。その際邪魔になる俺は部屋の護衛をしている以上増員が来ない限り下手にここを動けない。逃げやすいし、邪魔者を追い払えるから一石二鳥と言う訳か」
「馬鹿だな。父さまの所に行った後に振り払うに決まってるだろ。父さまにご心配をおかけする訳には行かないからな」
「どっちも変わらないだろう。というか、そもそも普段に行い的に既に心痛で倒れられてもおかしくない」
「国王の責務は責任重大だからな。虚弱体質の俺には無理だな」
「エル!」
嫌味の応酬をしつつ、じりじりと逃げようとする王子を逃がさないようにする騎士。心底楽しそうに己を卑下する姿に、ルイスも、周囲の騎士たちも纏う空気が凍り付く。思わず声を荒げて愛称を叫んだルイスだったが、その瞬間、悲鳴の様な声が上がる。
「その名で呼ぶなっ!」
ギュッと己の体を抱きしめて、王子が後ずさりする。震える体を扉に押し付け、まるで警戒するネコの様に毛を逆立ててルイスを威嚇する。その美しい顔《かんばせ》は色を失い、黒曜の瞳が拒絶を伴って冷たい光を灯している。12年前から他人と距離を置くようになったエルドレッド。他人とどう接すればよいのか分からなくなった彼は、殊の外ルイスを拒絶した。今でこそ、どうにか側に居れているが、一時期はルイスの顔見るたびに恐慌に陥っていた位である。時折、その鱗片が覗き、ルイスを酷く拒む。ぐっと込み上げてくる激情と熱い何かを無理やり飲み下すと、表情をかき消しエルドレッドの腕を掴む。
「離せ!」
「王の下に行かれるのでしょう」
「っ!」
冷ややかな声に、エルドレッドの肩が跳ねる。前を向いているルイスには見えないが、その表情が手に取るようにわかる。まるで迷子になったかのように、どうすればよいのか分からないという表情。他を拒絶する癖に、生来の寂しがりやで甘えたな部分が顔をのぞかせ、身動きが取れない、そんな顔。
「……素直に、泣き喚いて、当たり散らして、全てを吐き出せばいいのに」
「何か言ったか」
「いえ」
小さな小さな呟きは、この城の誰もが抱える思いで、決してエルドレッドに届かない切なる願い。大人の思考と子供の感情が入り混じって、いまだに整理できていないエルドレッドに願う唯一の事。頭を振ってルイスはその手を引く。
「離せって言ってるだろ」
「なんなら抱き上げるぞ。どっちがいい」
「この猫かぶり騎士っ!」
思い切り爽やかな笑顔をエルドレッドに向ける。評判が非常に良いものなのだが、エルドレッドは顔を引きつらせ大人しくなる。爽やかな笑顔の裏の圧力もさることながら、一度実力行使された記憶があり下手に動けなくなったのだ。
ぎこちない空気を残しつつ二人は黙って王の居室へと向かっていった。
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