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逃げ出した日々
しおりを挟む寂しかった。
いつのころから、その寂しさを感じていたかは分からない。
ただただ、寂しかった。何かが、決定的に足りなかった。
別に、とりわけ不幸だったわけではない。両親と兄弟に恵まれ、そこそこに勉強して進学校へ進んで。そこそこに青春して、男友達と馬鹿な青春して、女の子やΩの子と照れ臭い青春もして。
それでも、ふとした時に感じるのだ。何故か胸に穴が開いているような、その穴に冷たい風が何時も吹き付けているような、そんな寂しさを。
ずっと何かを、――誰かを探していた。
――ねぇ、君はどこにいるの?
教室の窓の外に見える景色は、いつの間にか寒々とした雰囲気を纏っていて。ああ、冬が来るんだな、とぼんやりと僕は思った。聞こえてくる数学の授業は、何時もであれば微かな高揚感すら連れて、僕の頭の中に入ってくるのに、ここ最近はどうにも耳をすり抜けていく。ため息をついて視線を落としたノートは、真っ白だった。
意味もなくシャーペンの芯を出しては、出し過ぎたソレを元に戻す。何か書こうとして、何も浮かばず、ピクリともペン先が動かない。
――嘘。思い浮かぶのは、「彼」の姿。何をしていても、どんなに振り払おうとしても、気付いた時には「彼」の事が頭を占めている。
教科書の数式を何度も眺めて、何度も目が滑る事を自覚して、僕は諦めて軽く頭を振った。こっそり教師の様子を伺って、気付かれない様に勉強するフリをしつつ、「彼」を思う。
「……記憶、あるのかな」
小さく口の中で呟き、あるわけないと自嘲する。かつて自分が前世を思い出した時、周りの反応から前世を覚えていることが普通ではない事はすぐに察しがついた。それからはずっとその事を隠して生きてきた。だからこそ、覚えているはずがない、と理性が呆れ声を上げる。それでも。感情が、覚えているのでは、と、――きっと覚えて居てくれるはず、と叫ぶのだ。
どこまでも自分本位な感情に嫌気がさす。
あんな記憶、覚えていない方がよほど幸せだ。それに、もしも彼が覚えて居なのなら、それは僕と出会うためではなく、彼を苦しめた僕への恨みか、あるいは人生を狂わせた報復のためでしかないはずだ。
「……どうか、覚えていませんように」
きっと、それが僕にとっても、彼にとっても、幸せなはずだ。
幸か不幸か、教師に心ここにあらずな事は悟られず。いつもの様に大量の宿題を出しては、生徒たちのブーイングを受けつつ退出していく教師の背中を見送る。
「珍しく上の空じゃん、優等生君」
「……なんでそういうとこだけ目敏い訳?」
横から投げられた笑いを多分に含んだ声に、僕はため息をついた。チラリと横目で伺うと、案の定にやけ顏で揶揄う気満々の友人が頬杖をついていた。
「あー。上の空だったことは認めるんだー」
「……はいはい、だったら何?」
「やーっぱり柊羽も気になってるって事でしょ、転校生!」
「はぁ?」
どうやら上の空の原因を勘違いしたらしい。そう言えば、転校生がどうの、何て話をしていたなと思うものの、興味が無くて忘れていた。訂正しようとして、僕は頭を振った。そもそもどう説明するつもりだ、と自分に突っ込みを入れつつ、次の授業に向けて準備をしていたその時。
「いやー、本当は何日か前に編入するつもりが、事故に遭ったとかで今日になったらしいぜ。で、今日も様子見って事で途中登校らしい」
「……は?」
事故、というワードに僕の手が止まる。まさか、と手に汗がにじむのを気のせいだと散らそうとする。しかし、そう言う勘こそあたるもので。
「おーい、ちょっと全員注目!休憩時間中悪いが、転校生連れてきたから、こっち向いてくれ!」
タイミング良く担任教師が現れ、その後ろに人影が1つ。
「祐真って言います。親の都合で引っ越してきました。よろしくお願いします」
にっこり笑って挨拶した「彼」に、僕は椅子から転げ落ちそうになった。
次の授業も、全く頭に入ってこなかった。全ての意識が「彼」――祐真へと向かい、気が気ではなかった。クラスメイト達も、転校生というもの珍しさに何処か落ち着きなく、祐真の近くの女子生徒に至っては、完璧に整った彼の優し気な美貌に見とれて授業どころではなかった。教師も、集中しろと注意しつつも、しょうがないなと言わんばかりの様子である。
そうして、長いような短いような授業が終わったのだが、僕は終わった事すらも気付けない程に動揺していた。
どうして。覚えているのか。僕に気付くか。いや、落ち着け気付くはずがない。そもそも前世なんて。待て、本当に「彼」なのか。違う、僕が「彼」を見間違うはずがない。そう言えばあの後の傷、大丈夫なのかな。そう言えば顔見られてる、気付かれたかな。いや、顔全く違うんだし、気付かれるはずない。そうじゃなくて、ああ、いや、もう。
最早何を考えて居るのかも分からない程に、思考が散っていく。ただただ高速にから回る頭に、僕は硬直したまま動けなかった。
「おーい、柊羽。昼に……って!お、おい。大丈夫か?顔色悪いけど」
「……にげなきゃ」
「は?」
昼食に誘おうと振り向いた友人が、ぎょっとした顔をする。しかし、それに構う余裕はなく、纏まらぬ思考のなかで、ポンと浮かんだ答えが一つ。そうだ、逃げないと。何故逃げないといけないのかも、逃げる必要があるのかも考える事が出来ず、ただただ逃げなければと脅迫観念に似た何かに追い詰められ席を立とうとしたその瞬間。
ふわり、と甘い香りが鼻孔をくすぐって。全身の肌がさざめく。
「ねぇ、ちょっといい?」
おだやかで優し気な、ちょっと低い声。記憶にある声とは全く違う、そして分かる事ない口調と共に、大きな手が僕の骨ばった肩に乗せられる。腰を上げかけた中途半端な体勢のまま、ギギギと油の切れた玩具の様な動きで振り返って、僕はクシャリと顔を歪めて呟いた。
「……皇太子殿下」
「は?」
間違えるはずがない。恋い焦がれた、命よりも大切な番。その本人が、姿形を変え、僕の台詞にきょとんと首を傾げてそこに立っていた。
「あ、いや、その。ごめん、なさい。小説に出てくる人に、そっくりだったから……」
「あ、ああ。そういう事。ビックリしたよ」
カラカラに乾いた喉をどうにか湿らせて、絞り出した声で必死にとりつくろう。納得、とカラカラ笑う顔は、「彼」のもので。でも、先程の反応から、「彼」ではない人だと理解した。
ほっとした。――そして、かきむしりたくなるほどの胸の痛みに気付かないフリをした。
「で、何の用?」
「あー、えっと、その。ああ、そう!あの時はサンキューな!」
どうにか感情殺した声でそっけなく問うと、祐真は困ったように笑った。あの時?と首を傾げる恭平が見えたのだろう。そうそう、事故の時、とケロッとした顔で悠真が笑う。
「事故った時に付き添ってくれたの、君でしょ?」
「……知らない」
「またまたぁ。だぁってほら、コレ、猫の爪痕だよね?あの時の子、めっちゃパニックになってひっかいてきたからさ、そうじゃないかなーって。」
名前も言わずに逃げたはずなのに、と混乱する頭でどうにか白を切ろうとするものの、ひょい、と腕を覗き込まれ、微かに残る爪痕を示される。変化球から来られ、一瞬反応が遅れてほぞをかむ。何度も口を開いては、何も言えずに閉じる事を繰り返す。結果として、正解だと言外に認めることになり、どうしようもなく泣きたくなる。ただ、逃げなければという思いだけが先行していて、でも状況も頭もそれに追いついていなくて。
「あの時はサンキューな。本当に助かった!どうせならあの時礼を言わせてほしかったんだけど」
どうして逃げたんだよ、と拗ねた様な口調で言われ、僕は益々血の気が引くのが分かった。最早僕の許容範囲を越えた状況で手一杯だったのに。
「まぁ、それはそれとして!せっかく同じ学校なんだし、よろしくな!」
距離をとろう、会わないようにしよう。そう心に決めていたにもかかわらず、全く逆の方向へと、僕の大好きな笑顔で指し示されたものだから。
「……って、柊羽?!」
限界の来た僕の記憶は、そこでプツリと途切れた。
目を開けると、清潔感のある白いカーテンが、爽やかな風に吹かれて靡いていた。病院にも似た保健室の匂いを感じながら、目の奥が熱くなるのはその匂いの所為だと言い聞かせた。
「……彼は僕を知らない。彼に、僕は必要ない。同じ過ちを繰り返すつもり?」
優しい「彼」は、もしかしたら「僕」の最後に責任を感じているかもしれない。だったら、思いださない方がお互いにとって幸せだ。
「……ああ、その思いも自意識過剰かな」
つ、と流れ落ちるものには気付かないふりをして、僕は目を閉じた。戦争なんて苛烈な記憶は思いださない方が幸せだ。その為に僕は彼に近づかないのだ。もしかしたら、その思いすらも、願望なのかも知れない。僕が傍に居れば「僕」を思い出してくれるかも、という願望。纏まらない思考に、僕は自嘲して蓋を閉じる。
はっきりしている事はただ一つ。
彼に、もう近寄る事はない。
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