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時代を生き、輝かせた女人 宇喜多秀家の母、おふくの方
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秀吉が愛した、関ヶ原の戦い西軍、大将、宇喜多秀家の母、おふくの方
目次
湯原温泉で育つおふくの方
おふくの方とは
三浦貞勝とは
最初の結婚生活
宇喜多直家とは
直家立つ
おふくの方二度目の結婚
直家最後の戦い
美作三浦氏とおふくの方
直家に迫る死
小西行長とおふくの方
おふくの方、三度目の結婚
信長の死
おふくの方、大坂の暮らし
子達の行く末
おふくの方の死
三浦家の復帰
一 湯原温泉で育つおふくの方
湧き出る温泉から生まれたような姫、おふくの方は、湯原温泉(岡山県真庭市)が好きだった。
白くすべすべした肌は、母に連れられよく行った湯原温泉のおかげだと信じていた。
湯原温泉は自然の中にある、自然にできた温泉だ。
旭川(岡山県)上流の川底からこんこんと湧き出る豊富な源泉があるだけだ。
一見ただの川だが、入ると熱い温泉。
川遊びするように、どぼんと入れば川底の石や砂利の間から、こんこんと湯が湧き出るのだ。
信じられないほど湧き出る温泉に圧倒されながら、流されないように一歩づつ進む。
すると、ちょうどよい流れ高さの川底が見つかる。
にっこりと、ゆっくり身体を沈める。
自然の偉大な贈り物と身も心も一体となった、うっとりとした満足感を感じる。
手を合わせ、川を、山を、空を眺める。
おふくの方は、この瞬間を忘れることはなかった。
感謝の心が、こんこんとあふれ出す、太陽の元にある天然の露天風呂だ。
誰でも自由に簡単に温泉に入ることが出来るのだ。
皆が、自然に裸になり混浴の温泉を楽しみ明日への英気を養う。
特に冬は地熱で別天地のように暖かだ。
伯耆・出雲・石見にまたがる中国山地には磁鉄鉱を含む花崗岩が多くあった。
風化した花崗岩から良質な砂鉄が取れ、たたら製鉄が盛んだ。
湯原温泉近くでも従事する人が多い。
過酷な労働に疲れた身体を湯原温泉で横たえると心が癒され、筋肉痛や神経痛も直った。
この地にある霊山、大山(だいせん)と東側に連なる蒜山(ひるぜん)には火山群があり、そのマグマが熱源になり、魔法の湯と称賛される温泉となった。
魔法の湯の話は古くからあり、少しづつ広まり、病める人や疲労回復に、また遊び気分の人もつぎつぎ集まった。
こうして、この地の人は、天の恵みだと大切に湯を使い、生きる糧とする。
簡単な宿泊施設と食事を用意し、訪れる人々をもてなす。
湯治客がどんどん集まり、賑やかな温泉の町となっていく。
おふくの方が、始めて湯原温泉に入った時、冷たいはずの川の水が暖かくてびっくりした。
しかも次々絶え間なく湧き出て起きる水面の波立ち・泡立ちに、目を丸くして見続けた。
それにもまして、皆が裸になり身体を沈める天然露天風呂がとても不思議に思えた。
おそるおそる湯に入る。
肌を打つようにまた撫でるようにわき出る湯に最初は驚くが、直ぐに慣れる。
それからは、大きな歓声を上げて、はしゃぎ飛び跳ね遊び、楽しんだ。
皆のおふくの方を振り向く目が優しい。
その可愛い姿に笑みがこぼれる。
湯原温泉を知り、四季折々の美しい景色を湯原温泉に入って見るのが楽しみだった。
おふくの方の姿が噂になり「美人の湯」だとさらに評判を呼ぶ。
ますます湯原温泉が有名になっていく。
おふくの方の屋敷には小さい湯船(浴槽)しかないし、めったに使わない。
お風呂に入るというのは蒸し風呂に入る事だった。
湯は身体を流すためだけに使う。
しかも、いつもおふくの方一人の為の風呂だ。
比べて湯原温泉では絶え間なく流れる川の水が温泉であり、ふんだんに湯が使える。
しかも大勢の人がいる。
すてきな別天地だ。
温泉の湯は四五度と少し熱く、湧き出るすぐ側に行くのはむつかしい。
でも、おふくの方は熱い湯が好きだ。
見る見る身体が薄桃色に染まるのを楽しむ。
砂場になっている露天風呂の川底にゆっくり座り母からいろんな話を聞くのが楽しみだった。
皆が裸なので裸になるのに違和感がなく開放されたいい気分だ。
自然に包まれて身体の芯から温まる気分は最高だ。
だが、領主一族のおふくの方は、普通の湯治客とは違う。
準備が大変だ。
自然の中の露天風呂なのに特別の休憩所が作られ、露天風呂にも大きく目隠しが作られる。
そして、近習はおふくの方を周辺の人に見せないように警護する。
大自然の中で飛び回るおふくの方を隠すのは大変なことだったが。
二 おふくの方とは
一五四九年、美作国(岡山県東北部)勝山(高田)城主、三浦氏の一族に生まれたおふくの方。
勝山の地は出雲と京を結ぶ出雲街道の要所で、旭川上流に位置し米や木炭・塩などを岡山に運ぶ水運の拠点でもある。
北岡山の政治経済の中心地として、勝山(岡山県真庭市勝山)城を中心に城下町は賑わう。
反面、要地勝山を巡り熾烈な争奪戦が起き、戦いが絶えず、戦乱が続き平和に生きることの難しい地でもあった。
美作三浦氏は、源頼朝が平家打倒の狼煙(のろし)を挙げた時、先駆けて頼朝のもとに参陣し大活躍した板東武士の三浦氏一族になる。
祖を辿ると、桓武天皇(737-806)の子、葛原(かずらわら)親王(しんのう)となる。
その子、高見王の子が、天皇の臣下となり平高望と名乗り始まる。
平高望の子達が、板東(関東地方)に在地し武士団、板東平氏を形成し、一族がいくつも出来、それぞれ勢力を伸ばす。
武蔵国に在地したのが五男、平良文。
その曾孫(ひまご)が相模国(神奈川県)三浦に在地し、三浦氏を名とする。
この三浦家が、鎌倉幕府創設に功績を挙げ、相模国守護となり、幕府の重職を占め、各地の地頭職も得た。
三浦宗家、義村は、鎌倉幕府を率いる執権、北条氏と同等の力を持つまでになった。
そのため、北条氏に恐れられ謀られ、北条家との戦いが始まる。
そして、敗北、滅亡する。
分家、三浦盛時が家督の継承だけは認められる。
こうして、相模三浦氏宗家となるが、かっての栄光は消え、耐える時が続く。
時が来て、鎌倉幕府倒幕に立ち上がった足利尊氏に従い、功を立て、力を取り戻す。
恩賞として、一三三六年、盛時の弟の家系、三浦貞宗が美作真島郡(岡山県真庭市勝山)の地頭となる。
すでに、美作には三浦一族がいた。
鎌倉幕府が始まって間もなく、美作守護は、三浦一族、和田氏が任じられた。
そこで、三浦一族が地頭となり、在地し支配した。
和田氏はまもなく北条家に潰され、三浦宗家も滅亡したが、美作に残った三浦一族は代々細々と続いた。
そこに、室町幕府任命の地頭として三浦貞宗が来たのだ。
喜び勇んで貞宗の指揮下に入る。
こうして、三浦貞宗は、美作三浦氏と名乗り、周辺の一族・豪族を従えていく。
おふくの方の三浦家もそのうちの一つだ。
貞宗は、古い館があっただけの勝山(高田)城を拡大整備し三浦家居城とする。
美作西部を押さえる要衝の地、勝山町の東にある標高三二二mの如意山に本丸を築き、二六一mの太鼓山(勝山)に出丸を築く。
その間に二の丸、本丸の麓に三の丸などを築く。
旭川を天然の堀とした山城だ。
広大な城を築き、この地を支配する心意気を見せる。
以後、守護・守護代に従いながら三浦家当主は、行連・兼連・範連・政盛・持里・貞明・貞連と続く。
当主が貞連となった一四六七年、応仁の乱が始まる。
美作守護、山名政清は、西軍に属し、京にはせ参じ戦った。
その間、美作に赤松氏が侵攻し、守護の座を奪ってしまう。
ここから、美作三浦氏は、美作守護、赤松氏が任じた美作守護代、中村氏の配下となる。
室町幕府は、幕府開府の時から、全国を完全に掌握する強力政権ではなかった。
時が経つに連れ、ますます幕府の力は弱まり守護の連合政権と化した。
そこで、幕府の支配体制を守る為に、足利一族を守護に任命し、足利一族による守護政権を作ろうとする。
美作を含む中国地方には、大内氏・赤松氏・京極氏など強力な在地の守護がおり、強固に反対した。
美作では、在地守護、赤松氏が、わが身を守るため、守護大名と化し、将軍を脅かしていく。
こうして、将軍家は名ばかりとなる。
守護大名の勢力争いが、配下の国人衆を巻き込み起きていく。
守護も形骸化し、配下にあるはずの守護代が強力になり、国人衆も独立化し、戦いが続く。
美作守護、山名氏は去ったが、勝山の地にある山名一族の居城、篠(ささ)向(ぶき)城(じょう)(岡山県真庭市)は変わらずあった。
そこで勢力伸長の機会をうかがっていた三浦貞連(さだつら)(-1509)が動き出す。
一五〇〇年、貞連(さだつら)は、落ち目の篠向城主、山名右近亮を攻めた。
翌年には、山名右近亮を討ち取り、城を奪った。
こうして、美作三浦氏の勢力を見せつけた。
以後、周辺の国人衆の盟主となっていく。
福島・近藤・金田・船津氏ら、周辺の豪族を配下にし家臣団を形成し、戦国大名への道を歩み始める。
当主は三浦貞国・貞久と続きを貞勝となる。
内紛が続く赤松氏の力は衰え、備前守護代、浦上氏が力を伸ばし、赤松氏と対立していく。
浦上氏は、美作守護代、中村氏を、取り込んだ。
こうして、一五二一年、主君、赤松氏を討ち、成り代わる。
美作三浦氏は、浦上氏の配下となる。
三浦家を取り巻く状況は、
播磨備前守護代、浦上氏が赤松氏を倒し播磨・備前・美作を支配。
西備前守護代、松田氏は西備前を支配。
出雲守護代、尼子氏は山陰地方全般に力を伸ばし支配。
という状況となる。
それぞれが支配地の国人衆をまとめ配下とし、戦国大名となる。
これらの戦国大名の侵攻で、美作国(岡山県東北部)をめぐる勢力図は目まぐるしく変わる。
美作三浦氏は、尼子氏の侵攻を受け協調しつつ、浦上氏に従う。
そんな難しいバランスで家中を治め、美作国西部を制し有力国人となる。
そこに、尼子経久から家督を継いだ嫡孫、晴久が、美作の支配力を強めると侵攻してきた。
出雲・隠岐・備前・備中・備後・美作・因幡・伯耆、山陰山陽十一カ国のうち、八カ国の守護となる強敵だ。
美作三浦家にも、尼子氏の軍事攻勢が強まり、家中への調略も進んでいく。
中途半端な接し方では対応しきれなくなる。
三浦家当主、貞久の弟、貞尚は、近隣の国人、赤松氏の譜代の重臣、大河原氏に養子入りしていた。
そこで、尼子晴久は、赤松氏・大河原氏・三浦氏を一挙に取り込もうと考える。
叔父、尼子国久(経久の次男)の娘と大河原貞尚との結婚だ。
三浦貞久も承知しており、強力な支配力を持つ尼子晴久の影響力が強くなるのをやむを得ないと受け入れた。
大河原貞尚は、尼子一門として、縁戚の津山守護代、中村氏に尼子氏配下となるよう持ち掛けていく。
尼子派と浦上派の対立が激しくなる中、浦上氏を裏切れない中村氏は、尼子氏と戦う。
尼子晴久(妻は国久の娘)が攻め込み、一五四四年、勝利した。ここから、中村氏は配下となった。
以後、尼子氏の力が浦上氏を凌ぎ、美作三浦家もより強い影響を受けていく。
勝山の地は、尼子氏も浦上氏も支配下に置きたい需要な地だった。
だが、尼子氏は武力で制圧するまでは出来ず調略で影響下に置いていくしかなかった。
浦上氏は、尼子氏の侵攻を撃退することはできず、守りに入っていく。
美作三浦氏は、尼子氏が攻め込む中、どうにか守り独立性を保つ。
尼子氏の影響が強まっていくが、浦上氏との関係も続く状態を保った。
一五四八年、知将であり軍事にも強く存在感を発揮し、浦上氏・尼子氏の間でバランスを保っていた三浦家当主、貞久が亡くなった。
この時を待っていた、尼子晴久が攻め込む。
浦上氏から軍勢が送られきたが、晴久は強く、支援もむなしく落城する。
居城を乗っ取られ、美作三浦家は浦上氏との縁を断たれ、尼子氏の支配下に入る。
美作三浦氏が、独立性をなくし、落ち目となった一五四九年、おふくの方が生まれた。
尼子氏配下となったが、一族・家中・領民の暮らしが大きく変わることはなかった。
おふくの方は、赤子の時期が過ぎ歩き始めると、あどけない顔ながらも観音菩薩を思わせる美しさ・賢さを見せ始める。
幼子でありながら、慈愛に満ちた笑顔をふりまき、皆、癒されると感動する。
そして母に連れられ、湯原温泉に行くことが増えていく。
すると、驚くほど柔らかく、弾力性のある肌を持つ素肌美人となっていく。
尼子氏配下であっても、公式行事があると三浦一族として勝山城に呼ばれることもある。
その時、母は、おふくの方に最高の化粧をする。
すると、透き通るような素肌は白粉を塗っても吸収し、幾層にも深みを帯びて輝き、整った目鼻立ちをくっきりと引き立たせる。
美しい顔立ちの中で特に目立つのは、黒目のはっきりした澄んだ瞳。
その瞳で見つめられると、皆、包み込まれたように満ち足りた気分になる。
おふくの方の人知を超えた美しさが、三浦一族の救世主になるとのうわさが広まっていく。
三 三浦貞勝とは
美作真島郡の話題の姫、おふくの方には、数多くの結婚が申し込まれる。
そして一五五九年、三浦家当主、三浦貞勝の妻に選ばれる。
三浦一族の娘には、当主の妻に選ばれるのは最大の栄誉であり父母も家中も大喜びした。
おふくの方も「殿様(勝山城主)に嫁ぐなんて信じられない。夢が実現した」とご機嫌だ。
おふくの方は、勝山(高田)城下の屋敷に住み、軍勢が行き来する騒々しい雰囲気の中で育った。
勝山(高田)城は尼子氏に支配され、城主は人質になり、居なくなったが、秩序は維持され、変わらない暮らしがあった。
尼子氏の城代が居り、三浦一族の肩身は狭く、むなしく苦渋の時も多いが「いずれ殿様が帰ってくる」と家中は信じ悲壮感はなかった。
勝山城主、三浦貞久の次男、三浦貞勝は、一五四三年、生まれたが、嫡男の兄がおり当主になるはずがなかった。
貞勝の父、貞久は、尼子晴久の再三の攻撃にも怯まず三浦勢を率い戦う名将だった。
知謀を駆使し立ち向かい、尼子晴久は勝山城を落とすことが出来ず引き返した。
ところが、一五四八年、貞久が急死する。
残されたのは七歳の嫡男の兄、貞広と五歳の次男、貞勝。
叔父(父の弟)貞盛が後見となり、貞広が後継となるが、代替わりの混乱に乗じて尼子晴久が勝山城に攻め込み、三浦勢は敗れた。
兄、貞広は尼子氏に拉致され尼子氏本拠、月山富田城で人質となり、勝山城は尼子氏家臣が城代となり支配する。
三浦貞広は、人質ではあるが、尼子晴久に気に入られ、配下の有力国人衆、美作三浦氏、当主として大切にされた。
尼子氏一門から妻を迎え、晴久から武将の心得を教えられ、熱心に武芸を学ぶ。
居城には戻れないが、いつか戻る日があると確信し、貞盛との連絡を密にしながら、その日に備えた。
尼子氏は京極氏の庶流。
出雲守護が京極氏となると、在地の守護代となった。
京極家は、近江・飛騨・出雲・若狭・上総の五カ国守護となり権勢を誇った時があった。
時が過ぎ内紛もあり、一四八六年、晴久の祖父、尼子経久が、京極家を追い出し、独立し、出雲を支配する。
経久は稀代の名将と謳われた英雄で、多くの譜代の家臣を育てながら、勢力を広げ、西国の雄、大内氏と並ぶ勢力となる。
一五三七年、晴久が家督を継ぐと、石見銀山を大内氏から奪い直接支配した。
石見銀山は一五三三年に朝鮮から伝えられた「灰吹法」による銀精錬技術が軌道に乗り始めた頃だった。
銀産出量を飛躍的に伸ばすことが可能となった時に、晴久は銀山を手に入れた。
貨幣としての銀需要が高まった時でもあり尼子氏に巨大な資金をもたらした。
こうして、晴久は尼子氏最大の山陰・山陽八ヶ国約二百万石を有する大大名となる。
一方、浦上家は、美作三浦氏の援軍要請に応えきれなかったが、取り戻すための支援をすると約した。
そこで次男、貞勝は、浦上氏を信じて、三浦氏再興のために浦上氏の元に逃げた。
浦上氏は古代豪族、紀氏を祖とする。
紀氏は後世、紀貫之など文人で有名だが、播磨国揖保郡(いぼぐん)浦上郷を拠点に武家として勢力を伸ばした一族がおり浦上氏を名乗る。
鎌倉幕府を倒すためにいち早く動いた赤松氏に従い室町幕府樹立に功を上げる。
室町幕府が成立後、赤松氏一族が播磨・摂津・備前・美作と四カ国守護となると、備前守護代となる。
赤松氏が幕府と対立し勢力を弱めると、浦上村宗は一五二一年、赤松氏を討ち果たし成り代わる。
下克上を成し遂げたが一〇年後、急死。
村宗の後を継いだのは幼い嫡男、政宗(1525-1564)。
弟に宗景がいた。
まだ幼少であり、赤松氏と和睦する。
成長と共に、浦上氏は赤松氏を凌駕する力を持ち、播磨備前の領地の回復を成し遂げる。
だが、尼子氏の侵攻を受ける。
一五五一年、大内(おおうち)義(よし)隆(たか)が一族の陶(すえ)隆房(たかふさ)に討たれる。
大内氏は、山口を中心に大勢力を誇り、西国の覇者とされていた。
周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の六か国守護で、対外貿易を握り資金が潤沢にあり、美作・備前にも勢力を伸ばし、尼子氏と対峙することが多かった。
大内氏嫡流を滅ぼした陶(すえ)隆房(たかふさ)だったが、一五五五年、宮(みや)島(じま)厳(いつく)島(しま)の戦いで、安芸広島を本拠とする毛利元就(もうりもとなり)に負け滅ぼされる。
ここで、元就は山口入りし、大内氏に成り代わった。
一五五一年、政宗は、尼子氏には勝てないと同盟を結ぶ。
分家した弟、宗景は、毛利氏に従うと決めた。
尼子氏・毛利氏の戦いは激化しており、兄弟で争うことになる。
貞勝は、勝山城奪還を目指し、尼子氏と戦う決意であり、浦上宗景に従う。
政宗は尼子氏に支援され、播磨を押さえていく。
弟、宗景は、毛利氏と結び備前美作を得る。
兄弟並立した状態になる。
すると、苦渋の日を送っていた赤松氏勢も復権を目指し動く。
浦上政宗と浦上宗景、赤松氏が、小競り合いを続ける緊張した情勢となる。
貞勝はいらいらしながら待つが、勝山城奪還は進まない。
長年、尼子氏と戦ってきた元就だったが、形勢は大きく逆転した。
大内氏の権益を奪い取り、軍事力も資金力も格段に増やし、尼子氏以上の力を持つ。
ここから、中国地方全域に勢力を広げるべく、尼子氏打倒の破竹の進撃を開始する。
尼子対毛利の戦いが本格的に始まった。
それでも、元就は慎重だった。
毛利勢はまず石見・出雲に侵攻し、備前・美作までは本腰を入れては攻め込まなかった。
確実に一歩づつ尼子勢を追い詰めていく。
浦上家にも緊張が走る。
尼子氏に与した嫡男、浦上政宗は、毛利家に与した弟、浦上宗景に、脅かされるようになった。
勢いが付いた宗景は、先陣きって尼子氏との戦いを始める。
三浦貞勝は、浦上宗景の居城、天神(てんじん)山(やま)城(岡山県和気郡和気町)で長年過ごし、勝山城に戻る日を夢見ていた。
ようやく時が来たと震える。
勝山城は尼子氏の配下にあったが、戦いが始まれば貞勝に従い戦う手筈を密かに整えた。
浦上宗景は、勝山城奪還の戦いでは後ろに控える。
三浦家の戦力を前面に押し出し戦うのだ。
一五五九年、貞勝は、一六歳になっていた。
自らの力で、勝山城を取り戻すと血が騒いでいた。
毛利元就は、長年、石見銀山を手に入れることを夢見、石見侵攻に本腰を入れ、攻勢をかけた。
迎え撃つ晴久も、宝の山、石見銀山を渡すことはできず、必死で、尼子主力軍勢を投じ守る。
その為、勝山城の守備兵の多くも駆り出された。
貞勝にとって思いがけず絶好の時が来た。
守りが手薄になった勝山城の尼子勢を、浦上宗景の支援を得た三浦勢が襲い、追い払い、一一年ぶりに城を取り戻した。
城主の留守を耐えた家臣、領民は大喜びで貞勝を救世主と称えた。
領民、家臣、三浦一族の支持を得た貞勝は、浦上氏に推され、人質のままの兄、貞広を差し置いて城主になる。
城を取り戻し勝利に酔う貞勝に、想像以上の幸運が舞い降り、感極まる。
すぐに、結婚相手を誰にすべきか一族重臣の協議が始まる。
貞勝は浦上宗景により元服しており、その際、結婚相手も決まるはずだった。
だが、宗景は兄、政宗との抗争が最大関心事であり、必死の攻防を続けていた。
三浦家次男でしかない貞勝が、兄を継いで当主となるかはっきりわからない時だった。
間違いなく、三浦家当主となった時点で、浦上一族の娘と結婚させ、取り込めばよいと考え、結婚相手を決めなかった。
重臣一同、浦上宗景が推す女人がいないのなら、三浦一族から迎えたいと話し合った。
貞勝が新当主として三浦家中を一つにまとめるために、最適なのはおふくの方だと、皆の意見がまとまる。
それほど、おふくの方の名が知られていたのだ。
また貞広が戻れば当主になるべきであり、それまでの中継ぎでしかない貞勝の結婚は格式にこだわるべきでないと皆思っていた。
この結婚を、浦上宗景が認めるよう働きかけたのは、おふくの方の母、鷹取(たかとり)氏だ。
母の妹が浦上宗景の重臣、鷹取(たかとり)備中守に嫁いでいたことで、鷹取(たかとり)備中守が取り次いだ。
貞勝が、五歳で浦上氏の元に逃げた時、迎えたのが、鷹取(たかとり)備中守であり母の妹だった。
以後、一一年間、貞勝の世話をしており、貞勝は、父とも思い慕った。
その鷹取(たかとり)備中守が、浦上宗景に取次ぎ、浦上一族でないおふくの方と貞勝の結婚が許されたのだ。
菅原道真を始祖とする美作菅家は平安時代から美作東部、美作国勝田郡(岡山県勝田郡)の治安維持を担い、支配していた。
その後の長い歴史の中で分家が生まれ、美作菅家七流となる。
そのうちの一つが鷹取(たかとり)氏。
宇喜多家重臣、戸川秀安は、菅家七流の嫡流、有元氏の分家、富川(戸川)家に養子入りし継いでいる。
鷹取(たかとり)氏一族で、備前に移り、浦上家家臣となった鷹取(たかとり)備中守。
鷹取(たかとり)備中守の弟、彌四郎は浦上宗景の娘婿となった。
鷹取(たかとり)備中守の妹は、戸川秀安に嫁ぐ。
貞勝は次男で、当主は嫡男の兄であり、当主になるとは考えもしなかった。
ところが、運よく、尼子勢を追い出した大功で、勝山城主になり当主となった。
兄の了解を得ておらず、家中の一致とも言い難く、戸惑うことが多いが。
先行き不安もあるが、浦上宗景の後ろ盾があるということは大きく、三浦家当主にふさわしくなると決意を固める。
そして、一族のおふくの方との結婚が決まったのだ。
恩を感じている鷹取(たかとり)備中守の縁者であり、三浦一族だ。
それでも家臣の娘であり、まだ慣れない勝山城に迎えることになるが、気づかいする必要もなく、気が楽だ。
しかも、才媛の誉れ高い絶世の美女と聞きうれしくなった。
ようやく取り戻した城だが、尼子勢が黙っているわけがなく、今まで以上に熾烈な戦いが続くはずだ。
おふくの方との結婚で家中をまとめることが出来る。
当主として自信をもって尼子勢と戦えると、熱い心がみなぎる。
すると幸運は続く。
一五六一年、どうあがいても、勝てない相手だった尼子晴久四七歳が急死したのだ。
尼子氏の勢力は急激に落ちていく。
それでも、貞広は尼子氏に人質のままで、戻る様子はなかった。
貞勝が当主であることに変わりはなかった。
ところが結婚式の直前、元就から備前・美作の平定を任された備中松山城(岡山県高梁市)主、三村家親が先鋒となり、毛利勢が勝山城に攻め込む。
同盟軍のはずの三村家親に攻め込まれ、三浦勢は右往左往した。
落城寸前まで追い込まれるが耐え城を守った。
この時の同盟関係は入り組み複雑だ。
浦上宗景は毛利氏と同盟を結んでいる。
三浦家を襲った三村家親も毛利氏と同盟を結んでいる。
三浦家は尼子氏に属したが、尼子勢を追い払い、浦上宗景に従いつつ、ある程度の独立性を保とうとしていた。
ところが、三村家親は、尼子氏に成り代わり、尼子氏配下の国人衆をそのまま配下に置こうとしたのだ。
毛利氏に属しながらも独自の支配網を築こうとした。
元就が、備前美作に本気でないのを見越したのだ。
三浦氏を直接支配したく攻め込んだ。
貞勝には、直接、毛利氏と同盟を結び配下になるならまだしも、三村勢に屈することは出来ない。
頼みの浦上宗景は兄、政宗との戦いがあり、毛利氏の支援を絶対必要としており、毛利家を裏切る気はない。
それゆえ、元就に信頼されている三村家親と戦うために援軍を送るのは最小にしたい。
美作支配は重要であり、三村家親の思うままにはさせない考えだが、先送りするしかなかった。
貞勝は、頼るべき味方がなく、先行き不安に陥る。
いつまで勝山城を守れるか、将来どうなるかもわからない。
それでも三村勢を追い払い婚儀が執り行われた。
家中の期待を受けて、まだ幼さの残るおふくの方一二歳は、勝山城主、貞勝一八歳と結婚する。
おふくの方は勝山城入りするまで、三浦貞勝に会うことはなく、夢見ただけだ。
想像しつつ幸せに浸っていたが、現実は違った。
貞勝は、逞しく雄々しい武将だと思い込んでいたが、苦労の連続ゆえか神経質そうな険しい顔の大人だった。
伸びやかに育ったおふくの方だが、勝山をめぐる攻防は良く分かっており、不安も戸惑いもあった。
一五四八年尼子氏の配下になった。
一五五〇年代、毛利氏・浦上氏が美作の覇権を奪い返そうとし、いくつもの攻防戦があった。
一五五三年、勝山での戦いは壮絶だった。
尼子晴久勢(浦上政宗・庄為資・松田元堅)二万八千の大軍に対し、毛利元就・浦上宗景・三村家親勢一万五千の軍勢で戦うが負けた。
尼子晴久の勝山支配が改めて確定した戦いであり、以後、変わりなく、勝山城は尼子氏の城代が治めた。
この戦は、おふくの方がまだ幼い時でありよくは覚えていないが、語り継がれた。
そして、尼子氏の勝山城撤退となるが、大きな戦もなくいつの間にか奪還したと言う感じだった。
嬉しくて、家族一同喜んでいるとき、結婚の話が伝えられた。
二重の喜びに華やいでいた時、味方であるはずの三村家親の勝山城攻めだ。
初めて身近に起きた戦いであり、激しさに身も心もすくんだ。
これからも戦が続くと思うと、恐ろしい。
母は、こともなげに、話す。
「武将とは戦いをする人。戦いがあるから武将なのです。しかも貴女は、その大将の妻となるのです。戦いを恐れてはいけません。勝ち負けは時の運。笑って受け入れなさい」と。
その言葉はきつかったが、優しさが溢れており「きっとどうにかなる」と心落ちかせる。
母の言葉を胸に大切にしまい、嫁いだ。
一度思い定めるとおふくの方は強い。
貞勝は緊張していたし、周囲にも張りつめた雰囲気があったが、動揺することはなかった。
自然に、結婚の儀を滞りなく終えることが出来た。
四 最初の結婚生活
晴れやかに輝くおふくの方の美しさに城中は未来への希望が出たと湧いた。
結婚の儀を終える頃には、貞勝はほっとした嬉しそうな顔になり、じっと見続けたおふくの方も、ようやく笑顔がこぼれる。
絶世の清楚な美女と若き当主との華やかな組み合わせを祝して、周囲はお祭り気分で盛り上がる。
現実から目を離し、しばし賑やかに騒ぎ楽しんだ。
すぐに戦いは始まり、続く。
三村家親勢は強く貞勝は守勢一辺倒だ。
頼みの浦上宗景の支援は少ない。
おふくの方も戦いに慣れていく。
行きつくところまで戦い、最後は潔く降伏するしかないのだ。
臣従する和議を結びさえすれば、命を取られることはない。
それでも勝ち目のない戦さに消耗する。
一五六三年、浦上宗景が兄、政宗と和解し毛利氏と決別した。
ここから堂々と三浦勢に加勢し、三村勢と戦うはずだった。
貞勝は生き返ったと嬉しそうに、宗景の全面支援を受けて三村家親と真っ向勝負を挑むと気勢を上げた。
だが、浦上宗景は毛利勢との戦いが始まり、備前平定に力を注ぐしかなくなる。
美作北中部になる勝山には主力を注げない。
三浦家中は「浦上家は三浦家に何もしてくれない」と絶望感が漂う。
貞勝は備前で育ち突如、藩主になって四年でしかない。
兄、貞広を当主と信奉するものも多い中、家中を掌握しきれていない。
家中の大勢は、尼子氏の城代が入って以来、三浦家の政務を取り仕切った叔父、貞盛に従う。
尼子氏の尖兵となり戦い続けて、家中の信頼を得ている。
金田弘久・牧氏・福島氏・船津氏・長力氏など譜代の重臣も貞盛の顔色を見つつ、貞勝の指示に従う状況だ。
勝山で育ち、この地の観音様とも尊ばれるおふくの方は人気者だが、貞勝は同じようにはならない。
勝山城主でありながら、浮いた存在でしかないと、肩を落とす時もある。
おふくの方を愛することで、すべてを忘れたいとおふくの方を抱きしめる日が多い。
翌一五六四年、おふくの方に嫡男、桃寿丸が生まれる。
嫡男の誕生で、家中の雰囲気が変わっていく。
勝山城で後継が生まれると、貞勝は、勝山城主としての風格が備わった。
家中も当主と認めるようになる。
すると、家中の士気も高まり、ようやく城主らしくなる。
おふくの方は妻として母として光り輝いた。
貞勝は勝山城の守りに専念し、備前に行くことはなくなる。
おふくの方は、貞勝と日夜共に過ごせ、幸せだ。
結婚当初からおふくの方は大胆だった。
湯原温泉の経験は楽しい思い出で、裸になることに恥ずかしさはない。
貞勝の前でも裸身を惜しげもなく披露し、貞勝はまばゆい裸身に息をのんだ。
桃寿丸が生まれ、二人の愛はより強くなり肉体の触れあいも大胆に楽しむ。
明日の命が定かでない緊迫した状況が続き、より激しい愛となる。
それでも、貞勝は、叔父、貞盛に対し萎縮した関係が続いている。
当主をないがしろにし、思いのままに三浦家を采配する貞盛をどうすることもできない。
貞勝自身が自分では勝路を開けないと思い込むときもあるほどだ。
本当に自分が当主でいいのか自問する事もあるほど落ち込む。貞盛の存在は大きい。
無力感に打ちひしがれ、おふくの方との愛に、のめり込み逃避する時もある。
三村家親の勢力はますます強まり勝山地域に度々侵入し、三浦氏配下の豪族が次々毛利氏方に寝返っていく。
貞勝は、食い止めることはできず、現状打開の為には浦上氏に支援を乞うしかない。
尼子氏を滅亡させるのは時間の問題となった毛利勢の力は強まるばかりだ。
三村家親も力任せに攻め込むばかりではなく、毛利氏配下として三浦家の調略を進めた。
三浦家中にも、尼子氏に成り代わった毛利家に属するしか生きる道はないと思うものが増えていく。
一五六五年一月(旧暦では年末)、重臣、金田弘久の手引きで三村勢は、簡単に勝山城内に侵入しあっけなく乗っ取った。
金田氏は、三浦氏の将来を危ぶみ、被害を抑えるために城を明け渡すのが得策と考えた。
おふくの方や貞勝など一族が安全に城を脱出する万全の手配をしていたが、予期しない小競り合いが起き貞勝は負傷した。
一族揃い落ち延びる途中、貞勝は戦傷が悪化し「桃寿丸を任す。良き後継ぎとするように」とおふくの方に言い残し亡くなる。
惨めな逃避行の中でもおふくの方に看取られて「精一杯生きた」と幸せそうな最後だった。
結婚生活は四年で終わる。
貞勝は二二歳だった。
おふくの方は夫の死に顔を胸に刻む。
戦国武将の末路を目の前で見た。
とても愛した夫だが、三浦家当主としては気弱さがあった。
おふくの方は叔父、貞盛ら一族重臣と今後を話し合う。
貞盛は再起を期して近在に残る。
貞広を三浦家当主と考えており、貞勝を貞広が戻るまでの中継ぎとして扱った。
その為、桃寿丸を主君だと思うこともなく、独自に城の奪還を目指す。
貞盛から桃寿丸を冷たくあしらわれ、夫の死と合わせ、おふくの方は、悲しみと悔しさで涙が溢れた。
夫、貞勝の最後の言葉に気を奮い立たせ、勝山城を奪い返し、美作三浦氏当主、桃寿丸とすると決意する。
桃寿丸のつぶらな瞳はきっと出来ると見つめている。
貞盛らと別れ、縁戚になる近習、牧国信と江川小四郎に守られて、桃寿丸・侍女らと共に美作から旭川を下り、備前加茂川村下土居(岡山県加賀郡吉備中央町)の土井家に落ち延びる。
当主、土井次郎右衛門の妻は、三浦家から嫁いでおり、貞勝の叔母になる。
貞盛と連絡を取りながら再起を図ることになるが、貞盛に頼りたくなく、桃寿丸を擁して独自のお家再興を目指す。
貞勝が頼みにした浦上宗景は、今まで幾度もあった三浦家の危機に十分な軍勢を送ってくれなかった。
おふくの方は「三浦家を守ろうとせず、守る気もない。夫、貞勝は見殺しにされた」と宗景を憎んだ。
気持ちは浦上宗景から離れており、主君とは思えない。
三浦家の再興を宗景ではなく、宗景の一番の重臣で主君を凌ぐ実力者として勇名が知れ渡っている宇喜多直家に託そうと考える。
おふくの方の思いを後押しするように一五六六年、夫の仇、三村家親が日本初の鉄砲による狙撃で撃ち殺された。
宇喜多直家の企てた暗殺であり、おふくの方にとって胸のすく快挙だ。
正攻法で三村家親と戦っても勝利が難しいと判断した直家が、側近、遠藤秀清・俊通に密命を出したのだ。
彼らは、闇に紛れて命がけで三村家親の陣中に入り込み、昼間の軍議を隠れ見て家親が座る位置を確認し、狙いを定めた。
夜の軍議が始まり、直ぐ側にいる警護が離れる一瞬を待ち、闇の中から鉄砲を撃ち命中させたのだ。
そして悠々と逃げた。
この頃、鉄砲の威力を知るものは少なく、家親の家臣は何が起きたかを理解できず、しばらくは呆然とするだけだった。
おふくの方は、詳細を聞き、鉄砲の威力、直家の智謀に心躍った。
思い描いていたことが、正夢となった。
直家の生誕地近くの備前長船は、刀剣の産地として有名だったが、鉄砲鍛冶としても技術を磨き、抜群の精度で作ることができた。
叔父、貞盛は好機到来だと、三村家親の死の混乱に乗じて勝山城を取り戻し城主となる。
まもなく、義兄、貞広が勝山に戻る。
尼子氏は晴久の子、義久が引き継いだが、毛利勢に追い詰められ投降した。
毛利氏に居城、月山富田城(島根県安来市広瀬町)を引き渡し、義久は、囚われの身となる。
その時、貞広主従に、勝山に戻るよう命じた。
勝山に落ち着いた貞広は「三浦家再興を一瞬たりとも忘れたことはない。戻れて良かった」と、家中に当主として労をねぎらった。
長く人質となり苦労もしたが、尼子晴久に可愛がられ、尼子氏ゆかりの妻と子も居る。
尼子一門として、尼子氏を倒した毛利勢への憎しみも強い。
だが、体勢を立て直し毛利氏の支援を受けた三村氏一族が猛烈な反撃を開始した。
一五六八年、勝山城を奪われ、叔父、貞盛は戦い抜いて壮烈な討ち死だ。
貞広は、勝山城奪還に執念を燃やすことになる。
三浦家の嫡男として育ち三浦家嫡流の責務だと意志は固い。
五 宇喜多直家とは
おふくの方が見込んだ宇喜多直家は下克上の時代を代表する武将だ。
悪逆の限りを尽くす非道な男と皆が言う。
それでも亡き夫、貞勝の無念を晴らし、桃寿丸を勝山城城主とするために、最も頼りになる武将と確信している。
直家以外に頼る人はない。
宇喜多氏は、百済王族が備前児島半島に漂着し、始まったとされる。
時を経て、備前守護、赤松氏に仕える備前守護代、浦上氏に仕え、重臣となる。
室町幕府成立に貢献した赤松氏は恩賞として播磨・摂津・美作・備前の守護職を得た。
豊かなこの地を支配し、将軍を脅かすほどの強大な力を持つ。
恐れた室町幕府将軍、足利義教は赤松家の分断を図る。
内紛を起こさせる謀略に怒った赤松勢は決起し一四四一年、将軍を殺害する。
だが追討軍に敗れ赤松(あかまつ)満祐(みつすけ)は自害し嫡流は滅びる。
代わって、山名氏が守護となり、赤松家中の多くが行き場をなくす。
嫡流亡き後、満祐(みつすけ)の弟の孫になる赤松政則(1455-1496)がわずか生後七ヶ月で赤松家を継ぐ。
守護代、浦上則宗(1429-1502)が養育係となり、赤松家再興に力を尽くした。
ここで、浦上氏は、一躍、家中第一となり重きをなす。
勢いをなくした赤松家に比べ、成り代わった山名氏は勢いを増した。
幕府将軍、義政は、恐れ、山名氏の力を削ごうとする。
そこで、山名氏対抗勢力として細川氏を頼り、権限を持たす。
細川氏は、将軍の意向に沿い、赤松政則を支え、山名氏と戦わせていく。
ここから、赤松勢は徐々に復権を果していく。
一四六七年応仁の乱が起きると、赤松政則は東軍、細川勝元側に属し、西軍、山名宗全勢を追い払い、播磨・備前・美作を取り戻す。
だが、応仁の乱が終結し、将軍は、義尚となる。
すると、前将軍、義政に近かった赤松氏は嫌われ、中央政治から追われる。
しかも、一族間での後継者争いがあり、領国内では山名氏旧臣の反乱が続く。
守護、赤松政則では抑えきれず、幼い時から側にいた浦上則宗に頼らざるを得ない。
浦上則宗は、赤松政則以上の力を持っていく。
一四九六年、赤松政則四一歳が後継を決めることなく急死する。
浦上則宗(うらがみのりむね)が中心になって後継者を決める。
政則には男子、村秀がいたが、幼く庶子であり後継にはふさわしくない決めつけ排除した。
そして赤松政則の娘、小めしに赤松一門の義村を婿養子に迎え当主とする。
義村は、運よく家督を継ぐことができたと喜び、浦上則宗・小寺則職の補佐に素直に従う。
だが、成長と共に、親政を執りたくなる。
そんな時、一五〇二年、浦上家を赤松氏第一の臣とし、赤松氏を上回る戦力を持つまでに大きくした浦上則宗が亡くなった。
則宗の嫡孫、村宗が後を継ぐ。
ここで赤松義村が蘇り、元気になる。
今まで、浦上則宗の言うままだったが、村宗には主君として命じる。
だが、浦上村宗も、義村に家督を継がせたのは浦上家だという自負があり負けない。
思うようにならない赤松義村は、焦り、ついに、浦上村宗打倒に立ち上がる。
密かに味方を集め用意周到に準備し、一五一九年、決起した。
赤松義村は優勢に戦を進めたが、決着が付かないまま戦いが長引く。
この間、浦上村宗は周辺の国人衆へ浦上支援を働きかける。
赤松家再興に大きく貢献した浦上勢こそが政治力・軍事力とも、赤松義村より上であると訴えた。
すると、支持が広がった。
有利な体勢を作ることが出来、勝利を確信した。
一挙に義村を討ち取ると戦い追い詰め、逃げる義村を追って播磨の奥深く侵攻した。
義村の策に浦上村宗は乗せられたのだ。
待ち構えていた赤松勢が襲い掛かり、反対に絶体絶命の窮地に陥る。
この時、村宗を救ったのが能家(よしいえ)だった。
赤松義村勢と戦う浦上勢の中で、ひときわ輝く名将が宇喜多能家(よしいえ)だった。
ここから、宇喜多家全軍をあげてすさまじい反撃に出る。
予期しない反撃に浮き足立った赤松義村勢に、容赦なく襲い掛かり一五二一年、赤松勢に勝利。
浦上村宗は、赤松義村を隠居させ、続いて幽閉し、殺した。
義村の嫡男、赤松晴政八歳を当主に据え、赤松家の実権を握る。
勝利の一番の功労者、能家(よしいえ)は、浦上村宗の全幅の信頼を得て、浦上家中一の地位を占める。
以後、浦上村宗と固い絆を結びつつ、浦上氏の勢力を伸ばしていく。
一番家老だった島村盛実は、地位を奪われ二番家老に格下げとなり、煮えくり返る思いだ。
こうして、浦上村宗は、赤松氏に成り代わり播磨・備前・美作守護になろうとしていた。
ところが、一五三一年、村宗に恨みを持ち続けた主君、赤松晴政が裏切り、浦上村宗を殺した。
村宗を唯一の主君として仕えた年老いた能家(よしいえ)も、がっくりし隠居を決める。
砥石(といし)城(じょう)(岡山県瀬戸内市邑久町豊原)に籠り、村宗の菩提を弔う。
能家(よしいえ)を継いだのが、嫡男、興家(-1540)。
浦上村宗の後を継いだのが幼少の政宗(1525-1564)だった。
ここで、一〇年も耐えた長年の筆頭家老、島村盛実は、威厳を持って浦上政宗の筆頭家老に復帰した。
赤松晴政との戦いを続けるために有利な室山城(兵庫県たつの市)を拡張整備し、浦上政宗の居城とする。
今までの本拠、三石城(岡山県備前市三石)を政宗の弟、宗景が守ることになる。
そして、宇喜多興家を、島村盛実が分家させた浦上政宗の弟、宗景の筆頭家老とし、浦上家嫡流から引き離した。
興家は父ほどの実力はなく、島村盛実の思うままに追いやられた。
この時、興家の妻、浦上氏が、政宗に付き従った生母に変わり、宗景の母代わりとなり夫、興家と共に側近く仕える。
興家と浦上氏の子が直家。
こうして宇喜多家を引き離し隔離した後、一五三四年八月、島村盛実が村宗の遺志だと砥石城の能家を奇襲し自害させた。
当主、浦上政宗の名で、砥石城を乗っ取ったのだ。
興家は居城を奪われ、追撃を受けながらも、かろうじて逃げ、宇喜多家はちりじりになった。
島村盛実は、浦上政宗と浦上宗景の両方の浦上家筆頭となり赤松家中で並ぶもののない権力を得た。
祖父、能家(よしいえ)を殺され、五歳の直家は父、興家とともに備後(広島県東部)鞆の津(福山市鞆)まで逃げた。
母は、宗景の元におり無事だ。
浦上村宗は、能家(よしいえ)への褒賞として、浦上家筆頭家老嫡男、興家と村宗の姪、浦上氏とを結婚させ、一門としていた。
母、浦上氏は、この事態にどうすべきか考えるが、宗景を守ると覚悟を決め、三石城を動かなかった。
母、浦上氏は、三石城入りする一五三一年、宇喜多家の奥を任せる侍女を幾人か選んでいた。
興家・直家の世話を頼んだ。
その中の一人が、旧知の備前福岡(瀬戸内市長船)の豪商、福岡屋、阿部善定の娘だった。
阿部善定の娘との間に、一五三二年、春家・一五三三年、忠家が誕生する。
砥石城を襲われた時、興家・直家の側に居たが二人の子を連れ、逃げるよう命じられた。
やむなく「いつでも戻ってきてください。それまで子たちを守ります」と申し出て、実家に逃げた。
追放された後、興家主従は潜んでいたが、島村盛実(1509-1559)が「宇喜多家を追い払った」と満足し追手を出さなくなったと確認すると、一年後、そっと阿部家を頼り戻る。
阿部家に落ち着いた興家は、阿部善定の娘と結婚し苦難の逃亡生活を終わりにした。
興家は「宇喜多家再興のための戦に勝てる自信がない。文人として生きたい」と直家に話し、静かな生活を好む。
病弱であり、島村盛実の目をそらせるためにも、武士の誇りを捨てたように振る舞い、商人として控えめに暮らす。
そんな興家と家臣をつなぐ役目を戸川秀安(1538-1597)の母、妙(法名「妙珠」)(1511-1603)が担う。
妙は、宇喜多家譜代の重臣、長船家の出身で、興家側近、門田定安に嫁いだ。
ところが、一五三八年、戸川秀安が生まれるとまもなく夫は亡くなる。
すると、子たちの世話を頼む乳母を探していた興家に呼ばれ仕えるようになる。
以後、夫に代わって興家、春家、忠家に仕え、取次の役目もこなす。
猛女として名を残す活躍をしていく。
まず、秀安を美作の戸川氏に嫁いだ姉に託し、単身、忠家に仕える。
直家の信頼を得て、宇喜多家譜代の重臣、岡惣兵衛と再婚する。
こうして、妙を中心に宇喜田家三家老、戸川氏・長船氏・岡氏が繋がることになる。
おふくの方は「いよいよ時が来た。進まなくては」勇気を奮い起こし行動を開始する。
戸川氏とおふくの方の母方の実家、鷹取氏とは同族であり?がっている。
後に、おふくの方が直家との結婚を考えた時、心から喜び推した。
一五三九年、父、興家は、決意した。
自分では宇喜多家再興はできないと。
阿部家の婿として、生涯を終えようと。
そこで、一〇歳になった直家に宇喜多家再興に向けて働くよう命じる。
今まで仕えた宇喜多家旧臣に直家が当主であり、忠誠を尽くすようにと命じる。
直家は、旧臣を引き連れ、再起を期して、武将として能力を磨くため、叔母の尼寺、大楽院で修養することになる。
父と離れ独り立ちした。
興家は動かず、宇喜多家再興とは無縁のように振舞う。
大楽院は笠加村(瀬戸内市邑久町下笠加)にあり、かっての宇喜多家居城、砥石城から近い。
檀家のない尼寺だが広い敷地があり、民家と一体化しており直家の住まいとしておかしくなく、怪しまれない。
岡家利、長船貞親、河本久隆らが共に住み従う。
一見直家は将来僧になるための修行を始めたかのようだった。
だが、宇喜多家再興を目指し、宇喜多家当主としての帝王学を学ぶ毎日が始まる。
直家には、天性の文武の才があり、武芸を特に好んだ。
家臣達は、直家の中に祖父、能家の再来を見る。
父、興家は一五四〇年、浦上氏、島村盛実を欺き続け生涯を終える。
直家一一歳だった。
直家は、父の思いを胸に、家督を引き継いだ。
ちりじりになっている家臣を集めていく。
この日が来るのを待っていたと、耐えていた旧臣が集まってくる。
宇喜多家が浦上氏に滅ぼされた経緯を幾度となく聞き、苦労させた旧臣の熱い思いに応えたいと礼を尽くし迎えた。
彼らの苦労に報いる為に、必ず復讐すると、煮えたぎる思いで宇喜多家の再興に向けて動き出す。
直家の母も、密かに大楽院の義姉と連絡を取り合っていた。
母は、宗景乳母として、宗景居城、三石(みついし)城(じょう)(備前市三石)を動いていない。
ここから、大楽院尼との抜群の連携で、宇喜多家再興のための道を創っていく。
直家は、直家と直接連絡を取ろうとしない母に不安を感じることもあったが。
家督を継いだ浦上政宗(1525‐)は父、村宗の敵を討つと赤松晴政と戦を続けていた。
だが、雌雄を決することは出来ないまま尼子勢の侵攻を受けることになった。
尼子氏は強く、このままでは浦上家も赤松家も共倒れになるのがはっきりしてくる。
一五三七年、尼子勢の侵攻を食い止めるために、共に戦うしかないと、和睦した。
ここから、浦上氏は、赤松氏の筆頭家老として、尼子勢と戦う。
一五四二年、尼子勢を押し返し、赤松晴政を擁して、播磨備前を征する。
浦上政宗は、尼子勢に勝利したのは、自らの軍事力だと自信を深めた。
勢いをつけて勢力を広め、実質、赤松晴政の力を凌駕していく。
だが、浦上政宗は、成長していく弟、宗景(1526‐)に不安を感じ、自分を脅かす存在になる気がした。
そこで、三石(みついし)城(じょう)から天神山城(岡山県和気郡佐伯町田土)に移るよう命じ遠ざける。
赤松氏と決着をつける必要があり、備前の西と東に支配地を分け、当面の安泰を得ると決めたのだ。
宗景は、突然のことで、納得できなかった。
それでも、兄は強く、追われるように移るしかなかった。
そのいら立ちの中で、兄と決別し自らの信じる道を行くと決める。
まずは、天神山城の整備に力を注ぐ。
資金も家臣も減り心もとない。
それでも、兄に対抗できる力を持つと、戦力を強め、優秀な家臣を求める。
そこには、信頼する乳母、直家の母、浦上氏がいた。
直家の母は、宗景に仕え八年が過ぎ、三石(みついし)城(じょう)の奥を仕切っていた。
移った天神山城の奥は、所帯も小さくなり、親しくしているものばかりで、楽にまとめ仕切る。
「ようやく時が来た。宇喜多家再興の道筋をつける」と大きく息を吸う。
一五四三年、宇喜多家旧臣と図り、宗景に我が子、直家の仕官をさりげなく願い出る。
家臣が足りない宗景は喜んで召し抱える。
直家一四歳、宗景に仕えるために天神山城に行く。
浦上氏を滅ぼすことを心に誓い第一歩を踏み出した。
六 直家立つ
宗景は、宇喜多家追放の経緯を知っており、宇喜多家を信用すべきか疑ってもいた。
ただ、幼い時で覚えはないし、今は、直家の母を信用しており、慎重に直家の忠誠心を見極めると肝に銘じた。
直家は宗景の魂胆を見抜き、気の利かない一本気な性格の馬鹿正直な忠臣ぶりを装う。
母と直家との仲も一枚岩(いちまいいわ)ではない。
五歳で別れたきりの母とは縁が薄く、母は憎き浦上家の人だ。
母の手配で、宗重に召抱えられたのは恩に思うが、騙されてはいけないと心した。
母は、興家を愛し、宇喜多家滅亡後の悲惨な状況をよく見ており、宇喜多家の再興を成し遂げると決意していた。
忘れ形見、直家を一人前の武将とし、かっての宇喜多家にまで再興するという熱い思いがあった。
どこまで直家に通じているかわからなかったが。
直家は、宇喜多家滅亡は島村盛実の暴挙だと復讐を考えない日はないが、まず、浦上家重臣とならなければ、前へは進めない。
母の支えなしでは実現はあり得ず、母の指示に従う。
慎重な母は、宗景の側を離れず、直家と共に過ごす時は短かく、冷たい態度だ。
母の冷たさに落ち込むときもある。
それでも、幼い頃母に可愛がられた記憶はおぼろげながら残っている。
今時々見る母は、言葉の端々、容姿、考え方に共通するところを感じる。
一見、縁は切れたかのように振舞う母だが、温かい血の?がりを信じるしかなかった。
母は浦上家の人として、宗景と直家の間をうまく取り持つ。
宗景は、直家の母が直家を冷たくあしらい、別々の暮らしを保っているのが気に入った。
次第に、直家は、宗景の信用を得ていく。
翌一五四四年、宗景の元で元服し戦場に出る。
戦場では進んで危険な先鋒を努め、次々と手柄を立てる。
直家の戦いぶりは、武者としても指揮官としても見事だった。
宗景は喜び、吉井川河口で海に面した要害の小城、乙子城(岡山市東区乙子)を与える。
児島湾に面し瀬戸内を押さえる前線基地であり、争奪戦が激しい城だ。
戦いの最前線に立たされることを意味し、恩賞とは思えないが、一挙に、城持ちの重臣になったのは間違いなかった。
直家は宗景から戦力として期待されたのだ。
このまま進めば思いは遂げられると、宇喜多家の領地を取り戻すために、旧臣を集め浦上家中で突出した忠臣ぶりを示していく。
反面、宇喜多勢は、多くの犠牲者を出し、涙する日も多いつらい日々だ。
領地を得たが、戦さで与えられる役割を果たすにはとても資金がたりない。
備前福岡の阿部家らこの地の豪商の支援でどうにか繋いでいく。
継母にはなじめないところがあったが、阿部善定はいつも冷静に、直家の思い以上の資金を出した。
この地の経済力に驚きながら、期待に応えたいと戦い、勝利を重ねていく。
一五五一年、宗景は直家二二歳を浦上家重臣として認め、結婚相手を決める。
相手は宗景の重臣、備前沼(岡山市沼)城主、中山信正の娘だ。
直家は宗景の意図を読み取り、待ちに待った復讐の好機が到来すると心震えるが、身に余る光栄と殊勝に受け入れる。
中山氏は、西備前の雄として浦上氏と対立する松田氏の重臣だった。
宗景は松田氏との戦いに勝つ為に、島村盛実に中山信正調略を命じ、成功し味方に付けた。
松田氏を裏切った中山信正を、宗景は厚く迎え優遇したが、全面的に信用しているわけではない。
そこで自らの重臣、宇喜多直家との縁組みを決めたのだ。
中山信正と直家が固く結ばれ、お互いが牽制し合い、宗景を支えるようにと。
直家も、理解している。
妻を大切に、勇猛果敢な娘婿として中山家との友好関係を深める。
心の奥底にある凄まじい復讐劇の始まりだったが、まだ、じっくり機会を待つ。
異母弟、春家・忠家や戸川秀安以下家臣団も続々増えて、祖父以来の譜代の家臣団が揃っていく。
結婚後八年勇猛ぶりが鳴り響き、宗景になくてはならない存在になったと確信した。
時が来たのだ。
一五五九年、直家は「中山信正謀反の疑いあり」と証拠を挙げて宗景に内報する。
宗景は中山氏が謀反を起こす理由が見当たらず不審に思うが、中山氏の領地を完全に支配下に置くのは魅力的であり、直家を信じ、中山信正の成敗を命じる。
宗景の了解を得て、大義名分は整った。
だが、正攻法で戦えば兵力の損害は大きいと策を練る。
直家はもっとも被害の少ない方法、自らの領地に中山信正を招いて謀殺すると決める。
中山信正は、娘婿、直家を見込み信用していた。
難なく、中山信正を招き入れることが出来、近習共々密かに殺す。
次に、中山氏居城、沼城(岡山市東区沼)に中山信正から頼まれごとをされた娘婿として入る。
何食わない顔で中山信正の名を使い、島村盛実を、沼城に招く。
島村盛実は、自らが調略した中山信正の招きであり、度々寄っていた沼城であり、気楽に登城する。
城の奥に招きいれることが出来た。
ここで、突如、直家の手勢が取り囲む。
「信正と再々謀議を重ねていた」と謀反の動きを事細かに暴く。そして、殺す。
同時に、中山家中に謀反発覚を伝え、宗景の命令ゆえ直家に従うように告げ、そのまま沼城を押さえる。
中山家中はあまりに突然の展開に動揺するばかりで、反撃するものはいなかった。
事の次第を聞いた宗景は、直家のあまりの手際の良さに驚く。
中山信正・島村盛実は宗景の命令に素直に従わず、煙たく感じていた。
彼らがいなくなり、思うようにできる領地が増えるのは良いことだ。
直家の手柄と認めた。
こうして直家は島村氏に奪われていた宇喜多家の居城、砥石城を取り戻す。
長年の宿願を果たし、胸一杯だった。
居城を天神山城に近い沼城と決め、妻の実家ゆえ娘婿として後を継ぐと明言し、従うものはすべて召し抱え、今の待遇を安堵する。
肝心の妻は、実家への残虐な仕打ちに抗議して、沼城に移ることを拒否し自害する。
予想外だったが、やむを得ない。
すべきことが次々あり、立ち止まることはできない。
次に、津高郡金川(岡山市北区)城主、松田氏に目を向ける。
松田氏は浦上氏を脅かすほどの存在だったが、同盟を結んだ尼子氏の衰退と共に、次第に衰えていた。
一五六二年、松田氏を追い詰め、同盟を結ぶ。
条件は、
当主、松田元輝の嫡男、元賢と直家の娘との結婚。
松田氏の重臣、伊賀久隆と直家の妹との結婚。
ここから直家の腹心が、松田家に入り込み、慎重に重臣の取り込みが始まる。
宇喜多興家には、直家の妹、四人が生まれている。
いつ生まれたか生母はだれかはっきりしない。
初婚が主君一族、浦上氏。
再婚が身代懸けて尽くした阿部氏。
砥石城主だった頃から逃亡し備後国鞆津に隠棲した頃に、生まれたのだろう。
直家の母が宗景に仕えた一五三一年から、阿部氏と再婚し阿部家に落ち着く一五三五年の間に、生まれた可能性が高い。
生母ははっきりしないが、生まれた娘は、尼寺、大楽院で育てられた。
養女の可能性もあるが、直家の妹として嫁ぐ。
松田氏重臣、伊賀久隆と結婚する長女。
政略結婚。
浦上氏重臣、明石行雄に嫁ぐ次女、洗礼名、モニカ。
明石家を宇喜多家中に取り込み味方とするため。
宇喜多家譜代の臣であり一門の河本久隆に嫁ぐ三女。
一門としての結束力を強めるため。
おふくの方の側近であり、直家に仕えた牧国信に嫁ぐ四女。
一門として迎え、家中の重臣の地位を約する。
後のことだが、直家の娘は、おふくの方との子を除いて六人、
美作国人、美作三星城主、後藤勝基(1538-1579)に嫁ぐ長女。
一五七九年勝基は謀反人として殺され、刺客となる。
美作国人、久米郡中山城主、江原親次に嫁ぐ次女。
直家に信頼され、一万石重臣となる。宇喜多家重臣として続く良縁だった。
松田元賢(-1568)に嫁ぐ三女。
刺客となった。元賢が殺されると自らも死ぬ。
備前の有力国人であり、居城、金川城(岡山市)は直家に必要だった。
浦上宗辰(1549-1577)に嫁ぐ四女。
刺客となる。
長年の宿敵、浦上宗景の嫡男であり毒殺。
但馬竹田城主、赤松政広(1562-1600)に嫁ぐ五女。
赤松氏を取り込む刺客だったが、秀吉に従い良縁となる。
重臣、明石全登(1567-1618)に嫁ぐ六女。
明石行雄の子であり宇喜多一門として迎えられ、かけがえのない重臣となる。
直家にとって政略結婚は、家中をまとめるためにも、宇喜多家の勢力伸長のためにも、必要不可欠な政策だった。
それでも、刺客ばかりではない。
良縁となった結婚も多い。
七 おふくの方二度目の結婚
おふくの方は、伊賀家の分家、土井氏に身を寄せ、大切にもてなされた。
そこで、さりげなく叔母婿、土井次郎右衛門に「本家当主、伊賀久隆殿に会わせて欲しい。力を貸して頂きたいのです」と頼む。
おふくの方の美しさは知れ渡っており、土井氏も「喜んで」と応えた。
久隆も関心があり「是非会いたい」との返事が来る。
伊賀久隆の居城、虎倉城(岡山市御津虎倉)に嫡男、桃寿丸を伴い出向く。
土井氏に頼み、化粧衣装小物類を取り揃え精一杯に美しく飾った。
そして、対面し、三浦家再興の思いを話す。
続いて「直家様にお会いして、助力をお願いしたい」と申し出る。
久隆は、逃亡の身ながら臆せず見つめるおふくの方の気高い美しさに感動し、了解した。
おふくの方の評判を聞き、側に置きたいとの思いを秘め対面した久隆だった。
思いがけない展開で自分の思いは言えないまま、圧倒された。
思いが遂げられないまま、直家との取次を了解し、我ながら笑ってしまい、力が抜けた。
直家におふくの方を差し出すことで伊賀家の面目が立ち、利益になると頭を切り替え、直家に取り次ぐ。
実力があるものが覇権を握る時代が来たと自信を持って主君、松田氏を裏切った。
いずれは、主君、松田氏に成り代わる野望を持っていた。
その為に、直家と結びついたのであり、より一層強く結びつけば思いは叶えられるはずだ。
直家とおふくの方、良い縁になると自分の計画にうなづいた。
おふくの方は伊賀久隆とともに直家の居城、沼城を訪れた。
夫を亡くし一年が過ぎ、新たな道を歩み出す覚悟が出来ていた。
直家を前にして何度も頭の中で繰り返した言葉を切々と述べた。
「直家様のお力を頼ることしか、三浦家再興の道はないと考えます」と熱いまなざしで頼む。
三浦家当主の妻として側に控える桃寿丸の将来を直家に託したいと、二人して頭を下げる。
直家は熱いまなざしに射貫かれたように、釘付けになる。
三浦家再興に力を貸すことを約束する。
一五六六年春、直家は日の出の勢いだった。
その時に、おふくの方は勝山城を追われて救いを求める身で出会った。
立場は大きく違い、庇護者としてすがる以上、側室とされても拒めないのはよくわかっていた。
だが「名門、三浦家を受け継ぐ桃寿丸は三浦家臣団をりっぱに率います。桃寿丸は直家様の力になります」と力説する。
美作地方を長く治めた勇者の家柄だ。
側室の一人にされては夫、貞勝と共に三浦家を守ったことが無意味になる。
桃寿丸のためにも、母として威厳を持った立場を貫きたい。
おふくの方の誇りが守られる処遇を期待した。
直家は、すぐに結婚を申し出た。
一目おふくの方を見て「今までに会ったことのない女人だ。まるで、慈母観音を目の前にしているようだ」と心を奪われた。
初めての対面だが、話していると包み込まれるような穏やかな気持ちになり、引き込まれ側にいて欲しいと心底思った。
謀略に明け暮れる我が身とは全く違う純粋さを感じた。
「(おふくの方は)家中の尊厳を得る。正室にふさわしい」と確信した。
おふくの方は、予想以上の直家の対応に、にっこりとうなずく。
世情の風聞とは、裏腹に終始、礼を尽くした誠実な態度だったから。
直家も三村家親を殺したとはいえ、三村勢の決死の反撃受けて立たなくてはならない。
近いうち大決戦が始まるはずだ。
三浦勢は敗れ、ちりじりになったというが、まだまだ力はあり、味方とすべき戦力だ。
宇喜多家家臣と自らの士気を挙げるためにも価値ありと結婚を望んだ。
おふくの方は我が身の幸運に感謝する。
三浦貞勝と結ばれたことさえ幸運だった。
三浦家当主は主家、浦上氏の勧める縁者と結婚するはずだった。
分家のおふくの方が結婚相手に選ばれる可能性はなかった。
ところが運良く嫡男、貞広が戻らない内に、城を取り戻した次男、貞勝が勝山城主になり、家中に推され妻になった。
次は、宇喜多直家。
今や三浦家の主君、浦上氏を凌ぐ力を持つ実力者だ。
その妻に望まれたのだ。
しかも、桃寿丸を三浦家当主として認め、直家の息子同然に扱うとも言ってくれた。
直家との結婚は魅力的だ。
結婚し、直家と共に宇喜多家の飛躍・三浦家の再興を目指したいし、目指すべきだと思う。
余りの幸運に感激しつつも、どこかで、この道を歩むことはわかっていたとささやく声が聞こえ、覚めていた。
何度も夢に見た三浦家再興のシーンでは、いつも誰かに手を引かれていた。
顔は覚えていないが、きっと宇喜多直家だったのだろう。
貞勝との愛の日々を経験したおふくの方は、愛されることなく一年が過ぎ心身ともに寂しく、結婚を望んでいた。
だが、直家の先妻は抗議の自殺している。
直家に裏切られるか、利用されるだけに終わるか、不安はある。
それでも、この結婚に全てを賭ける覚悟だ。
直家は、浦上宗景の了解も得て、家中におふくの方と結婚し三浦家を支援すると公言した。
直家は近親者を踏みにじる謀略を続け側室もいたが、おふくの方を妻に迎えたいとの熱い思いは真実だった。
一五六七年、三八歳の花婿と一八歳の花嫁の結婚生活が始まる。
用心深い直家は夜を共にする前には、危険な刀剣など隠し持っていないか慎重に確認する習性がある。
おふくの方にも望む。
大切に育てられた名門の姫としては屈辱だ。
おふくの方の老女(筆頭侍女)と宇喜多家老女との間で慎重な打ち合わせがされ、両者がおふくの方の床入りの支度に立ち会う。
遠慮がちに宇喜多家老女が立ち会うが、おふくの方は高らかに笑いすぐ裸になる。
「どこでも好きに見るがよい」とけろりとしている。
宇喜多家の奥を仕切る老女は、おふくの方の白くきめ細やかな肌に息をのむ。
しかもおふくの方の身体は触れると全身薄桃色になまめかしく輝いた。
宇喜多家老女にとって、直家と夜を共にした女人の裸体を幾人も見てきたが初めての経験だった。
ただただ、ひれ伏し、直家にすぐ報告した。
以後、おふくの方の身体に触れることはない。
直家も初めての経験だった。
おふくの方は全身の感受性が強く、愛撫に敏感に反応する。
桃寿丸が授かった時の身体の変化を喜び、身体の変調を克明に書き記したことがあった。
医師・産婆に詳しく子の生まれる仕組みを聞き、女体の変化に感動しつつ書き残した。
出産の様子も見続けた。
痛みに耐えながら声を出すこともなく一部始終を見続けた。
生まれ出た瞬間の赤児の様子、その時の自らの体位が世の中で一番美しいと、自信を持って見つめた。
直家の前でもその様子を再現する。
その開けっぴろげな大胆さに直家はのめり込む。
素晴らしい女人を妻にしたと歓喜の声を上げる。
そして勇気を与えられ、おふくの方にふさわしい勇者になると決意を新たにする。
直家は、三村氏を殲滅する作戦を立てていた。
おふくの方は、直家から三浦貞勝・叔父、貞盛ら一族の敵である三村氏を掃討する作戦を聞きながら、思うことを話す。
三浦家重臣、金田氏らが寝返ってしまった三村氏の謀略の一切、近習に見守られ城を出る手配が崩れた経過も事細かに話す。
おふくの方の洞察力・記憶力に直家は感心しながらうなずく。
共に話し合いを重ねた翌年、明善寺の戦が始まる。
直家はまず囮(おとり)の城、明善寺城(岡山県岡山市沢田)を築く。
三村勢は策にはまり、城を奇襲し奪う。
三村家親を継いだ元親は、幸先の良い勝利を祝い、宇喜多直家を倒すと時の声を上げた。
そして、三村勢の総力、二万人の軍勢を集め、直家への弔い合戦に討って出る。
直家は五千の兵力しかないが、頭は冴えていた。
ひそかに、岡山城主、金光宗高ら三村勢として参陣した国人勢の切り崩しに取り組み、成功していた。
彼らを味方とし、腹を割って、作戦を打ち明け、賛同を得た。
ここから、直家の意を受けた金光らは三村元親に「三村勢を三方に分け明善寺城内の兵と呼応して宇喜多勢を攻めるのが得策だ」と進言した。
明善寺城兵との挟み撃ちで、宇喜多勢を壊滅させる作戦だ。
直家は明善寺城内に入った三村勢に「降伏するよう」何度も申し出つつ、ぎりぎりまで攻め立てた。
城内の宇喜多勢は、最小源の戦いで、逃げるよう命じられており、命令に従い、すでに逃げていた。
それでも、こまごまとした雑用をこなす宇喜多家の意を受けた従者は残した。
彼らは三村勢を精一杯もてなした。
そこで、直家の降伏申し出に応えるべきだと進言する。
激しい直家の攻撃に耐え兼ねた三村勢は直家に臣従を約した。
こうして直家は、準備を整えた。
直家の策に乗り兵を分け挟み撃ちを決めた三村元親が、動いたのを確認すると明善寺城内に宇喜多勢を送り込む。
三村勢が明善寺城に近づくと、宇喜多勢が城を占拠した勝利の証、のろしを大きく上げる。
「挟み撃ちは失敗した」と三村勢は動揺し、戦意が落ちていく。
こうして、直家は、三方に分れ少数となっていた三村勢を個別撃破し、少数の兵力ながら勝利した。
三村勢はさんざん痛めつけられ、総崩れし、逃げた。
直家は、見事な采配を見せつけ、初めて知将として評価される。
正攻法でも勝つ名将だと知らしめ、得意げにおふくの方に話す。
戦いの模様を語るうれしそうな直家の顔を、おふくの方も頼もしく見て相づちを打ち頷く。
憎き三村一族だったが、敵ではなくなった。
成し遂げた満足感の中で、おふくの方の三浦一族に対する思いも過去の事となっていく。
二人は、心地よい勝利の感動と共に身も軽く浮き立つ歓喜に酔いしれる。
おふくの方は直家と共に進んでいく未来が明るいことを実感する。
結婚以来の直家との暮らしを愛といたわりを込めて克明に書き綴り、感じたこと思うことを直家に話す。
書き綴った日記を見せるのも頓着しない。
何事も開けっぴろげで気にしない堂々とした生き方を貫く。
待ち望んだ、子が授かった。
この頃の直家はおふくの方の反応を聞きたくて重臣が集まる内輪の会にも同席させた。
直家になくてはならない存在となっていた。
まもなく、男子が生まれたが死産だった。
嘆き悲しむおふくの方に「また授かるから」と優しい言葉をかける直家だった。
明善寺城での戦いは「我ながらしてやったり」と上機嫌の直家だったが、娘婿、松田元(もと)賢(かた)親子には腹の中が煮えくりかえった。
決死の総力戦であり一兵でも多く欲しいと、備前国金川城主、松田元(もと)輝(てる)、娘婿、元賢に援軍を命じたが来なかった。
松田元(もと)輝(てる)は静観し動かなかった。
明らかな裏切りだ。
直家の配下となる和議を結び、結婚したが、西備前の覇者だった栄光が忘れられず、直家には素直に従えなかったのだ。
同盟後六年、一五六八年、直家は我慢に我慢を重ねたが見限り謀略を仕掛ける。
同盟以来、松田家中の主な重臣の調略を進め、家中の切り崩しは出来ており、準備は万全だった。
まず、直家に逆らう松田家一番家老、宇垣与右衛門をにこやかに鹿狩りに誘い、撃ち殺す。
平然と「誤って撃ってしまった。誠に申し訳ない」と元輝に言い訳し詫びた。
松田家は宇垣氏が仕切っていた。
宇垣氏が亡くなると家中は直家の思惑通りに乱れ、収拾がつかなくなる。
松田元輝に統治力はなく抑えられない。
そこで伊賀久隆に「松田元輝に降伏を促し、金川城を退去するように伝えよ」と命じた。
久隆は城を兵で囲み、退去するよう宣告する。
元輝は城を出て戦うが、久隆の鉄砲隊が撃ち殺す。
元賢も城を守り戦うが、城は奪われ、逃げ落ちる途中、討ち殺される。
直家の娘も自害し松田家は滅びた。
おふくの方は再び身籠もる。
慎重に慎重に身重の身体を守り、一五七〇年、容姫が無事生まれた。
妻としての役目を果せたとほっとして抱きしめる。
容姫を間にして、二人の仲は揺るぎないものとなる。
権謀(けんぼう)術数(じゅつすう)に長けて、のし上った男と言われたが、おふくの方はその風評は意図的に流されたもので一時期そういう事実があったかもしれないが、少なくとも今は、良き父親であり良き夫だと自信をもって、直家を見つめる。
おふくの方と直家は楽天的な性格が似ていた。
宇喜多家を取り巻く状況は厳しく、苦みばしった顔で策を練るときも多い。
それでも、おふくの方の微笑に思わず笑顔で応え、嫌なことすべてを忘れる良い性格なのだ。
二人して、必ずうまくいくと言いあうことが出来、揺るぎない自信が自然に湧き出る。
時にはお互いの故郷自慢を繰り広げた。
おふくの方は旭川を天の恵み、命の源と感謝し、川上で育った。
直家は吉井川を天の恵み、商工業の源だと大切にし、川下で育った。
吉井川上流には奥津温泉、湯郷温泉があり直家も知っているがゆっくり入った経験はない。
おふくの方の湯原温泉への思いは深く熱く、直家には叶わない。
お互いが故郷を自慢する時、自然の恵みを全身に浴びたおふくの方の推す旭川が上だった。
直家は言い負かされ、ふてて苦笑いだ。
二人は大河の持つ底知れない魅力を肌で知っている。
三村氏を討ち破り備中が射程内に入ると、直家には、備中を流れる高梁川の水運にも目が向く。
備前・備中支配は、吉井川・旭川・高梁川の水運を利用し中国山地から豊富に算出される鉄鋼資源を手中にすることでもある。
水運を通じて、大きな利益をあげ、おふくの方の美作を合わせ備前・備中・美作を配下にすると思いを話す。
三大河川の中心は真ん中を流れる旭川だ。
いつも、おふくの方が話を締めくくり、笑顔で終わる。
直家はおふくの方の故郷自慢を心地よく聞く。
松田氏を滅亡させると、岡山城主、金光宗高に矛先が向いていく。
旭川下流の岡山の地を備前・備中・美作を治める中心にすると決めた。
岡山城を宇喜多家の居城にするのだ。
金光宗高は直家に属していたが、毛利氏からの調略も続いていた。
そこで、直家は「(毛利氏へ)内通したと分かっている。証拠もある」と戦いもありうると厳しく追求する。
金光宗高は、逃れることはできないと覚悟する。
直家は「家名存続は許し子供達に所領を与えるが、当主(金光宗高)を許すことはできない」と冷たく命令した。
やむなく、金光宗高は切腹する。
こうして、岡山城を得る。
「岡山城を拡大修復し移る」と意気揚々と弾む声で、おふくの方へいたわりと愛に満ちて話す。
その言葉はおふくの方に過去の旭川に繋がる思い出を呼び起こす。
桃寿丸を抱きしめ旭川を下り備前下土井村を目指した時の心細さだ。
今の境遇を思うと感無量で飛び上がらんばかりにうれしい。
直家に寄り添い、愛を確かめる。
おふくの方は身籠もる。
三度目の妊娠で、待ちかねた嫡男、秀家の誕生だ。
母親に生き写しの美形だと、皆がほめる。
直家は秀家をのぞき込み「父親似だ。どう見てもよく似ている」とぶつぶつ言いながら、愛おしそうに抱き上げる。
直家、四三歳、備前の覇者とならなければならない、急がなくては思う。
万全の体制で、秀家に譲るのだ。
翌一五七三年、おふくの方は容姫・秀家と共に岡山城に入城する。
ご機嫌で岡山城を案内する直家に連れ回されながら、妻となった七年を振り返る。
桃寿丸の成長を励みに直家を愛し懸命に尽くしたが、ここまでになるとは予想しなかった。
おふくの方は堂々とした岡山城の華麗な華だった。
八 宇喜多直家 最後の戦い
ここで、浦上宗景の怒りが爆発する。
直家とは主従関係にあるはずなのに、主君をないがしろにし、直家が覇権を広げ続けるからだ。
実質、直家の力は宗景のはるか上であり、同盟を結んでいるだけの状態だとわかっているが、それでも許せない。
宗景は意地で直家を家臣として扱う。
直家は神妙に従う態度を変えず、頭を下げた。
頭を下げられるとそれ以上は言えない。浦上宗景も怒りをこらえるしかない。
直家は、復讐の煮えたぎる思い、浦上家打倒を忘れることはない。
必ず勝てる体制づくりが出来るまで待つと、第一の臣であり続けた。
浦上家の打倒は宗景と嫡男の兄、政宗と両方でなければ意味がないため、慎重に策を練る必要があった。
ここまで、長く耐えたのだ。焦らないと一歩一歩、宗景打倒の道を進める。
浦上政宗打倒が先になる。
宗家、浦上政宗は、尼子晴久に従うことで、播磨・備前(東備前)を治めることが出来た。
一五五一年、勢いがあり覇権を強める尼子晴久が宗景も従属させるべく、西備前に侵攻した。
ここから、毛利元就と結んだ宗景と尼子晴久に従う政宗との本格的戦いが始まった。
直家は、浦上宗景に従いつつ、浦上政宗・尼子晴久との戦いを続けた。
時が過ぎ、尼子氏が衰退していき、直家が支え、毛利氏が味方した浦上宗景の勢力が強まる。
政宗は浦上本家でありながら、負け戦が続きじり貧状態となる。
そこで政宗が再起をかけた決断をする。
一五六四年、嫡男、清宗と黒田職(もと)隆(たか)と小寺政職の娘との間に生まれた娘(官兵衛の妹)との結婚を決めたのだ。
小寺政職一族との強力な協力体制を作ることしか、弟に勝てないと決めた。
職(もと)隆(たか)は、後に秀吉の参謀となる黒田官兵衛孝(よし)高(たか)の父だ。
黒田職(もと)隆(たか)の妻は、直家のいとこ(父の妹の子)お岩だ。小寺氏養女として嫁いでいる。
守護、赤松氏を支える二大重臣が小寺家と浦上家だった。
小寺家は、重臣、黒田家が実質率いていた。
そこで浦上政宗は、黒田家と結びつくことで守護、赤松氏を形式的に支えつつ実質仕切り、浦上宗景と対決するしかなかったのだ。
ところが、結婚式の最中、浦上政宗に恨みを持つ赤松晴政の娘婿、政秀の襲撃があった。
ここで、政宗・清宗父子が殺された。
播磨守護を継いだ赤松晴政は、浦上政宗の傀儡であることが許せず、脱しようと画策した。
一五五八年、その動きを知った浦上政宗は、小寺氏と共に晴政嫡男の幼子、義祐を守護とし、晴政を追放する。
晴政は娘婿、政秀を頼り、逃げた。
その後長年、復権めざし戦い続けたが報われることはなかった。
そこで、方針を変え、協調路線を取る。
赤松政秀は義父、晴政の恨みを晴らしたい思いを持ちつつも、義父の意向があり浦上政宗に、協力し、心証を良くした。
そして、結婚式に招かれ、お祝い騒ぎの中で復讐を遂げたのだ。
そこには直家の策略があった。
直家が宗景を通じて、赤松政秀に策を授け、政宗・清宗父子を殺させたのだ。
翌一五六五年、晴政は、浦上政宗の死を喜びながら、赤松氏の内紛を避け、名誉を守り続けるよう遺命し、亡くなる。
赤松義祐は、父、晴政の遺命を守り、赤松政秀と和解する。
だが、利害は対立し、決別してしまう。
直家は、今までの功が認められ、浦上宗景は、嫡男、宗次(1549-1577)と直家娘の結婚を執り行った。
次いで、赤松政秀も、功に応え、嫡男、政広(1562-1600)と直家娘の結婚を決めた。
これらの縁組で、直家の家臣が両家を自由に行き来することが出来た。
そして、多くの情報を得ながら、家中の調略も進める。
赤松政秀は、赤松義祐より優秀であり、晴政も認めていたとの自負があり、義祐に従う気はない。
信長との縁を深め後ろ盾を得ること。
直家に持ち上げられ、支えられること、で赤松家を率いようとする。
そこで、流浪の身の足利義昭を支え、送り親密な関係となる。
娘、さこの方は、信長の養女として嫁ぐ。
浦上本家は、政宗と嫡男が殺される異常事態の中、後継は二男、忠宗となる。
一五六六年、花婿の弟でしかなかった忠宗が急遽、浦上本家を継ぎ、残された花嫁、職(もと)隆(たか)の娘と結婚する。
ここで浦上宗景は、混乱している浦上本家を潰す好機だと、浦上忠宗を殺す。
これも、直家がおぜん立てし、宗景を促し、成功させたことだった。
義父・先夫・夫と殺され、子を身ごもっていた妻は、宗景の追っ手を振り切り、逃げ切り、実家、黒田家に戻る。
こうして一五六七年、久松丸が生まれる。
赤松政秀の娘は、将軍、足利義昭との仲が良く、側に仕え続けた。
そして義昭は、将軍になった。
こうして、一五六九年、赤松政秀は改めて将軍、義昭に臣従を誓い、直家も共に忠誠を誓う。
義昭を擁した信長にも同じように臣従の意を表す。
万全の態勢を整えたと自信をもって、赤松政秀・直家は、赤松義祐・浦上宗景打倒に決起する。
義昭が願ったことで、信長は赤松政秀を支援し、初めは優勢だった。
ところが、織田勢は、戦わずして戻ってしまう。
赤松義祐が、信長に臣従を表明したのだ。
義昭との仲が険悪となっていく信長は、赤松政秀ではなく、播磨守護の後継、赤松義祐支援を決めた。
ここで、形勢が逆転する。
信長勢が去ると赤松政秀・直家勢は弱い。
小寺・黒田勢に敗れ、浦上宗景の攻撃を受けて、赤松政秀は降伏、囚われの身となる。
一年後、殺された。
直家が高く評価する黒田官兵衛が、直家の敵となり、奇襲攻撃し勝利したのだ。
宇喜多家も危ないと、直家はあわてて降伏し、浦上宗景に従うと表明し、赤松家から離れ身を守る。
浦上宗景は、直家を殺したかったが、直家の軍事力なしには浦上家は立ち行かない。
一五六三年、毛利氏と決別し、三村氏との戦いを始め、備前支配を完全にした。
そして、浦上忠宗を殺し、浦上家全体を率いるまでになった。
すべて、直家あってこそだった。
尼子旧臣は、尼子勝久を当主とし、尼子再興を図り、浦上宗景の強い味方でもあった。
その尼子勝久が、直家の延命を強く求めた。
三浦氏旧臣が、尼子勝久を動かしたのだ。
また、九州制圧をあきらめた毛利元就が東進に主力を置くようになった。
毛利勢が備中・備前・美作に向けて侵攻し、熾烈な戦いが目前に迫っていた。
毛利元就は強い。
直家を受け入れるしかなかった。
浦上宗景は、直家を毛利氏との戦いの先頭に立たせた。
直家は、宇喜多家を守るため、うまく戦ったが、毛利勢総力を挙げて進んでくると叶う相手ではない。
そこで、和議を結ぶしかなくないと進言。
同時に、信長の支援を得るために、和議を結び臣従する。
信長は、まだ播磨・備前に力を入れる余裕はなく、浦上宗景との和議は、望むところだ。
だが、毛利家も信長に臣従を約しており、戦いたくない。
そこで、毛利家と和議を結ばせ、浦上宗景を備前の勝利者とすることで、決着とする。
一五七三年、宗景は、浦上家当主として信長に認められ、備前・播磨・美作三カ国の領地を安堵された。
浦上宗景は、元就・信長との和議に満足した。
だが、直家は我慢できず怒った。
備前・美作を平定したのは、直家なのだ。
浦上宗景は、戦う力はなく、見ていただけだ。
なのに、信長から安堵され、領地とし支配者になったのだ。
そして、直家はその家臣とみなされ、宗景の支配下になった。
絶対に許せることではなかった。
一五七四年、この流れをじっと見続け、いよいよ時が来たと自らを奮い立たせる。
すでに、黒田職(もと)隆(たか)と親交を深めていた。
直家は浦上家の正当な後継者として久松丸を迎えたいと、黒田家に申し入れる。
小寺政職・黒田職隆には混乱する赤松家の立て直しが第一だ。
宗景を倒し久松丸が浦上家の家督を継ぐのは大賛成だ。
浦上家筆頭の宇喜多直家に預けるのが筋だと納得する。
直家の思い通りの展開となった。
浦上家嫡流の遺児、久松丸を手に入れ、宗景打倒の大義名分を得たのだ。
久松丸が浦上氏の家督を受け継ぐべきであり、久松丸の後見人、直家を支持して欲しいと、備前衆・美作衆に訴えた。
大義は直家にあり、国人衆を味方にすることができた。
浦上宗景に対決できる力をつけたのだ。
だが、不安材料もある。
浦上宗景と対決することは、信長とも対決することでもある。
信長との直接対決はできない。
力の差がありすぎ戦える相手ではない。
信長に対抗できるのは毛利輝元しかないと、今まで熾烈な戦いを繰り返していたが、同盟を持ちかける。
「浦上家の正当な継承者、久松丸様を認めない宗景を討つために、支援を願いたく、同盟を結びたい」と毛利輝元に頼む。
輝元には信長からの和議の申し出が再々来ている。
浦上宗景と信長の関係は親密だ。
今、直家に味方すれば、信長に敵対することになるのは、輝元にとっても明白なことだ。
毛利輝元は、宇喜多直家を取るか、信長を取るか、どちらを選ぶか迷う。
信長とは、今は友好関係にあり、将来も全面対決を避け和議を結び共存を図るつもりだ。
かって三好氏攻めで協力しており、信長も敵対したくないと考えているはずだ。
浦上宗景を倒しても信長に大した不利益はない。
浦上宗景打倒に的を絞れば、宗景亡きあとも友好関係を続けることは可能と判断する。
宗景は和議を結んだ同盟軍でありながら、毛利領に侵攻しており信用ならない、倒すべきだと結論付ける。
宇喜多家を配下にし中国地方全域を平定し毛利家の力を見せつけた上で、信長と対峙しつつ和議を結べばよいと。
直家の申し出を受けると返事し、信長には当面の拒否を通告する。
こうして、すべての準備を整え一五七五年、直家は浦上宗景に決然と戦いを挑み、勝利し、宗景を天神山城から追放する。
毛利家と組んだ直家は強く、毛利家の配下としてだが、備前・美作・備中五四万石を領する大大名となる。
直家は「秀家への最高の贈り物が出来た」と誇らしげにおふくの方に話すことができた。
おふくの方も「これ以上の幸せがないほどに幸せです」と頷く(うなずく)。
おふくの方の輝く笑顔を見て、直家も最高の時が来たと、満面の笑顔となる。
九 美作三浦氏とおふくの方
直家の伴侶として権勢を握ったおふくの方だが、美作三浦氏の再興というどうしても成し遂げなければならない重要な仕事があった。
簡単ではなく、悩むことも多い。
貞勝が亡くなって十年が過ぎ、急ぎたいのだが。
一五六五年一月一七日、三浦貞勝が亡くなった。
城を失い、勝山の地に残り家名再興を目指し戦う叔父、貞盛と別れ、おふくの方独自の家名再興を目指す。
貞盛は、一年間、勝山城の奪還を目指したが、思うような成果が出なかった。
そんな時、一五六六年二月二十四日、三村家親が殺された。
先見の明があり武勇に秀で颯爽と三村家を率いた三村家親にはどうしても勝てなかったのだ。
ところが、宇喜多直家によって撃ち殺され、三村家中は混乱した。
その混乱を好機だと捕らえ、貞盛は、勝山城奪還に向けて兵を集めた。
そして、勝山城内の三村勢が本拠に戻り、城内が手薄になった時、攻め込む。
信じられない展開で、勝利し、勝山城を取り戻し城主となった。
すぐに、嫡男、三浦貞広が戻るよう、尼子義久に願う。
一五六七年初め、月山富田城で、尼子一門として戦っていた嫡男、三浦貞広が勝山城に戻った。
尼子家当主、尼子義久が毛利元就に投降、月山富田城を明け渡すと決めた。
そこで、三浦貞広に「投降する必要はない、国に戻るように」と命じたのだ。
家中は歓喜し、城主、貞盛は感極まったかのように、三浦貞広に城主の座を引き渡し、配下に付いた。
「この日まで長かった。ようやく、兄、貞久に顔向けできる」と。
貞広が戻り、勝山城の士気は上がった。
美作三浦氏の再興に、おふくの方の方も関わっている。
貞広には、筆頭家老、牧尚春が人質として尼子晴久の元に送られた時以来、ずっと側に付き従っている。
牧氏は、美作三浦氏の筆頭家老であり、なくてはならない譜代の重臣だ。
貞盛には、尚(なお)春(はる)の弟、次男、牧良長が筆頭家老として付き従った。
城を奪われた後も、貞盛に従い勝山に残り、戦った。
おふくの方に従ったのが、桃寿丸の守役家老、牧国信。
尚(なお)春(はる)の弟、三男だ。
勝山城から逃げて以来、ずっと側にいる。
おふくの方にとって、直家の妻になり従者が増えても、最も信頼する第一の側近だ。
その思いに応え、直家は、妹を牧国信に嫁がせ、一門重臣とした。
三浦氏を支える重臣、牧尚(なお)春(はる)・牧良長・牧国信の三兄弟は、ずっと連絡を取り合った。
おふくの方が、牧国信を通じて連絡していたのだ。
直家もおふくの方と結婚以来、貞盛を支援し貞広が戻ると当主とし認め支えた。
だが、尼子掃討の戦いを繰り広げる毛利家と組んだ三村勢の反撃が始まる。
勝山城の三浦勢は守勢に立たされる。
直家には、支援の軍勢を送るほどの余裕はなかった。り、
ついに、石見を押さえた毛利勢主力が加わり、勝山城を攻める時が来た。
三浦勢では守り切れず、一五六八年三月一七日、叔父、貞盛は戦死。
義兄、貞広は落ち延び、勝山城は、毛利氏に奪われた。
貞久は、すぐに、高田城奪還の戦いを始める。
尼子勝久を擁して尼子氏再興を目指す尼子氏旧臣、山中幸盛と結んだ。
山中幸盛とは、月山富田城で長年親しくした友であり、呼吸はあっていた。
ここで、牧尚(なお)春(はる)が、おふくの方の意向として、毛利家と縁を切った直家の支援を受けるよう進言する。
貞広らも直家との協力を受け入れる。
まもなく、勝山城を取り戻す絶好の機会がやってくる。
毛利元就は、毛利勢総力を挙げて大友氏殲滅・九州北東部制圧を目指し、順調に進撃していた。
そのため、本拠、中国地方では守りが手薄になっていた。
その時、大友氏らが、窮余の一策を企て、討って出た。
大友氏・大内氏が山口上陸侵攻・宇喜多勢が備前から蜂起・尼子旧臣や山名氏が伯耆・因幡から蜂起などなど、各地で一斉に反毛利氏の雄たけびを上げ、決起したのだ。
一五七〇年、三浦貞広は、毛利勢を追い払い、勝山城を取り戻す。
おふくの方の意向を受けた牧国信が、直家との共同作戦を展開し、三浦勢を助けている。
おふくの方は、桃寿丸の行く末を思い複雑だが、勝山城を三浦勢が取り戻したことは嬉しい。
毛利勢は驚き自らの力を見定めた。
そこで当面は、九州攻めをあきらめ、中国地方の平定に全力を注ぐことにした。
中国地方、四国の湾岸部に的を絞った毛利氏は強い。
反毛利勢は、すぐに鎮圧され、貞広は追い詰められる。
それでも、直家勢・尼子旧臣らに支えられ、どうにか城を守る。
そんな中、一五七四年、直家は、毛利氏と同盟を結ぶ。
三浦貞広にも、毛利家と和睦するよう指示する。
三浦氏の滅亡を防ぐことが出来るのだ。
だが、山中幸盛や尼子旧臣との仲を重んじる三浦貞広は怒り、直家と決別する。
直家は、浦上宗景打倒のために、三浦貞広の力は重要で、敵にしたくなく、説得する。
貞広に従う美作衆を調略し味方にしており、内部工作を頼む。
美作第一の力を持つ三浦貞広を味方にしておきたかったが、失敗した。
ここで、三浦貞広は、浦上宗景に与した。
それでも、直家の美作衆調略の成果は残っていた。
直家に与した美作衆の力で、美作と備前の連絡を困難にさせることができた。
その結果、三浦勢の援軍は思うようには来ず、宗景の総戦力を弱めた。
宗景打倒・直家の勝利に大きく貢献する。
おふくの方も、三浦貞広に共にありたいと必死で願う。
腹心、牧国信は、貞広筆頭家老、牧尚春と何度も連絡を取った。
浦上宗景の命脈は断ったと説得を続けた。
だが、貞広は、変わらず、宗景に与した。
山中幸盛ら旧尼子勢の力は落ちていき、支援部隊は少なく、救援部隊を送るという大友勢も来ない。
そして肝心の浦上宗景勢も動かず、直家に敗れた。
万策尽きた貞広は戦うことなく、一五七五年、投降する。
毛利家には、おふくの方の意向が届いており、まもなく、貞広はおふくの方の元に来た。
以後、直家は客人として大切にもてなす。
だが、勝山城主として生きてきた貞広は、おふくの方にも桃寿丸にも、親しめない。
尼子氏一門である美作三浦氏当主でありたかったし、毛利氏を許すことはできない。
山中幸盛と共に、織田信長に従うと決める。
おふくの方に別れを告げ、敵となる。
おふくの方は、貞広が桃寿丸を養子とし後継とすることを受け入れて欲しいと話したが、貞広は拒否した。
平行線が続きいずれ桃寿丸との争いになるのは目に見えていた。
貞広なりにおふくの方との関係に決着を付けてくれたのだ。
その心を思うと、つらい。
身内同士の戦いとなるのは悲しいが、育った環境が違いすぎた。
血の繋がりだけでは、共に生きることはできない。
貞広は三浦家家臣を引き連れ去ったが、多くの臣をおふくの方に託した。
ここから、三浦家旧臣が、直家の家臣となる。
望むものすべてを召し抱えた。
牧家も分かれた。
貞広を主君と仰ぐ尚(なお)春(はる)・良長が去り、国信だけが残った。
常に、おふくの方と共にある一番下の弟、牧国信が牧家を背負うことになる。
直家は、妹婿、牧国信を重要視するが、当主、尚(なお)春(はる)は貞広の側近に過ぎないと重きを置かなかった。
結局牧家嫡流、尚(なお)春(はる)も追い出すことになってしまう。
乱世の惨さだが、おふくの方は、牧家をバラバラにしてしまった責任を重く受け止める。
自らの政治力のなさが情けない。
播磨・備前・美作をめぐる攻防は、離合集散が目まぐるしく、複雑だ。
その中で、直家は、抜群の冴えを見せ才知を活かし、生き抜き、備前の覇者となった。
おふくの方も直家の伴侶として素晴らしい働きをした。
直家と考えを合わせ、共に生きるしかない。
一〇 直家に迫る死
浦上宗景を追放し、直家は、祖父の恨みを晴らし達成感で、思い残すことはなくなった。
おふくの方に幼い時の苦労話をしながら、しみじみ何でも話せる伴侶を持った幸せを噛みしめるが、その時は短かった。
信長が真正面から攻撃を仕掛けてきた。
本格的に宗景打倒に立ちあがり信長と決別した時、織田勢は強かったが他に平定すべき敵が多くいた。
そのため、信長の宗景への支援は弱く模様眺めの感があった。
また、毛利家は、元就が亡くなり、引き継いで西国の雄としての覇権確立を目指す輝元の時代となっていた。
輝元は、信長への防波堤として直家を位置付け、必要不可欠の存在だった。
そのため、直家を手厚く支援した。
その結果、直家は、思いのほか簡単に、宗景を倒すことが出来たのだ。
ところが、輝元が想定した以上に直家は快進撃し、信長に毛利家は裏切ったとの恐怖心を持たせた。
さらに、翌一五七六年、信長によって都を追われた将軍、足利義昭を保護した。
足利義昭を引き取る話し合いを始めた頃はまだ、信長とは敵対しておらず秀吉との交渉を煮詰めていた。
その流れで引き取ったのだった。
だが、義昭は信長憎しの思いが強く、輝元の庇護下に入ると各地の大名に信長追討を叫ぶ。
義昭・直家の存在が重くのしかかり、輝元は信長と真っ向から敵対せざるを得なくなった。
毛利対織田の本格的戦いが始まる。
それでも、まだ輝元の本拠、広島・山口への攻撃はなく、考える余裕があった。
防波堤が、直家の本拠、岡山だ。
直家には厳しすぎる戦いが待ち構えた。
群雄割拠の時代は終わりを告げようとしていた。
信長の元、全国平定が進んでいる。
毛利輝元も雌雄を決する戦いよりは、勢力を保ったままの生き残りの道を模索した。
直家の立場は微妙だ。
おふくの方も周囲の困難な状況を知り、解決策を思い悩む。
宇喜多家居城、岡山城に住み、宿願の浦上宗景に勝利したころから、戦いは続くも、城にいることを増やしていく。
おふくの方も喜んだ。
直家と過ごす時間が愛おしい。
二人の時は、お互いが成し遂げた喜びを語り合い、褒め合い、いたわりあう。
全てを忘れ、二人だけの幸せな時間を過ごす。
一五七九年も終わるころには、容姫・秀家を相手にくつろぐ直家は五〇歳となり、しわが増え白髪が目立つようになる。
おふくの方は、まだ三〇歳、年齢差が際だつ。
戦いは続いている。
今まで身も心も酷使してきた。
苦労がにじみ出た直家の背中を見ながら、体が弱っていくのがわかる。
結婚生活一二年が過ぎ、おふくの方は、ますます直家を身近に感じ愛が深まり、心の内を理解していく。
直家は全知全能を傾け宇喜多家の再興のために尽くした。
責任感の強さと悲惨な生い立ちに耐えたつらさから、疑い深く、考え方が慎重だ。
そのことを世間は極悪非道と非難する。
ただの風聞に過ぎないと思っても直家が不当に落とし込められるようで腹立たしい。
直家は祖父・父の死後は、近習と共に貧乏暮らしを続けた。
主従分け隔て無く、ある物を分け合い耐え寝食を忘れて武将として必要なすべてを必死で学び続けた。
こうして結びついた主従の結束は堅く、士気も高く、後にも他家に寝返る者はいなかった。
直家は、忠義で結ばれた家臣団を終生誇った。
浦上氏に仕え始めた頃は、一族郎党と共に直家自ら突撃する戦いばかりだった。
余りの犠牲の多さに、敵に正面からぶつかりあっての戦いを避けるようになった。
諜報戦をしかけ最小限の犠牲で敵将を倒すと決めたのだ。
謀略を駆使し敵に恐怖感を抱かせたり、だまし討ちで敵将を殺す戦法は直家流の生き残り術だ。
一見非道な謀(はかりごと)の真意を理解し、正確な情報を探り伝える家臣が必要だった。
そして、謀略を任せられる腹心の家臣を何より大切にした。
直家は人を見る目が優れ、出自に惑わされず適材適所に登用し活用する。
恩を知り人情の機敏にも通じている。
直家の選択眼にかなった武将は優秀だった。
おふくの方は、直家との初めての対面で誠実な答えに心を打たれた。
二〇歳も年上の直家は、はるかに大人で多くの苦労を重ねた年輪がにじみ出ていた。
それ以来、夢中になった。
あの頃は、勝ち戦で悠々と生きてきたような頼もしさを感じさせる風格があった。
その眼差しは、優しさと真心に満ちていた。
苦労の連続の育ちを感じさせなかった。
結婚後、過去の戦いの話をする時、
「楽な戦いなどなく、もはやこれまでと思うのも度々だった」と笑いながら冗談のように話した。
信じられず、きょとんとしながらつられて笑った。
不思議に感じた。
心の奥底をむやみにさらけ出すことのない、いつも大人だった直家だ。
重苦しい空気に包まれた三浦家で過ごした後に、希望に溢れ大きく将来を見据える直家に出会ったのだ。
過去を乗り越え未来に生きる勇気を得た。
おふくの方は、命を狙われる逃亡生活を経験した。
そして出会った直家に、新しく生まれ変わりたいとの思いを込め、すべてを賭け、思いをぶつけた。
目の前で傷つき倒れる人々を見て、看病もした。
「城を枕に討ち死にする」は亡き夫、貞勝の口癖だった。
おふくの方も「精一杯生きて死ぬ、それでよし」と覚悟した。
でも「生きていたい」との思いがいつもあった。
今は「生きていてよかった」としみじみ思う。
おふくの方の愛に、直家も熱く応え、結婚生活は続いた。
だが、直家は医大に激情に駆られておふくの方を強く抱きしめることは減ってきた。
疲れた身体をただ預けるだけのときもある。
「こうして(おふくの方に)揉みほぐされるのが、何より元気回復の特効薬だ」と言う。
そのまま、すやすやと寝入ってしまったり、疲れて高いびきの時もある。
おふくの方が身体を熱く感じても、寝顔を見ながらそっと寄り添い寝ることが増えていく。
それでも朝陽が射す頃には元気になり、熱く抱きしめられ恍惚の時を過ごすこともある。
直家は「(おふくの方は)素晴らしい。巡り会えてよかった」と抱きしめる。
また「(おふくの方に)ふさわしい男になろうと頑張ったがそろそろ限界かな」とも言う。
時にはしみじみと「母親とは小さいときに別れ継母とは合わなかった。女っ気の少ない暮らしが長くて、気がつけば頭を下げるばかりの女人に囲まれ、会話を楽しむ相手に巡り会わなかった。
近づく女、与えられた女に疑いしか持てない若い頃を過ごした」と残念そうに昔を思い出すようにつぶやく。
女人の身体の不思議さと面白さを理解し楽しんだのは、おふくの方が始めてだった。
「(おふくの方は)全く無防備にしかも大胆にやって来た。あの度胸には驚く。不思議な力に呑み込まれてしまった」と懐かしそうに遠くを見るような目は、奥深く可愛い。
信長の快進撃が続く。
信長の全国平定を実現するため、西方面に向けての総大将となった秀吉は、播磨、姫路を拠点とし、西国への進撃を始めた。
直家の得意とする謀略や諜報は織田信長の大軍団には効果がない。
だが、正攻法で対抗できる相手ではない。
直家はどうすべきかじっくり考える。負けたくないし、負けるわけにはいかない。
一五七七年末、秀吉は、信長から西方面総大将を命じられ、姫路城に入った。
そして備前・美作・播磨の境に位置する要衝、上月城(兵庫県佐用郡佐用町)を奪うと決める。
上月城を西国攻略の拠点と位置づけたのだ。
上月城は直家の勢力下にあった。
城主、赤松(あかまつ)政(まさ)範(のり)(宗家当主、晴政嫡男、義祐のいとこ)と共に宇喜多勢が守っていた。
一五五七年、赤松氏一門、政範の父、政元(赤松晴政の弟)が上月城主になって以来守り続けている。
直家が浦上宗景に成り代わると隠棲する。
直家は、政元嫡男、政範を当主とし、城を守らせる。
政範は、弟達や一族と共に上月城を守る。
秀吉は、毛利氏攻略を念頭に、織田信長の威力を西国に見せつけると上月城を囲んだ。
あまりに多くの軍勢に囲まれ圧倒された中で、赤松一族と宇喜多勢は奮戦むなしく敗れる。
一五七八年一月十日、上月城は、赤松政範らが自害し降伏し、城内に残る者たちの助命を願った。
だが、秀吉は、許さず、無残に殺した。
秀吉に加勢するとはせ参じ、勇敢に戦った尼子氏一族・旧臣に城を預け、姫路城に戻る。
直家は赤松一族家臣への残忍な仕打ちに怒った。
秀吉が引き上げたと知るとすぐに軍勢を引き連れ城の取り戻しに向かう。
直家の攻撃に尼子氏一族は城を放棄して逃げる。
この知らせを聞いた秀吉は再び上月城攻めに大軍で向う。
大軍を前にして、直家は勝てないと城を放棄して戻る。
今度は秀吉も慎重に指揮系統を定めた。
尼子勝久を尼子家当主として迎え、上月城を預け、死守することを命じる。
代償に「尼子氏再興の思いを深く受け止め、必ず実現する。」と約した。
尼子氏嫡流は毛利氏に投降し配下となっている。
ここで、勝久は信長が新たに決めた尼子氏嫡流となる。
尼子勝久は英雄、経久の次男、国久を祖父に持つ。
尼子晴久のまたいとこだ。
尼子旧臣は、勝久を当主とし、はせ参じていたが、信長のお墨付きに、苦労が報われたと感無量だった。
尼子勢は、秀吉の言葉を信じ士気高く、上月城に入り、直家・毛利勢に対峙する。
この知らせに、毛利輝元は怒る。
尼子氏を受け継いだ輝元には、勝久が尼子氏嫡流を名乗るのは許せない。
叔父、吉川元春・小早川隆景に、毛利家総力を挙げて尼子勝久・秀吉を討ち上月城を取り戻すことを命じる。
受けて立つ尼子氏旧臣は、勝久を擁し上月城を守り抜くと一致団結した。
この時、直家は秀吉の人心掌握術、統率力を感心し眺めた。
播磨衆は、秀吉を通じて織田方になっていく。
だが、毛利勢が総力を挙げて、上月城を囲む。
信長勢も秀吉が三万の軍勢を引き連れ救援に向かうが、毛利勢が圧倒的に優勢だ。
秀吉は織田方の意地を見せると策を練る。
だが、秀吉とともに出陣した援軍の織田信忠らが、多勢の毛利氏に勝てる見込みがないと戦う気をなくした。
上月城を守り抜くことを重視せず、取られてもよいと思っているのだ。
信長勢は三万人の軍勢だが、総大将のはずの秀吉の命に従わず、秀吉は直属の一万七千の軍勢しか動かせなかった。
秀吉は「必ず守り抜く」と約束した城に籠もる尼子勢三千の兵を思うと、見捨てる訳にはいかない。
必死で信長に直訴し援軍を求めた軍勢だ。
織田勢が一丸となって戦うよう信長の指示を仰ぐ。
だが、信忠らの意志は固く、信長は冷たく兵を引くよう命じた。
秀吉は泣く泣く上月城支援をあきらめる。
織田勢は引き返すが、しんがりとなり、最後の撤退を始めた秀吉軍に吉川元春・小早川隆景は猛烈な追撃をする。
秀吉は散々に打ちのめされ「運もこれまで」とあきらめたほどだ。
しかし毛利勢は、秀吉に狙いを定めた最後の追撃まではしなかった。
秀吉は、命からがらだったが、無事に逃げ帰った。
直家は、上月城の戦いで秀吉の力を知ってしまった。
以来、信長そして日本全体の動きに関心が移り、おふくの方と共に新しい時代の到来を告げる足音を感じる。
吉川元春が秀吉を討ち果たすと叫んでいた時、直家はおふくの方と「秀吉の勝ちは動かない」と悠々と話していた。
毛利勢は十万の軍勢だと言っても寄せ集めの軍勢だ。
宇喜多軍を始め必死で戦う軍勢はそれほどいない。
秀吉の勝利を確信し、岡山城にいたのだ。
ところが、秀吉が逃げ、毛利勢が勝利したと報を受ける。
病と称して出陣しなかった直家は、おふくの方と顔を見合わせ、大慌てとなる。
急ぎ毛利陣営に祝勝の挨拶に駆けつける。
疑念の目で意地悪く見つめる吉川元春・小早川隆景に心を込めて祝勝の喜びを表す。
戦いの仔細を知ると、上月城は奪われたが、織田方の有利は動かないと確信する。
一五七八年八月六日だった。
翌年、直家は織田信長に味方すると決意し、秀吉に申し出る。
同時に、毛利氏に臣従したままの状態をしばらく続けたいとも頼む。
直家は幾度も同盟を結び、破り、ついに主家浦上氏を倒した武将だ。
誰もが、最も信用できない武将の一人に挙げるほどだ。
当然、信長は信用しない。
だが、秀吉は信じた。
上月城攻めで信長から付けられた援軍は秀吉の指示では動かず、討ち死に寸前まで追い詰められた。
以来、秀吉は自力で中国侵攻をすると決めている。
秀吉の指揮下で戦うと約束する直家との同盟はうれしい。
直家なしには毛利氏と戦えない状況だ。
どうしても同盟を結びたかった。
宇喜多領と毛利領の境は複雑に入り組み、織田色を鮮明にすれば毛利領に取り残される数多くの武将を見殺しにすることになる。
直家の立場がよく理解できた。
一一 小西行長とおふくの方
秀吉は、当分秘密裏に直家と同盟を結ぶことを了解し、粘り強く信長の許しを得るしかないと覚悟を決めた。
直家も毛利勢と真正面からの戦いが待ち受けているのだ。信長の援軍がどこまでか、確信がない。
直家にも秀吉にも難しい交渉が始まる。
そこで、直家が秀吉との交渉役に抜擢したのが、二一歳の小西行長だ。
直家は、父が亡くなった故郷とも言える備前福岡で小西行長と出会う。
この頃、備前福岡は中国地方随一の商業都市だった。
黒田官兵衛の父が生まれた地でもある。
官兵衛は、故郷の繁栄を自らの領地でも実現したいと福岡藩と名付けたほど、活気のある町だった。
吉井川を利用して近隣の豊かな産物が集まる物流の拠点。
「備前焼」や「備前刀」の産地。
山陽道は整備されており陸上交通も盛んだ。
瀬戸内海を経由する取引での賑わいが、飛躍的に伸びていた。
備前福岡の豪商、阿部善定が結び付けた。
直家の継母の父、阿部善定は物流を取り仕切る商人であり、莫大な利益を上げていた。
阿部本家は宇喜多家に仕える武士であり、阿部善定は直家を経済的に支援し続けた。
行長(1558-1600)は堺(大阪府)で薬種商を営む小西隆佐の次男に生まれる。
小西氏は平将門を倒した俵藤太(藤原秀郷)を始祖としている。
源氏・平氏と並ぶ名門の武門の棟梁が始まりだ。
時を経て、隆佐は備前長船で商人となり、利益の大きい物流に関わり、莫大な利益を生み出す南蛮貿易を始めた。
堺に店を設け商いの幅を広げ、次第に堺が本店となる。
小西(こにし)隆(りゅう)佐(さ)は、南蛮貿易(スペイン・ポルトガルとの交易)の魅力に取り付かれていく。
そして、貿易を円滑に行う為にキリスト教に理解を示し、自らもキリシタンになる。
信長も南蛮貿易を奨励しており、信長・秀吉に近づき、戦いでの後方支援部隊となる。
戦さには武器、食料、衣類から貨幣まで種々の品が必要で商人の関わる分野は多い。
取引を円滑に行いたい思いもあり、長男、如(じょ)清(せい)を信長に仕えさせた。
次男、行長は、長年懇意にしていた阿部家を通じて宇喜多家に仕えさせようと預けた。
阿部善定は商人であり能力を試すため順を踏みたいと、まず小西行長を一五七三年、阿部家の仲立ちで備前福岡の呉服商、魚屋(納屋)九郎右衛門に養子に入れた。
魚屋(納屋)は宇喜多家に出入する商人であり、岡山城下西大川に店を持っていた。
行長の才は素晴らしく、魚屋(納屋)の分家を岡山城下に興させ、自信を持って、直家に推挙する。
行長は、魚屋(納屋)九郎右衛門に連れられ、宇喜多家に出入りし、直家に気に入られ、おふくの方に仕える。
まずは、堺と岡山を結び、宇喜多家に必要な品々を調達する。
おふくの方のために、京・大坂の最先端の衣装・香料・化粧法を持ち込む。
容姫・秀家の成長に合わせた着物を用意するのも行長だ。
おふくの方の美意識は抜群で、行長の持ち込む洗練された新しい品々を自由自在に操りますます美貌を磨く。
容姫・秀家にも美意識を高める芸術を学ばせ、センスを磨かせた。
行長は長身の美男子であり逞しい武将としての資質も持つ。
算術は得意で頭の回転もすばらしく早い。
おふくの方は、行長の思いを汲み、秀家に仕えさせたいと直家に頼む。
直家ももちろん賛成だ。
京・大坂に関する知識、さわやかで説得力のある弁舌に期待し備前福岡・岡山と京・大坂を結ぶ輸送に携わる武士とした。
一五七九年初めから、直家は秀吉との同盟交渉を始めた。
重臣、足立太郎左衛門を特使とし、副使に兄、如(じょ)清(せい)が信長に仕えていることで小西行長二一歳を抜擢する。
行長はよく働き、何度も秀吉と直家の間を行き来し、交渉を煮詰めていく。
この働きに秀吉も目を留め、後には秀吉に望まれ仕える事になる。
秀吉家臣となると、優れた経済感覚や卓越した外交術を活かし、秀吉の命令をうまくこなし、重用される。
舟奉行として水軍を率い食料輸送、補給にも才能を発揮する。
一五七九年一二月、苦労のかいあり、秀吉が信長から宇喜多家安堵の了解を得る。
行長は初めての大仕事を成し遂げた。
直家は、信長の朱印を受け取るために、自ら姫路城に出向き秀吉に改めて臣従を申し出る。
信長が一五七三年、浦上宗景に備前・美作を与え怒りに燃えた。
以来その怒りをばねに、六年をかけて、浦上宗景と戦い滅ぼした。
紆余曲折があり、様々なことが思い浮かぶが、直家が見込んだ秀吉の元に参上し念願かなったと感極まる。
今まで秘密裏の交渉だったが、この後、織田色を鮮明にしていく。
毛利家は以前から、直家の動向を疑っておりぎくしゃくした関係が続いていた。
直家は、毛利勢との戦いを思うと、気が滅入るが、覚悟を決める。
秀吉の支えを信じ、受けて立つ。
裏切りに怒る毛利輝元は、吉川元春・小早川隆景が直接率いる毛利の主力部隊を投じる。
直家殲滅を声高に命じる。
毛利勢が押し寄せてくる。
秀吉の援軍はあっても、宇喜多勢の被害は大きい。
一五八一年、直家は陣中で病に倒れる。
宇喜多勢には苦しく耐える戦いが続く。
だが、信長の全国平定は順調に進んでおり、天下人となるのは衆目の一致するところで、秀吉の中国攻めも有利に展開し、毛利勢は追い詰められていた。
小早川隆景勢が戦意を失なっており、戦いぶりも変わっていく。
それでも、戦いは続き、宇喜多勢が実感するのは、被害の大きい惨い戦いだけだ。
直家は、世の動きを見通しており、病床にありながらも一息つく。
「もう少し頑張るように。近いうちに必ず毛利家を倒す」と家中の士気を高める。
死期を感じた直家は、宇喜多家を万全にし秀家に引く継ぐために、最後の粛正を行う。
標的は直家に従う国人衆では最大の所領を持つ妹婿、伊賀久隆だ。
松田氏追い落としには大きな貢献をしたが、その後、松田氏に替わったような権勢ぶりが目に余っていた。
居城、虎倉城(岡山市御津虎倉)は毛利氏の領地と接する最前線だ。
厳しい戦いが続きよく毛利勢を防いだ。
だが、小早川隆景の調略が続き、久隆は傾いているとの確かな情報を得た。
ここで、久隆は突然死する。
直家は残った一族、家中に毛利氏への裏切りの証拠があると追求し居城の引き渡しを命じる。
後継の嫡男、伊賀家久は父の死を疑い、城の引き渡しを拒否し籠城する。
しかし一歩も引くことのない直家の厳しい姿勢に話し合いの余地はなかった。
伊賀家を守り再起を期すと、小早川隆景を頼り逃げ、去った。
おふくの方も伊賀氏と長い付き合いだ。
宇喜多一門として相応に付き合った。
最初の出会いで「直家殿に(側室に)差し出す。いい土産が出来た」と言ったと聞き、その後の態度も横柄で、印象は悪い。
直家配下では最大級の所領で岡山城近くに領地があると威張り、おふくの方が今日あるのも自分の力だと思っている顔だった。
信頼できる家臣とは思えず、岡山城を狙い裏切る可能性を感じ、空恐ろしかった。
毛利家と宇喜多家を天秤にかけて、毛利家に傾いたのは間違いなく、直家の決断は正しい。
伊賀氏を追放し胸をなでおろした。
三浦家の行く末についても、直家は最大限、おふくの方と決めたことを実行した。
勝山城は貞広が毛利氏に引き渡して以来、毛利氏が支配している。
そこで、秀吉との和議交渉の中で、牧国信を送り「和議成立後、桃寿丸を秀吉様の元に送ります。勝山城を取り戻した時、三浦家を再興し桃寿丸殿を城主とする事を確約して欲しい」と願わせた。
秀吉も了承する。
おふくの方は、この時の秀吉の対応に大きな器を感じ、直家に感謝し、役目を果たし肩の荷を下ろす。
直家が床につくことが増えて以来、おふくの方は献身的に看病を続けた。
出来る限り侍女の手に任せず、直家の食事を用意し、少しでも多く食べるよう手伝い、自ら薬も飲ませた。
着物の着替えも手伝い側を離れない。
そして二人で、中庭の季節の移り変わりを愛でつつ、暑さ寒さを共に感じた。
おふくの方は看護が好きで薬草にも詳しい。
勝山城に居る時から戦傷者の手当をしており、城内で薬草を育て緊急の時使った。
湯原温泉で温泉の効用もよく知っているし、小西行長からも薬の調合法を学んでいる。
直家の身体のすべてを一番よく知るおふくの方が看病するのは、当然であり充実した時間だ。
ただ回復の兆しを感じられないのは悲しい。
秀家が元服するまでは生きていて欲しいと寝顔に語りかけることもしばしばだ。
直家は限界を感じていた。
秀吉は八歳年下であり、一七歳も若い黒田官兵衛(父、興家の妹の孫)が側に控えているのを見ている。
黒田官兵衛とは長い付き合いで、敵味方にもなったが、頭の良さをよく知っている。
毛利輝元は二四歳も年下だ。
目標を定め謀略を駆使し勝つことが得意の攻撃型の直家には、守りは難しい。
次になすべきことが見つからず、生きる意欲が落ちていた。
おふくの方との夫婦生活も急激に淡泊になった。
おふくの方の身体の隅々までよく知る直家は優しく愛撫は出来ても、それ以上進まない。
おふくの方も看病に明け暮れ身体が熱く燃えるのも忘れた。
直家の顔は、美しく着飾ったおふくの方を見るとほころび、食欲も増す。
その笑顔が見たくて、小西行長への注文を増やした。
豪華な衣装に身を包んだ、慈愛に満ちたおふくの方のまなざしが直家の一番の薬だったが、それもしばらくでしかなかった。
直家は「秀吉殿に中国攻めの拠点として、岡山城を提供するように」と言い残し一五八一年三月、五二歳で、亡くなる。
おふくの方との一四年の暮らしを振り返り、「均整のとれた姿態、男扱いのうまさ、衰えない美貌、備前・美作を知り尽くした博学ぶり。まれに見る女だ」と手を取りしみじみ言った。
やせ細った身体となってしまったが、おふくの方を見つめ、うなづきながら、はっきりと出た言葉だ。
行長が京・大坂から持ち込んだ、手の込んだ染め・刺繍で創られた小袖や帯、飾り物や化粧法で、ますます洗練されておふくの方の美しさに磨きが掛かる。
その上、南蛮からの絹・香料・毛織物は妖しげな美しさも加える。
時代を先取りしたような桃山文化の派手な明るさがおふくの方によく似合った。
「秀吉殿もきっと気に入るだろう。宇喜多家のために一番良いと思う方法で生き抜くように」が最後の言葉だ。
一二 おふくの方、三度目の結婚
秀吉が岡山城に入城するまで、直家の死を伏せることになる。
直家の死を公表すれば、宇喜多勢が士気をなくし、毛利勢の勢いが増すというのだ。
信長の先兵となり必死の戦いを繰り返している宇喜多勢の死傷者をこれ以上増やしたくない。
秀吉の援軍が来れば、毛利勢を追い詰めることが出来、勝利は間違いない。
それまで時間稼ぎすることは、直家の遺志であり、おふくの方も了解だ。
信長・秀吉を後ろ盾とし九歳の秀家が宇喜多家を継ぐために、信長・秀吉の了解を得なければならない。
良い形で秀吉を迎えたい。
秀吉が現れるまで、直家の弟、春家・忠家が宇喜多勢を率いる。
宇喜多勢は、いつもと変わりなく、結束は強くよく戦った。
直家には春家・忠家と二人の弟が居たが、七歳以上年が離れており、恩人、阿部氏の娘が母であり、共に育ったわけではない。
阿部善定は商人として立場をわきまえ、生母も直家に対し控えめだった。
それでも、継母とはどこかなじめず、共に過ごした時は短い。
春家・忠家を弟として認めたが、重臣として扱い、主従であるとわきまえさせた。
直家と弟たちでは明らかに生まれに差があった。
弟たちはまぎれもない宇喜多家嫡流の御曹司、直家を恐れた。
直家が亡くなってほっとした。
おふくの方と巡り会う前、直家は、春家の子、基家(1562-1582)を養子とした。
姫しか生まれなかったため、後継の含みを持たせて養子としたのだ。
この頃から、基家の父として春家を重く用い、直家の名代として、対外交渉をおこなったり、大将となり戦うこともあった。
おふくの方に秀家が生まれ、基家は嫡男とはならなかった。
直家の死の一年後、一五八二年三月、毛利氏との戦いで戦死。
一五八二年四月七日、秀吉は、二万の軍勢を率い、毛利氏に勝利し、鉄槌を下すと出陣した。
まず、毛利氏方、備中高松城(岡山県岡山市北区高松)を攻め落とすのだ。
ここを落とせば、毛利氏の本拠、安芸広島まで攻め込める。
毛利氏も備中高松城を最後の砦とし、守り抜く決意で、総勢四万の軍勢を集め、出陣していた。
いよいよ、決着をつける時が来たのだ。
水面下で話し合いは進んでおり、小早川隆景は和議を結ぶ手はずを整えていた。
秀吉は、信長の参陣を願い、華々しい勝利の中で信長を迎え、了解を得て和議を結ぶつもりだ。
岡山に入ると宇喜多勢一万と合流した。
だが、三万の軍勢では心もとなく、信長の強さを見せつけたいと援軍を求めた。
信長から明智光秀の軍勢を送るとの指示を受け、決戦の場に相応しい戦いになると気合が入った。
秀吉が居城としていた姫路城から備中高松城まで一〇〇㎞もない。
三日もあれば行ける距離だ。
岡山城は備中高松城の手前一二㎞の位置にあった。
そこで、秀吉は、ゆっくりと周辺の状況を見、臣従した武将に対面することになっていた。
岡山城に入った。
待っていた重臣一同に恭しく迎えられると、余裕の表情で接待を受ける。
同盟軍として最前線で戦い続け、疲労が激しい宇喜多勢を慰労するための寄城だった。
秀吉四五歳、にこやかに自信に満ちて、何の迷いもなく岡山城で直家が座った位置に座る。
そして「もはや毛利輝元は恐れるに足りない。追い詰め、滅ぼすのは時間の問題だ。今までよく戦ってくれた」と重臣一人一人の手を取って褒めた。
ここで、絵から抜け出たような衣装に身を包んだ美形のおふくの方と容姫・秀家が現れる。
秀吉は目を見開き、おふくの方らを手招きしすぐ側に座らせる。
おふくの方は広間の雰囲気が変わったと、敏感に感じる。
家中は、戦いが続き消耗し重苦しい雰囲気があり心痛めていたが、今は、明るく希望に満ちていた。
秀吉の柔和な顔が、皆を見渡すと、つられたように皆の顔も優しくなる。
そして飛び出した威勢の良い言葉に、つられるように元気を取り戻したのだ。
秀吉は思ったより小柄で顔の作りも小さいが、目・耳・口など五感の動きが素早く敏捷だ。
宇喜多家の情報はすべて頭に入っおり、重臣一人ひとりと長い付き合いがあったかのように談笑した。
秀吉は、家中に明るい光を差し込んだ。
おふくの方も自然に頭を下げ、歓迎の口上を述べた。
ここで秀吉はすべて見通すように「直家殿は良き後継ぎを残した。皆も直家殿と変わらぬ忠誠を尽くすように」とはっきり宣言した。
おふくの方は思わず顔を赤らめ頭を下げる。
秀吉は並の武将ではなかった。
気さくに話しながら相手の思いを鋭く見抜く。
回答をずばり言うが嫌味なくどっしりと威厳がある。
心憎い気配りで心を掴む術は見事だった。
おふくの方には頼るべき実家がない。
直家亡き今、自らの力で宇喜多家に居場所を作らなくてはならないと緊張しながら真剣な思いで秀吉に対面した。
秀吉は「宇喜多家を守る。安心すれば良い」と思いを見透かしたように話した。
おふくの方の目が潤む。
備中高松城攻めの策は決まり準備が進んでおり、出来るまでゆっくりと、祝宴を楽しむつもりだ。
大勝負の戦いを前にして緊張感もある秀吉だったが、さりげなく、岡山城本丸屋敷に泊まるという。
おふくの方は秀吉の言わんとしたことを理解し、頷いた。
秀吉の話しぶりは信長の第一の臣としての自信に満ちていた。
「毛利家を従え、次は九州を平定する」と共に戦えば宇喜多家は万々歳だと手振り身振り面白そうに話す。
明るく夢のある秀吉の語りに皆が賛同し、勇気を奮い起こす。
宇喜多家中が久しぶりに笑いに包まれる。
信長への臣従の証に秀吉に差し出される西国武将の姫は数知れないと聞いていた。
姫路城内には信長の姪、姫路殿を含め多くの女人が側近く仕えている。
直家から秀吉は並外れた武将だと聞いていたが、目の前にして確認できた。
それでも秀吉は信長の家臣だとの思いは捨てきれない。
宇喜多家は岡山藩五四万石を治める大大名だ。
その宇喜田家当主の母、おふくの方が秀吉の来るのを待ち、その指示に従わなければならないのは我慢できない思いだった。
だが、秀吉を間近に見て直家の人を見抜く目を改めて知る。
自然に直家に成り代わったように、秀家の後見人となり、家中への心配りも完璧だ。
おふくの方も自然の流れに身を任せるしかないと度胸が据わる。
覚悟を決めると、すぐ動き始める。
秀吉の好みはあらかじめ調べてある。
好みの香を焚きしめ、絹の襦袢に薄物を羽織り、寝化粧も念入りにして待つ。
秀吉は、警備の近習を引き連れて現れると予想していた。
ところが、気軽に部屋に入ってきた。
供も気取りのない姿で、おふくの方を検査するような者は誰もいない。
この大胆さ、おふくの方を労わり守ろうとする姿に心打たれる。
秀吉の非凡な才能を見せ付けられた。
秀吉は妻、ねねとの夫婦生活に厭きて長浜城には、ほとんど帰らないと聞く。
おふくの方はそのねねより二歳若いが、年齢の近い三三歳だ。
年齢は隠せない。
秀吉の愛を確実にし、子種を宿すには年を取りすぎている。
このままでは宇喜多直家の妻を夜伽にし、宇喜多家を配下にしたと、皆に示すだけで終わりかねない。
それでは直家とおふくの方の名誉は守れない。
どうすればよいのか頭の中はめまぐるしく動き、動悸が激しくなる。
秀吉が席に着き、二人だけの酒宴が始まる。
おふくの方も年齢を重ねている、心中をさらけ出すことはない。
余裕の表情で宇喜多家重臣を家族のように、それぞれの特徴を、親しみを込めて話す。
三浦家旧臣、牧氏・福島氏・船津氏・長力氏から始まり宇喜多家の長船氏・岡氏・戸川氏と蕩々(とうとう)と。
宇喜多家がどれほどの犠牲を払い秀吉に忠誠を尽くしたかをさりげなく。
「(宇喜多勢が秀吉に従えば)秀吉様のなくてはならない戦力となります」と胸を張る。
秀吉はうんうんと大げさに同意しながら聞いた。
そして二人は結ばれる。
それからの秀吉は、生き返ったように、矢継ぎ早に指示を出し、毛利氏攻めの最終段階を華やかに飾ると張り切った。
おふくの方のもとへ、供もつれず、毎夜訪れる。
緊張の糸がほどけたおふくの方も、屈託なく話す。
目を輝かせ瀬戸内の自然のすばらしさ、食べ物のおいしさを自慢する。
続いては愛する亡き夫直家の故郷、備前福岡周辺の思い出話だ。
花を生け、茶席をもうけ茶を味わう。
道具類は備前焼が一番だと自信たっぷりに話す。
お茶の味・酒の味・料理の味をおいしく引き立て、花を長持ちさせる魔法の器であり、使い込むほどに味わい深く艶を増すのが備前焼だ。
内部にある微細な気孔によって生まれる通気性のたまものだ。
備前焼は備前(びぜん)伊部(いんべ)が中心地。
伊部(いんべ)は、段々状に登り窯が乱立し壮観な景色だ。
鉄分を含んで粘り気のある山土と田土(干(ひ)寄(よ)せ)を配合した備前の土を使うだけで他には何も使わない。
土は二年以上寝かせ、不純物をなじませ、粘土にする。
その後、乾燥させてから、かなづちで粉砕し、水に入れてどろどろの土とする。
水抜き・自然乾燥の後、よく練る。
次に、ろくろか手作りで形を作り整える。
こうして、窯に入れ、窯焚きする。
まず、赤松の割り木を少量づつ入れ五日間、八百度で焚く。
次に四日間、大量に入れ温度を上げ高温、千百度で焚き続ける。
さらに続けて四日間ほど千二百度まで温度を上げ保ちながら焚く。
密閉し釜が常温に戻るまでじっくり待つ。
過酷な作業場で、慎重に根気よく、窯の状態を見守らなければならない神経の使う作業だ。
すると、一つとして同じ模様にならない赤みの強い器が出来る。
窯(よう)変(へん)はいろいろだ。
灰に埋もれて直接火が当たらず生まれた渋い灰色の桟(さん)切(きり)。
高温で表面が溶けたり、降りかかった灰が付着したりで釉薬になり、流れたり振りかけたと見える胡麻(ごま)。
炎を遮断して器と器の間がくっつかないように置く稲わらが模様となり、対比がおもしろい緋襷(ひたすき)。
作品の上に小さな作品を置き、炎を当てないことで生じる模様が面白い牡丹餅(ぼたもち)。
窯を密閉し酸素不足にするために薪を過剰にくべると、青みを帯びる青備前。
などなど、おふくの方は素朴さのなかに独特の模様が生まれた自然美が特徴の備前焼の茶碗を手に取り秀吉に見せる。
愛おしそうに長い指と手のひらで包み込みながら。
そして、直家愛用の備前刀、長船(おさふね)の自慢話を話し出す。
「備前長船」は名刀として名高く、鉄の持つ美しさを最大限生かした芸術品だ。
備前福岡に隣接する長船で「名刀長船」が作られる。
吉井川上流で採れる砂鉄が、高瀬舟で川下になる長船(おさふね)に運ばれてくる。
その砂鉄(赤目砂鉄に真砂鉄を加える)からタタラ(昔の製鉄法)により玉鋼(たまはがね)を作る。
そして、刀鍛冶により赤く熱く鍛え上げ「名刀長船」となるのだ。
炉を作る土・強い火力を生むクヌギ・赤松が中国山地に自生し豊富にあり、自然の恵みで生まれていく。
砂鉄・赤松・クヌギなど必要資源の集積地、長船(おさふね)に名刀匠が集まり、全国一の刀剣産地となった。
今に残る国宝・重文の刀の七割は備前刀だ。
直家も「名刀長船」の洗練された姿、鍛えられた地鉄、美しい刃文に魅せられこだわり、事細かく注文を付けた。
何を望んでも思い通りに仕上がるのが「名刀長船」であり、切れ味は抜群だ。
眠そうな顔になった秀吉を見ておふくの方は慌てて故郷、勝山の話を始める。
大好きな故郷の思い出はたくさんあるが、秀吉が感動するとは思えず別の機会にするとして、湯原温泉の露天混浴の話を始める。
秀吉の目が少し開いた。
湯原温泉は何も遮る物はないただの川だ。
それが、山々木々に囲まれた自然の中で男女が集う混浴温泉となる。
自然の恵みは老若男女すべてに与えられ、皆が手ぬぐい一枚で湯に浸かり疲れた身体を湯治で回復させる。
遠い幼子の思い出だが鮮烈な印象は目に焼き付いている。
わき上がる大量の湯の前では裸が自然だった。
何の違和感もない。
おふくの方に付き従う侍女達は浴衣を着ていたが濡れて身体に吸い付き身体の線が丸見えで、裸と変わらないと笑ったこと。
源泉近くに行くと、熱くて見る見る身体が桃色に変わるのを楽しんだこと。
おふくの方母子の休憩地はきちんと作られるが、侍女の着替える場が少なく急ごしらえで目隠しがあるだけだったこと。
近習も近隣の人々も興味津々だったこと。
おふくの方は、すぐに素裸になり、はしゃいで駆け回ったこと。などなどを懐かしそうに話した。
こうして日が経ち、秀吉は、五月七日、備中高松城に本陣を敷き、移った。
湿地帯にある城であり、水攻めで落城させると決め、すべての準備が整ったのだ。
秀吉の到着を待って、工事に入るべく、毛利勢の目を欺きながら、周到に用意していた。
秀吉の威勢の良い掛け声が響き、突貫での堤防工事が始まる。
信長を喜ばすよう金に糸目をつけず農民・資材などあらん限りを尽くして昼夜兼行で湖に浮かぶ孤島、水城が作られる。
ほぼ城を囲む堤防が出来た頃、梅雨入りとなり、雨が降り、見る見る思い描いた孤島になった。
運が良かった。
城中も毛利勢も、なすすべがなく、秀吉の思いのままに堤防が築かれるのを見て居るしかなかった。
毛利家当主、輝元が到着し、本陣を構えた六月一一日の前日、完成した。
この間、秀吉は備中高松城で陣頭指揮を執りながら、岡山城を行き来する。
岡山城のおふくの方の元に嬉々として通う、忙しい日々だ。
おふくの方もいつ戻るかわからない秀吉に合わさなくてはならず、落ち着かないがうれしい日々だ。
岡山城に戻れば秀家・容姫を呼び可愛がる。
その様子が実の親子のようで、胸が熱くなる。
秀吉には、おふくの方の側で過ごす時間が至福のときだ。
おふくの方によく似た秀家に特別の愛情を抱き可愛くてならない。
愛娘、豪姫と結婚させれば似合いだと思う。
おふくの方は、にっこりと秀吉に横になるよう勧める。
直家の看護を長く続けて身体を揉みほぐすのが得意だった。
秀吉の肩腰と引き締まった身体を直家と思い比べながら、強く弱く念入りに揉む。
すぐに秀吉はグウグウ言い出し、寝入ってしまう。
ほっとしながらも、熱くなった我が身を持て余し、添い寝する。
夢の中で直家に抱かれている感覚で目覚めると、身体の上には秀吉がいた。
待ち望んでいた快感に身を委ねる。
それでも「秀家が誇れる宇喜多家とし、父を引き継ぐ名君とする。役目はこれからだ」と頭は冴えている。
身体は愛の営みに疲れ、いつのまにか眠ってしまう。
陽が高くなりまぶしさを感じ、目覚めると秀吉の手がおふくの方の身体を愛おしんでいるのを感じる。
秀吉はおふくの方の魅力に取り込まれ、熱愛していた。
おふくの方も自然に秀吉への愛撫を始める。
裸は気にならず、肌襦袢の前がはだけて、明るい日差しの中で、裸身がまぶしく輝くのもそのままにした。
優しく激しく我が子を抱きしめるように秀吉の身体に愛を込める。
秀吉は驚いたようにおふくの方の裸身を見つめる。
薄桃色に染まった身体を誇らしげに見せながら、おふくの方はにっこり微笑む。
一日中、おふくの方の側を離れない日もあった。
秀吉は「今まで多くの女人と寝たが男を奮い立たせながら自然に受け入れる(おふくの方のような)女人は初めてだ。」と感心する。
おふくの方は秀吉の正直な言葉を心地よく聞く。
「疲れて早く寝たい時もある。短時間で事を済ませたいとき、人形のように寝ている相手では時間ばかり掛かり焦りおもしろくない。征服欲を満たす喜びは若い時だけ、今は楽しみたいと選ぶが思うようにいかない。育ちの良さの漂う品の良さは好きだが人形は嫌いだ」と。
おふくの方は、貞勝も直家も魅了した。
二人共が「観音菩薩のような神々しさに包まれている気がする。よく眠れる」とおふくの方の側で寝るのを喜んだ。
そして同じ事を秀吉も言った。
初めておふくの方と夜を共にした時、秀吉なりに緊張していたのを感じている。
その緊張した心がほぐされ、癒されて満足そうな横顔に変わったのがうれしい。
盛りを過ぎた女でしかないと思っていたが、不安は一掃された。
秀吉はおふくの方の虜になった。
岡山到着から布陣するまで、堤防が出来上がるまで、輝元を目の前にして威張り構えた時、その三段階を経て、いよいよ時が来る。
四月一一日の出会いから、六月二六日の中国大返しの日まで、二ヶ月半の蜜月だった。
一三 信長の死
逢瀬は短く終わる。
六月二一日、本能寺の変が起き信長が亡くなった。
秀吉は、毛利軍と対峙中だった。
動転し信じられなかったが、確認すると、和議を急ぎまとめた。
すぐに陣払いを始め、後に中国大返しと言われる大撤収作戦に入る。
宇喜多家にも信長の死の報が入った。
すると、重臣の中にも、宇喜多家も明智光秀に加勢して秀吉を討つべきだとの意見も出る。
おふくの方も一瞬迷うが心を決し、直家の妻として家中にきっぱりと「毛利家や光秀と宇喜多家との同盟はあり得ない」と退ける。
「家中一団となって秀吉殿を支え、宇喜多家の力を見せ付けるべきです。それが直家の遺訓であり守るべきことです」と家中をまとめる。
岡利勝、戸川秀安が直ぐに動き、藩内の宿場宿場に馬と食料を準備した。
秀吉軍と連携を取る小西行長に、秀吉勢の通過時間に合わせて引き渡すのだ。
膨大な量が必要だった。
秀吉勢二万の大軍が短期間のうちに京に戻れたのは宇喜多家の補給の力が大だ。
秀吉は、光秀を討ち果たした。
宇喜多勢は、信長・秀吉に代わり、毛利勢の監視役を任され、明智光秀攻めには加わらなかった。
備中高松城の戦いは和議が成立したが、毛利勢が反撃する可能性も大だったからだ。
だが、輝元は動かなかった。
宇喜多勢には良い休養となる。
おふくの方も、祈る日々が続いたが、勝利の報が伝わると、ひと時の平和に気分も弾む。
秀吉からの指示を待つだけで、宇喜多勢には久しぶりに戦いのない日々となる。
まもなく秀吉直々の文が届く。
簡単な文だが手に取り、秀吉の妻だった夢の日々は終わったと我に返る。
秀家は秀吉から天下太平を願う壮大な夢を聞き心酔し見上げていた。
まだ一〇歳だが秀吉の影響を受け藩主としての自覚が出来た。
父を亡くし寂しい母を力づけるように「父の後を立派に継いでみせる」と強がりを言う。
母を励ます優しい子であり、母によく似た整った顔は愛くるしい。
「秀吉殿は遠くに去った。二度と会うことはない」と頭を切り換える。
宇喜多春家・忠家に秀家の後見を頼む。
「秀家が岡山藩主としての役目を立派に果たすことしか、宇喜多家の生き残りはないのです。よろしくお願いします」と念を押す。
また、秀家に、武芸・軍学を学ばせる。
兄、春家と甥、基家が、直家の代理を務めた時もあった。
だが、基家が亡くなると、春家は力をなくしおとなしくなり、忠家に秀家を任せることが増える。
忠家は、軍事でも力を発揮しており、秀家後見として、陽の当たるところに出て、宇喜多家を率いることになった。
一五七五年の上月城の戦いで直家が戦う気がなかったこともあり、総大将を任された。
以後、直家が病に伏せることがあり、宇喜多家を率い、戦功を挙げていた。
秀家の後見として宇喜多勢を率いるのは望むところだった。
秀吉にも認められた。
おふくの方は秀家に、直家を支えた重臣との時間を大切にするよう諭すがまだ幼すぎた。
その間、信長後継者への道を進む秀吉から自信に満ちた便りが届く。
「秀家に会えないのが寂しい」と綿々とつづられ有難く心強い。
また「有馬の湯に行った。温泉はとても快適だ。疲れがとれる」とも書かれていた。
有馬温泉での湯治を楽しんでいるらしい。
秀吉がおふくの方の弾力性のある肌を褒めた時「湯原温泉のおかげです」と微笑んで以来、秀吉は温泉に興味を持った。
秀吉と共に過ごしたときから一年が過ぎ、懐かしい思い出となっていた。
おふくの方は幼君、秀家の母として重責を担い藩政に携わっている。
夫の墓前に「秀吉殿が天下を取りました。秀家を我が息子と呼んで可愛がってくれています。宇喜多家は平和で安泰です」と報告する。
心地よい幸せを噛みしめ、母として生きる喜びは他に代え難いと感じる。
一四 おふくの方、大坂の暮らし
その頃、秀吉は天下普請で天下人の居城、大坂城を築いていた。
あらかた形が出来ると、岡山藩宇喜多家に大坂城下に屋敷地を与える。
おふくの方は、すぐに宇喜多屋敷の建築を始める。
完成次第、秀家・おふくの方は移り住むことになった。
秀吉が早く早くと急がせるため完成間近の備前大坂屋敷に秀家が一足は早く移る。
一五八四年、秀家一二歳で大坂城への入城となる。
「秀吉様から以前と同じように可愛がられ、大阪城で過ごし側に居る時も多い」と便りがある。
秀家が大坂に出立つする前、秀吉は毛利家と宇喜多家との領地の境界を決めた。
おふくの方の希望が尊重され、毛利勢に押さえられていた勝山城は宇喜多家に戻る。
やっと三浦家再興の夢が実現したとおふくの方は天にも昇る幸せをかみしめていた。
一五八〇年、信長と和議を結んだ時、桃寿丸を信長への人質として京に送った。
秀家の大坂城入りと入れ替わりに勝山城に戻ることになり、嬉しくてうれしくて、勝山城入りの準備をしつつ待つ。
ところが、秀家が大坂城入りしてまもなく、京に大地震が起き、屋敷が倒壊し下敷きとなった桃寿丸は、亡くなった。
気を失いそうになりながらも、桃寿丸に養子を迎え、引き継がせたいと秀吉に願った。
だが、認められなかった。
秀家に直家の所領を安堵し、三浦領も引き継がせ、岡山藩五七万四千石として与え、自らの養子とした。
勝山城主は、腹心、牧国信がなる。
三浦一族であり、直家の妹婿であり秀吉の心遣いはわかる。
だが、三浦家が断絶したことは納得できない。
「今まで生きた意味が失われた」と涙する。
桃寿丸の三浦家再興が生きる支えだった。
なぜ死んだのか、どうして三浦家の養子が認められないのか、自問自答し虚脱状態になった。
秀吉は「宇喜多家の恩は忘れない」と言うが三浦家再興には消極的だった。
桃寿丸に武将としての能力を認めていなかったこともある。
そこで、桃寿丸家老でもある牧国信が引き継ぐのが相応しいと、決めたのだ。
おふくの方は病に伏した。
秀吉への抗議の印でもある。
秀吉は病と聞くと大げさに驚き心配した。
「湯原温泉で療養するように。回復すれば大坂城内に屋敷を用意しているので来るように」と優しい知らせが来る。
秀家は雄々しく成長しているようだ。
それで十分で、役目を果たしたと思う。
三浦家に申し訳なく、出家しようと思い詰める。
亡き夫、貞勝の墓前に桃寿丸の報告をしなければならないと故郷に帰る。
勝山城主、牧国信が湯原温泉に立派な湯屋を建て待っていた。
牧国信との主従関係は長く深く、今でも再々会っている。
牧国信には、かけがえのない主君だ。
三浦家のためにも宇喜多家のためにも回復して欲しいと、至れり尽くせりで英気を養えるよう手配していた。
三〇年前に戻り誰にも邪魔されず一人露天風呂に入る。
ゆっくり三六歳の裸身を見つめ、年齢を重ねた事を実感する。
以前のように全身が薄桃色に染まることはなく、熱い湯が当たると赤くなるだけだ。
一人微笑み、皆の心遣いに感謝する。
厳しい秀吉の目は確かだ。
桃寿丸には勝山城主としての役目は果たすのは難しかったと思う。
それでも可哀想でたまらず、母に看取られることなく亡くなった心細さを思うと涙があふれる。
冷静に過去を振り返る。
三浦家嫡流は、貞勝ではなく、兄、貞広だった。
貞広は、尼子旧臣と共に信長に与して戦ったらしいが、連絡が取れなくなった。
貞広かその子が生きていれば迎えたいと探したが、いまだ生死はわからない。
三浦家は、秀家の元、宇喜多家家臣として生きるべきと教えているのかもしれない。
牧国信は、宇喜多家一門重臣として残った。
三浦旧臣を必ず守ると言っている。
これで良いと思い始める。
湯原温泉にしばらく逗留し、湯治に来るたくましい若者を見続けた。
日を追うにつれ、短い命は桃寿丸の定めだと思えてくる。
桃寿丸の死を受け入れ、牧国信と共に宇喜多家のために働くのが、貞勝の遺志であり直家の遺志なのだ。
何度も何度も泣きながらつぶやく。
三浦氏次男、貞勝と結婚したのだ。
とても愛され幸せだったが、次男の妻であることをわきまえるべきだったのかとも思う。
貞勝の遺言を胸に重く秘めて、頑張りすぎたのかもしれない。
直家との一五年の歳月もゆっくりと思い返す。
暖かく強い腕の中で眠った満ち足りた日々を思うと恥ずかしく顔が赤らむが、昔の思い出となった。
秀吉との二ヶ月半は喜びもあったが神経を使い疲れた。
この間は、間違いなく秀吉に他に女はなくおふくの方が唯一の妻だった。
今の天下人秀吉を短期間ではあったが虜にした、それだけで十分だ。
三人三様の武将の姿を思い浮かべる。
懐かしく心浮きたち、素晴らしい思い出だが、もう過去の思い出と胸の奥にしまう。
「身体を武器に秀吉を誘い込み、宇喜多家を守った。と誹謗中傷されるのは終わりにします」と過去に一区切りを就けた。
湯原温泉は悲しい思い出を洗い流し、生きる気力を与えてくれる。
直家の妻であり、秀家の母として生きると踏ん切りをつける。
故郷の円融寺 (岡山県真庭市)に入り、出家する。
直家の菩提寺、光珍寺(岡山市北区)と同じ天台宗の寺で、ここで、円融院を法名とする。
こうして法衣をまとい宇喜多家の家臣団を一つにまとめる役目を果たすことを、亡き三浦貞勝に告げ、別れとする。
三浦家は日蓮宗に帰依しているが、おふくの方は直家の宗派を選んだ。
決意を新たにし、岡山城に戻り、大坂城に向けて出立する。
京極竜子達、側室の屋敷が並ぶ大坂城二の丸の一角におふくの方の屋敷地が用意された。
だが、屋敷は必要ないと断り、尼としての休憩所となる小さな庵だけを願い、すでに造られていた。
感謝しつつ、その庵で休憩した後、本丸に向かう。
待ちかねていた秀吉は大喜びでおふくの方を迎えた。
尼姿のおふくの方の神秘的な輝きに、一瞬驚くが、気にする風はなく、ねねに引き合わせた。
ねねは、桃寿丸の死を悼み、元気を出すように言葉をかける。
おふくの方は、謝意を述べ、秀家の母として秀吉・ねねに仕えると神妙に挨拶する。
庵には、備前焼の茶碗・水差(水を入れる器)・建水(茶碗を清めた湯水をいれる器)・菓子器・花入れ・香合(香を入れる小さな器)と自慢の備前づくしでしつらえた茶室を設けた。
時たま、訪れる秀吉を迎え、茶を点て昔話を語り合う。
また、秀吉の許可を得て、小西行長や千利休を招く。
千利休との茶席は興味が尽きることなく愉しい。
茶の湯の名物茶器は千利休や秀吉の好みもあり、後に、一楽・二萩・三唐津と格付けされる。
中国・朝鮮から渡ってきた陶工による、優れた高度な技術で作られる茶器に、人気があり価値あるとした。
古墳時代から日本で作られた伝統ある須恵器を初めとする備前焼が名物とされることはなかった。
備前焼が価値あると評価されないのが悔しくて、千利休や秀吉に備前焼を献上し活用を願う。
千利休も納得して使ってくれた。
茶席で備前焼を使うようになり、特に茶入れとして使われる。
備前焼の茶入れは、お茶の味わいを長く保つことが出来るのだ。
茶道の目指す簡素だが質的に趣がある優れた美を見いだすのが侘び。
古びた様子の中に奥深い豊かさを感じ、そこから生み出される美しさを寂び。
侘び寂びの境地には備前焼こそふさわしいと、おふくの方は胸を張った。
おふくの方の想いに秀吉・千利休が応え、備前焼が価値ある器として広まる。
名物茶器とはならなかったが、備前焼の名は広まり、需要は伸びた。
おふくの方は備前殿と呼ばれ、秀吉の側室の一人として大切に遇された。
秀吉は「望みは何でも叶える」と言うが、秀吉の妻であったのは、岡山城での二ヶ月あまりでしかない。
今は、法衣(ほうえ)をまとった世俗を超越した尼として秀吉に仕えるだけであり、多くは望まない。
岡山藩主の母として、宇喜多家を代表する身だと、精一杯秀吉をもてなし、にぎやかな時を過ごすだけだ。
一五 秀家と容姫の行く末
おふくの方の二人の子、秀家と容姫は秀吉の養子となった。
宇喜多家は、豊臣一門となり、天下人、秀吉の政権を確固とする為の縁戚網作りの一翼を担う。
大阪城内におふくの方の庵はあるが、常の住まいは備前屋敷であり、容姫は母と共に宇喜多家大坂備前屋敷に住んだ。
一五八七年、久しぶりに庵に出向くと秀吉が現れた。
おふくの方の点てた茶を飲みながら「容姫の婿を決めた」と嬉しそうに話した。
相手は、毛利家分家になる吉川家当主、広家(1561-1625)だ。
おふくの方は宇喜多直家と広家の父、吉川元春の熾烈な戦いを思い出す。
宇喜多家の死傷者はあまりに多数で、直家が信頼した基家も戦死した。
毛利方大将が、吉川元春だった。
西国の覇者、毛利元就は直家には強敵すぎる強敵だった。
その元就が、家中一族の中で最も軍事的に才があると全幅の信頼を置いたのが次男、吉川元春だった。
生涯無敗を誇り、直家は幾度も互角に戦ったが、勝てない相手だった。
吉川元春を受け継いだのが、広家だ。
秀吉は、中国大返しを静かに見守った毛利輝元の忠義、以降の惜しみない支援に感謝して共に天下を治めようと、嫡男、秀勝(信長の四男)と輝元の娘との結婚を申し出た。
宇喜多家の支援で中国大返しは成功したが、毛利家が追撃しなかった故に成功したのでもあり、第一の功労者は毛利家だ。
毛利家との和議は、宇喜多家の領地と国境が入り組み調整に手間取り、また勝山を宇喜多領とするのにこだわり、正式の和議調印まで時間が掛かった。
和議成立の一五八五年二月、秀勝と輝元の娘は、形だけだが結婚式を挙げた。
こうして、安芸広島藩毛利家から秀勝の居城、丹波亀山城に嫁入りするはずが、直前一五八六年一月、秀勝は亡くなり実現しなかった。
秀吉は、ため息をついた。
秀勝が亡くなり、以前から考えていた毛利家を支える両翼、吉川家(元就次男の家系)と小早川家(元就三男の家系)との縁組を急ぐ。
毛利一二〇万石は三家で成り立つとされる力ある家だ。
まず、疎遠だった吉川家が代変わりした一五八七年、友好な関係を新たに構築しようと急ぎ新当主、広家と容姫の結婚を決めたのだ。
吉川元春は、直家と激しく戦い続けたが、一五八六年、陣中で亡くなった。
翌年には家督を継いだ嫡男、元長も亡くなる。
そこで、秀吉は元長の弟、広家に家督を継がせると決めた。
吉川家中には、次男を差し置いて、三男、広家が家督を継ぐことに不満を持つものも居た。
そこで、広家の後ろ盾は、秀吉であることを強烈に示す為に、容姫との結婚を決めたのでもある。
秀吉はおふくの方に「直家も元春も亡くなった。過去は忘れよう。若い二人が新しい絆を結び儂を支えるのは素晴らしい」と言う。
秀吉は、婚礼支度のために十分な資金を用意し、容姫は秀吉養女としてふさわしい化粧料(年金として受け取れる持参金)を得た。
おふくの方は、秀吉と特別な縁など何もないのに大切な親族のように扱われ、恩を忘れまいと感謝し頭を下げる。
隣国、毛利家との縁は、宇喜多家にとって必要だ。
価値ある結婚だと、おふくの方らしく、容姫のために華やかな嫁入調度を整える。
二人で、京の名所旧跡を訪ね歩き、最新の流行の品々を集める。
そして文房具、楽器、喫煙具、化粧道具、香道具、茶道具、飲食具、遊戯具、装束類、書画、運搬具、武具などの調度類も誂えた。
嫁ぐ娘との幸せな時間を過ごすことが出来た。
二度と会えないかもしれないと心残りは尽きないが、精一杯二人の時間を持ち一つ一つの道具類を確かめ合った。
翌一五八八年末、容姫は安芸広島に出立した。
涙で目が潤み容姫の顔が分からなくなるが、生涯忘れられない最高の思い出となる。
広家は居城、安芸日山城下の吉川屋敷(広島県北広島町)内に広大な新居を建て待っていた。
黒田官兵衛が容姫に付き従い、秀吉に代わりに立ち会い、盛大な婚礼が執り行われた。
容姫の結婚に続いて、同じ年、秀家一六歳が秀吉の養女、豪姫一四歳と結婚する。
おふくの方は秀吉の養女、娘、容姫を嫁がせ手放したが、すぐに、秀吉の養女、豪姫を嫁に迎える。
二重の喜びに包まれ、最高に幸せな年だった。
おふくの方は、ほんの一時期だけ秀吉に仕えた。
その間は秀吉の唯一の妻だったが、おふくの方が口外しない限り誰にも分からないほど、短いひと時だった。
それからは、大坂備前屋敷に直家の未亡人として入り、秀吉の側室として振る舞うことはない。
庵を与えられて、秀吉と茶飲み話をするときも時たまあり、秀吉の側室の一人として遇されたが、子を生む年齢は過ぎており、あくまで尼として向き合った。
ねねも秀吉との関係に触れることはない。
最初の対面時、ねねは「宇喜多家はよく秀吉に尽くし、感謝します」と労(ねぎら)いの言葉をかけた。
以来、主従関係を崩すことはない。
秀吉との熱い愛を、ねねは知っていても口に出すことはなく、顔に出すこともない。
お互いが過去を封印した。
「主君に命を預け、身を捧げるのは男も女も同じだ。恥ずべきことではない」とおふくの方は自信を持っている。
ねねも同じ考えだ。
天下人の妻、ねねと岡山藩主、宇喜多秀家の母の儀礼的な主従関係だった。
ところが、秀家と豪姫を通じて花嫁と花婿の母同士という親密な関係になる。
豪姫をとても可愛がったねねは、気さくな性格で、母親同士だと私的な話もするようになる。
とてもうれしい付き合いだが、微妙な問題は避けたくて気を遣う。
大坂城山里のねねの茶室に招かれることが増える。
おふくの方は幼い頃の秀家の思い出話をしながら、ねねの点てた茶をいただく。
ねねは豪姫の幼い頃を話す。
二人とも激動の世を生き抜き様々な経験を重ねた四〇歳を過ぎた熟年同士だ。
ねねは、たわいのない話をしながら笑い転げる。
その様子を微笑みながら見て、ねねのすべてを受け止める大きな力を感じる。
「天下人の妻としての存在感がある。素敵な方だ」と素直に尊敬する。
ねねも「三浦家・宇喜多家を守ろうとする気概、その勇気には叶わない」とにっこり受け止める。
二人とも生身の女を乗り越え、人としての年輪を重ね、余裕が出て来ていた。
おふくの方は秀家と豪姫が結婚を機に建てた聚楽第の屋敷に来るように言っても、大坂を離れず備前屋敷に留まったままだった。
豊臣家・前田家と付き合うのは気が重く、豪姫にすべて譲り一歩引いて、直家の菩提を弔う日々を送るつもりだ。
天下人、秀吉夫妻の娘として天真爛漫に育った豪姫はどこに出ても臆することなく堂々と、時代の最先端を行く存在だ。
豪姫はねねを母と言い、自由に大坂城に出入りする。
秀家は一本気でこせこせしないおおらかな性格に育っている。
元服の時、秀吉は秀の字を与え秀家と名乗らせ養子とした。
秀吉は疑い深く用心深い性格で終生、信頼し続けた近しい人は少ない。
だが、秀家だけは一度も疑うことなく生涯、我が子にふさわしいと信頼した。
秀家も生涯、秀吉を父と思い養子としての誇りを持ち続ける。
秀家は、一五八五年の四国征伐、一五八六年の九州征伐と果敢に戦い、文武両道の名君たる片鱗を見せていく。
秀吉も「豊臣政権を支える重要な柱になる」と満足げに話した。
「豪姫と秀家の結婚で豊臣家、前田家、宇喜多家は深く結ばれた」と自慢する良い縁組だった。
豪姫と秀家の仲は睦まじい。
おふくの方が微笑ましくまたうらやましく思うほど絵に画いたような天下人の子同士だ。
育ちのよい、高貴な香りが漂っていた。
だが、結婚生活は波乱万丈だった。
結婚後まもなく子が授かり、養父母、秀吉・ねねも実父母、利家・まつも大喜びだった。
もちろんおふくの方も嫡男の誕生を願い祝った。
だが、流産。
以後、豪姫は、起き上れない日々が続いた。
心配した秀吉は伏見稲荷に必ず豪姫を全快させるよう命じた。
天下人夫婦・その盟友夫婦は病気平癒の祈願を争うようにした。
娘、豪姫を想う愛情ゆえだ。
おふくの方は、ちょっと引いて見守るしかない。
豪姫の住む聚楽第に向かい、見舞い、静かに病気快癒を願う。
秀吉は広家の家督引き継ぎが順調に進み、容姫との仲も良好と確認し、一五九〇年、出雲一四万石を与える。
広家は喜び、尼子氏の居城、月山富田城に入るが、山城の限界を感じる。
そこで、秀吉の勧めもあり、城下町の繁栄を願い近世城郭、米子城の築城を決める。
一刻も早く築城を完成させ、容姫を迎えると張りきった。
おふくの方の元に「穏やかな瀬戸内から厳しい自然の日本海に移るのは少し怖いですが、広家殿と一緒だから安心です。いつか京・大坂に参ります。会いたいです」との容姫の書状が届く。
幸せそうな文は嬉しいが病に伏せっていると聞き心騒いだ。
容姫の病気快癒を一心に祈っていたが、一五九一年六月十日、亡くなったとの報が届く。
わずか二年半の結婚生活、二一歳の短い命だった。
おふくの方が、わが子の死を聞くのは二度目だ。
どちらも、親として最期を看取ることはなかった。
世の無常を感じ虚しく情けない。
出来れば代わりたかった。
吉川家の必死の看護を受けて愛されて迎えた死であり幸せだったと思うが。
秀吉は冷静だった。
すぐに、毛利輝元の養嗣子、秀元と秀吉の養女(弟、秀長の娘)善姫との結婚を決める。
毛利一族との縁は、とても重要で、途切れさせてはいけないと決めていた。
秀家は豪姫に対し、愛情が満ち溢れており常に優しい。
「ゆっくり休むがいい」とだけ言い、気長に回復するのを待った。
秀家の暖かい愛に包まれて、長く寝付いていたが、豪姫は元気を取り戻す。
続いて妊娠し一五九一年、嫡男、秀高が無事生まれる。
秀家は大喜びで「秀高の顔は自分そっくりだ」と秀吉、利家に自慢する。
すぐに朝鮮の役が始まった。
秀家は二十万人の兵を率いる総大将格で出陣だ。
続いて、聚楽第を引き払い大阪城下の屋敷に戻ることが決まる。
秀吉が関白を秀次に譲り聚楽第を引き渡したためだ。
すぐに、秀吉の隠居城、伏見城築城が始まる。
各大名には城下に屋敷地が与えられ、宇喜多屋敷もすぐ建てられる予定だ。
そのしばらくの間、おふくの方の住む玉造備前屋敷に、豪姫母子が移ってくる。
秀家もおふくの方と共に住むことを願っていたので、良い機会になった。
豪姫はおふくの方に朝鮮に渡った秀家の無事を祈る切ない思いを訴える。
おふくの方は軽く聞き流す。
天下人の姫として戦いを経験する事もなく危険を感じることもなく純粋無垢に育った可愛い顔を見つめる。
少しも動じることなく悠然として「生きるも死ぬもその時の武運に任せるしかないのです」と話す。
おふくの方には豪姫の苦労知らずが気がかりだ。
また、岡山藩宇喜多家に、秀吉の娘、豪姫を迎えて心配も増えた。
余りに秀吉に近く、天下人の娘として育った豪姫を歓迎しない重臣がいるのだ。
豊臣家・前田家の影響が強まることへの不満。
秀吉の養子であり婿として期待され、朝鮮へ莫大な出費となる軍事費を負担する不満。
豪姫は、すべてが派手で、宇喜多家に過大な責任と負担がかかることへの不満。などなど。
特に、法華宗の熱心な信者である重臣が煙たく思うようになっていた。
流産後、長く患っていた時だ。
秀家は、豪姫の病気快癒を法華宗に祈願した。
しかし豪姫の病状は良くならない。
秀吉も前田利家も必死で病気平癒の祈願している。
早く直さなければ夫としての面子がない。
そのあせりもあり、法華宗の御利益がないと怒った。
備前はもともと法華宗の信者が多く、宇喜多家中にも門徒が多い。
広島安芸地方に浄土真宗の信者が多いことと合わせ、「備前法華に安芸門徒」と皆が呼ぶほどだ。
岡山に初めて日蓮の教えを伝えた高僧として名高いのが、大覚(だいかく)妙(みょう)実(じつ)(1297-1364)。
近衛家出身の大覚(だいかく)妙(みょう)実(じつ)は、真言宗の僧を目指したが、日像(1269-1342)の説法を聞き感銘を受け弟子となる。
教祖、日蓮(1222-1274)の弟子、日像は、大覚(だいかく)妙(みょう)実(じつ)と共に、日蓮の教えを広め、京都布教の拠点、妙顕寺を建立した。
そして、近親者を紹介され、宮中や室町幕府で日蓮の教えを説く。
一三五八年には、雨乞いの祈祷を成功させ、妙顕寺を天皇の勅願寺、幕府の祈願所にする事に成功する。
ここで、法華宗は朝廷や幕府公認となる。
大覚(だいかく)妙(みょう)実(じつ)は、法華宗の唱える権力批判を押さえ協調路線を取る。
権力を批判した日蓮に反するが、布教を優先し、信徒は増え成功した。
大覚(だいかく)妙(みょう)実(じつ)は、京の布教が一段落すると畿内・瀬戸内諸国に布教に廻る。
京の帰依者からの紹介があっての布教であり、歓迎され、備前で三〇寺を超える法華宗寺院を作ることが出来た。
その後、二百年以上の歳月が流れ、名僧が次々生まれ、備前に広く深く法華宗が広まり、隆盛を極める。
西備前守護代、松田氏は法華宗を狂信的に信じ、他宗の寺社を強制的に改宗させた。
それどころか、改宗を拒否した寺院を焼き払い追い出すほどで、松田家中は狂信的に法華宗を信仰する家臣が増える。
松田家攻略を狙う直家は、この状況をうまく利用した。
家中すべてが法華宗を信仰するわけでなく、強制を嫌う反法華宗門徒がいた。
彼らを調略し、宇喜多家に取り込み、家中に内紛を起こさせたのだ。
松田家中の力が落ちた時を見計らい、直家が攻略し、岡山の地を手に入れた。
直家は、法華宗から距離を置き、天台宗光珍寺を菩提寺とするが、宇喜多一族にも法華宗信者は多い。
松田家を乗っ取り、その配下の国人衆を従えると、予期していた以上に法華宗に深く帰依している国人衆がおり、驚く。
高圧的に法華宗を排除する事は、治世に悪影響を与えると、協調路線を取らざるを得なかった。
三浦家も法華宗信者だったが、おふくの方には特別な思い入れはない。
三浦家に特別のご加護あったとは思えず、宇喜多家菩提寺、天台宗、光珍寺に帰依し賛成した。
秀家も岡山藩最大の宗教は法華宗であると、その存在を認めた。
だが、秀家に従わず、治外法権化する法華宗寺院もあり、あまりに力を持っていることを苦々しく感じていた。
しかも、豪姫の祈祷の効果がなかったと思わざるを得なくなり、たまっていた不満が一挙に吹き出す。
法華宗を特別視せず庇護しないと宣言した。
そして、重臣に法華宗への庇護をやめるよう言い渡す。
法華宗寺院は多くの賦役を免除されていたが、税の徴収を始めた。
同時に、藩主の支配力を強めるのだ。
熱心な法華宗信者の譜代の臣は、秀家の法華宗の弾圧に反対した。
信長は南蛮貿易を歓迎しキリスト教を認めた。
秀吉もその立場を引き継いだ。
中国明との交易を担っていた大内家が滅び、正式な交易が途絶えていたからだ。
中国明が行うのは、自らを世界の中心である(中華思想)と考える朝貢貿易であり、日本を中心に考える信長・秀吉とは相いれない。
南蛮船(ポルトガル・スペインの船)との貿易は、中国との迂回貿易の役割も担える朗報であり、信長は乗った。
ただ南蛮船は高度な文明と共にキリスト教をもたらした。
貿易と布教は一体だった。
そのため、信長はキリスト教を認めた。
同じように貿易で利益を得ようとする武将・商人もキリシタンを受け入れた。
自らキリシタンになる者も現れる。
ポルトガル・スペインや中国からの輸入品、鉄砲・火薬・織物・香料・菓子・磁器・薬材等々は関わる商人に巨万の富をもたらした。
そして、魅力的な高い技術文化を知り、宗教も含めて受け入れたのだ。
秀吉も、貿易の利益を当て込み、当初はキリスト教を認めた。
しかし、キリスト教徒が増えれば、政治的軍事的力を持ち、一向一揆の再来になると恐れた。
やむなく、一五八七年、キリスト教禁止令を出す。
全面禁止ではなく新たな布教活動を禁止し、許可制としただけだったが。
そうなると、中国明との貿易再開を急ぐ必要があり、緊急の課題となる。
私貿易を禁止し、貿易をすべて支配下に置けば、巨万の利益を得ることが出来、豊臣家の天下は安泰なのだから。
博多を拠点の貿易港とし、日本からの主要輸出品、となる銀の産地、石見銀山など全国の主要鉱山を支配下に置いた。
貿易を全て統制し、利益を一元管理するべく準備を整えた。
だが、中国明はあれこれ注文を付けて交易での優位性を主張する。
朝鮮を支配下に置き、円滑な貿易を実現するしかないと、朝鮮への出兵・中国明との対決を決意した。
この頃、京・大坂では宣教師が精力的に布教活動を行い武将・商人、海外貿易に関係する者らが信者となった。
秀家も反法華宗の立場からキリスト教を認める立場を取る。
好奇心旺盛・知的欲求の高い豪姫も南蛮貿易を大いに活用しており、秀家と同じ立場だった。
妊娠と流産、病と続き我が身が自由にならない、やるせない思いの中で秀家以上に、キリスト教の教えに傾倒していく。
おふくの方は、小西行長を側近とし、南蛮貿易の魅力に取り付かれたときもあった。
キリスト教にも寛大だったが、信者になるほどには受け入れなかった。
今は、出家している身であり、法華宗の信徒も多く知っている。
過度の弾圧は避けたい。
豪姫・秀家とは思いがずれていく。
藩主夫妻のキリスト教容認の立場に、宇喜多家家臣にもキリスト教を信ずるものが増えていく。
同時に、法華宗信者は、秀家や豪姫に反感を抱く。
家中では、キリスト教信者対法華宗信者の対立が始まる。
ここで、家康の密やかな調略が始まる。
一六 おふくの方の死
一五九六年、おふくの方は豪姫とゆっくりとした時を過ごし、孫の元気な成長を見て、そろそろ役目を終える時が来たと思う。
三浦家から宇喜多家、そして豊臣家と縁を結び生きた。
懸命に生きた。
そして秀家は岡山藩五七万四千石藩主となり、秀吉の養子として立派に役目を果たしている。
秀家に「宇喜多家を率いる将であることを第一に考えるように」と言い続けた。
だが、秀家は秀吉一門として宇喜多家を率いており、考えにずれがあった。
おふくの方にとっては、宇喜多家と三浦家を引き継いで生き今がある。
秀吉は大恩ある天下人だが一族ではない。
だが、秀家には三浦家が一族と言う意識はなく、宇喜多家譜代の重臣に対しても秀家に忠誠を尽くすかどうかで判断する。
秀家には、直家のような一門意識が少ない。
宇喜多家中には、秀吉一辺倒の秀家に不満も出ている。
おふくの方は勝山城が落城した時。
直家が亡くなった時。と二度、もはやこれまでと覚悟した。
その危機を切り抜ける決断力と行動力があった。
決断した道を切り開きながら進み、成功への道を歩むことが出来た。
同時に、天分の美貌と才に恵まれ、三人の愛する人を虜にした。
そして、勝山から岡山へそして大阪へと天下の中心に道を広げ、宇喜多家を導き、成功した。
だが、政治手腕はなかった。
宇喜多家中をまとめ率いるのは苦手だった。
家中が一致団結するために、重臣との意思の疎通、家中への目配りが、重要だが、できなかった。
直家の伴侶ではあったが、宇喜多家の奥に確固たる地位を築けなかった。
宇喜多一門との付き合いもどこか不自然なままだった。
宇喜多家中に信頼できる近習・家臣を持つことが出来なかった。
小西行長との縁は素晴らしかったが、秀吉直臣となって去り縁を繋ぐことはできなかった。
秀吉との縁をもっと活用すべきだったのだが、尼となり、秀吉の人脈に入り込むことはできなかった。
ねねとの縁も形式的なことが多かった。
もっと踏み込むべきだったが、窮屈で嫌だった。
分不相応な地位にまで上がってしまった気もする。
三浦家を引きずる三浦一族の姫でしかなかったのだ。
三浦家の再興に重きを置きすぎた。
秀家・豪姫のために家中をまとめたいが、能力の限界を知るばかりだ。
宇喜多家中で、身動き取れず、もがいている状態だった。
振り返れば、直家と結婚の時から家中不和の種があった。
直家には男子がなかなか生まれなかった。
秀家は、直家が四三歳の時に生まれている。
男子の生まれなかった直家はすぐ下の弟、春家の子、基家(1562-1581)を後継にする含みで養子にした。
その後まもなく、直家はおふくの方と結婚し、秀家が生まれ嫡男となったのだ。
直家亡き後、秀家が後継になり、まもなく、基家は若くして亡くなった。
ここで、秀家に次ぐ一門筆頭は、直家のもう一人の弟、忠家の嫡男、坂崎直盛(1563-1616)となる。
以来、坂崎直盛は、基家に代わり、秀家に次ぐ存在だと自負して生きる。
直家の弟、春家、忠家の乳母は、戸川秀安の母(-1603)妙だ。
生母は阿部家を離れることはなく、妙が二人の母親代わりとなり引き連れ、兄、直家に従った。
戸川家は、美作国富川より始まる菅家の嫡流、有元氏の一族になる。
おふくの方の母の実家、鷹取氏と同族だった。
この縁があり、妙は、おふくの方と直家の結婚を宇喜多家中に推した。
また、おふくの方の母の妹が嫁いだ鷹取備中守は、浦上宗景の重臣であり、妙と共に、直家との結婚を宗景に推してくれた。
その前、三浦貞勝との結婚を浦上宗景が許すよう後押してくれたのも、鷹取備中守だ。
妙は、鷹取備中守の力を見込んでおり、我が子、戸川秀安と鷹取備中守の妹との結婚を願い、鷹取氏と強い縁を結んだ。
縁が絡み、おふくの方は、鷹取備中守や妙に感謝している。
そのこともあり、おふくの方は、妙の便宜を図る。
直家も妙を信頼し、戸川秀安を厚遇していく。
その結果、宇喜多家の奥は、妙が仕切るようになる。
おふくの方が、宇喜多家の奥で確固たる地位を築こうとする頃には、妙が仕切っていた。
戸川秀安は、文武に優れていたこともあるが、妙の活躍で、宇喜多家第一の臣としての禄を得る。
「宇喜多家三家老(岡利勝 長船貞親 戸川秀安)」の一人となり、実質、筆頭家老として岡山藩政を仕切るようになる。
忠家は、妙を母とも思い信頼し、戸川秀安の娘を、嫡男、坂崎直盛の妻とした。
宇喜多忠家・戸川秀安(1538-1597)は、乳兄弟だが、実の兄弟以上の関係となり、常に協力し宇喜多家第一の力を誇る。
妙は岡惣兵衛と再婚。
戸川秀康の嫡男、達安は長船貞親の娘と結婚。
こうして妙を中心に、宇喜多三家老がつながる。
しかも、妙は、乳母となり育てた忠家の嫡男、坂崎直盛の世話もするようになり、その才知を高く評価した。
妙の影響力は大きい。
宇喜多家中に、三浦氏のおふくの方の子、秀家や秀吉の娘、豪姫の子、秀高より、宇喜多一門の娘、お鮮を母とする坂崎直盛が後継になるのが相応しいと思うものも出てくる。
三浦氏再興にこだわるおふくの方は、宇喜多家では外様だった。
直家との結婚で、宇喜多家に内紛の種をまいたのでもあった。
秀家と豪姫の結婚後、次第に、豪姫の生家、前田家が秀家に影響力を持つようになる。
しかも、秀吉は、秀家を高く評価し、信頼を増していく。
そんな様子を見る家康は、不快だった。
秀吉政権の中枢を担っている家康は、秀吉・前田家・宇喜多家が強く結びつくのを恐れた。
そこで、宇喜多家中での秀家の対抗馬として坂崎直盛を持ち上げていく。
岡山藩政に目が向かず秀吉の側を離れられない秀家より、坂崎直盛こそが岡山藩主に相応しいと親しげに話す。
そして、秀家の一方的な命令に不満を持つの話を真面目に聞き、賛同していく。
二人は、家康を頼るようになり、その後押しで力を得て、秀家に対峙していく。
しかも、坂崎直盛・戸川秀安は、仲間を増やしていく。
秀家は、家中に家康を信奉する重臣を抱え、統制が利かなくなる。
このような状況を、おふくの方は情けなく寂しく見た。
やむなく、宇喜多忠家・戸川秀安に「家中の和を重んじて、藩政に携わり、秀家に仕えるように」と意見する。
だが、宇喜多忠家・戸川秀安は、嫡男、坂崎直盛・戸川達安に家督を譲り、すでに秀家の側を離れていた。
「隠居の身でありどうにもならない」と答えるだけだ。
戸川秀安は、一五九七年には、亡くなった。
代が変わり、新しい時代となってしまった。
家中は内紛の種を抱えていくが、戸川氏を取り立てたのは、おふくの方でもあり、間を取り持とうとしても、秀家はかえって不信感を持つ有様だった。
秀家には、坂崎直盛(1563-1616)・戸川達安(1567-1628)は、命令に素直に従わない煙たい存在だった。
おふくの方は、宇喜多家の将来を思い、妙に「秀家を第一に考え、動くことを二人に念を押して欲しい」と申し伝える。
宇喜多家中に大きく根を張り、奥を率いる力を持った妙だが、高齢となり、すでに影響力はなかった。
「私は老いました。新しい世代を信じるだけです」としか答えない。
おふくの方は、新しい世代に力を持ちえないと限界を感じる。
秀家を信じ、思うように藩政を執らせるしかない。
宇喜多家を離れる決意をした。
出家し、寺に入ると決め、心のけじめをつける旅に出る。
岡山・勝山を廻る旅だ。
まず、直家の故郷に行く。
備前伊部・備前長船・備前福岡、懐かしい地を回る。
備前焼、名刀の創作の様子に心を動かされる。
備前福岡は以前よりひっそりしていた。
熱気に満ちた賑わいを岡山に持っていったのかもしれないと申し訳なく思う。
宇喜多直家の父、興家の墓や黒田官兵衛の祖父、曾祖父の墓もある妙興寺にお参りした。
次ぎは、岡山。
お忍びの旅であり、岡山城には入らなかった。
尼としての修行の旅に徹した。
宇喜多家菩提寺、天台宗光珍寺にお参りする。
光珍寺は、直家が父、興家の菩提を弔う為に、法名を取り名とし、建立した寺だ。
広大な堂宇を建て、父を祀り、自らの菩提寺とした。
墓前に秀家と宇喜多一族の安泰と栄華を報告し菩提を弔う。
「近いうちに会いに行きますから、待っていてください」と念を押す。
岡山城は壮大な城郭に拡張されつつあり勇ましい槌音が響く。
眼前の光景と在りし日の直家の姿と重ね合わせ万感の思いだ。
岡山城周辺をゆっくり見て回る。
二人で手を携えて岡山城入りしたのがついこの前のような気がする。
最後に、勝山城下の三浦家の菩提寺、妙円寺にお参りし三浦家再興が実現出来なかったことを夫、貞勝に詫びた。
続いて、円融寺に参る。
「菩提寺とし余生を過ごしたいが秀家の母であり、京を離れることは出来ない。京の円融寺に入ります」と別れを告げた。
直家は岡山城を居城とすると、法華宗との共存を図りつつ、法華宗を押さえる政策を取った。
前領主が、心酔した法華宗は、庇護され膨大な権力を握っており、焦ってはならないと心したのだ。
法華宗の勢力を徹底的に抑えたかったが、法華宗門徒はあまりに多く、反旗を翻されることを恐れた。
おふくの方も直家に同調していた。
三浦家も宇喜多家も法華宗門徒でもある。
秀家も同じ思いだったが、藩主は秀家であり、忠誠を誓わすべきだと、法華宗を配下に置こうとした。
だが、秀家の思い通りにはならなかった。
家臣の反発を招くのは藩主として得策ではないと何度も言ったが聞かなかった。
勝山城代、牧国信には「尼の自由な旅であり城内には入らないが、湯原温泉には行きたい」と伝えていた。
湯原温泉には立派な湯屋が用意されていた。
いつも変わらない義弟、牧国信の忠臣ぶりが嬉しい。
湯原温泉の湯治客は増え、にぎわっていた。
牧国信の手腕だ。
秀家にも湯原温泉を自慢し湯治を勧めたが、秀家は忙しく湯原温泉を知らない。
おふくの方が、牧国信や秀吉に温泉の効用を教えた。
そして二人とも、温泉の魅力に取り付かれることになったと、自画自賛していたが、秀家には通じなかった。
四七歳の身体を砂場に静める。いい気分だ。
これが最後だと分かっていた。
年老いた身体を見ると月日の過ぎ行く速さを感じる。
勝山、岡山を巡り京に戻ると、大原の円融院(京都市左京区大原)に作っていた庵に入り、世俗を離れ仏に仕える身となる。
後に、大原三千院と呼ばれる地だ。
天台三門跡の中でも最も歴史が古く、最澄が比叡山延暦寺を開いた時に、薬師如来像を本尊とする「円融房」を開基したのを起源とし幾度か変遷し、大原の地に移り来た。
まもなくの秀吉の死。
関ケ原の戦いと続く。
秀家は、秀吉の子として遺志に沿い、関ヶ原の戦いを総大将格で戦い、敗れ改易。
大名としての宇喜多家は滅亡した。
勝山を含めた美作国は小早川秀秋の領地となり、すぐに、森忠政(森蘭丸の弟)の領地となる。
忠政は居城を津山城とし、勝山城には城番を置くだけとし、勝山は以前のにぎわいを失う。
おふくの方は、この移り変わりを尼として聞く。
秀家には、母としての生き方をすべて話したが、女としての生き方をありのままには話せなかった。
もっと素直に、女人として誇るべき生き方をしたことを伝えるべきだったと反省する。
そうすれば、母子で家康の調略から宇喜多家を守ることが出来たかもしれない。
どちらにしても家康の勝利は覆せなかったろうが。
秀家の豊臣家への忠節を貫いた姿を誇りに思う。
そして、秀家も豪姫も子たちも生きており、支援者に守られていることを確認し、一六〇〇年、五一歳で亡くなる。
森忠政は、宇喜多家旧臣・三浦家旧臣を出来るだけ多く召抱えようとした。
宇喜多家の悲運に同情しており、仕官するよう知らせた。
だが、岡山・勝山の地は、豊かで「食えればよい」と武士を捨て、農業に携わったり商人となった旧臣が多い。
おふくの方の側近は宇喜多家・三浦家に忠誠を誓い仕官を断った。
牧良長・牧国信兄弟は大庭郡で庄屋となる。牧一族では森家に仕えた武将も多いが。
福島氏は大庭郡目木村(真庭郡久世町目木)大庄屋となる。
船津氏・近藤氏・宇野氏など帰農し庄屋になったものも多い。
庄屋は、身分は百姓だが、地元の有力な豪農であり、村政を担当する村役人でもあった。
一七 三浦家の再興
時を経て、一七六四年、三浦家は勝山の地に戻ってくる。
譜代大名、三浦明次が真島郡内の九六村と大庭郡内の一村を得て居城を勝山城とし二万三千石藩主となって戻ったのだ。
それまで、真島郡高田村にある城、高田城と呼ばれていたが、ここで、勝山城と名が変わった。
おふくの方の故郷は、勝山藩(岡山県真庭市勝山)となる。
三浦家は鎌倉幕府開府の大功労者の家柄であり、嫡流の末裔とされるのが、三浦明次だ。
おふくの方の三浦家は、同族だが、分家筋になる。
ただ藩主になった由縁は、三浦正次の母が土井利勝の妹だったからだ。
江戸幕府大老、土井利勝が三浦正次を引き立て幕府重職とし、二万五千石壬生(みぶ)藩(はん)主とした。
ここから、譜代藩、三浦家が始まる。
譜代藩の常で幕府の意向で、国替えが続く。
三浦家当主は、安次(1641-1682)・明敬(1682-1692)・明喬(あきたか)・義理(よしさと)と続き、明次となった。
ここで、森氏改易後、天領となっていた美作勝山を勝山藩とし、西尾藩(愛知県西尾市)主、三浦明次が国替えで藩主となったのだ。
石高が減る栄転とはいえない国替えで、国替えの移転費用も大きい。
また居城とする勝山城は、天領時代放置されたままで、痛みが激しく修復に莫大な費用が必要だった。
また三浦正次は、土井利勝に引き立てられ、将軍、家光の側近となっている。
以来、幕府の要職を占める家柄となったが、そのため、収入にはならない幕府内での出費がかさんだ。
そんな中での国替えは、三浦家の力を試されるきつい試練となる。
幕府は、美作勝山を天領とし、この地の特性を生かすことが出来る藩主を探した。
そこで、かって勝山を支配した美作三浦家に繋がる三浦氏こそ適任と、任せたのだ。
おふくの方の三浦氏に繋がる縁から決められたのだ。
おふくの方は、直家に嫁いだ後も勝山の地の庇護者だった。
秀家が改易されるまで、側近、牧国信が勝山城主であり、善政を敷いていた。
領民の良く知るところであり、幕府も知っていた。
秀家の岡山藩は解体され、宇喜多家は八丈島で続くことになってしまったが。
宇喜多家が去った後、小早川秀秋の岡山藩に組み込まれ、次いで森忠政の津山藩に組み込まれた。
一六九七年、森家改易の後、天領となったままだった。
そして、ようやく、この地に縁がある藩主が見つかり、美作勝山に三浦氏が移り来た。
苦しい藩財政を救うのは、鉄鉱石の宝庫、中国山地に位置する優位性を生かすことだと、三浦明次は決めた。
こうして、新庄村鉄鉱山経営に心血注ぎ、藩財政の柱とする。
石高以上の収入を得ることが出来、領民に誇れる藩政となり、明治まで続く。
資源とし資金化する為に技術力を習得し磨き高める知恵が必要だった。
同時に、燃料となる木材が必要不可欠だったが、豊富にあった。
運搬には交通の便が良いことが条件となるが出雲街道の要所にあり問題はない。
優秀な人材を集めることが最も大切だったが、疲労回復・活力の源となる湯原温泉があった。
快適に安心して、働く場としての条件は整っていた。
求める人材、実際に採掘に携わる人たちは、続々集まった。
こうして、鉱山を開発し成功した。
三浦氏は、おふくの方が、天から導いたように美作勝山藩主となった。
おふくの方が、愛した故郷を引き継ぎ治め、後々までも、おふくの方の威光は消えなかったのだ。
おふくの方が一番望んでいたような結末となった。
128
目次
湯原温泉で育つおふくの方
おふくの方とは
三浦貞勝とは
最初の結婚生活
宇喜多直家とは
直家立つ
おふくの方二度目の結婚
直家最後の戦い
美作三浦氏とおふくの方
直家に迫る死
小西行長とおふくの方
おふくの方、三度目の結婚
信長の死
おふくの方、大坂の暮らし
子達の行く末
おふくの方の死
三浦家の復帰
一 湯原温泉で育つおふくの方
湧き出る温泉から生まれたような姫、おふくの方は、湯原温泉(岡山県真庭市)が好きだった。
白くすべすべした肌は、母に連れられよく行った湯原温泉のおかげだと信じていた。
湯原温泉は自然の中にある、自然にできた温泉だ。
旭川(岡山県)上流の川底からこんこんと湧き出る豊富な源泉があるだけだ。
一見ただの川だが、入ると熱い温泉。
川遊びするように、どぼんと入れば川底の石や砂利の間から、こんこんと湯が湧き出るのだ。
信じられないほど湧き出る温泉に圧倒されながら、流されないように一歩づつ進む。
すると、ちょうどよい流れ高さの川底が見つかる。
にっこりと、ゆっくり身体を沈める。
自然の偉大な贈り物と身も心も一体となった、うっとりとした満足感を感じる。
手を合わせ、川を、山を、空を眺める。
おふくの方は、この瞬間を忘れることはなかった。
感謝の心が、こんこんとあふれ出す、太陽の元にある天然の露天風呂だ。
誰でも自由に簡単に温泉に入ることが出来るのだ。
皆が、自然に裸になり混浴の温泉を楽しみ明日への英気を養う。
特に冬は地熱で別天地のように暖かだ。
伯耆・出雲・石見にまたがる中国山地には磁鉄鉱を含む花崗岩が多くあった。
風化した花崗岩から良質な砂鉄が取れ、たたら製鉄が盛んだ。
湯原温泉近くでも従事する人が多い。
過酷な労働に疲れた身体を湯原温泉で横たえると心が癒され、筋肉痛や神経痛も直った。
この地にある霊山、大山(だいせん)と東側に連なる蒜山(ひるぜん)には火山群があり、そのマグマが熱源になり、魔法の湯と称賛される温泉となった。
魔法の湯の話は古くからあり、少しづつ広まり、病める人や疲労回復に、また遊び気分の人もつぎつぎ集まった。
こうして、この地の人は、天の恵みだと大切に湯を使い、生きる糧とする。
簡単な宿泊施設と食事を用意し、訪れる人々をもてなす。
湯治客がどんどん集まり、賑やかな温泉の町となっていく。
おふくの方が、始めて湯原温泉に入った時、冷たいはずの川の水が暖かくてびっくりした。
しかも次々絶え間なく湧き出て起きる水面の波立ち・泡立ちに、目を丸くして見続けた。
それにもまして、皆が裸になり身体を沈める天然露天風呂がとても不思議に思えた。
おそるおそる湯に入る。
肌を打つようにまた撫でるようにわき出る湯に最初は驚くが、直ぐに慣れる。
それからは、大きな歓声を上げて、はしゃぎ飛び跳ね遊び、楽しんだ。
皆のおふくの方を振り向く目が優しい。
その可愛い姿に笑みがこぼれる。
湯原温泉を知り、四季折々の美しい景色を湯原温泉に入って見るのが楽しみだった。
おふくの方の姿が噂になり「美人の湯」だとさらに評判を呼ぶ。
ますます湯原温泉が有名になっていく。
おふくの方の屋敷には小さい湯船(浴槽)しかないし、めったに使わない。
お風呂に入るというのは蒸し風呂に入る事だった。
湯は身体を流すためだけに使う。
しかも、いつもおふくの方一人の為の風呂だ。
比べて湯原温泉では絶え間なく流れる川の水が温泉であり、ふんだんに湯が使える。
しかも大勢の人がいる。
すてきな別天地だ。
温泉の湯は四五度と少し熱く、湧き出るすぐ側に行くのはむつかしい。
でも、おふくの方は熱い湯が好きだ。
見る見る身体が薄桃色に染まるのを楽しむ。
砂場になっている露天風呂の川底にゆっくり座り母からいろんな話を聞くのが楽しみだった。
皆が裸なので裸になるのに違和感がなく開放されたいい気分だ。
自然に包まれて身体の芯から温まる気分は最高だ。
だが、領主一族のおふくの方は、普通の湯治客とは違う。
準備が大変だ。
自然の中の露天風呂なのに特別の休憩所が作られ、露天風呂にも大きく目隠しが作られる。
そして、近習はおふくの方を周辺の人に見せないように警護する。
大自然の中で飛び回るおふくの方を隠すのは大変なことだったが。
二 おふくの方とは
一五四九年、美作国(岡山県東北部)勝山(高田)城主、三浦氏の一族に生まれたおふくの方。
勝山の地は出雲と京を結ぶ出雲街道の要所で、旭川上流に位置し米や木炭・塩などを岡山に運ぶ水運の拠点でもある。
北岡山の政治経済の中心地として、勝山(岡山県真庭市勝山)城を中心に城下町は賑わう。
反面、要地勝山を巡り熾烈な争奪戦が起き、戦いが絶えず、戦乱が続き平和に生きることの難しい地でもあった。
美作三浦氏は、源頼朝が平家打倒の狼煙(のろし)を挙げた時、先駆けて頼朝のもとに参陣し大活躍した板東武士の三浦氏一族になる。
祖を辿ると、桓武天皇(737-806)の子、葛原(かずらわら)親王(しんのう)となる。
その子、高見王の子が、天皇の臣下となり平高望と名乗り始まる。
平高望の子達が、板東(関東地方)に在地し武士団、板東平氏を形成し、一族がいくつも出来、それぞれ勢力を伸ばす。
武蔵国に在地したのが五男、平良文。
その曾孫(ひまご)が相模国(神奈川県)三浦に在地し、三浦氏を名とする。
この三浦家が、鎌倉幕府創設に功績を挙げ、相模国守護となり、幕府の重職を占め、各地の地頭職も得た。
三浦宗家、義村は、鎌倉幕府を率いる執権、北条氏と同等の力を持つまでになった。
そのため、北条氏に恐れられ謀られ、北条家との戦いが始まる。
そして、敗北、滅亡する。
分家、三浦盛時が家督の継承だけは認められる。
こうして、相模三浦氏宗家となるが、かっての栄光は消え、耐える時が続く。
時が来て、鎌倉幕府倒幕に立ち上がった足利尊氏に従い、功を立て、力を取り戻す。
恩賞として、一三三六年、盛時の弟の家系、三浦貞宗が美作真島郡(岡山県真庭市勝山)の地頭となる。
すでに、美作には三浦一族がいた。
鎌倉幕府が始まって間もなく、美作守護は、三浦一族、和田氏が任じられた。
そこで、三浦一族が地頭となり、在地し支配した。
和田氏はまもなく北条家に潰され、三浦宗家も滅亡したが、美作に残った三浦一族は代々細々と続いた。
そこに、室町幕府任命の地頭として三浦貞宗が来たのだ。
喜び勇んで貞宗の指揮下に入る。
こうして、三浦貞宗は、美作三浦氏と名乗り、周辺の一族・豪族を従えていく。
おふくの方の三浦家もそのうちの一つだ。
貞宗は、古い館があっただけの勝山(高田)城を拡大整備し三浦家居城とする。
美作西部を押さえる要衝の地、勝山町の東にある標高三二二mの如意山に本丸を築き、二六一mの太鼓山(勝山)に出丸を築く。
その間に二の丸、本丸の麓に三の丸などを築く。
旭川を天然の堀とした山城だ。
広大な城を築き、この地を支配する心意気を見せる。
以後、守護・守護代に従いながら三浦家当主は、行連・兼連・範連・政盛・持里・貞明・貞連と続く。
当主が貞連となった一四六七年、応仁の乱が始まる。
美作守護、山名政清は、西軍に属し、京にはせ参じ戦った。
その間、美作に赤松氏が侵攻し、守護の座を奪ってしまう。
ここから、美作三浦氏は、美作守護、赤松氏が任じた美作守護代、中村氏の配下となる。
室町幕府は、幕府開府の時から、全国を完全に掌握する強力政権ではなかった。
時が経つに連れ、ますます幕府の力は弱まり守護の連合政権と化した。
そこで、幕府の支配体制を守る為に、足利一族を守護に任命し、足利一族による守護政権を作ろうとする。
美作を含む中国地方には、大内氏・赤松氏・京極氏など強力な在地の守護がおり、強固に反対した。
美作では、在地守護、赤松氏が、わが身を守るため、守護大名と化し、将軍を脅かしていく。
こうして、将軍家は名ばかりとなる。
守護大名の勢力争いが、配下の国人衆を巻き込み起きていく。
守護も形骸化し、配下にあるはずの守護代が強力になり、国人衆も独立化し、戦いが続く。
美作守護、山名氏は去ったが、勝山の地にある山名一族の居城、篠(ささ)向(ぶき)城(じょう)(岡山県真庭市)は変わらずあった。
そこで勢力伸長の機会をうかがっていた三浦貞連(さだつら)(-1509)が動き出す。
一五〇〇年、貞連(さだつら)は、落ち目の篠向城主、山名右近亮を攻めた。
翌年には、山名右近亮を討ち取り、城を奪った。
こうして、美作三浦氏の勢力を見せつけた。
以後、周辺の国人衆の盟主となっていく。
福島・近藤・金田・船津氏ら、周辺の豪族を配下にし家臣団を形成し、戦国大名への道を歩み始める。
当主は三浦貞国・貞久と続きを貞勝となる。
内紛が続く赤松氏の力は衰え、備前守護代、浦上氏が力を伸ばし、赤松氏と対立していく。
浦上氏は、美作守護代、中村氏を、取り込んだ。
こうして、一五二一年、主君、赤松氏を討ち、成り代わる。
美作三浦氏は、浦上氏の配下となる。
三浦家を取り巻く状況は、
播磨備前守護代、浦上氏が赤松氏を倒し播磨・備前・美作を支配。
西備前守護代、松田氏は西備前を支配。
出雲守護代、尼子氏は山陰地方全般に力を伸ばし支配。
という状況となる。
それぞれが支配地の国人衆をまとめ配下とし、戦国大名となる。
これらの戦国大名の侵攻で、美作国(岡山県東北部)をめぐる勢力図は目まぐるしく変わる。
美作三浦氏は、尼子氏の侵攻を受け協調しつつ、浦上氏に従う。
そんな難しいバランスで家中を治め、美作国西部を制し有力国人となる。
そこに、尼子経久から家督を継いだ嫡孫、晴久が、美作の支配力を強めると侵攻してきた。
出雲・隠岐・備前・備中・備後・美作・因幡・伯耆、山陰山陽十一カ国のうち、八カ国の守護となる強敵だ。
美作三浦家にも、尼子氏の軍事攻勢が強まり、家中への調略も進んでいく。
中途半端な接し方では対応しきれなくなる。
三浦家当主、貞久の弟、貞尚は、近隣の国人、赤松氏の譜代の重臣、大河原氏に養子入りしていた。
そこで、尼子晴久は、赤松氏・大河原氏・三浦氏を一挙に取り込もうと考える。
叔父、尼子国久(経久の次男)の娘と大河原貞尚との結婚だ。
三浦貞久も承知しており、強力な支配力を持つ尼子晴久の影響力が強くなるのをやむを得ないと受け入れた。
大河原貞尚は、尼子一門として、縁戚の津山守護代、中村氏に尼子氏配下となるよう持ち掛けていく。
尼子派と浦上派の対立が激しくなる中、浦上氏を裏切れない中村氏は、尼子氏と戦う。
尼子晴久(妻は国久の娘)が攻め込み、一五四四年、勝利した。ここから、中村氏は配下となった。
以後、尼子氏の力が浦上氏を凌ぎ、美作三浦家もより強い影響を受けていく。
勝山の地は、尼子氏も浦上氏も支配下に置きたい需要な地だった。
だが、尼子氏は武力で制圧するまでは出来ず調略で影響下に置いていくしかなかった。
浦上氏は、尼子氏の侵攻を撃退することはできず、守りに入っていく。
美作三浦氏は、尼子氏が攻め込む中、どうにか守り独立性を保つ。
尼子氏の影響が強まっていくが、浦上氏との関係も続く状態を保った。
一五四八年、知将であり軍事にも強く存在感を発揮し、浦上氏・尼子氏の間でバランスを保っていた三浦家当主、貞久が亡くなった。
この時を待っていた、尼子晴久が攻め込む。
浦上氏から軍勢が送られきたが、晴久は強く、支援もむなしく落城する。
居城を乗っ取られ、美作三浦家は浦上氏との縁を断たれ、尼子氏の支配下に入る。
美作三浦氏が、独立性をなくし、落ち目となった一五四九年、おふくの方が生まれた。
尼子氏配下となったが、一族・家中・領民の暮らしが大きく変わることはなかった。
おふくの方は、赤子の時期が過ぎ歩き始めると、あどけない顔ながらも観音菩薩を思わせる美しさ・賢さを見せ始める。
幼子でありながら、慈愛に満ちた笑顔をふりまき、皆、癒されると感動する。
そして母に連れられ、湯原温泉に行くことが増えていく。
すると、驚くほど柔らかく、弾力性のある肌を持つ素肌美人となっていく。
尼子氏配下であっても、公式行事があると三浦一族として勝山城に呼ばれることもある。
その時、母は、おふくの方に最高の化粧をする。
すると、透き通るような素肌は白粉を塗っても吸収し、幾層にも深みを帯びて輝き、整った目鼻立ちをくっきりと引き立たせる。
美しい顔立ちの中で特に目立つのは、黒目のはっきりした澄んだ瞳。
その瞳で見つめられると、皆、包み込まれたように満ち足りた気分になる。
おふくの方の人知を超えた美しさが、三浦一族の救世主になるとのうわさが広まっていく。
三 三浦貞勝とは
美作真島郡の話題の姫、おふくの方には、数多くの結婚が申し込まれる。
そして一五五九年、三浦家当主、三浦貞勝の妻に選ばれる。
三浦一族の娘には、当主の妻に選ばれるのは最大の栄誉であり父母も家中も大喜びした。
おふくの方も「殿様(勝山城主)に嫁ぐなんて信じられない。夢が実現した」とご機嫌だ。
おふくの方は、勝山(高田)城下の屋敷に住み、軍勢が行き来する騒々しい雰囲気の中で育った。
勝山(高田)城は尼子氏に支配され、城主は人質になり、居なくなったが、秩序は維持され、変わらない暮らしがあった。
尼子氏の城代が居り、三浦一族の肩身は狭く、むなしく苦渋の時も多いが「いずれ殿様が帰ってくる」と家中は信じ悲壮感はなかった。
勝山城主、三浦貞久の次男、三浦貞勝は、一五四三年、生まれたが、嫡男の兄がおり当主になるはずがなかった。
貞勝の父、貞久は、尼子晴久の再三の攻撃にも怯まず三浦勢を率い戦う名将だった。
知謀を駆使し立ち向かい、尼子晴久は勝山城を落とすことが出来ず引き返した。
ところが、一五四八年、貞久が急死する。
残されたのは七歳の嫡男の兄、貞広と五歳の次男、貞勝。
叔父(父の弟)貞盛が後見となり、貞広が後継となるが、代替わりの混乱に乗じて尼子晴久が勝山城に攻め込み、三浦勢は敗れた。
兄、貞広は尼子氏に拉致され尼子氏本拠、月山富田城で人質となり、勝山城は尼子氏家臣が城代となり支配する。
三浦貞広は、人質ではあるが、尼子晴久に気に入られ、配下の有力国人衆、美作三浦氏、当主として大切にされた。
尼子氏一門から妻を迎え、晴久から武将の心得を教えられ、熱心に武芸を学ぶ。
居城には戻れないが、いつか戻る日があると確信し、貞盛との連絡を密にしながら、その日に備えた。
尼子氏は京極氏の庶流。
出雲守護が京極氏となると、在地の守護代となった。
京極家は、近江・飛騨・出雲・若狭・上総の五カ国守護となり権勢を誇った時があった。
時が過ぎ内紛もあり、一四八六年、晴久の祖父、尼子経久が、京極家を追い出し、独立し、出雲を支配する。
経久は稀代の名将と謳われた英雄で、多くの譜代の家臣を育てながら、勢力を広げ、西国の雄、大内氏と並ぶ勢力となる。
一五三七年、晴久が家督を継ぐと、石見銀山を大内氏から奪い直接支配した。
石見銀山は一五三三年に朝鮮から伝えられた「灰吹法」による銀精錬技術が軌道に乗り始めた頃だった。
銀産出量を飛躍的に伸ばすことが可能となった時に、晴久は銀山を手に入れた。
貨幣としての銀需要が高まった時でもあり尼子氏に巨大な資金をもたらした。
こうして、晴久は尼子氏最大の山陰・山陽八ヶ国約二百万石を有する大大名となる。
一方、浦上家は、美作三浦氏の援軍要請に応えきれなかったが、取り戻すための支援をすると約した。
そこで次男、貞勝は、浦上氏を信じて、三浦氏再興のために浦上氏の元に逃げた。
浦上氏は古代豪族、紀氏を祖とする。
紀氏は後世、紀貫之など文人で有名だが、播磨国揖保郡(いぼぐん)浦上郷を拠点に武家として勢力を伸ばした一族がおり浦上氏を名乗る。
鎌倉幕府を倒すためにいち早く動いた赤松氏に従い室町幕府樹立に功を上げる。
室町幕府が成立後、赤松氏一族が播磨・摂津・備前・美作と四カ国守護となると、備前守護代となる。
赤松氏が幕府と対立し勢力を弱めると、浦上村宗は一五二一年、赤松氏を討ち果たし成り代わる。
下克上を成し遂げたが一〇年後、急死。
村宗の後を継いだのは幼い嫡男、政宗(1525-1564)。
弟に宗景がいた。
まだ幼少であり、赤松氏と和睦する。
成長と共に、浦上氏は赤松氏を凌駕する力を持ち、播磨備前の領地の回復を成し遂げる。
だが、尼子氏の侵攻を受ける。
一五五一年、大内(おおうち)義(よし)隆(たか)が一族の陶(すえ)隆房(たかふさ)に討たれる。
大内氏は、山口を中心に大勢力を誇り、西国の覇者とされていた。
周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の六か国守護で、対外貿易を握り資金が潤沢にあり、美作・備前にも勢力を伸ばし、尼子氏と対峙することが多かった。
大内氏嫡流を滅ぼした陶(すえ)隆房(たかふさ)だったが、一五五五年、宮(みや)島(じま)厳(いつく)島(しま)の戦いで、安芸広島を本拠とする毛利元就(もうりもとなり)に負け滅ぼされる。
ここで、元就は山口入りし、大内氏に成り代わった。
一五五一年、政宗は、尼子氏には勝てないと同盟を結ぶ。
分家した弟、宗景は、毛利氏に従うと決めた。
尼子氏・毛利氏の戦いは激化しており、兄弟で争うことになる。
貞勝は、勝山城奪還を目指し、尼子氏と戦う決意であり、浦上宗景に従う。
政宗は尼子氏に支援され、播磨を押さえていく。
弟、宗景は、毛利氏と結び備前美作を得る。
兄弟並立した状態になる。
すると、苦渋の日を送っていた赤松氏勢も復権を目指し動く。
浦上政宗と浦上宗景、赤松氏が、小競り合いを続ける緊張した情勢となる。
貞勝はいらいらしながら待つが、勝山城奪還は進まない。
長年、尼子氏と戦ってきた元就だったが、形勢は大きく逆転した。
大内氏の権益を奪い取り、軍事力も資金力も格段に増やし、尼子氏以上の力を持つ。
ここから、中国地方全域に勢力を広げるべく、尼子氏打倒の破竹の進撃を開始する。
尼子対毛利の戦いが本格的に始まった。
それでも、元就は慎重だった。
毛利勢はまず石見・出雲に侵攻し、備前・美作までは本腰を入れては攻め込まなかった。
確実に一歩づつ尼子勢を追い詰めていく。
浦上家にも緊張が走る。
尼子氏に与した嫡男、浦上政宗は、毛利家に与した弟、浦上宗景に、脅かされるようになった。
勢いが付いた宗景は、先陣きって尼子氏との戦いを始める。
三浦貞勝は、浦上宗景の居城、天神(てんじん)山(やま)城(岡山県和気郡和気町)で長年過ごし、勝山城に戻る日を夢見ていた。
ようやく時が来たと震える。
勝山城は尼子氏の配下にあったが、戦いが始まれば貞勝に従い戦う手筈を密かに整えた。
浦上宗景は、勝山城奪還の戦いでは後ろに控える。
三浦家の戦力を前面に押し出し戦うのだ。
一五五九年、貞勝は、一六歳になっていた。
自らの力で、勝山城を取り戻すと血が騒いでいた。
毛利元就は、長年、石見銀山を手に入れることを夢見、石見侵攻に本腰を入れ、攻勢をかけた。
迎え撃つ晴久も、宝の山、石見銀山を渡すことはできず、必死で、尼子主力軍勢を投じ守る。
その為、勝山城の守備兵の多くも駆り出された。
貞勝にとって思いがけず絶好の時が来た。
守りが手薄になった勝山城の尼子勢を、浦上宗景の支援を得た三浦勢が襲い、追い払い、一一年ぶりに城を取り戻した。
城主の留守を耐えた家臣、領民は大喜びで貞勝を救世主と称えた。
領民、家臣、三浦一族の支持を得た貞勝は、浦上氏に推され、人質のままの兄、貞広を差し置いて城主になる。
城を取り戻し勝利に酔う貞勝に、想像以上の幸運が舞い降り、感極まる。
すぐに、結婚相手を誰にすべきか一族重臣の協議が始まる。
貞勝は浦上宗景により元服しており、その際、結婚相手も決まるはずだった。
だが、宗景は兄、政宗との抗争が最大関心事であり、必死の攻防を続けていた。
三浦家次男でしかない貞勝が、兄を継いで当主となるかはっきりわからない時だった。
間違いなく、三浦家当主となった時点で、浦上一族の娘と結婚させ、取り込めばよいと考え、結婚相手を決めなかった。
重臣一同、浦上宗景が推す女人がいないのなら、三浦一族から迎えたいと話し合った。
貞勝が新当主として三浦家中を一つにまとめるために、最適なのはおふくの方だと、皆の意見がまとまる。
それほど、おふくの方の名が知られていたのだ。
また貞広が戻れば当主になるべきであり、それまでの中継ぎでしかない貞勝の結婚は格式にこだわるべきでないと皆思っていた。
この結婚を、浦上宗景が認めるよう働きかけたのは、おふくの方の母、鷹取(たかとり)氏だ。
母の妹が浦上宗景の重臣、鷹取(たかとり)備中守に嫁いでいたことで、鷹取(たかとり)備中守が取り次いだ。
貞勝が、五歳で浦上氏の元に逃げた時、迎えたのが、鷹取(たかとり)備中守であり母の妹だった。
以後、一一年間、貞勝の世話をしており、貞勝は、父とも思い慕った。
その鷹取(たかとり)備中守が、浦上宗景に取次ぎ、浦上一族でないおふくの方と貞勝の結婚が許されたのだ。
菅原道真を始祖とする美作菅家は平安時代から美作東部、美作国勝田郡(岡山県勝田郡)の治安維持を担い、支配していた。
その後の長い歴史の中で分家が生まれ、美作菅家七流となる。
そのうちの一つが鷹取(たかとり)氏。
宇喜多家重臣、戸川秀安は、菅家七流の嫡流、有元氏の分家、富川(戸川)家に養子入りし継いでいる。
鷹取(たかとり)氏一族で、備前に移り、浦上家家臣となった鷹取(たかとり)備中守。
鷹取(たかとり)備中守の弟、彌四郎は浦上宗景の娘婿となった。
鷹取(たかとり)備中守の妹は、戸川秀安に嫁ぐ。
貞勝は次男で、当主は嫡男の兄であり、当主になるとは考えもしなかった。
ところが、運よく、尼子勢を追い出した大功で、勝山城主になり当主となった。
兄の了解を得ておらず、家中の一致とも言い難く、戸惑うことが多いが。
先行き不安もあるが、浦上宗景の後ろ盾があるということは大きく、三浦家当主にふさわしくなると決意を固める。
そして、一族のおふくの方との結婚が決まったのだ。
恩を感じている鷹取(たかとり)備中守の縁者であり、三浦一族だ。
それでも家臣の娘であり、まだ慣れない勝山城に迎えることになるが、気づかいする必要もなく、気が楽だ。
しかも、才媛の誉れ高い絶世の美女と聞きうれしくなった。
ようやく取り戻した城だが、尼子勢が黙っているわけがなく、今まで以上に熾烈な戦いが続くはずだ。
おふくの方との結婚で家中をまとめることが出来る。
当主として自信をもって尼子勢と戦えると、熱い心がみなぎる。
すると幸運は続く。
一五六一年、どうあがいても、勝てない相手だった尼子晴久四七歳が急死したのだ。
尼子氏の勢力は急激に落ちていく。
それでも、貞広は尼子氏に人質のままで、戻る様子はなかった。
貞勝が当主であることに変わりはなかった。
ところが結婚式の直前、元就から備前・美作の平定を任された備中松山城(岡山県高梁市)主、三村家親が先鋒となり、毛利勢が勝山城に攻め込む。
同盟軍のはずの三村家親に攻め込まれ、三浦勢は右往左往した。
落城寸前まで追い込まれるが耐え城を守った。
この時の同盟関係は入り組み複雑だ。
浦上宗景は毛利氏と同盟を結んでいる。
三浦家を襲った三村家親も毛利氏と同盟を結んでいる。
三浦家は尼子氏に属したが、尼子勢を追い払い、浦上宗景に従いつつ、ある程度の独立性を保とうとしていた。
ところが、三村家親は、尼子氏に成り代わり、尼子氏配下の国人衆をそのまま配下に置こうとしたのだ。
毛利氏に属しながらも独自の支配網を築こうとした。
元就が、備前美作に本気でないのを見越したのだ。
三浦氏を直接支配したく攻め込んだ。
貞勝には、直接、毛利氏と同盟を結び配下になるならまだしも、三村勢に屈することは出来ない。
頼みの浦上宗景は兄、政宗との戦いがあり、毛利氏の支援を絶対必要としており、毛利家を裏切る気はない。
それゆえ、元就に信頼されている三村家親と戦うために援軍を送るのは最小にしたい。
美作支配は重要であり、三村家親の思うままにはさせない考えだが、先送りするしかなかった。
貞勝は、頼るべき味方がなく、先行き不安に陥る。
いつまで勝山城を守れるか、将来どうなるかもわからない。
それでも三村勢を追い払い婚儀が執り行われた。
家中の期待を受けて、まだ幼さの残るおふくの方一二歳は、勝山城主、貞勝一八歳と結婚する。
おふくの方は勝山城入りするまで、三浦貞勝に会うことはなく、夢見ただけだ。
想像しつつ幸せに浸っていたが、現実は違った。
貞勝は、逞しく雄々しい武将だと思い込んでいたが、苦労の連続ゆえか神経質そうな険しい顔の大人だった。
伸びやかに育ったおふくの方だが、勝山をめぐる攻防は良く分かっており、不安も戸惑いもあった。
一五四八年尼子氏の配下になった。
一五五〇年代、毛利氏・浦上氏が美作の覇権を奪い返そうとし、いくつもの攻防戦があった。
一五五三年、勝山での戦いは壮絶だった。
尼子晴久勢(浦上政宗・庄為資・松田元堅)二万八千の大軍に対し、毛利元就・浦上宗景・三村家親勢一万五千の軍勢で戦うが負けた。
尼子晴久の勝山支配が改めて確定した戦いであり、以後、変わりなく、勝山城は尼子氏の城代が治めた。
この戦は、おふくの方がまだ幼い時でありよくは覚えていないが、語り継がれた。
そして、尼子氏の勝山城撤退となるが、大きな戦もなくいつの間にか奪還したと言う感じだった。
嬉しくて、家族一同喜んでいるとき、結婚の話が伝えられた。
二重の喜びに華やいでいた時、味方であるはずの三村家親の勝山城攻めだ。
初めて身近に起きた戦いであり、激しさに身も心もすくんだ。
これからも戦が続くと思うと、恐ろしい。
母は、こともなげに、話す。
「武将とは戦いをする人。戦いがあるから武将なのです。しかも貴女は、その大将の妻となるのです。戦いを恐れてはいけません。勝ち負けは時の運。笑って受け入れなさい」と。
その言葉はきつかったが、優しさが溢れており「きっとどうにかなる」と心落ちかせる。
母の言葉を胸に大切にしまい、嫁いだ。
一度思い定めるとおふくの方は強い。
貞勝は緊張していたし、周囲にも張りつめた雰囲気があったが、動揺することはなかった。
自然に、結婚の儀を滞りなく終えることが出来た。
四 最初の結婚生活
晴れやかに輝くおふくの方の美しさに城中は未来への希望が出たと湧いた。
結婚の儀を終える頃には、貞勝はほっとした嬉しそうな顔になり、じっと見続けたおふくの方も、ようやく笑顔がこぼれる。
絶世の清楚な美女と若き当主との華やかな組み合わせを祝して、周囲はお祭り気分で盛り上がる。
現実から目を離し、しばし賑やかに騒ぎ楽しんだ。
すぐに戦いは始まり、続く。
三村家親勢は強く貞勝は守勢一辺倒だ。
頼みの浦上宗景の支援は少ない。
おふくの方も戦いに慣れていく。
行きつくところまで戦い、最後は潔く降伏するしかないのだ。
臣従する和議を結びさえすれば、命を取られることはない。
それでも勝ち目のない戦さに消耗する。
一五六三年、浦上宗景が兄、政宗と和解し毛利氏と決別した。
ここから堂々と三浦勢に加勢し、三村勢と戦うはずだった。
貞勝は生き返ったと嬉しそうに、宗景の全面支援を受けて三村家親と真っ向勝負を挑むと気勢を上げた。
だが、浦上宗景は毛利勢との戦いが始まり、備前平定に力を注ぐしかなくなる。
美作北中部になる勝山には主力を注げない。
三浦家中は「浦上家は三浦家に何もしてくれない」と絶望感が漂う。
貞勝は備前で育ち突如、藩主になって四年でしかない。
兄、貞広を当主と信奉するものも多い中、家中を掌握しきれていない。
家中の大勢は、尼子氏の城代が入って以来、三浦家の政務を取り仕切った叔父、貞盛に従う。
尼子氏の尖兵となり戦い続けて、家中の信頼を得ている。
金田弘久・牧氏・福島氏・船津氏・長力氏など譜代の重臣も貞盛の顔色を見つつ、貞勝の指示に従う状況だ。
勝山で育ち、この地の観音様とも尊ばれるおふくの方は人気者だが、貞勝は同じようにはならない。
勝山城主でありながら、浮いた存在でしかないと、肩を落とす時もある。
おふくの方を愛することで、すべてを忘れたいとおふくの方を抱きしめる日が多い。
翌一五六四年、おふくの方に嫡男、桃寿丸が生まれる。
嫡男の誕生で、家中の雰囲気が変わっていく。
勝山城で後継が生まれると、貞勝は、勝山城主としての風格が備わった。
家中も当主と認めるようになる。
すると、家中の士気も高まり、ようやく城主らしくなる。
おふくの方は妻として母として光り輝いた。
貞勝は勝山城の守りに専念し、備前に行くことはなくなる。
おふくの方は、貞勝と日夜共に過ごせ、幸せだ。
結婚当初からおふくの方は大胆だった。
湯原温泉の経験は楽しい思い出で、裸になることに恥ずかしさはない。
貞勝の前でも裸身を惜しげもなく披露し、貞勝はまばゆい裸身に息をのんだ。
桃寿丸が生まれ、二人の愛はより強くなり肉体の触れあいも大胆に楽しむ。
明日の命が定かでない緊迫した状況が続き、より激しい愛となる。
それでも、貞勝は、叔父、貞盛に対し萎縮した関係が続いている。
当主をないがしろにし、思いのままに三浦家を采配する貞盛をどうすることもできない。
貞勝自身が自分では勝路を開けないと思い込むときもあるほどだ。
本当に自分が当主でいいのか自問する事もあるほど落ち込む。貞盛の存在は大きい。
無力感に打ちひしがれ、おふくの方との愛に、のめり込み逃避する時もある。
三村家親の勢力はますます強まり勝山地域に度々侵入し、三浦氏配下の豪族が次々毛利氏方に寝返っていく。
貞勝は、食い止めることはできず、現状打開の為には浦上氏に支援を乞うしかない。
尼子氏を滅亡させるのは時間の問題となった毛利勢の力は強まるばかりだ。
三村家親も力任せに攻め込むばかりではなく、毛利氏配下として三浦家の調略を進めた。
三浦家中にも、尼子氏に成り代わった毛利家に属するしか生きる道はないと思うものが増えていく。
一五六五年一月(旧暦では年末)、重臣、金田弘久の手引きで三村勢は、簡単に勝山城内に侵入しあっけなく乗っ取った。
金田氏は、三浦氏の将来を危ぶみ、被害を抑えるために城を明け渡すのが得策と考えた。
おふくの方や貞勝など一族が安全に城を脱出する万全の手配をしていたが、予期しない小競り合いが起き貞勝は負傷した。
一族揃い落ち延びる途中、貞勝は戦傷が悪化し「桃寿丸を任す。良き後継ぎとするように」とおふくの方に言い残し亡くなる。
惨めな逃避行の中でもおふくの方に看取られて「精一杯生きた」と幸せそうな最後だった。
結婚生活は四年で終わる。
貞勝は二二歳だった。
おふくの方は夫の死に顔を胸に刻む。
戦国武将の末路を目の前で見た。
とても愛した夫だが、三浦家当主としては気弱さがあった。
おふくの方は叔父、貞盛ら一族重臣と今後を話し合う。
貞盛は再起を期して近在に残る。
貞広を三浦家当主と考えており、貞勝を貞広が戻るまでの中継ぎとして扱った。
その為、桃寿丸を主君だと思うこともなく、独自に城の奪還を目指す。
貞盛から桃寿丸を冷たくあしらわれ、夫の死と合わせ、おふくの方は、悲しみと悔しさで涙が溢れた。
夫、貞勝の最後の言葉に気を奮い立たせ、勝山城を奪い返し、美作三浦氏当主、桃寿丸とすると決意する。
桃寿丸のつぶらな瞳はきっと出来ると見つめている。
貞盛らと別れ、縁戚になる近習、牧国信と江川小四郎に守られて、桃寿丸・侍女らと共に美作から旭川を下り、備前加茂川村下土居(岡山県加賀郡吉備中央町)の土井家に落ち延びる。
当主、土井次郎右衛門の妻は、三浦家から嫁いでおり、貞勝の叔母になる。
貞盛と連絡を取りながら再起を図ることになるが、貞盛に頼りたくなく、桃寿丸を擁して独自のお家再興を目指す。
貞勝が頼みにした浦上宗景は、今まで幾度もあった三浦家の危機に十分な軍勢を送ってくれなかった。
おふくの方は「三浦家を守ろうとせず、守る気もない。夫、貞勝は見殺しにされた」と宗景を憎んだ。
気持ちは浦上宗景から離れており、主君とは思えない。
三浦家の再興を宗景ではなく、宗景の一番の重臣で主君を凌ぐ実力者として勇名が知れ渡っている宇喜多直家に託そうと考える。
おふくの方の思いを後押しするように一五六六年、夫の仇、三村家親が日本初の鉄砲による狙撃で撃ち殺された。
宇喜多直家の企てた暗殺であり、おふくの方にとって胸のすく快挙だ。
正攻法で三村家親と戦っても勝利が難しいと判断した直家が、側近、遠藤秀清・俊通に密命を出したのだ。
彼らは、闇に紛れて命がけで三村家親の陣中に入り込み、昼間の軍議を隠れ見て家親が座る位置を確認し、狙いを定めた。
夜の軍議が始まり、直ぐ側にいる警護が離れる一瞬を待ち、闇の中から鉄砲を撃ち命中させたのだ。
そして悠々と逃げた。
この頃、鉄砲の威力を知るものは少なく、家親の家臣は何が起きたかを理解できず、しばらくは呆然とするだけだった。
おふくの方は、詳細を聞き、鉄砲の威力、直家の智謀に心躍った。
思い描いていたことが、正夢となった。
直家の生誕地近くの備前長船は、刀剣の産地として有名だったが、鉄砲鍛冶としても技術を磨き、抜群の精度で作ることができた。
叔父、貞盛は好機到来だと、三村家親の死の混乱に乗じて勝山城を取り戻し城主となる。
まもなく、義兄、貞広が勝山に戻る。
尼子氏は晴久の子、義久が引き継いだが、毛利勢に追い詰められ投降した。
毛利氏に居城、月山富田城(島根県安来市広瀬町)を引き渡し、義久は、囚われの身となる。
その時、貞広主従に、勝山に戻るよう命じた。
勝山に落ち着いた貞広は「三浦家再興を一瞬たりとも忘れたことはない。戻れて良かった」と、家中に当主として労をねぎらった。
長く人質となり苦労もしたが、尼子晴久に可愛がられ、尼子氏ゆかりの妻と子も居る。
尼子一門として、尼子氏を倒した毛利勢への憎しみも強い。
だが、体勢を立て直し毛利氏の支援を受けた三村氏一族が猛烈な反撃を開始した。
一五六八年、勝山城を奪われ、叔父、貞盛は戦い抜いて壮烈な討ち死だ。
貞広は、勝山城奪還に執念を燃やすことになる。
三浦家の嫡男として育ち三浦家嫡流の責務だと意志は固い。
五 宇喜多直家とは
おふくの方が見込んだ宇喜多直家は下克上の時代を代表する武将だ。
悪逆の限りを尽くす非道な男と皆が言う。
それでも亡き夫、貞勝の無念を晴らし、桃寿丸を勝山城城主とするために、最も頼りになる武将と確信している。
直家以外に頼る人はない。
宇喜多氏は、百済王族が備前児島半島に漂着し、始まったとされる。
時を経て、備前守護、赤松氏に仕える備前守護代、浦上氏に仕え、重臣となる。
室町幕府成立に貢献した赤松氏は恩賞として播磨・摂津・美作・備前の守護職を得た。
豊かなこの地を支配し、将軍を脅かすほどの強大な力を持つ。
恐れた室町幕府将軍、足利義教は赤松家の分断を図る。
内紛を起こさせる謀略に怒った赤松勢は決起し一四四一年、将軍を殺害する。
だが追討軍に敗れ赤松(あかまつ)満祐(みつすけ)は自害し嫡流は滅びる。
代わって、山名氏が守護となり、赤松家中の多くが行き場をなくす。
嫡流亡き後、満祐(みつすけ)の弟の孫になる赤松政則(1455-1496)がわずか生後七ヶ月で赤松家を継ぐ。
守護代、浦上則宗(1429-1502)が養育係となり、赤松家再興に力を尽くした。
ここで、浦上氏は、一躍、家中第一となり重きをなす。
勢いをなくした赤松家に比べ、成り代わった山名氏は勢いを増した。
幕府将軍、義政は、恐れ、山名氏の力を削ごうとする。
そこで、山名氏対抗勢力として細川氏を頼り、権限を持たす。
細川氏は、将軍の意向に沿い、赤松政則を支え、山名氏と戦わせていく。
ここから、赤松勢は徐々に復権を果していく。
一四六七年応仁の乱が起きると、赤松政則は東軍、細川勝元側に属し、西軍、山名宗全勢を追い払い、播磨・備前・美作を取り戻す。
だが、応仁の乱が終結し、将軍は、義尚となる。
すると、前将軍、義政に近かった赤松氏は嫌われ、中央政治から追われる。
しかも、一族間での後継者争いがあり、領国内では山名氏旧臣の反乱が続く。
守護、赤松政則では抑えきれず、幼い時から側にいた浦上則宗に頼らざるを得ない。
浦上則宗は、赤松政則以上の力を持っていく。
一四九六年、赤松政則四一歳が後継を決めることなく急死する。
浦上則宗(うらがみのりむね)が中心になって後継者を決める。
政則には男子、村秀がいたが、幼く庶子であり後継にはふさわしくない決めつけ排除した。
そして赤松政則の娘、小めしに赤松一門の義村を婿養子に迎え当主とする。
義村は、運よく家督を継ぐことができたと喜び、浦上則宗・小寺則職の補佐に素直に従う。
だが、成長と共に、親政を執りたくなる。
そんな時、一五〇二年、浦上家を赤松氏第一の臣とし、赤松氏を上回る戦力を持つまでに大きくした浦上則宗が亡くなった。
則宗の嫡孫、村宗が後を継ぐ。
ここで赤松義村が蘇り、元気になる。
今まで、浦上則宗の言うままだったが、村宗には主君として命じる。
だが、浦上村宗も、義村に家督を継がせたのは浦上家だという自負があり負けない。
思うようにならない赤松義村は、焦り、ついに、浦上村宗打倒に立ち上がる。
密かに味方を集め用意周到に準備し、一五一九年、決起した。
赤松義村は優勢に戦を進めたが、決着が付かないまま戦いが長引く。
この間、浦上村宗は周辺の国人衆へ浦上支援を働きかける。
赤松家再興に大きく貢献した浦上勢こそが政治力・軍事力とも、赤松義村より上であると訴えた。
すると、支持が広がった。
有利な体勢を作ることが出来、勝利を確信した。
一挙に義村を討ち取ると戦い追い詰め、逃げる義村を追って播磨の奥深く侵攻した。
義村の策に浦上村宗は乗せられたのだ。
待ち構えていた赤松勢が襲い掛かり、反対に絶体絶命の窮地に陥る。
この時、村宗を救ったのが能家(よしいえ)だった。
赤松義村勢と戦う浦上勢の中で、ひときわ輝く名将が宇喜多能家(よしいえ)だった。
ここから、宇喜多家全軍をあげてすさまじい反撃に出る。
予期しない反撃に浮き足立った赤松義村勢に、容赦なく襲い掛かり一五二一年、赤松勢に勝利。
浦上村宗は、赤松義村を隠居させ、続いて幽閉し、殺した。
義村の嫡男、赤松晴政八歳を当主に据え、赤松家の実権を握る。
勝利の一番の功労者、能家(よしいえ)は、浦上村宗の全幅の信頼を得て、浦上家中一の地位を占める。
以後、浦上村宗と固い絆を結びつつ、浦上氏の勢力を伸ばしていく。
一番家老だった島村盛実は、地位を奪われ二番家老に格下げとなり、煮えくり返る思いだ。
こうして、浦上村宗は、赤松氏に成り代わり播磨・備前・美作守護になろうとしていた。
ところが、一五三一年、村宗に恨みを持ち続けた主君、赤松晴政が裏切り、浦上村宗を殺した。
村宗を唯一の主君として仕えた年老いた能家(よしいえ)も、がっくりし隠居を決める。
砥石(といし)城(じょう)(岡山県瀬戸内市邑久町豊原)に籠り、村宗の菩提を弔う。
能家(よしいえ)を継いだのが、嫡男、興家(-1540)。
浦上村宗の後を継いだのが幼少の政宗(1525-1564)だった。
ここで、一〇年も耐えた長年の筆頭家老、島村盛実は、威厳を持って浦上政宗の筆頭家老に復帰した。
赤松晴政との戦いを続けるために有利な室山城(兵庫県たつの市)を拡張整備し、浦上政宗の居城とする。
今までの本拠、三石城(岡山県備前市三石)を政宗の弟、宗景が守ることになる。
そして、宇喜多興家を、島村盛実が分家させた浦上政宗の弟、宗景の筆頭家老とし、浦上家嫡流から引き離した。
興家は父ほどの実力はなく、島村盛実の思うままに追いやられた。
この時、興家の妻、浦上氏が、政宗に付き従った生母に変わり、宗景の母代わりとなり夫、興家と共に側近く仕える。
興家と浦上氏の子が直家。
こうして宇喜多家を引き離し隔離した後、一五三四年八月、島村盛実が村宗の遺志だと砥石城の能家を奇襲し自害させた。
当主、浦上政宗の名で、砥石城を乗っ取ったのだ。
興家は居城を奪われ、追撃を受けながらも、かろうじて逃げ、宇喜多家はちりじりになった。
島村盛実は、浦上政宗と浦上宗景の両方の浦上家筆頭となり赤松家中で並ぶもののない権力を得た。
祖父、能家(よしいえ)を殺され、五歳の直家は父、興家とともに備後(広島県東部)鞆の津(福山市鞆)まで逃げた。
母は、宗景の元におり無事だ。
浦上村宗は、能家(よしいえ)への褒賞として、浦上家筆頭家老嫡男、興家と村宗の姪、浦上氏とを結婚させ、一門としていた。
母、浦上氏は、この事態にどうすべきか考えるが、宗景を守ると覚悟を決め、三石城を動かなかった。
母、浦上氏は、三石城入りする一五三一年、宇喜多家の奥を任せる侍女を幾人か選んでいた。
興家・直家の世話を頼んだ。
その中の一人が、旧知の備前福岡(瀬戸内市長船)の豪商、福岡屋、阿部善定の娘だった。
阿部善定の娘との間に、一五三二年、春家・一五三三年、忠家が誕生する。
砥石城を襲われた時、興家・直家の側に居たが二人の子を連れ、逃げるよう命じられた。
やむなく「いつでも戻ってきてください。それまで子たちを守ります」と申し出て、実家に逃げた。
追放された後、興家主従は潜んでいたが、島村盛実(1509-1559)が「宇喜多家を追い払った」と満足し追手を出さなくなったと確認すると、一年後、そっと阿部家を頼り戻る。
阿部家に落ち着いた興家は、阿部善定の娘と結婚し苦難の逃亡生活を終わりにした。
興家は「宇喜多家再興のための戦に勝てる自信がない。文人として生きたい」と直家に話し、静かな生活を好む。
病弱であり、島村盛実の目をそらせるためにも、武士の誇りを捨てたように振る舞い、商人として控えめに暮らす。
そんな興家と家臣をつなぐ役目を戸川秀安(1538-1597)の母、妙(法名「妙珠」)(1511-1603)が担う。
妙は、宇喜多家譜代の重臣、長船家の出身で、興家側近、門田定安に嫁いだ。
ところが、一五三八年、戸川秀安が生まれるとまもなく夫は亡くなる。
すると、子たちの世話を頼む乳母を探していた興家に呼ばれ仕えるようになる。
以後、夫に代わって興家、春家、忠家に仕え、取次の役目もこなす。
猛女として名を残す活躍をしていく。
まず、秀安を美作の戸川氏に嫁いだ姉に託し、単身、忠家に仕える。
直家の信頼を得て、宇喜多家譜代の重臣、岡惣兵衛と再婚する。
こうして、妙を中心に宇喜田家三家老、戸川氏・長船氏・岡氏が繋がることになる。
おふくの方は「いよいよ時が来た。進まなくては」勇気を奮い起こし行動を開始する。
戸川氏とおふくの方の母方の実家、鷹取氏とは同族であり?がっている。
後に、おふくの方が直家との結婚を考えた時、心から喜び推した。
一五三九年、父、興家は、決意した。
自分では宇喜多家再興はできないと。
阿部家の婿として、生涯を終えようと。
そこで、一〇歳になった直家に宇喜多家再興に向けて働くよう命じる。
今まで仕えた宇喜多家旧臣に直家が当主であり、忠誠を尽くすようにと命じる。
直家は、旧臣を引き連れ、再起を期して、武将として能力を磨くため、叔母の尼寺、大楽院で修養することになる。
父と離れ独り立ちした。
興家は動かず、宇喜多家再興とは無縁のように振舞う。
大楽院は笠加村(瀬戸内市邑久町下笠加)にあり、かっての宇喜多家居城、砥石城から近い。
檀家のない尼寺だが広い敷地があり、民家と一体化しており直家の住まいとしておかしくなく、怪しまれない。
岡家利、長船貞親、河本久隆らが共に住み従う。
一見直家は将来僧になるための修行を始めたかのようだった。
だが、宇喜多家再興を目指し、宇喜多家当主としての帝王学を学ぶ毎日が始まる。
直家には、天性の文武の才があり、武芸を特に好んだ。
家臣達は、直家の中に祖父、能家の再来を見る。
父、興家は一五四〇年、浦上氏、島村盛実を欺き続け生涯を終える。
直家一一歳だった。
直家は、父の思いを胸に、家督を引き継いだ。
ちりじりになっている家臣を集めていく。
この日が来るのを待っていたと、耐えていた旧臣が集まってくる。
宇喜多家が浦上氏に滅ぼされた経緯を幾度となく聞き、苦労させた旧臣の熱い思いに応えたいと礼を尽くし迎えた。
彼らの苦労に報いる為に、必ず復讐すると、煮えたぎる思いで宇喜多家の再興に向けて動き出す。
直家の母も、密かに大楽院の義姉と連絡を取り合っていた。
母は、宗景乳母として、宗景居城、三石(みついし)城(じょう)(備前市三石)を動いていない。
ここから、大楽院尼との抜群の連携で、宇喜多家再興のための道を創っていく。
直家は、直家と直接連絡を取ろうとしない母に不安を感じることもあったが。
家督を継いだ浦上政宗(1525‐)は父、村宗の敵を討つと赤松晴政と戦を続けていた。
だが、雌雄を決することは出来ないまま尼子勢の侵攻を受けることになった。
尼子氏は強く、このままでは浦上家も赤松家も共倒れになるのがはっきりしてくる。
一五三七年、尼子勢の侵攻を食い止めるために、共に戦うしかないと、和睦した。
ここから、浦上氏は、赤松氏の筆頭家老として、尼子勢と戦う。
一五四二年、尼子勢を押し返し、赤松晴政を擁して、播磨備前を征する。
浦上政宗は、尼子勢に勝利したのは、自らの軍事力だと自信を深めた。
勢いをつけて勢力を広め、実質、赤松晴政の力を凌駕していく。
だが、浦上政宗は、成長していく弟、宗景(1526‐)に不安を感じ、自分を脅かす存在になる気がした。
そこで、三石(みついし)城(じょう)から天神山城(岡山県和気郡佐伯町田土)に移るよう命じ遠ざける。
赤松氏と決着をつける必要があり、備前の西と東に支配地を分け、当面の安泰を得ると決めたのだ。
宗景は、突然のことで、納得できなかった。
それでも、兄は強く、追われるように移るしかなかった。
そのいら立ちの中で、兄と決別し自らの信じる道を行くと決める。
まずは、天神山城の整備に力を注ぐ。
資金も家臣も減り心もとない。
それでも、兄に対抗できる力を持つと、戦力を強め、優秀な家臣を求める。
そこには、信頼する乳母、直家の母、浦上氏がいた。
直家の母は、宗景に仕え八年が過ぎ、三石(みついし)城(じょう)の奥を仕切っていた。
移った天神山城の奥は、所帯も小さくなり、親しくしているものばかりで、楽にまとめ仕切る。
「ようやく時が来た。宇喜多家再興の道筋をつける」と大きく息を吸う。
一五四三年、宇喜多家旧臣と図り、宗景に我が子、直家の仕官をさりげなく願い出る。
家臣が足りない宗景は喜んで召し抱える。
直家一四歳、宗景に仕えるために天神山城に行く。
浦上氏を滅ぼすことを心に誓い第一歩を踏み出した。
六 直家立つ
宗景は、宇喜多家追放の経緯を知っており、宇喜多家を信用すべきか疑ってもいた。
ただ、幼い時で覚えはないし、今は、直家の母を信用しており、慎重に直家の忠誠心を見極めると肝に銘じた。
直家は宗景の魂胆を見抜き、気の利かない一本気な性格の馬鹿正直な忠臣ぶりを装う。
母と直家との仲も一枚岩(いちまいいわ)ではない。
五歳で別れたきりの母とは縁が薄く、母は憎き浦上家の人だ。
母の手配で、宗重に召抱えられたのは恩に思うが、騙されてはいけないと心した。
母は、興家を愛し、宇喜多家滅亡後の悲惨な状況をよく見ており、宇喜多家の再興を成し遂げると決意していた。
忘れ形見、直家を一人前の武将とし、かっての宇喜多家にまで再興するという熱い思いがあった。
どこまで直家に通じているかわからなかったが。
直家は、宇喜多家滅亡は島村盛実の暴挙だと復讐を考えない日はないが、まず、浦上家重臣とならなければ、前へは進めない。
母の支えなしでは実現はあり得ず、母の指示に従う。
慎重な母は、宗景の側を離れず、直家と共に過ごす時は短かく、冷たい態度だ。
母の冷たさに落ち込むときもある。
それでも、幼い頃母に可愛がられた記憶はおぼろげながら残っている。
今時々見る母は、言葉の端々、容姿、考え方に共通するところを感じる。
一見、縁は切れたかのように振舞う母だが、温かい血の?がりを信じるしかなかった。
母は浦上家の人として、宗景と直家の間をうまく取り持つ。
宗景は、直家の母が直家を冷たくあしらい、別々の暮らしを保っているのが気に入った。
次第に、直家は、宗景の信用を得ていく。
翌一五四四年、宗景の元で元服し戦場に出る。
戦場では進んで危険な先鋒を努め、次々と手柄を立てる。
直家の戦いぶりは、武者としても指揮官としても見事だった。
宗景は喜び、吉井川河口で海に面した要害の小城、乙子城(岡山市東区乙子)を与える。
児島湾に面し瀬戸内を押さえる前線基地であり、争奪戦が激しい城だ。
戦いの最前線に立たされることを意味し、恩賞とは思えないが、一挙に、城持ちの重臣になったのは間違いなかった。
直家は宗景から戦力として期待されたのだ。
このまま進めば思いは遂げられると、宇喜多家の領地を取り戻すために、旧臣を集め浦上家中で突出した忠臣ぶりを示していく。
反面、宇喜多勢は、多くの犠牲者を出し、涙する日も多いつらい日々だ。
領地を得たが、戦さで与えられる役割を果たすにはとても資金がたりない。
備前福岡の阿部家らこの地の豪商の支援でどうにか繋いでいく。
継母にはなじめないところがあったが、阿部善定はいつも冷静に、直家の思い以上の資金を出した。
この地の経済力に驚きながら、期待に応えたいと戦い、勝利を重ねていく。
一五五一年、宗景は直家二二歳を浦上家重臣として認め、結婚相手を決める。
相手は宗景の重臣、備前沼(岡山市沼)城主、中山信正の娘だ。
直家は宗景の意図を読み取り、待ちに待った復讐の好機が到来すると心震えるが、身に余る光栄と殊勝に受け入れる。
中山氏は、西備前の雄として浦上氏と対立する松田氏の重臣だった。
宗景は松田氏との戦いに勝つ為に、島村盛実に中山信正調略を命じ、成功し味方に付けた。
松田氏を裏切った中山信正を、宗景は厚く迎え優遇したが、全面的に信用しているわけではない。
そこで自らの重臣、宇喜多直家との縁組みを決めたのだ。
中山信正と直家が固く結ばれ、お互いが牽制し合い、宗景を支えるようにと。
直家も、理解している。
妻を大切に、勇猛果敢な娘婿として中山家との友好関係を深める。
心の奥底にある凄まじい復讐劇の始まりだったが、まだ、じっくり機会を待つ。
異母弟、春家・忠家や戸川秀安以下家臣団も続々増えて、祖父以来の譜代の家臣団が揃っていく。
結婚後八年勇猛ぶりが鳴り響き、宗景になくてはならない存在になったと確信した。
時が来たのだ。
一五五九年、直家は「中山信正謀反の疑いあり」と証拠を挙げて宗景に内報する。
宗景は中山氏が謀反を起こす理由が見当たらず不審に思うが、中山氏の領地を完全に支配下に置くのは魅力的であり、直家を信じ、中山信正の成敗を命じる。
宗景の了解を得て、大義名分は整った。
だが、正攻法で戦えば兵力の損害は大きいと策を練る。
直家はもっとも被害の少ない方法、自らの領地に中山信正を招いて謀殺すると決める。
中山信正は、娘婿、直家を見込み信用していた。
難なく、中山信正を招き入れることが出来、近習共々密かに殺す。
次に、中山氏居城、沼城(岡山市東区沼)に中山信正から頼まれごとをされた娘婿として入る。
何食わない顔で中山信正の名を使い、島村盛実を、沼城に招く。
島村盛実は、自らが調略した中山信正の招きであり、度々寄っていた沼城であり、気楽に登城する。
城の奥に招きいれることが出来た。
ここで、突如、直家の手勢が取り囲む。
「信正と再々謀議を重ねていた」と謀反の動きを事細かに暴く。そして、殺す。
同時に、中山家中に謀反発覚を伝え、宗景の命令ゆえ直家に従うように告げ、そのまま沼城を押さえる。
中山家中はあまりに突然の展開に動揺するばかりで、反撃するものはいなかった。
事の次第を聞いた宗景は、直家のあまりの手際の良さに驚く。
中山信正・島村盛実は宗景の命令に素直に従わず、煙たく感じていた。
彼らがいなくなり、思うようにできる領地が増えるのは良いことだ。
直家の手柄と認めた。
こうして直家は島村氏に奪われていた宇喜多家の居城、砥石城を取り戻す。
長年の宿願を果たし、胸一杯だった。
居城を天神山城に近い沼城と決め、妻の実家ゆえ娘婿として後を継ぐと明言し、従うものはすべて召し抱え、今の待遇を安堵する。
肝心の妻は、実家への残虐な仕打ちに抗議して、沼城に移ることを拒否し自害する。
予想外だったが、やむを得ない。
すべきことが次々あり、立ち止まることはできない。
次に、津高郡金川(岡山市北区)城主、松田氏に目を向ける。
松田氏は浦上氏を脅かすほどの存在だったが、同盟を結んだ尼子氏の衰退と共に、次第に衰えていた。
一五六二年、松田氏を追い詰め、同盟を結ぶ。
条件は、
当主、松田元輝の嫡男、元賢と直家の娘との結婚。
松田氏の重臣、伊賀久隆と直家の妹との結婚。
ここから直家の腹心が、松田家に入り込み、慎重に重臣の取り込みが始まる。
宇喜多興家には、直家の妹、四人が生まれている。
いつ生まれたか生母はだれかはっきりしない。
初婚が主君一族、浦上氏。
再婚が身代懸けて尽くした阿部氏。
砥石城主だった頃から逃亡し備後国鞆津に隠棲した頃に、生まれたのだろう。
直家の母が宗景に仕えた一五三一年から、阿部氏と再婚し阿部家に落ち着く一五三五年の間に、生まれた可能性が高い。
生母ははっきりしないが、生まれた娘は、尼寺、大楽院で育てられた。
養女の可能性もあるが、直家の妹として嫁ぐ。
松田氏重臣、伊賀久隆と結婚する長女。
政略結婚。
浦上氏重臣、明石行雄に嫁ぐ次女、洗礼名、モニカ。
明石家を宇喜多家中に取り込み味方とするため。
宇喜多家譜代の臣であり一門の河本久隆に嫁ぐ三女。
一門としての結束力を強めるため。
おふくの方の側近であり、直家に仕えた牧国信に嫁ぐ四女。
一門として迎え、家中の重臣の地位を約する。
後のことだが、直家の娘は、おふくの方との子を除いて六人、
美作国人、美作三星城主、後藤勝基(1538-1579)に嫁ぐ長女。
一五七九年勝基は謀反人として殺され、刺客となる。
美作国人、久米郡中山城主、江原親次に嫁ぐ次女。
直家に信頼され、一万石重臣となる。宇喜多家重臣として続く良縁だった。
松田元賢(-1568)に嫁ぐ三女。
刺客となった。元賢が殺されると自らも死ぬ。
備前の有力国人であり、居城、金川城(岡山市)は直家に必要だった。
浦上宗辰(1549-1577)に嫁ぐ四女。
刺客となる。
長年の宿敵、浦上宗景の嫡男であり毒殺。
但馬竹田城主、赤松政広(1562-1600)に嫁ぐ五女。
赤松氏を取り込む刺客だったが、秀吉に従い良縁となる。
重臣、明石全登(1567-1618)に嫁ぐ六女。
明石行雄の子であり宇喜多一門として迎えられ、かけがえのない重臣となる。
直家にとって政略結婚は、家中をまとめるためにも、宇喜多家の勢力伸長のためにも、必要不可欠な政策だった。
それでも、刺客ばかりではない。
良縁となった結婚も多い。
七 おふくの方二度目の結婚
おふくの方は、伊賀家の分家、土井氏に身を寄せ、大切にもてなされた。
そこで、さりげなく叔母婿、土井次郎右衛門に「本家当主、伊賀久隆殿に会わせて欲しい。力を貸して頂きたいのです」と頼む。
おふくの方の美しさは知れ渡っており、土井氏も「喜んで」と応えた。
久隆も関心があり「是非会いたい」との返事が来る。
伊賀久隆の居城、虎倉城(岡山市御津虎倉)に嫡男、桃寿丸を伴い出向く。
土井氏に頼み、化粧衣装小物類を取り揃え精一杯に美しく飾った。
そして、対面し、三浦家再興の思いを話す。
続いて「直家様にお会いして、助力をお願いしたい」と申し出る。
久隆は、逃亡の身ながら臆せず見つめるおふくの方の気高い美しさに感動し、了解した。
おふくの方の評判を聞き、側に置きたいとの思いを秘め対面した久隆だった。
思いがけない展開で自分の思いは言えないまま、圧倒された。
思いが遂げられないまま、直家との取次を了解し、我ながら笑ってしまい、力が抜けた。
直家におふくの方を差し出すことで伊賀家の面目が立ち、利益になると頭を切り替え、直家に取り次ぐ。
実力があるものが覇権を握る時代が来たと自信を持って主君、松田氏を裏切った。
いずれは、主君、松田氏に成り代わる野望を持っていた。
その為に、直家と結びついたのであり、より一層強く結びつけば思いは叶えられるはずだ。
直家とおふくの方、良い縁になると自分の計画にうなづいた。
おふくの方は伊賀久隆とともに直家の居城、沼城を訪れた。
夫を亡くし一年が過ぎ、新たな道を歩み出す覚悟が出来ていた。
直家を前にして何度も頭の中で繰り返した言葉を切々と述べた。
「直家様のお力を頼ることしか、三浦家再興の道はないと考えます」と熱いまなざしで頼む。
三浦家当主の妻として側に控える桃寿丸の将来を直家に託したいと、二人して頭を下げる。
直家は熱いまなざしに射貫かれたように、釘付けになる。
三浦家再興に力を貸すことを約束する。
一五六六年春、直家は日の出の勢いだった。
その時に、おふくの方は勝山城を追われて救いを求める身で出会った。
立場は大きく違い、庇護者としてすがる以上、側室とされても拒めないのはよくわかっていた。
だが「名門、三浦家を受け継ぐ桃寿丸は三浦家臣団をりっぱに率います。桃寿丸は直家様の力になります」と力説する。
美作地方を長く治めた勇者の家柄だ。
側室の一人にされては夫、貞勝と共に三浦家を守ったことが無意味になる。
桃寿丸のためにも、母として威厳を持った立場を貫きたい。
おふくの方の誇りが守られる処遇を期待した。
直家は、すぐに結婚を申し出た。
一目おふくの方を見て「今までに会ったことのない女人だ。まるで、慈母観音を目の前にしているようだ」と心を奪われた。
初めての対面だが、話していると包み込まれるような穏やかな気持ちになり、引き込まれ側にいて欲しいと心底思った。
謀略に明け暮れる我が身とは全く違う純粋さを感じた。
「(おふくの方は)家中の尊厳を得る。正室にふさわしい」と確信した。
おふくの方は、予想以上の直家の対応に、にっこりとうなずく。
世情の風聞とは、裏腹に終始、礼を尽くした誠実な態度だったから。
直家も三村家親を殺したとはいえ、三村勢の決死の反撃受けて立たなくてはならない。
近いうち大決戦が始まるはずだ。
三浦勢は敗れ、ちりじりになったというが、まだまだ力はあり、味方とすべき戦力だ。
宇喜多家家臣と自らの士気を挙げるためにも価値ありと結婚を望んだ。
おふくの方は我が身の幸運に感謝する。
三浦貞勝と結ばれたことさえ幸運だった。
三浦家当主は主家、浦上氏の勧める縁者と結婚するはずだった。
分家のおふくの方が結婚相手に選ばれる可能性はなかった。
ところが運良く嫡男、貞広が戻らない内に、城を取り戻した次男、貞勝が勝山城主になり、家中に推され妻になった。
次は、宇喜多直家。
今や三浦家の主君、浦上氏を凌ぐ力を持つ実力者だ。
その妻に望まれたのだ。
しかも、桃寿丸を三浦家当主として認め、直家の息子同然に扱うとも言ってくれた。
直家との結婚は魅力的だ。
結婚し、直家と共に宇喜多家の飛躍・三浦家の再興を目指したいし、目指すべきだと思う。
余りの幸運に感激しつつも、どこかで、この道を歩むことはわかっていたとささやく声が聞こえ、覚めていた。
何度も夢に見た三浦家再興のシーンでは、いつも誰かに手を引かれていた。
顔は覚えていないが、きっと宇喜多直家だったのだろう。
貞勝との愛の日々を経験したおふくの方は、愛されることなく一年が過ぎ心身ともに寂しく、結婚を望んでいた。
だが、直家の先妻は抗議の自殺している。
直家に裏切られるか、利用されるだけに終わるか、不安はある。
それでも、この結婚に全てを賭ける覚悟だ。
直家は、浦上宗景の了解も得て、家中におふくの方と結婚し三浦家を支援すると公言した。
直家は近親者を踏みにじる謀略を続け側室もいたが、おふくの方を妻に迎えたいとの熱い思いは真実だった。
一五六七年、三八歳の花婿と一八歳の花嫁の結婚生活が始まる。
用心深い直家は夜を共にする前には、危険な刀剣など隠し持っていないか慎重に確認する習性がある。
おふくの方にも望む。
大切に育てられた名門の姫としては屈辱だ。
おふくの方の老女(筆頭侍女)と宇喜多家老女との間で慎重な打ち合わせがされ、両者がおふくの方の床入りの支度に立ち会う。
遠慮がちに宇喜多家老女が立ち会うが、おふくの方は高らかに笑いすぐ裸になる。
「どこでも好きに見るがよい」とけろりとしている。
宇喜多家の奥を仕切る老女は、おふくの方の白くきめ細やかな肌に息をのむ。
しかもおふくの方の身体は触れると全身薄桃色になまめかしく輝いた。
宇喜多家老女にとって、直家と夜を共にした女人の裸体を幾人も見てきたが初めての経験だった。
ただただ、ひれ伏し、直家にすぐ報告した。
以後、おふくの方の身体に触れることはない。
直家も初めての経験だった。
おふくの方は全身の感受性が強く、愛撫に敏感に反応する。
桃寿丸が授かった時の身体の変化を喜び、身体の変調を克明に書き記したことがあった。
医師・産婆に詳しく子の生まれる仕組みを聞き、女体の変化に感動しつつ書き残した。
出産の様子も見続けた。
痛みに耐えながら声を出すこともなく一部始終を見続けた。
生まれ出た瞬間の赤児の様子、その時の自らの体位が世の中で一番美しいと、自信を持って見つめた。
直家の前でもその様子を再現する。
その開けっぴろげな大胆さに直家はのめり込む。
素晴らしい女人を妻にしたと歓喜の声を上げる。
そして勇気を与えられ、おふくの方にふさわしい勇者になると決意を新たにする。
直家は、三村氏を殲滅する作戦を立てていた。
おふくの方は、直家から三浦貞勝・叔父、貞盛ら一族の敵である三村氏を掃討する作戦を聞きながら、思うことを話す。
三浦家重臣、金田氏らが寝返ってしまった三村氏の謀略の一切、近習に見守られ城を出る手配が崩れた経過も事細かに話す。
おふくの方の洞察力・記憶力に直家は感心しながらうなずく。
共に話し合いを重ねた翌年、明善寺の戦が始まる。
直家はまず囮(おとり)の城、明善寺城(岡山県岡山市沢田)を築く。
三村勢は策にはまり、城を奇襲し奪う。
三村家親を継いだ元親は、幸先の良い勝利を祝い、宇喜多直家を倒すと時の声を上げた。
そして、三村勢の総力、二万人の軍勢を集め、直家への弔い合戦に討って出る。
直家は五千の兵力しかないが、頭は冴えていた。
ひそかに、岡山城主、金光宗高ら三村勢として参陣した国人勢の切り崩しに取り組み、成功していた。
彼らを味方とし、腹を割って、作戦を打ち明け、賛同を得た。
ここから、直家の意を受けた金光らは三村元親に「三村勢を三方に分け明善寺城内の兵と呼応して宇喜多勢を攻めるのが得策だ」と進言した。
明善寺城兵との挟み撃ちで、宇喜多勢を壊滅させる作戦だ。
直家は明善寺城内に入った三村勢に「降伏するよう」何度も申し出つつ、ぎりぎりまで攻め立てた。
城内の宇喜多勢は、最小源の戦いで、逃げるよう命じられており、命令に従い、すでに逃げていた。
それでも、こまごまとした雑用をこなす宇喜多家の意を受けた従者は残した。
彼らは三村勢を精一杯もてなした。
そこで、直家の降伏申し出に応えるべきだと進言する。
激しい直家の攻撃に耐え兼ねた三村勢は直家に臣従を約した。
こうして直家は、準備を整えた。
直家の策に乗り兵を分け挟み撃ちを決めた三村元親が、動いたのを確認すると明善寺城内に宇喜多勢を送り込む。
三村勢が明善寺城に近づくと、宇喜多勢が城を占拠した勝利の証、のろしを大きく上げる。
「挟み撃ちは失敗した」と三村勢は動揺し、戦意が落ちていく。
こうして、直家は、三方に分れ少数となっていた三村勢を個別撃破し、少数の兵力ながら勝利した。
三村勢はさんざん痛めつけられ、総崩れし、逃げた。
直家は、見事な采配を見せつけ、初めて知将として評価される。
正攻法でも勝つ名将だと知らしめ、得意げにおふくの方に話す。
戦いの模様を語るうれしそうな直家の顔を、おふくの方も頼もしく見て相づちを打ち頷く。
憎き三村一族だったが、敵ではなくなった。
成し遂げた満足感の中で、おふくの方の三浦一族に対する思いも過去の事となっていく。
二人は、心地よい勝利の感動と共に身も軽く浮き立つ歓喜に酔いしれる。
おふくの方は直家と共に進んでいく未来が明るいことを実感する。
結婚以来の直家との暮らしを愛といたわりを込めて克明に書き綴り、感じたこと思うことを直家に話す。
書き綴った日記を見せるのも頓着しない。
何事も開けっぴろげで気にしない堂々とした生き方を貫く。
待ち望んだ、子が授かった。
この頃の直家はおふくの方の反応を聞きたくて重臣が集まる内輪の会にも同席させた。
直家になくてはならない存在となっていた。
まもなく、男子が生まれたが死産だった。
嘆き悲しむおふくの方に「また授かるから」と優しい言葉をかける直家だった。
明善寺城での戦いは「我ながらしてやったり」と上機嫌の直家だったが、娘婿、松田元(もと)賢(かた)親子には腹の中が煮えくりかえった。
決死の総力戦であり一兵でも多く欲しいと、備前国金川城主、松田元(もと)輝(てる)、娘婿、元賢に援軍を命じたが来なかった。
松田元(もと)輝(てる)は静観し動かなかった。
明らかな裏切りだ。
直家の配下となる和議を結び、結婚したが、西備前の覇者だった栄光が忘れられず、直家には素直に従えなかったのだ。
同盟後六年、一五六八年、直家は我慢に我慢を重ねたが見限り謀略を仕掛ける。
同盟以来、松田家中の主な重臣の調略を進め、家中の切り崩しは出来ており、準備は万全だった。
まず、直家に逆らう松田家一番家老、宇垣与右衛門をにこやかに鹿狩りに誘い、撃ち殺す。
平然と「誤って撃ってしまった。誠に申し訳ない」と元輝に言い訳し詫びた。
松田家は宇垣氏が仕切っていた。
宇垣氏が亡くなると家中は直家の思惑通りに乱れ、収拾がつかなくなる。
松田元輝に統治力はなく抑えられない。
そこで伊賀久隆に「松田元輝に降伏を促し、金川城を退去するように伝えよ」と命じた。
久隆は城を兵で囲み、退去するよう宣告する。
元輝は城を出て戦うが、久隆の鉄砲隊が撃ち殺す。
元賢も城を守り戦うが、城は奪われ、逃げ落ちる途中、討ち殺される。
直家の娘も自害し松田家は滅びた。
おふくの方は再び身籠もる。
慎重に慎重に身重の身体を守り、一五七〇年、容姫が無事生まれた。
妻としての役目を果せたとほっとして抱きしめる。
容姫を間にして、二人の仲は揺るぎないものとなる。
権謀(けんぼう)術数(じゅつすう)に長けて、のし上った男と言われたが、おふくの方はその風評は意図的に流されたもので一時期そういう事実があったかもしれないが、少なくとも今は、良き父親であり良き夫だと自信をもって、直家を見つめる。
おふくの方と直家は楽天的な性格が似ていた。
宇喜多家を取り巻く状況は厳しく、苦みばしった顔で策を練るときも多い。
それでも、おふくの方の微笑に思わず笑顔で応え、嫌なことすべてを忘れる良い性格なのだ。
二人して、必ずうまくいくと言いあうことが出来、揺るぎない自信が自然に湧き出る。
時にはお互いの故郷自慢を繰り広げた。
おふくの方は旭川を天の恵み、命の源と感謝し、川上で育った。
直家は吉井川を天の恵み、商工業の源だと大切にし、川下で育った。
吉井川上流には奥津温泉、湯郷温泉があり直家も知っているがゆっくり入った経験はない。
おふくの方の湯原温泉への思いは深く熱く、直家には叶わない。
お互いが故郷を自慢する時、自然の恵みを全身に浴びたおふくの方の推す旭川が上だった。
直家は言い負かされ、ふてて苦笑いだ。
二人は大河の持つ底知れない魅力を肌で知っている。
三村氏を討ち破り備中が射程内に入ると、直家には、備中を流れる高梁川の水運にも目が向く。
備前・備中支配は、吉井川・旭川・高梁川の水運を利用し中国山地から豊富に算出される鉄鋼資源を手中にすることでもある。
水運を通じて、大きな利益をあげ、おふくの方の美作を合わせ備前・備中・美作を配下にすると思いを話す。
三大河川の中心は真ん中を流れる旭川だ。
いつも、おふくの方が話を締めくくり、笑顔で終わる。
直家はおふくの方の故郷自慢を心地よく聞く。
松田氏を滅亡させると、岡山城主、金光宗高に矛先が向いていく。
旭川下流の岡山の地を備前・備中・美作を治める中心にすると決めた。
岡山城を宇喜多家の居城にするのだ。
金光宗高は直家に属していたが、毛利氏からの調略も続いていた。
そこで、直家は「(毛利氏へ)内通したと分かっている。証拠もある」と戦いもありうると厳しく追求する。
金光宗高は、逃れることはできないと覚悟する。
直家は「家名存続は許し子供達に所領を与えるが、当主(金光宗高)を許すことはできない」と冷たく命令した。
やむなく、金光宗高は切腹する。
こうして、岡山城を得る。
「岡山城を拡大修復し移る」と意気揚々と弾む声で、おふくの方へいたわりと愛に満ちて話す。
その言葉はおふくの方に過去の旭川に繋がる思い出を呼び起こす。
桃寿丸を抱きしめ旭川を下り備前下土井村を目指した時の心細さだ。
今の境遇を思うと感無量で飛び上がらんばかりにうれしい。
直家に寄り添い、愛を確かめる。
おふくの方は身籠もる。
三度目の妊娠で、待ちかねた嫡男、秀家の誕生だ。
母親に生き写しの美形だと、皆がほめる。
直家は秀家をのぞき込み「父親似だ。どう見てもよく似ている」とぶつぶつ言いながら、愛おしそうに抱き上げる。
直家、四三歳、備前の覇者とならなければならない、急がなくては思う。
万全の体制で、秀家に譲るのだ。
翌一五七三年、おふくの方は容姫・秀家と共に岡山城に入城する。
ご機嫌で岡山城を案内する直家に連れ回されながら、妻となった七年を振り返る。
桃寿丸の成長を励みに直家を愛し懸命に尽くしたが、ここまでになるとは予想しなかった。
おふくの方は堂々とした岡山城の華麗な華だった。
八 宇喜多直家 最後の戦い
ここで、浦上宗景の怒りが爆発する。
直家とは主従関係にあるはずなのに、主君をないがしろにし、直家が覇権を広げ続けるからだ。
実質、直家の力は宗景のはるか上であり、同盟を結んでいるだけの状態だとわかっているが、それでも許せない。
宗景は意地で直家を家臣として扱う。
直家は神妙に従う態度を変えず、頭を下げた。
頭を下げられるとそれ以上は言えない。浦上宗景も怒りをこらえるしかない。
直家は、復讐の煮えたぎる思い、浦上家打倒を忘れることはない。
必ず勝てる体制づくりが出来るまで待つと、第一の臣であり続けた。
浦上家の打倒は宗景と嫡男の兄、政宗と両方でなければ意味がないため、慎重に策を練る必要があった。
ここまで、長く耐えたのだ。焦らないと一歩一歩、宗景打倒の道を進める。
浦上政宗打倒が先になる。
宗家、浦上政宗は、尼子晴久に従うことで、播磨・備前(東備前)を治めることが出来た。
一五五一年、勢いがあり覇権を強める尼子晴久が宗景も従属させるべく、西備前に侵攻した。
ここから、毛利元就と結んだ宗景と尼子晴久に従う政宗との本格的戦いが始まった。
直家は、浦上宗景に従いつつ、浦上政宗・尼子晴久との戦いを続けた。
時が過ぎ、尼子氏が衰退していき、直家が支え、毛利氏が味方した浦上宗景の勢力が強まる。
政宗は浦上本家でありながら、負け戦が続きじり貧状態となる。
そこで政宗が再起をかけた決断をする。
一五六四年、嫡男、清宗と黒田職(もと)隆(たか)と小寺政職の娘との間に生まれた娘(官兵衛の妹)との結婚を決めたのだ。
小寺政職一族との強力な協力体制を作ることしか、弟に勝てないと決めた。
職(もと)隆(たか)は、後に秀吉の参謀となる黒田官兵衛孝(よし)高(たか)の父だ。
黒田職(もと)隆(たか)の妻は、直家のいとこ(父の妹の子)お岩だ。小寺氏養女として嫁いでいる。
守護、赤松氏を支える二大重臣が小寺家と浦上家だった。
小寺家は、重臣、黒田家が実質率いていた。
そこで浦上政宗は、黒田家と結びつくことで守護、赤松氏を形式的に支えつつ実質仕切り、浦上宗景と対決するしかなかったのだ。
ところが、結婚式の最中、浦上政宗に恨みを持つ赤松晴政の娘婿、政秀の襲撃があった。
ここで、政宗・清宗父子が殺された。
播磨守護を継いだ赤松晴政は、浦上政宗の傀儡であることが許せず、脱しようと画策した。
一五五八年、その動きを知った浦上政宗は、小寺氏と共に晴政嫡男の幼子、義祐を守護とし、晴政を追放する。
晴政は娘婿、政秀を頼り、逃げた。
その後長年、復権めざし戦い続けたが報われることはなかった。
そこで、方針を変え、協調路線を取る。
赤松政秀は義父、晴政の恨みを晴らしたい思いを持ちつつも、義父の意向があり浦上政宗に、協力し、心証を良くした。
そして、結婚式に招かれ、お祝い騒ぎの中で復讐を遂げたのだ。
そこには直家の策略があった。
直家が宗景を通じて、赤松政秀に策を授け、政宗・清宗父子を殺させたのだ。
翌一五六五年、晴政は、浦上政宗の死を喜びながら、赤松氏の内紛を避け、名誉を守り続けるよう遺命し、亡くなる。
赤松義祐は、父、晴政の遺命を守り、赤松政秀と和解する。
だが、利害は対立し、決別してしまう。
直家は、今までの功が認められ、浦上宗景は、嫡男、宗次(1549-1577)と直家娘の結婚を執り行った。
次いで、赤松政秀も、功に応え、嫡男、政広(1562-1600)と直家娘の結婚を決めた。
これらの縁組で、直家の家臣が両家を自由に行き来することが出来た。
そして、多くの情報を得ながら、家中の調略も進める。
赤松政秀は、赤松義祐より優秀であり、晴政も認めていたとの自負があり、義祐に従う気はない。
信長との縁を深め後ろ盾を得ること。
直家に持ち上げられ、支えられること、で赤松家を率いようとする。
そこで、流浪の身の足利義昭を支え、送り親密な関係となる。
娘、さこの方は、信長の養女として嫁ぐ。
浦上本家は、政宗と嫡男が殺される異常事態の中、後継は二男、忠宗となる。
一五六六年、花婿の弟でしかなかった忠宗が急遽、浦上本家を継ぎ、残された花嫁、職(もと)隆(たか)の娘と結婚する。
ここで浦上宗景は、混乱している浦上本家を潰す好機だと、浦上忠宗を殺す。
これも、直家がおぜん立てし、宗景を促し、成功させたことだった。
義父・先夫・夫と殺され、子を身ごもっていた妻は、宗景の追っ手を振り切り、逃げ切り、実家、黒田家に戻る。
こうして一五六七年、久松丸が生まれる。
赤松政秀の娘は、将軍、足利義昭との仲が良く、側に仕え続けた。
そして義昭は、将軍になった。
こうして、一五六九年、赤松政秀は改めて将軍、義昭に臣従を誓い、直家も共に忠誠を誓う。
義昭を擁した信長にも同じように臣従の意を表す。
万全の態勢を整えたと自信をもって、赤松政秀・直家は、赤松義祐・浦上宗景打倒に決起する。
義昭が願ったことで、信長は赤松政秀を支援し、初めは優勢だった。
ところが、織田勢は、戦わずして戻ってしまう。
赤松義祐が、信長に臣従を表明したのだ。
義昭との仲が険悪となっていく信長は、赤松政秀ではなく、播磨守護の後継、赤松義祐支援を決めた。
ここで、形勢が逆転する。
信長勢が去ると赤松政秀・直家勢は弱い。
小寺・黒田勢に敗れ、浦上宗景の攻撃を受けて、赤松政秀は降伏、囚われの身となる。
一年後、殺された。
直家が高く評価する黒田官兵衛が、直家の敵となり、奇襲攻撃し勝利したのだ。
宇喜多家も危ないと、直家はあわてて降伏し、浦上宗景に従うと表明し、赤松家から離れ身を守る。
浦上宗景は、直家を殺したかったが、直家の軍事力なしには浦上家は立ち行かない。
一五六三年、毛利氏と決別し、三村氏との戦いを始め、備前支配を完全にした。
そして、浦上忠宗を殺し、浦上家全体を率いるまでになった。
すべて、直家あってこそだった。
尼子旧臣は、尼子勝久を当主とし、尼子再興を図り、浦上宗景の強い味方でもあった。
その尼子勝久が、直家の延命を強く求めた。
三浦氏旧臣が、尼子勝久を動かしたのだ。
また、九州制圧をあきらめた毛利元就が東進に主力を置くようになった。
毛利勢が備中・備前・美作に向けて侵攻し、熾烈な戦いが目前に迫っていた。
毛利元就は強い。
直家を受け入れるしかなかった。
浦上宗景は、直家を毛利氏との戦いの先頭に立たせた。
直家は、宇喜多家を守るため、うまく戦ったが、毛利勢総力を挙げて進んでくると叶う相手ではない。
そこで、和議を結ぶしかなくないと進言。
同時に、信長の支援を得るために、和議を結び臣従する。
信長は、まだ播磨・備前に力を入れる余裕はなく、浦上宗景との和議は、望むところだ。
だが、毛利家も信長に臣従を約しており、戦いたくない。
そこで、毛利家と和議を結ばせ、浦上宗景を備前の勝利者とすることで、決着とする。
一五七三年、宗景は、浦上家当主として信長に認められ、備前・播磨・美作三カ国の領地を安堵された。
浦上宗景は、元就・信長との和議に満足した。
だが、直家は我慢できず怒った。
備前・美作を平定したのは、直家なのだ。
浦上宗景は、戦う力はなく、見ていただけだ。
なのに、信長から安堵され、領地とし支配者になったのだ。
そして、直家はその家臣とみなされ、宗景の支配下になった。
絶対に許せることではなかった。
一五七四年、この流れをじっと見続け、いよいよ時が来たと自らを奮い立たせる。
すでに、黒田職(もと)隆(たか)と親交を深めていた。
直家は浦上家の正当な後継者として久松丸を迎えたいと、黒田家に申し入れる。
小寺政職・黒田職隆には混乱する赤松家の立て直しが第一だ。
宗景を倒し久松丸が浦上家の家督を継ぐのは大賛成だ。
浦上家筆頭の宇喜多直家に預けるのが筋だと納得する。
直家の思い通りの展開となった。
浦上家嫡流の遺児、久松丸を手に入れ、宗景打倒の大義名分を得たのだ。
久松丸が浦上氏の家督を受け継ぐべきであり、久松丸の後見人、直家を支持して欲しいと、備前衆・美作衆に訴えた。
大義は直家にあり、国人衆を味方にすることができた。
浦上宗景に対決できる力をつけたのだ。
だが、不安材料もある。
浦上宗景と対決することは、信長とも対決することでもある。
信長との直接対決はできない。
力の差がありすぎ戦える相手ではない。
信長に対抗できるのは毛利輝元しかないと、今まで熾烈な戦いを繰り返していたが、同盟を持ちかける。
「浦上家の正当な継承者、久松丸様を認めない宗景を討つために、支援を願いたく、同盟を結びたい」と毛利輝元に頼む。
輝元には信長からの和議の申し出が再々来ている。
浦上宗景と信長の関係は親密だ。
今、直家に味方すれば、信長に敵対することになるのは、輝元にとっても明白なことだ。
毛利輝元は、宇喜多直家を取るか、信長を取るか、どちらを選ぶか迷う。
信長とは、今は友好関係にあり、将来も全面対決を避け和議を結び共存を図るつもりだ。
かって三好氏攻めで協力しており、信長も敵対したくないと考えているはずだ。
浦上宗景を倒しても信長に大した不利益はない。
浦上宗景打倒に的を絞れば、宗景亡きあとも友好関係を続けることは可能と判断する。
宗景は和議を結んだ同盟軍でありながら、毛利領に侵攻しており信用ならない、倒すべきだと結論付ける。
宇喜多家を配下にし中国地方全域を平定し毛利家の力を見せつけた上で、信長と対峙しつつ和議を結べばよいと。
直家の申し出を受けると返事し、信長には当面の拒否を通告する。
こうして、すべての準備を整え一五七五年、直家は浦上宗景に決然と戦いを挑み、勝利し、宗景を天神山城から追放する。
毛利家と組んだ直家は強く、毛利家の配下としてだが、備前・美作・備中五四万石を領する大大名となる。
直家は「秀家への最高の贈り物が出来た」と誇らしげにおふくの方に話すことができた。
おふくの方も「これ以上の幸せがないほどに幸せです」と頷く(うなずく)。
おふくの方の輝く笑顔を見て、直家も最高の時が来たと、満面の笑顔となる。
九 美作三浦氏とおふくの方
直家の伴侶として権勢を握ったおふくの方だが、美作三浦氏の再興というどうしても成し遂げなければならない重要な仕事があった。
簡単ではなく、悩むことも多い。
貞勝が亡くなって十年が過ぎ、急ぎたいのだが。
一五六五年一月一七日、三浦貞勝が亡くなった。
城を失い、勝山の地に残り家名再興を目指し戦う叔父、貞盛と別れ、おふくの方独自の家名再興を目指す。
貞盛は、一年間、勝山城の奪還を目指したが、思うような成果が出なかった。
そんな時、一五六六年二月二十四日、三村家親が殺された。
先見の明があり武勇に秀で颯爽と三村家を率いた三村家親にはどうしても勝てなかったのだ。
ところが、宇喜多直家によって撃ち殺され、三村家中は混乱した。
その混乱を好機だと捕らえ、貞盛は、勝山城奪還に向けて兵を集めた。
そして、勝山城内の三村勢が本拠に戻り、城内が手薄になった時、攻め込む。
信じられない展開で、勝利し、勝山城を取り戻し城主となった。
すぐに、嫡男、三浦貞広が戻るよう、尼子義久に願う。
一五六七年初め、月山富田城で、尼子一門として戦っていた嫡男、三浦貞広が勝山城に戻った。
尼子家当主、尼子義久が毛利元就に投降、月山富田城を明け渡すと決めた。
そこで、三浦貞広に「投降する必要はない、国に戻るように」と命じたのだ。
家中は歓喜し、城主、貞盛は感極まったかのように、三浦貞広に城主の座を引き渡し、配下に付いた。
「この日まで長かった。ようやく、兄、貞久に顔向けできる」と。
貞広が戻り、勝山城の士気は上がった。
美作三浦氏の再興に、おふくの方の方も関わっている。
貞広には、筆頭家老、牧尚春が人質として尼子晴久の元に送られた時以来、ずっと側に付き従っている。
牧氏は、美作三浦氏の筆頭家老であり、なくてはならない譜代の重臣だ。
貞盛には、尚(なお)春(はる)の弟、次男、牧良長が筆頭家老として付き従った。
城を奪われた後も、貞盛に従い勝山に残り、戦った。
おふくの方に従ったのが、桃寿丸の守役家老、牧国信。
尚(なお)春(はる)の弟、三男だ。
勝山城から逃げて以来、ずっと側にいる。
おふくの方にとって、直家の妻になり従者が増えても、最も信頼する第一の側近だ。
その思いに応え、直家は、妹を牧国信に嫁がせ、一門重臣とした。
三浦氏を支える重臣、牧尚(なお)春(はる)・牧良長・牧国信の三兄弟は、ずっと連絡を取り合った。
おふくの方が、牧国信を通じて連絡していたのだ。
直家もおふくの方と結婚以来、貞盛を支援し貞広が戻ると当主とし認め支えた。
だが、尼子掃討の戦いを繰り広げる毛利家と組んだ三村勢の反撃が始まる。
勝山城の三浦勢は守勢に立たされる。
直家には、支援の軍勢を送るほどの余裕はなかった。り、
ついに、石見を押さえた毛利勢主力が加わり、勝山城を攻める時が来た。
三浦勢では守り切れず、一五六八年三月一七日、叔父、貞盛は戦死。
義兄、貞広は落ち延び、勝山城は、毛利氏に奪われた。
貞久は、すぐに、高田城奪還の戦いを始める。
尼子勝久を擁して尼子氏再興を目指す尼子氏旧臣、山中幸盛と結んだ。
山中幸盛とは、月山富田城で長年親しくした友であり、呼吸はあっていた。
ここで、牧尚(なお)春(はる)が、おふくの方の意向として、毛利家と縁を切った直家の支援を受けるよう進言する。
貞広らも直家との協力を受け入れる。
まもなく、勝山城を取り戻す絶好の機会がやってくる。
毛利元就は、毛利勢総力を挙げて大友氏殲滅・九州北東部制圧を目指し、順調に進撃していた。
そのため、本拠、中国地方では守りが手薄になっていた。
その時、大友氏らが、窮余の一策を企て、討って出た。
大友氏・大内氏が山口上陸侵攻・宇喜多勢が備前から蜂起・尼子旧臣や山名氏が伯耆・因幡から蜂起などなど、各地で一斉に反毛利氏の雄たけびを上げ、決起したのだ。
一五七〇年、三浦貞広は、毛利勢を追い払い、勝山城を取り戻す。
おふくの方の意向を受けた牧国信が、直家との共同作戦を展開し、三浦勢を助けている。
おふくの方は、桃寿丸の行く末を思い複雑だが、勝山城を三浦勢が取り戻したことは嬉しい。
毛利勢は驚き自らの力を見定めた。
そこで当面は、九州攻めをあきらめ、中国地方の平定に全力を注ぐことにした。
中国地方、四国の湾岸部に的を絞った毛利氏は強い。
反毛利勢は、すぐに鎮圧され、貞広は追い詰められる。
それでも、直家勢・尼子旧臣らに支えられ、どうにか城を守る。
そんな中、一五七四年、直家は、毛利氏と同盟を結ぶ。
三浦貞広にも、毛利家と和睦するよう指示する。
三浦氏の滅亡を防ぐことが出来るのだ。
だが、山中幸盛や尼子旧臣との仲を重んじる三浦貞広は怒り、直家と決別する。
直家は、浦上宗景打倒のために、三浦貞広の力は重要で、敵にしたくなく、説得する。
貞広に従う美作衆を調略し味方にしており、内部工作を頼む。
美作第一の力を持つ三浦貞広を味方にしておきたかったが、失敗した。
ここで、三浦貞広は、浦上宗景に与した。
それでも、直家の美作衆調略の成果は残っていた。
直家に与した美作衆の力で、美作と備前の連絡を困難にさせることができた。
その結果、三浦勢の援軍は思うようには来ず、宗景の総戦力を弱めた。
宗景打倒・直家の勝利に大きく貢献する。
おふくの方も、三浦貞広に共にありたいと必死で願う。
腹心、牧国信は、貞広筆頭家老、牧尚春と何度も連絡を取った。
浦上宗景の命脈は断ったと説得を続けた。
だが、貞広は、変わらず、宗景に与した。
山中幸盛ら旧尼子勢の力は落ちていき、支援部隊は少なく、救援部隊を送るという大友勢も来ない。
そして肝心の浦上宗景勢も動かず、直家に敗れた。
万策尽きた貞広は戦うことなく、一五七五年、投降する。
毛利家には、おふくの方の意向が届いており、まもなく、貞広はおふくの方の元に来た。
以後、直家は客人として大切にもてなす。
だが、勝山城主として生きてきた貞広は、おふくの方にも桃寿丸にも、親しめない。
尼子氏一門である美作三浦氏当主でありたかったし、毛利氏を許すことはできない。
山中幸盛と共に、織田信長に従うと決める。
おふくの方に別れを告げ、敵となる。
おふくの方は、貞広が桃寿丸を養子とし後継とすることを受け入れて欲しいと話したが、貞広は拒否した。
平行線が続きいずれ桃寿丸との争いになるのは目に見えていた。
貞広なりにおふくの方との関係に決着を付けてくれたのだ。
その心を思うと、つらい。
身内同士の戦いとなるのは悲しいが、育った環境が違いすぎた。
血の繋がりだけでは、共に生きることはできない。
貞広は三浦家家臣を引き連れ去ったが、多くの臣をおふくの方に託した。
ここから、三浦家旧臣が、直家の家臣となる。
望むものすべてを召し抱えた。
牧家も分かれた。
貞広を主君と仰ぐ尚(なお)春(はる)・良長が去り、国信だけが残った。
常に、おふくの方と共にある一番下の弟、牧国信が牧家を背負うことになる。
直家は、妹婿、牧国信を重要視するが、当主、尚(なお)春(はる)は貞広の側近に過ぎないと重きを置かなかった。
結局牧家嫡流、尚(なお)春(はる)も追い出すことになってしまう。
乱世の惨さだが、おふくの方は、牧家をバラバラにしてしまった責任を重く受け止める。
自らの政治力のなさが情けない。
播磨・備前・美作をめぐる攻防は、離合集散が目まぐるしく、複雑だ。
その中で、直家は、抜群の冴えを見せ才知を活かし、生き抜き、備前の覇者となった。
おふくの方も直家の伴侶として素晴らしい働きをした。
直家と考えを合わせ、共に生きるしかない。
一〇 直家に迫る死
浦上宗景を追放し、直家は、祖父の恨みを晴らし達成感で、思い残すことはなくなった。
おふくの方に幼い時の苦労話をしながら、しみじみ何でも話せる伴侶を持った幸せを噛みしめるが、その時は短かった。
信長が真正面から攻撃を仕掛けてきた。
本格的に宗景打倒に立ちあがり信長と決別した時、織田勢は強かったが他に平定すべき敵が多くいた。
そのため、信長の宗景への支援は弱く模様眺めの感があった。
また、毛利家は、元就が亡くなり、引き継いで西国の雄としての覇権確立を目指す輝元の時代となっていた。
輝元は、信長への防波堤として直家を位置付け、必要不可欠の存在だった。
そのため、直家を手厚く支援した。
その結果、直家は、思いのほか簡単に、宗景を倒すことが出来たのだ。
ところが、輝元が想定した以上に直家は快進撃し、信長に毛利家は裏切ったとの恐怖心を持たせた。
さらに、翌一五七六年、信長によって都を追われた将軍、足利義昭を保護した。
足利義昭を引き取る話し合いを始めた頃はまだ、信長とは敵対しておらず秀吉との交渉を煮詰めていた。
その流れで引き取ったのだった。
だが、義昭は信長憎しの思いが強く、輝元の庇護下に入ると各地の大名に信長追討を叫ぶ。
義昭・直家の存在が重くのしかかり、輝元は信長と真っ向から敵対せざるを得なくなった。
毛利対織田の本格的戦いが始まる。
それでも、まだ輝元の本拠、広島・山口への攻撃はなく、考える余裕があった。
防波堤が、直家の本拠、岡山だ。
直家には厳しすぎる戦いが待ち構えた。
群雄割拠の時代は終わりを告げようとしていた。
信長の元、全国平定が進んでいる。
毛利輝元も雌雄を決する戦いよりは、勢力を保ったままの生き残りの道を模索した。
直家の立場は微妙だ。
おふくの方も周囲の困難な状況を知り、解決策を思い悩む。
宇喜多家居城、岡山城に住み、宿願の浦上宗景に勝利したころから、戦いは続くも、城にいることを増やしていく。
おふくの方も喜んだ。
直家と過ごす時間が愛おしい。
二人の時は、お互いが成し遂げた喜びを語り合い、褒め合い、いたわりあう。
全てを忘れ、二人だけの幸せな時間を過ごす。
一五七九年も終わるころには、容姫・秀家を相手にくつろぐ直家は五〇歳となり、しわが増え白髪が目立つようになる。
おふくの方は、まだ三〇歳、年齢差が際だつ。
戦いは続いている。
今まで身も心も酷使してきた。
苦労がにじみ出た直家の背中を見ながら、体が弱っていくのがわかる。
結婚生活一二年が過ぎ、おふくの方は、ますます直家を身近に感じ愛が深まり、心の内を理解していく。
直家は全知全能を傾け宇喜多家の再興のために尽くした。
責任感の強さと悲惨な生い立ちに耐えたつらさから、疑い深く、考え方が慎重だ。
そのことを世間は極悪非道と非難する。
ただの風聞に過ぎないと思っても直家が不当に落とし込められるようで腹立たしい。
直家は祖父・父の死後は、近習と共に貧乏暮らしを続けた。
主従分け隔て無く、ある物を分け合い耐え寝食を忘れて武将として必要なすべてを必死で学び続けた。
こうして結びついた主従の結束は堅く、士気も高く、後にも他家に寝返る者はいなかった。
直家は、忠義で結ばれた家臣団を終生誇った。
浦上氏に仕え始めた頃は、一族郎党と共に直家自ら突撃する戦いばかりだった。
余りの犠牲の多さに、敵に正面からぶつかりあっての戦いを避けるようになった。
諜報戦をしかけ最小限の犠牲で敵将を倒すと決めたのだ。
謀略を駆使し敵に恐怖感を抱かせたり、だまし討ちで敵将を殺す戦法は直家流の生き残り術だ。
一見非道な謀(はかりごと)の真意を理解し、正確な情報を探り伝える家臣が必要だった。
そして、謀略を任せられる腹心の家臣を何より大切にした。
直家は人を見る目が優れ、出自に惑わされず適材適所に登用し活用する。
恩を知り人情の機敏にも通じている。
直家の選択眼にかなった武将は優秀だった。
おふくの方は、直家との初めての対面で誠実な答えに心を打たれた。
二〇歳も年上の直家は、はるかに大人で多くの苦労を重ねた年輪がにじみ出ていた。
それ以来、夢中になった。
あの頃は、勝ち戦で悠々と生きてきたような頼もしさを感じさせる風格があった。
その眼差しは、優しさと真心に満ちていた。
苦労の連続の育ちを感じさせなかった。
結婚後、過去の戦いの話をする時、
「楽な戦いなどなく、もはやこれまでと思うのも度々だった」と笑いながら冗談のように話した。
信じられず、きょとんとしながらつられて笑った。
不思議に感じた。
心の奥底をむやみにさらけ出すことのない、いつも大人だった直家だ。
重苦しい空気に包まれた三浦家で過ごした後に、希望に溢れ大きく将来を見据える直家に出会ったのだ。
過去を乗り越え未来に生きる勇気を得た。
おふくの方は、命を狙われる逃亡生活を経験した。
そして出会った直家に、新しく生まれ変わりたいとの思いを込め、すべてを賭け、思いをぶつけた。
目の前で傷つき倒れる人々を見て、看病もした。
「城を枕に討ち死にする」は亡き夫、貞勝の口癖だった。
おふくの方も「精一杯生きて死ぬ、それでよし」と覚悟した。
でも「生きていたい」との思いがいつもあった。
今は「生きていてよかった」としみじみ思う。
おふくの方の愛に、直家も熱く応え、結婚生活は続いた。
だが、直家は医大に激情に駆られておふくの方を強く抱きしめることは減ってきた。
疲れた身体をただ預けるだけのときもある。
「こうして(おふくの方に)揉みほぐされるのが、何より元気回復の特効薬だ」と言う。
そのまま、すやすやと寝入ってしまったり、疲れて高いびきの時もある。
おふくの方が身体を熱く感じても、寝顔を見ながらそっと寄り添い寝ることが増えていく。
それでも朝陽が射す頃には元気になり、熱く抱きしめられ恍惚の時を過ごすこともある。
直家は「(おふくの方は)素晴らしい。巡り会えてよかった」と抱きしめる。
また「(おふくの方に)ふさわしい男になろうと頑張ったがそろそろ限界かな」とも言う。
時にはしみじみと「母親とは小さいときに別れ継母とは合わなかった。女っ気の少ない暮らしが長くて、気がつけば頭を下げるばかりの女人に囲まれ、会話を楽しむ相手に巡り会わなかった。
近づく女、与えられた女に疑いしか持てない若い頃を過ごした」と残念そうに昔を思い出すようにつぶやく。
女人の身体の不思議さと面白さを理解し楽しんだのは、おふくの方が始めてだった。
「(おふくの方は)全く無防備にしかも大胆にやって来た。あの度胸には驚く。不思議な力に呑み込まれてしまった」と懐かしそうに遠くを見るような目は、奥深く可愛い。
信長の快進撃が続く。
信長の全国平定を実現するため、西方面に向けての総大将となった秀吉は、播磨、姫路を拠点とし、西国への進撃を始めた。
直家の得意とする謀略や諜報は織田信長の大軍団には効果がない。
だが、正攻法で対抗できる相手ではない。
直家はどうすべきかじっくり考える。負けたくないし、負けるわけにはいかない。
一五七七年末、秀吉は、信長から西方面総大将を命じられ、姫路城に入った。
そして備前・美作・播磨の境に位置する要衝、上月城(兵庫県佐用郡佐用町)を奪うと決める。
上月城を西国攻略の拠点と位置づけたのだ。
上月城は直家の勢力下にあった。
城主、赤松(あかまつ)政(まさ)範(のり)(宗家当主、晴政嫡男、義祐のいとこ)と共に宇喜多勢が守っていた。
一五五七年、赤松氏一門、政範の父、政元(赤松晴政の弟)が上月城主になって以来守り続けている。
直家が浦上宗景に成り代わると隠棲する。
直家は、政元嫡男、政範を当主とし、城を守らせる。
政範は、弟達や一族と共に上月城を守る。
秀吉は、毛利氏攻略を念頭に、織田信長の威力を西国に見せつけると上月城を囲んだ。
あまりに多くの軍勢に囲まれ圧倒された中で、赤松一族と宇喜多勢は奮戦むなしく敗れる。
一五七八年一月十日、上月城は、赤松政範らが自害し降伏し、城内に残る者たちの助命を願った。
だが、秀吉は、許さず、無残に殺した。
秀吉に加勢するとはせ参じ、勇敢に戦った尼子氏一族・旧臣に城を預け、姫路城に戻る。
直家は赤松一族家臣への残忍な仕打ちに怒った。
秀吉が引き上げたと知るとすぐに軍勢を引き連れ城の取り戻しに向かう。
直家の攻撃に尼子氏一族は城を放棄して逃げる。
この知らせを聞いた秀吉は再び上月城攻めに大軍で向う。
大軍を前にして、直家は勝てないと城を放棄して戻る。
今度は秀吉も慎重に指揮系統を定めた。
尼子勝久を尼子家当主として迎え、上月城を預け、死守することを命じる。
代償に「尼子氏再興の思いを深く受け止め、必ず実現する。」と約した。
尼子氏嫡流は毛利氏に投降し配下となっている。
ここで、勝久は信長が新たに決めた尼子氏嫡流となる。
尼子勝久は英雄、経久の次男、国久を祖父に持つ。
尼子晴久のまたいとこだ。
尼子旧臣は、勝久を当主とし、はせ参じていたが、信長のお墨付きに、苦労が報われたと感無量だった。
尼子勢は、秀吉の言葉を信じ士気高く、上月城に入り、直家・毛利勢に対峙する。
この知らせに、毛利輝元は怒る。
尼子氏を受け継いだ輝元には、勝久が尼子氏嫡流を名乗るのは許せない。
叔父、吉川元春・小早川隆景に、毛利家総力を挙げて尼子勝久・秀吉を討ち上月城を取り戻すことを命じる。
受けて立つ尼子氏旧臣は、勝久を擁し上月城を守り抜くと一致団結した。
この時、直家は秀吉の人心掌握術、統率力を感心し眺めた。
播磨衆は、秀吉を通じて織田方になっていく。
だが、毛利勢が総力を挙げて、上月城を囲む。
信長勢も秀吉が三万の軍勢を引き連れ救援に向かうが、毛利勢が圧倒的に優勢だ。
秀吉は織田方の意地を見せると策を練る。
だが、秀吉とともに出陣した援軍の織田信忠らが、多勢の毛利氏に勝てる見込みがないと戦う気をなくした。
上月城を守り抜くことを重視せず、取られてもよいと思っているのだ。
信長勢は三万人の軍勢だが、総大将のはずの秀吉の命に従わず、秀吉は直属の一万七千の軍勢しか動かせなかった。
秀吉は「必ず守り抜く」と約束した城に籠もる尼子勢三千の兵を思うと、見捨てる訳にはいかない。
必死で信長に直訴し援軍を求めた軍勢だ。
織田勢が一丸となって戦うよう信長の指示を仰ぐ。
だが、信忠らの意志は固く、信長は冷たく兵を引くよう命じた。
秀吉は泣く泣く上月城支援をあきらめる。
織田勢は引き返すが、しんがりとなり、最後の撤退を始めた秀吉軍に吉川元春・小早川隆景は猛烈な追撃をする。
秀吉は散々に打ちのめされ「運もこれまで」とあきらめたほどだ。
しかし毛利勢は、秀吉に狙いを定めた最後の追撃まではしなかった。
秀吉は、命からがらだったが、無事に逃げ帰った。
直家は、上月城の戦いで秀吉の力を知ってしまった。
以来、信長そして日本全体の動きに関心が移り、おふくの方と共に新しい時代の到来を告げる足音を感じる。
吉川元春が秀吉を討ち果たすと叫んでいた時、直家はおふくの方と「秀吉の勝ちは動かない」と悠々と話していた。
毛利勢は十万の軍勢だと言っても寄せ集めの軍勢だ。
宇喜多軍を始め必死で戦う軍勢はそれほどいない。
秀吉の勝利を確信し、岡山城にいたのだ。
ところが、秀吉が逃げ、毛利勢が勝利したと報を受ける。
病と称して出陣しなかった直家は、おふくの方と顔を見合わせ、大慌てとなる。
急ぎ毛利陣営に祝勝の挨拶に駆けつける。
疑念の目で意地悪く見つめる吉川元春・小早川隆景に心を込めて祝勝の喜びを表す。
戦いの仔細を知ると、上月城は奪われたが、織田方の有利は動かないと確信する。
一五七八年八月六日だった。
翌年、直家は織田信長に味方すると決意し、秀吉に申し出る。
同時に、毛利氏に臣従したままの状態をしばらく続けたいとも頼む。
直家は幾度も同盟を結び、破り、ついに主家浦上氏を倒した武将だ。
誰もが、最も信用できない武将の一人に挙げるほどだ。
当然、信長は信用しない。
だが、秀吉は信じた。
上月城攻めで信長から付けられた援軍は秀吉の指示では動かず、討ち死に寸前まで追い詰められた。
以来、秀吉は自力で中国侵攻をすると決めている。
秀吉の指揮下で戦うと約束する直家との同盟はうれしい。
直家なしには毛利氏と戦えない状況だ。
どうしても同盟を結びたかった。
宇喜多領と毛利領の境は複雑に入り組み、織田色を鮮明にすれば毛利領に取り残される数多くの武将を見殺しにすることになる。
直家の立場がよく理解できた。
一一 小西行長とおふくの方
秀吉は、当分秘密裏に直家と同盟を結ぶことを了解し、粘り強く信長の許しを得るしかないと覚悟を決めた。
直家も毛利勢と真正面からの戦いが待ち受けているのだ。信長の援軍がどこまでか、確信がない。
直家にも秀吉にも難しい交渉が始まる。
そこで、直家が秀吉との交渉役に抜擢したのが、二一歳の小西行長だ。
直家は、父が亡くなった故郷とも言える備前福岡で小西行長と出会う。
この頃、備前福岡は中国地方随一の商業都市だった。
黒田官兵衛の父が生まれた地でもある。
官兵衛は、故郷の繁栄を自らの領地でも実現したいと福岡藩と名付けたほど、活気のある町だった。
吉井川を利用して近隣の豊かな産物が集まる物流の拠点。
「備前焼」や「備前刀」の産地。
山陽道は整備されており陸上交通も盛んだ。
瀬戸内海を経由する取引での賑わいが、飛躍的に伸びていた。
備前福岡の豪商、阿部善定が結び付けた。
直家の継母の父、阿部善定は物流を取り仕切る商人であり、莫大な利益を上げていた。
阿部本家は宇喜多家に仕える武士であり、阿部善定は直家を経済的に支援し続けた。
行長(1558-1600)は堺(大阪府)で薬種商を営む小西隆佐の次男に生まれる。
小西氏は平将門を倒した俵藤太(藤原秀郷)を始祖としている。
源氏・平氏と並ぶ名門の武門の棟梁が始まりだ。
時を経て、隆佐は備前長船で商人となり、利益の大きい物流に関わり、莫大な利益を生み出す南蛮貿易を始めた。
堺に店を設け商いの幅を広げ、次第に堺が本店となる。
小西(こにし)隆(りゅう)佐(さ)は、南蛮貿易(スペイン・ポルトガルとの交易)の魅力に取り付かれていく。
そして、貿易を円滑に行う為にキリスト教に理解を示し、自らもキリシタンになる。
信長も南蛮貿易を奨励しており、信長・秀吉に近づき、戦いでの後方支援部隊となる。
戦さには武器、食料、衣類から貨幣まで種々の品が必要で商人の関わる分野は多い。
取引を円滑に行いたい思いもあり、長男、如(じょ)清(せい)を信長に仕えさせた。
次男、行長は、長年懇意にしていた阿部家を通じて宇喜多家に仕えさせようと預けた。
阿部善定は商人であり能力を試すため順を踏みたいと、まず小西行長を一五七三年、阿部家の仲立ちで備前福岡の呉服商、魚屋(納屋)九郎右衛門に養子に入れた。
魚屋(納屋)は宇喜多家に出入する商人であり、岡山城下西大川に店を持っていた。
行長の才は素晴らしく、魚屋(納屋)の分家を岡山城下に興させ、自信を持って、直家に推挙する。
行長は、魚屋(納屋)九郎右衛門に連れられ、宇喜多家に出入りし、直家に気に入られ、おふくの方に仕える。
まずは、堺と岡山を結び、宇喜多家に必要な品々を調達する。
おふくの方のために、京・大坂の最先端の衣装・香料・化粧法を持ち込む。
容姫・秀家の成長に合わせた着物を用意するのも行長だ。
おふくの方の美意識は抜群で、行長の持ち込む洗練された新しい品々を自由自在に操りますます美貌を磨く。
容姫・秀家にも美意識を高める芸術を学ばせ、センスを磨かせた。
行長は長身の美男子であり逞しい武将としての資質も持つ。
算術は得意で頭の回転もすばらしく早い。
おふくの方は、行長の思いを汲み、秀家に仕えさせたいと直家に頼む。
直家ももちろん賛成だ。
京・大坂に関する知識、さわやかで説得力のある弁舌に期待し備前福岡・岡山と京・大坂を結ぶ輸送に携わる武士とした。
一五七九年初めから、直家は秀吉との同盟交渉を始めた。
重臣、足立太郎左衛門を特使とし、副使に兄、如(じょ)清(せい)が信長に仕えていることで小西行長二一歳を抜擢する。
行長はよく働き、何度も秀吉と直家の間を行き来し、交渉を煮詰めていく。
この働きに秀吉も目を留め、後には秀吉に望まれ仕える事になる。
秀吉家臣となると、優れた経済感覚や卓越した外交術を活かし、秀吉の命令をうまくこなし、重用される。
舟奉行として水軍を率い食料輸送、補給にも才能を発揮する。
一五七九年一二月、苦労のかいあり、秀吉が信長から宇喜多家安堵の了解を得る。
行長は初めての大仕事を成し遂げた。
直家は、信長の朱印を受け取るために、自ら姫路城に出向き秀吉に改めて臣従を申し出る。
信長が一五七三年、浦上宗景に備前・美作を与え怒りに燃えた。
以来その怒りをばねに、六年をかけて、浦上宗景と戦い滅ぼした。
紆余曲折があり、様々なことが思い浮かぶが、直家が見込んだ秀吉の元に参上し念願かなったと感極まる。
今まで秘密裏の交渉だったが、この後、織田色を鮮明にしていく。
毛利家は以前から、直家の動向を疑っておりぎくしゃくした関係が続いていた。
直家は、毛利勢との戦いを思うと、気が滅入るが、覚悟を決める。
秀吉の支えを信じ、受けて立つ。
裏切りに怒る毛利輝元は、吉川元春・小早川隆景が直接率いる毛利の主力部隊を投じる。
直家殲滅を声高に命じる。
毛利勢が押し寄せてくる。
秀吉の援軍はあっても、宇喜多勢の被害は大きい。
一五八一年、直家は陣中で病に倒れる。
宇喜多勢には苦しく耐える戦いが続く。
だが、信長の全国平定は順調に進んでおり、天下人となるのは衆目の一致するところで、秀吉の中国攻めも有利に展開し、毛利勢は追い詰められていた。
小早川隆景勢が戦意を失なっており、戦いぶりも変わっていく。
それでも、戦いは続き、宇喜多勢が実感するのは、被害の大きい惨い戦いだけだ。
直家は、世の動きを見通しており、病床にありながらも一息つく。
「もう少し頑張るように。近いうちに必ず毛利家を倒す」と家中の士気を高める。
死期を感じた直家は、宇喜多家を万全にし秀家に引く継ぐために、最後の粛正を行う。
標的は直家に従う国人衆では最大の所領を持つ妹婿、伊賀久隆だ。
松田氏追い落としには大きな貢献をしたが、その後、松田氏に替わったような権勢ぶりが目に余っていた。
居城、虎倉城(岡山市御津虎倉)は毛利氏の領地と接する最前線だ。
厳しい戦いが続きよく毛利勢を防いだ。
だが、小早川隆景の調略が続き、久隆は傾いているとの確かな情報を得た。
ここで、久隆は突然死する。
直家は残った一族、家中に毛利氏への裏切りの証拠があると追求し居城の引き渡しを命じる。
後継の嫡男、伊賀家久は父の死を疑い、城の引き渡しを拒否し籠城する。
しかし一歩も引くことのない直家の厳しい姿勢に話し合いの余地はなかった。
伊賀家を守り再起を期すと、小早川隆景を頼り逃げ、去った。
おふくの方も伊賀氏と長い付き合いだ。
宇喜多一門として相応に付き合った。
最初の出会いで「直家殿に(側室に)差し出す。いい土産が出来た」と言ったと聞き、その後の態度も横柄で、印象は悪い。
直家配下では最大級の所領で岡山城近くに領地があると威張り、おふくの方が今日あるのも自分の力だと思っている顔だった。
信頼できる家臣とは思えず、岡山城を狙い裏切る可能性を感じ、空恐ろしかった。
毛利家と宇喜多家を天秤にかけて、毛利家に傾いたのは間違いなく、直家の決断は正しい。
伊賀氏を追放し胸をなでおろした。
三浦家の行く末についても、直家は最大限、おふくの方と決めたことを実行した。
勝山城は貞広が毛利氏に引き渡して以来、毛利氏が支配している。
そこで、秀吉との和議交渉の中で、牧国信を送り「和議成立後、桃寿丸を秀吉様の元に送ります。勝山城を取り戻した時、三浦家を再興し桃寿丸殿を城主とする事を確約して欲しい」と願わせた。
秀吉も了承する。
おふくの方は、この時の秀吉の対応に大きな器を感じ、直家に感謝し、役目を果たし肩の荷を下ろす。
直家が床につくことが増えて以来、おふくの方は献身的に看病を続けた。
出来る限り侍女の手に任せず、直家の食事を用意し、少しでも多く食べるよう手伝い、自ら薬も飲ませた。
着物の着替えも手伝い側を離れない。
そして二人で、中庭の季節の移り変わりを愛でつつ、暑さ寒さを共に感じた。
おふくの方は看護が好きで薬草にも詳しい。
勝山城に居る時から戦傷者の手当をしており、城内で薬草を育て緊急の時使った。
湯原温泉で温泉の効用もよく知っているし、小西行長からも薬の調合法を学んでいる。
直家の身体のすべてを一番よく知るおふくの方が看病するのは、当然であり充実した時間だ。
ただ回復の兆しを感じられないのは悲しい。
秀家が元服するまでは生きていて欲しいと寝顔に語りかけることもしばしばだ。
直家は限界を感じていた。
秀吉は八歳年下であり、一七歳も若い黒田官兵衛(父、興家の妹の孫)が側に控えているのを見ている。
黒田官兵衛とは長い付き合いで、敵味方にもなったが、頭の良さをよく知っている。
毛利輝元は二四歳も年下だ。
目標を定め謀略を駆使し勝つことが得意の攻撃型の直家には、守りは難しい。
次になすべきことが見つからず、生きる意欲が落ちていた。
おふくの方との夫婦生活も急激に淡泊になった。
おふくの方の身体の隅々までよく知る直家は優しく愛撫は出来ても、それ以上進まない。
おふくの方も看病に明け暮れ身体が熱く燃えるのも忘れた。
直家の顔は、美しく着飾ったおふくの方を見るとほころび、食欲も増す。
その笑顔が見たくて、小西行長への注文を増やした。
豪華な衣装に身を包んだ、慈愛に満ちたおふくの方のまなざしが直家の一番の薬だったが、それもしばらくでしかなかった。
直家は「秀吉殿に中国攻めの拠点として、岡山城を提供するように」と言い残し一五八一年三月、五二歳で、亡くなる。
おふくの方との一四年の暮らしを振り返り、「均整のとれた姿態、男扱いのうまさ、衰えない美貌、備前・美作を知り尽くした博学ぶり。まれに見る女だ」と手を取りしみじみ言った。
やせ細った身体となってしまったが、おふくの方を見つめ、うなづきながら、はっきりと出た言葉だ。
行長が京・大坂から持ち込んだ、手の込んだ染め・刺繍で創られた小袖や帯、飾り物や化粧法で、ますます洗練されておふくの方の美しさに磨きが掛かる。
その上、南蛮からの絹・香料・毛織物は妖しげな美しさも加える。
時代を先取りしたような桃山文化の派手な明るさがおふくの方によく似合った。
「秀吉殿もきっと気に入るだろう。宇喜多家のために一番良いと思う方法で生き抜くように」が最後の言葉だ。
一二 おふくの方、三度目の結婚
秀吉が岡山城に入城するまで、直家の死を伏せることになる。
直家の死を公表すれば、宇喜多勢が士気をなくし、毛利勢の勢いが増すというのだ。
信長の先兵となり必死の戦いを繰り返している宇喜多勢の死傷者をこれ以上増やしたくない。
秀吉の援軍が来れば、毛利勢を追い詰めることが出来、勝利は間違いない。
それまで時間稼ぎすることは、直家の遺志であり、おふくの方も了解だ。
信長・秀吉を後ろ盾とし九歳の秀家が宇喜多家を継ぐために、信長・秀吉の了解を得なければならない。
良い形で秀吉を迎えたい。
秀吉が現れるまで、直家の弟、春家・忠家が宇喜多勢を率いる。
宇喜多勢は、いつもと変わりなく、結束は強くよく戦った。
直家には春家・忠家と二人の弟が居たが、七歳以上年が離れており、恩人、阿部氏の娘が母であり、共に育ったわけではない。
阿部善定は商人として立場をわきまえ、生母も直家に対し控えめだった。
それでも、継母とはどこかなじめず、共に過ごした時は短い。
春家・忠家を弟として認めたが、重臣として扱い、主従であるとわきまえさせた。
直家と弟たちでは明らかに生まれに差があった。
弟たちはまぎれもない宇喜多家嫡流の御曹司、直家を恐れた。
直家が亡くなってほっとした。
おふくの方と巡り会う前、直家は、春家の子、基家(1562-1582)を養子とした。
姫しか生まれなかったため、後継の含みを持たせて養子としたのだ。
この頃から、基家の父として春家を重く用い、直家の名代として、対外交渉をおこなったり、大将となり戦うこともあった。
おふくの方に秀家が生まれ、基家は嫡男とはならなかった。
直家の死の一年後、一五八二年三月、毛利氏との戦いで戦死。
一五八二年四月七日、秀吉は、二万の軍勢を率い、毛利氏に勝利し、鉄槌を下すと出陣した。
まず、毛利氏方、備中高松城(岡山県岡山市北区高松)を攻め落とすのだ。
ここを落とせば、毛利氏の本拠、安芸広島まで攻め込める。
毛利氏も備中高松城を最後の砦とし、守り抜く決意で、総勢四万の軍勢を集め、出陣していた。
いよいよ、決着をつける時が来たのだ。
水面下で話し合いは進んでおり、小早川隆景は和議を結ぶ手はずを整えていた。
秀吉は、信長の参陣を願い、華々しい勝利の中で信長を迎え、了解を得て和議を結ぶつもりだ。
岡山に入ると宇喜多勢一万と合流した。
だが、三万の軍勢では心もとなく、信長の強さを見せつけたいと援軍を求めた。
信長から明智光秀の軍勢を送るとの指示を受け、決戦の場に相応しい戦いになると気合が入った。
秀吉が居城としていた姫路城から備中高松城まで一〇〇㎞もない。
三日もあれば行ける距離だ。
岡山城は備中高松城の手前一二㎞の位置にあった。
そこで、秀吉は、ゆっくりと周辺の状況を見、臣従した武将に対面することになっていた。
岡山城に入った。
待っていた重臣一同に恭しく迎えられると、余裕の表情で接待を受ける。
同盟軍として最前線で戦い続け、疲労が激しい宇喜多勢を慰労するための寄城だった。
秀吉四五歳、にこやかに自信に満ちて、何の迷いもなく岡山城で直家が座った位置に座る。
そして「もはや毛利輝元は恐れるに足りない。追い詰め、滅ぼすのは時間の問題だ。今までよく戦ってくれた」と重臣一人一人の手を取って褒めた。
ここで、絵から抜け出たような衣装に身を包んだ美形のおふくの方と容姫・秀家が現れる。
秀吉は目を見開き、おふくの方らを手招きしすぐ側に座らせる。
おふくの方は広間の雰囲気が変わったと、敏感に感じる。
家中は、戦いが続き消耗し重苦しい雰囲気があり心痛めていたが、今は、明るく希望に満ちていた。
秀吉の柔和な顔が、皆を見渡すと、つられたように皆の顔も優しくなる。
そして飛び出した威勢の良い言葉に、つられるように元気を取り戻したのだ。
秀吉は思ったより小柄で顔の作りも小さいが、目・耳・口など五感の動きが素早く敏捷だ。
宇喜多家の情報はすべて頭に入っおり、重臣一人ひとりと長い付き合いがあったかのように談笑した。
秀吉は、家中に明るい光を差し込んだ。
おふくの方も自然に頭を下げ、歓迎の口上を述べた。
ここで秀吉はすべて見通すように「直家殿は良き後継ぎを残した。皆も直家殿と変わらぬ忠誠を尽くすように」とはっきり宣言した。
おふくの方は思わず顔を赤らめ頭を下げる。
秀吉は並の武将ではなかった。
気さくに話しながら相手の思いを鋭く見抜く。
回答をずばり言うが嫌味なくどっしりと威厳がある。
心憎い気配りで心を掴む術は見事だった。
おふくの方には頼るべき実家がない。
直家亡き今、自らの力で宇喜多家に居場所を作らなくてはならないと緊張しながら真剣な思いで秀吉に対面した。
秀吉は「宇喜多家を守る。安心すれば良い」と思いを見透かしたように話した。
おふくの方の目が潤む。
備中高松城攻めの策は決まり準備が進んでおり、出来るまでゆっくりと、祝宴を楽しむつもりだ。
大勝負の戦いを前にして緊張感もある秀吉だったが、さりげなく、岡山城本丸屋敷に泊まるという。
おふくの方は秀吉の言わんとしたことを理解し、頷いた。
秀吉の話しぶりは信長の第一の臣としての自信に満ちていた。
「毛利家を従え、次は九州を平定する」と共に戦えば宇喜多家は万々歳だと手振り身振り面白そうに話す。
明るく夢のある秀吉の語りに皆が賛同し、勇気を奮い起こす。
宇喜多家中が久しぶりに笑いに包まれる。
信長への臣従の証に秀吉に差し出される西国武将の姫は数知れないと聞いていた。
姫路城内には信長の姪、姫路殿を含め多くの女人が側近く仕えている。
直家から秀吉は並外れた武将だと聞いていたが、目の前にして確認できた。
それでも秀吉は信長の家臣だとの思いは捨てきれない。
宇喜多家は岡山藩五四万石を治める大大名だ。
その宇喜田家当主の母、おふくの方が秀吉の来るのを待ち、その指示に従わなければならないのは我慢できない思いだった。
だが、秀吉を間近に見て直家の人を見抜く目を改めて知る。
自然に直家に成り代わったように、秀家の後見人となり、家中への心配りも完璧だ。
おふくの方も自然の流れに身を任せるしかないと度胸が据わる。
覚悟を決めると、すぐ動き始める。
秀吉の好みはあらかじめ調べてある。
好みの香を焚きしめ、絹の襦袢に薄物を羽織り、寝化粧も念入りにして待つ。
秀吉は、警備の近習を引き連れて現れると予想していた。
ところが、気軽に部屋に入ってきた。
供も気取りのない姿で、おふくの方を検査するような者は誰もいない。
この大胆さ、おふくの方を労わり守ろうとする姿に心打たれる。
秀吉の非凡な才能を見せ付けられた。
秀吉は妻、ねねとの夫婦生活に厭きて長浜城には、ほとんど帰らないと聞く。
おふくの方はそのねねより二歳若いが、年齢の近い三三歳だ。
年齢は隠せない。
秀吉の愛を確実にし、子種を宿すには年を取りすぎている。
このままでは宇喜多直家の妻を夜伽にし、宇喜多家を配下にしたと、皆に示すだけで終わりかねない。
それでは直家とおふくの方の名誉は守れない。
どうすればよいのか頭の中はめまぐるしく動き、動悸が激しくなる。
秀吉が席に着き、二人だけの酒宴が始まる。
おふくの方も年齢を重ねている、心中をさらけ出すことはない。
余裕の表情で宇喜多家重臣を家族のように、それぞれの特徴を、親しみを込めて話す。
三浦家旧臣、牧氏・福島氏・船津氏・長力氏から始まり宇喜多家の長船氏・岡氏・戸川氏と蕩々(とうとう)と。
宇喜多家がどれほどの犠牲を払い秀吉に忠誠を尽くしたかをさりげなく。
「(宇喜多勢が秀吉に従えば)秀吉様のなくてはならない戦力となります」と胸を張る。
秀吉はうんうんと大げさに同意しながら聞いた。
そして二人は結ばれる。
それからの秀吉は、生き返ったように、矢継ぎ早に指示を出し、毛利氏攻めの最終段階を華やかに飾ると張り切った。
おふくの方のもとへ、供もつれず、毎夜訪れる。
緊張の糸がほどけたおふくの方も、屈託なく話す。
目を輝かせ瀬戸内の自然のすばらしさ、食べ物のおいしさを自慢する。
続いては愛する亡き夫直家の故郷、備前福岡周辺の思い出話だ。
花を生け、茶席をもうけ茶を味わう。
道具類は備前焼が一番だと自信たっぷりに話す。
お茶の味・酒の味・料理の味をおいしく引き立て、花を長持ちさせる魔法の器であり、使い込むほどに味わい深く艶を増すのが備前焼だ。
内部にある微細な気孔によって生まれる通気性のたまものだ。
備前焼は備前(びぜん)伊部(いんべ)が中心地。
伊部(いんべ)は、段々状に登り窯が乱立し壮観な景色だ。
鉄分を含んで粘り気のある山土と田土(干(ひ)寄(よ)せ)を配合した備前の土を使うだけで他には何も使わない。
土は二年以上寝かせ、不純物をなじませ、粘土にする。
その後、乾燥させてから、かなづちで粉砕し、水に入れてどろどろの土とする。
水抜き・自然乾燥の後、よく練る。
次に、ろくろか手作りで形を作り整える。
こうして、窯に入れ、窯焚きする。
まず、赤松の割り木を少量づつ入れ五日間、八百度で焚く。
次に四日間、大量に入れ温度を上げ高温、千百度で焚き続ける。
さらに続けて四日間ほど千二百度まで温度を上げ保ちながら焚く。
密閉し釜が常温に戻るまでじっくり待つ。
過酷な作業場で、慎重に根気よく、窯の状態を見守らなければならない神経の使う作業だ。
すると、一つとして同じ模様にならない赤みの強い器が出来る。
窯(よう)変(へん)はいろいろだ。
灰に埋もれて直接火が当たらず生まれた渋い灰色の桟(さん)切(きり)。
高温で表面が溶けたり、降りかかった灰が付着したりで釉薬になり、流れたり振りかけたと見える胡麻(ごま)。
炎を遮断して器と器の間がくっつかないように置く稲わらが模様となり、対比がおもしろい緋襷(ひたすき)。
作品の上に小さな作品を置き、炎を当てないことで生じる模様が面白い牡丹餅(ぼたもち)。
窯を密閉し酸素不足にするために薪を過剰にくべると、青みを帯びる青備前。
などなど、おふくの方は素朴さのなかに独特の模様が生まれた自然美が特徴の備前焼の茶碗を手に取り秀吉に見せる。
愛おしそうに長い指と手のひらで包み込みながら。
そして、直家愛用の備前刀、長船(おさふね)の自慢話を話し出す。
「備前長船」は名刀として名高く、鉄の持つ美しさを最大限生かした芸術品だ。
備前福岡に隣接する長船で「名刀長船」が作られる。
吉井川上流で採れる砂鉄が、高瀬舟で川下になる長船(おさふね)に運ばれてくる。
その砂鉄(赤目砂鉄に真砂鉄を加える)からタタラ(昔の製鉄法)により玉鋼(たまはがね)を作る。
そして、刀鍛冶により赤く熱く鍛え上げ「名刀長船」となるのだ。
炉を作る土・強い火力を生むクヌギ・赤松が中国山地に自生し豊富にあり、自然の恵みで生まれていく。
砂鉄・赤松・クヌギなど必要資源の集積地、長船(おさふね)に名刀匠が集まり、全国一の刀剣産地となった。
今に残る国宝・重文の刀の七割は備前刀だ。
直家も「名刀長船」の洗練された姿、鍛えられた地鉄、美しい刃文に魅せられこだわり、事細かく注文を付けた。
何を望んでも思い通りに仕上がるのが「名刀長船」であり、切れ味は抜群だ。
眠そうな顔になった秀吉を見ておふくの方は慌てて故郷、勝山の話を始める。
大好きな故郷の思い出はたくさんあるが、秀吉が感動するとは思えず別の機会にするとして、湯原温泉の露天混浴の話を始める。
秀吉の目が少し開いた。
湯原温泉は何も遮る物はないただの川だ。
それが、山々木々に囲まれた自然の中で男女が集う混浴温泉となる。
自然の恵みは老若男女すべてに与えられ、皆が手ぬぐい一枚で湯に浸かり疲れた身体を湯治で回復させる。
遠い幼子の思い出だが鮮烈な印象は目に焼き付いている。
わき上がる大量の湯の前では裸が自然だった。
何の違和感もない。
おふくの方に付き従う侍女達は浴衣を着ていたが濡れて身体に吸い付き身体の線が丸見えで、裸と変わらないと笑ったこと。
源泉近くに行くと、熱くて見る見る身体が桃色に変わるのを楽しんだこと。
おふくの方母子の休憩地はきちんと作られるが、侍女の着替える場が少なく急ごしらえで目隠しがあるだけだったこと。
近習も近隣の人々も興味津々だったこと。
おふくの方は、すぐに素裸になり、はしゃいで駆け回ったこと。などなどを懐かしそうに話した。
こうして日が経ち、秀吉は、五月七日、備中高松城に本陣を敷き、移った。
湿地帯にある城であり、水攻めで落城させると決め、すべての準備が整ったのだ。
秀吉の到着を待って、工事に入るべく、毛利勢の目を欺きながら、周到に用意していた。
秀吉の威勢の良い掛け声が響き、突貫での堤防工事が始まる。
信長を喜ばすよう金に糸目をつけず農民・資材などあらん限りを尽くして昼夜兼行で湖に浮かぶ孤島、水城が作られる。
ほぼ城を囲む堤防が出来た頃、梅雨入りとなり、雨が降り、見る見る思い描いた孤島になった。
運が良かった。
城中も毛利勢も、なすすべがなく、秀吉の思いのままに堤防が築かれるのを見て居るしかなかった。
毛利家当主、輝元が到着し、本陣を構えた六月一一日の前日、完成した。
この間、秀吉は備中高松城で陣頭指揮を執りながら、岡山城を行き来する。
岡山城のおふくの方の元に嬉々として通う、忙しい日々だ。
おふくの方もいつ戻るかわからない秀吉に合わさなくてはならず、落ち着かないがうれしい日々だ。
岡山城に戻れば秀家・容姫を呼び可愛がる。
その様子が実の親子のようで、胸が熱くなる。
秀吉には、おふくの方の側で過ごす時間が至福のときだ。
おふくの方によく似た秀家に特別の愛情を抱き可愛くてならない。
愛娘、豪姫と結婚させれば似合いだと思う。
おふくの方は、にっこりと秀吉に横になるよう勧める。
直家の看護を長く続けて身体を揉みほぐすのが得意だった。
秀吉の肩腰と引き締まった身体を直家と思い比べながら、強く弱く念入りに揉む。
すぐに秀吉はグウグウ言い出し、寝入ってしまう。
ほっとしながらも、熱くなった我が身を持て余し、添い寝する。
夢の中で直家に抱かれている感覚で目覚めると、身体の上には秀吉がいた。
待ち望んでいた快感に身を委ねる。
それでも「秀家が誇れる宇喜多家とし、父を引き継ぐ名君とする。役目はこれからだ」と頭は冴えている。
身体は愛の営みに疲れ、いつのまにか眠ってしまう。
陽が高くなりまぶしさを感じ、目覚めると秀吉の手がおふくの方の身体を愛おしんでいるのを感じる。
秀吉はおふくの方の魅力に取り込まれ、熱愛していた。
おふくの方も自然に秀吉への愛撫を始める。
裸は気にならず、肌襦袢の前がはだけて、明るい日差しの中で、裸身がまぶしく輝くのもそのままにした。
優しく激しく我が子を抱きしめるように秀吉の身体に愛を込める。
秀吉は驚いたようにおふくの方の裸身を見つめる。
薄桃色に染まった身体を誇らしげに見せながら、おふくの方はにっこり微笑む。
一日中、おふくの方の側を離れない日もあった。
秀吉は「今まで多くの女人と寝たが男を奮い立たせながら自然に受け入れる(おふくの方のような)女人は初めてだ。」と感心する。
おふくの方は秀吉の正直な言葉を心地よく聞く。
「疲れて早く寝たい時もある。短時間で事を済ませたいとき、人形のように寝ている相手では時間ばかり掛かり焦りおもしろくない。征服欲を満たす喜びは若い時だけ、今は楽しみたいと選ぶが思うようにいかない。育ちの良さの漂う品の良さは好きだが人形は嫌いだ」と。
おふくの方は、貞勝も直家も魅了した。
二人共が「観音菩薩のような神々しさに包まれている気がする。よく眠れる」とおふくの方の側で寝るのを喜んだ。
そして同じ事を秀吉も言った。
初めておふくの方と夜を共にした時、秀吉なりに緊張していたのを感じている。
その緊張した心がほぐされ、癒されて満足そうな横顔に変わったのがうれしい。
盛りを過ぎた女でしかないと思っていたが、不安は一掃された。
秀吉はおふくの方の虜になった。
岡山到着から布陣するまで、堤防が出来上がるまで、輝元を目の前にして威張り構えた時、その三段階を経て、いよいよ時が来る。
四月一一日の出会いから、六月二六日の中国大返しの日まで、二ヶ月半の蜜月だった。
一三 信長の死
逢瀬は短く終わる。
六月二一日、本能寺の変が起き信長が亡くなった。
秀吉は、毛利軍と対峙中だった。
動転し信じられなかったが、確認すると、和議を急ぎまとめた。
すぐに陣払いを始め、後に中国大返しと言われる大撤収作戦に入る。
宇喜多家にも信長の死の報が入った。
すると、重臣の中にも、宇喜多家も明智光秀に加勢して秀吉を討つべきだとの意見も出る。
おふくの方も一瞬迷うが心を決し、直家の妻として家中にきっぱりと「毛利家や光秀と宇喜多家との同盟はあり得ない」と退ける。
「家中一団となって秀吉殿を支え、宇喜多家の力を見せ付けるべきです。それが直家の遺訓であり守るべきことです」と家中をまとめる。
岡利勝、戸川秀安が直ぐに動き、藩内の宿場宿場に馬と食料を準備した。
秀吉軍と連携を取る小西行長に、秀吉勢の通過時間に合わせて引き渡すのだ。
膨大な量が必要だった。
秀吉勢二万の大軍が短期間のうちに京に戻れたのは宇喜多家の補給の力が大だ。
秀吉は、光秀を討ち果たした。
宇喜多勢は、信長・秀吉に代わり、毛利勢の監視役を任され、明智光秀攻めには加わらなかった。
備中高松城の戦いは和議が成立したが、毛利勢が反撃する可能性も大だったからだ。
だが、輝元は動かなかった。
宇喜多勢には良い休養となる。
おふくの方も、祈る日々が続いたが、勝利の報が伝わると、ひと時の平和に気分も弾む。
秀吉からの指示を待つだけで、宇喜多勢には久しぶりに戦いのない日々となる。
まもなく秀吉直々の文が届く。
簡単な文だが手に取り、秀吉の妻だった夢の日々は終わったと我に返る。
秀家は秀吉から天下太平を願う壮大な夢を聞き心酔し見上げていた。
まだ一〇歳だが秀吉の影響を受け藩主としての自覚が出来た。
父を亡くし寂しい母を力づけるように「父の後を立派に継いでみせる」と強がりを言う。
母を励ます優しい子であり、母によく似た整った顔は愛くるしい。
「秀吉殿は遠くに去った。二度と会うことはない」と頭を切り換える。
宇喜多春家・忠家に秀家の後見を頼む。
「秀家が岡山藩主としての役目を立派に果たすことしか、宇喜多家の生き残りはないのです。よろしくお願いします」と念を押す。
また、秀家に、武芸・軍学を学ばせる。
兄、春家と甥、基家が、直家の代理を務めた時もあった。
だが、基家が亡くなると、春家は力をなくしおとなしくなり、忠家に秀家を任せることが増える。
忠家は、軍事でも力を発揮しており、秀家後見として、陽の当たるところに出て、宇喜多家を率いることになった。
一五七五年の上月城の戦いで直家が戦う気がなかったこともあり、総大将を任された。
以後、直家が病に伏せることがあり、宇喜多家を率い、戦功を挙げていた。
秀家の後見として宇喜多勢を率いるのは望むところだった。
秀吉にも認められた。
おふくの方は秀家に、直家を支えた重臣との時間を大切にするよう諭すがまだ幼すぎた。
その間、信長後継者への道を進む秀吉から自信に満ちた便りが届く。
「秀家に会えないのが寂しい」と綿々とつづられ有難く心強い。
また「有馬の湯に行った。温泉はとても快適だ。疲れがとれる」とも書かれていた。
有馬温泉での湯治を楽しんでいるらしい。
秀吉がおふくの方の弾力性のある肌を褒めた時「湯原温泉のおかげです」と微笑んで以来、秀吉は温泉に興味を持った。
秀吉と共に過ごしたときから一年が過ぎ、懐かしい思い出となっていた。
おふくの方は幼君、秀家の母として重責を担い藩政に携わっている。
夫の墓前に「秀吉殿が天下を取りました。秀家を我が息子と呼んで可愛がってくれています。宇喜多家は平和で安泰です」と報告する。
心地よい幸せを噛みしめ、母として生きる喜びは他に代え難いと感じる。
一四 おふくの方、大坂の暮らし
その頃、秀吉は天下普請で天下人の居城、大坂城を築いていた。
あらかた形が出来ると、岡山藩宇喜多家に大坂城下に屋敷地を与える。
おふくの方は、すぐに宇喜多屋敷の建築を始める。
完成次第、秀家・おふくの方は移り住むことになった。
秀吉が早く早くと急がせるため完成間近の備前大坂屋敷に秀家が一足は早く移る。
一五八四年、秀家一二歳で大坂城への入城となる。
「秀吉様から以前と同じように可愛がられ、大阪城で過ごし側に居る時も多い」と便りがある。
秀家が大坂に出立つする前、秀吉は毛利家と宇喜多家との領地の境界を決めた。
おふくの方の希望が尊重され、毛利勢に押さえられていた勝山城は宇喜多家に戻る。
やっと三浦家再興の夢が実現したとおふくの方は天にも昇る幸せをかみしめていた。
一五八〇年、信長と和議を結んだ時、桃寿丸を信長への人質として京に送った。
秀家の大坂城入りと入れ替わりに勝山城に戻ることになり、嬉しくてうれしくて、勝山城入りの準備をしつつ待つ。
ところが、秀家が大坂城入りしてまもなく、京に大地震が起き、屋敷が倒壊し下敷きとなった桃寿丸は、亡くなった。
気を失いそうになりながらも、桃寿丸に養子を迎え、引き継がせたいと秀吉に願った。
だが、認められなかった。
秀家に直家の所領を安堵し、三浦領も引き継がせ、岡山藩五七万四千石として与え、自らの養子とした。
勝山城主は、腹心、牧国信がなる。
三浦一族であり、直家の妹婿であり秀吉の心遣いはわかる。
だが、三浦家が断絶したことは納得できない。
「今まで生きた意味が失われた」と涙する。
桃寿丸の三浦家再興が生きる支えだった。
なぜ死んだのか、どうして三浦家の養子が認められないのか、自問自答し虚脱状態になった。
秀吉は「宇喜多家の恩は忘れない」と言うが三浦家再興には消極的だった。
桃寿丸に武将としての能力を認めていなかったこともある。
そこで、桃寿丸家老でもある牧国信が引き継ぐのが相応しいと、決めたのだ。
おふくの方は病に伏した。
秀吉への抗議の印でもある。
秀吉は病と聞くと大げさに驚き心配した。
「湯原温泉で療養するように。回復すれば大坂城内に屋敷を用意しているので来るように」と優しい知らせが来る。
秀家は雄々しく成長しているようだ。
それで十分で、役目を果たしたと思う。
三浦家に申し訳なく、出家しようと思い詰める。
亡き夫、貞勝の墓前に桃寿丸の報告をしなければならないと故郷に帰る。
勝山城主、牧国信が湯原温泉に立派な湯屋を建て待っていた。
牧国信との主従関係は長く深く、今でも再々会っている。
牧国信には、かけがえのない主君だ。
三浦家のためにも宇喜多家のためにも回復して欲しいと、至れり尽くせりで英気を養えるよう手配していた。
三〇年前に戻り誰にも邪魔されず一人露天風呂に入る。
ゆっくり三六歳の裸身を見つめ、年齢を重ねた事を実感する。
以前のように全身が薄桃色に染まることはなく、熱い湯が当たると赤くなるだけだ。
一人微笑み、皆の心遣いに感謝する。
厳しい秀吉の目は確かだ。
桃寿丸には勝山城主としての役目は果たすのは難しかったと思う。
それでも可哀想でたまらず、母に看取られることなく亡くなった心細さを思うと涙があふれる。
冷静に過去を振り返る。
三浦家嫡流は、貞勝ではなく、兄、貞広だった。
貞広は、尼子旧臣と共に信長に与して戦ったらしいが、連絡が取れなくなった。
貞広かその子が生きていれば迎えたいと探したが、いまだ生死はわからない。
三浦家は、秀家の元、宇喜多家家臣として生きるべきと教えているのかもしれない。
牧国信は、宇喜多家一門重臣として残った。
三浦旧臣を必ず守ると言っている。
これで良いと思い始める。
湯原温泉にしばらく逗留し、湯治に来るたくましい若者を見続けた。
日を追うにつれ、短い命は桃寿丸の定めだと思えてくる。
桃寿丸の死を受け入れ、牧国信と共に宇喜多家のために働くのが、貞勝の遺志であり直家の遺志なのだ。
何度も何度も泣きながらつぶやく。
三浦氏次男、貞勝と結婚したのだ。
とても愛され幸せだったが、次男の妻であることをわきまえるべきだったのかとも思う。
貞勝の遺言を胸に重く秘めて、頑張りすぎたのかもしれない。
直家との一五年の歳月もゆっくりと思い返す。
暖かく強い腕の中で眠った満ち足りた日々を思うと恥ずかしく顔が赤らむが、昔の思い出となった。
秀吉との二ヶ月半は喜びもあったが神経を使い疲れた。
この間は、間違いなく秀吉に他に女はなくおふくの方が唯一の妻だった。
今の天下人秀吉を短期間ではあったが虜にした、それだけで十分だ。
三人三様の武将の姿を思い浮かべる。
懐かしく心浮きたち、素晴らしい思い出だが、もう過去の思い出と胸の奥にしまう。
「身体を武器に秀吉を誘い込み、宇喜多家を守った。と誹謗中傷されるのは終わりにします」と過去に一区切りを就けた。
湯原温泉は悲しい思い出を洗い流し、生きる気力を与えてくれる。
直家の妻であり、秀家の母として生きると踏ん切りをつける。
故郷の円融寺 (岡山県真庭市)に入り、出家する。
直家の菩提寺、光珍寺(岡山市北区)と同じ天台宗の寺で、ここで、円融院を法名とする。
こうして法衣をまとい宇喜多家の家臣団を一つにまとめる役目を果たすことを、亡き三浦貞勝に告げ、別れとする。
三浦家は日蓮宗に帰依しているが、おふくの方は直家の宗派を選んだ。
決意を新たにし、岡山城に戻り、大坂城に向けて出立する。
京極竜子達、側室の屋敷が並ぶ大坂城二の丸の一角におふくの方の屋敷地が用意された。
だが、屋敷は必要ないと断り、尼としての休憩所となる小さな庵だけを願い、すでに造られていた。
感謝しつつ、その庵で休憩した後、本丸に向かう。
待ちかねていた秀吉は大喜びでおふくの方を迎えた。
尼姿のおふくの方の神秘的な輝きに、一瞬驚くが、気にする風はなく、ねねに引き合わせた。
ねねは、桃寿丸の死を悼み、元気を出すように言葉をかける。
おふくの方は、謝意を述べ、秀家の母として秀吉・ねねに仕えると神妙に挨拶する。
庵には、備前焼の茶碗・水差(水を入れる器)・建水(茶碗を清めた湯水をいれる器)・菓子器・花入れ・香合(香を入れる小さな器)と自慢の備前づくしでしつらえた茶室を設けた。
時たま、訪れる秀吉を迎え、茶を点て昔話を語り合う。
また、秀吉の許可を得て、小西行長や千利休を招く。
千利休との茶席は興味が尽きることなく愉しい。
茶の湯の名物茶器は千利休や秀吉の好みもあり、後に、一楽・二萩・三唐津と格付けされる。
中国・朝鮮から渡ってきた陶工による、優れた高度な技術で作られる茶器に、人気があり価値あるとした。
古墳時代から日本で作られた伝統ある須恵器を初めとする備前焼が名物とされることはなかった。
備前焼が価値あると評価されないのが悔しくて、千利休や秀吉に備前焼を献上し活用を願う。
千利休も納得して使ってくれた。
茶席で備前焼を使うようになり、特に茶入れとして使われる。
備前焼の茶入れは、お茶の味わいを長く保つことが出来るのだ。
茶道の目指す簡素だが質的に趣がある優れた美を見いだすのが侘び。
古びた様子の中に奥深い豊かさを感じ、そこから生み出される美しさを寂び。
侘び寂びの境地には備前焼こそふさわしいと、おふくの方は胸を張った。
おふくの方の想いに秀吉・千利休が応え、備前焼が価値ある器として広まる。
名物茶器とはならなかったが、備前焼の名は広まり、需要は伸びた。
おふくの方は備前殿と呼ばれ、秀吉の側室の一人として大切に遇された。
秀吉は「望みは何でも叶える」と言うが、秀吉の妻であったのは、岡山城での二ヶ月あまりでしかない。
今は、法衣(ほうえ)をまとった世俗を超越した尼として秀吉に仕えるだけであり、多くは望まない。
岡山藩主の母として、宇喜多家を代表する身だと、精一杯秀吉をもてなし、にぎやかな時を過ごすだけだ。
一五 秀家と容姫の行く末
おふくの方の二人の子、秀家と容姫は秀吉の養子となった。
宇喜多家は、豊臣一門となり、天下人、秀吉の政権を確固とする為の縁戚網作りの一翼を担う。
大阪城内におふくの方の庵はあるが、常の住まいは備前屋敷であり、容姫は母と共に宇喜多家大坂備前屋敷に住んだ。
一五八七年、久しぶりに庵に出向くと秀吉が現れた。
おふくの方の点てた茶を飲みながら「容姫の婿を決めた」と嬉しそうに話した。
相手は、毛利家分家になる吉川家当主、広家(1561-1625)だ。
おふくの方は宇喜多直家と広家の父、吉川元春の熾烈な戦いを思い出す。
宇喜多家の死傷者はあまりに多数で、直家が信頼した基家も戦死した。
毛利方大将が、吉川元春だった。
西国の覇者、毛利元就は直家には強敵すぎる強敵だった。
その元就が、家中一族の中で最も軍事的に才があると全幅の信頼を置いたのが次男、吉川元春だった。
生涯無敗を誇り、直家は幾度も互角に戦ったが、勝てない相手だった。
吉川元春を受け継いだのが、広家だ。
秀吉は、中国大返しを静かに見守った毛利輝元の忠義、以降の惜しみない支援に感謝して共に天下を治めようと、嫡男、秀勝(信長の四男)と輝元の娘との結婚を申し出た。
宇喜多家の支援で中国大返しは成功したが、毛利家が追撃しなかった故に成功したのでもあり、第一の功労者は毛利家だ。
毛利家との和議は、宇喜多家の領地と国境が入り組み調整に手間取り、また勝山を宇喜多領とするのにこだわり、正式の和議調印まで時間が掛かった。
和議成立の一五八五年二月、秀勝と輝元の娘は、形だけだが結婚式を挙げた。
こうして、安芸広島藩毛利家から秀勝の居城、丹波亀山城に嫁入りするはずが、直前一五八六年一月、秀勝は亡くなり実現しなかった。
秀吉は、ため息をついた。
秀勝が亡くなり、以前から考えていた毛利家を支える両翼、吉川家(元就次男の家系)と小早川家(元就三男の家系)との縁組を急ぐ。
毛利一二〇万石は三家で成り立つとされる力ある家だ。
まず、疎遠だった吉川家が代変わりした一五八七年、友好な関係を新たに構築しようと急ぎ新当主、広家と容姫の結婚を決めたのだ。
吉川元春は、直家と激しく戦い続けたが、一五八六年、陣中で亡くなった。
翌年には家督を継いだ嫡男、元長も亡くなる。
そこで、秀吉は元長の弟、広家に家督を継がせると決めた。
吉川家中には、次男を差し置いて、三男、広家が家督を継ぐことに不満を持つものも居た。
そこで、広家の後ろ盾は、秀吉であることを強烈に示す為に、容姫との結婚を決めたのでもある。
秀吉はおふくの方に「直家も元春も亡くなった。過去は忘れよう。若い二人が新しい絆を結び儂を支えるのは素晴らしい」と言う。
秀吉は、婚礼支度のために十分な資金を用意し、容姫は秀吉養女としてふさわしい化粧料(年金として受け取れる持参金)を得た。
おふくの方は、秀吉と特別な縁など何もないのに大切な親族のように扱われ、恩を忘れまいと感謝し頭を下げる。
隣国、毛利家との縁は、宇喜多家にとって必要だ。
価値ある結婚だと、おふくの方らしく、容姫のために華やかな嫁入調度を整える。
二人で、京の名所旧跡を訪ね歩き、最新の流行の品々を集める。
そして文房具、楽器、喫煙具、化粧道具、香道具、茶道具、飲食具、遊戯具、装束類、書画、運搬具、武具などの調度類も誂えた。
嫁ぐ娘との幸せな時間を過ごすことが出来た。
二度と会えないかもしれないと心残りは尽きないが、精一杯二人の時間を持ち一つ一つの道具類を確かめ合った。
翌一五八八年末、容姫は安芸広島に出立した。
涙で目が潤み容姫の顔が分からなくなるが、生涯忘れられない最高の思い出となる。
広家は居城、安芸日山城下の吉川屋敷(広島県北広島町)内に広大な新居を建て待っていた。
黒田官兵衛が容姫に付き従い、秀吉に代わりに立ち会い、盛大な婚礼が執り行われた。
容姫の結婚に続いて、同じ年、秀家一六歳が秀吉の養女、豪姫一四歳と結婚する。
おふくの方は秀吉の養女、娘、容姫を嫁がせ手放したが、すぐに、秀吉の養女、豪姫を嫁に迎える。
二重の喜びに包まれ、最高に幸せな年だった。
おふくの方は、ほんの一時期だけ秀吉に仕えた。
その間は秀吉の唯一の妻だったが、おふくの方が口外しない限り誰にも分からないほど、短いひと時だった。
それからは、大坂備前屋敷に直家の未亡人として入り、秀吉の側室として振る舞うことはない。
庵を与えられて、秀吉と茶飲み話をするときも時たまあり、秀吉の側室の一人として遇されたが、子を生む年齢は過ぎており、あくまで尼として向き合った。
ねねも秀吉との関係に触れることはない。
最初の対面時、ねねは「宇喜多家はよく秀吉に尽くし、感謝します」と労(ねぎら)いの言葉をかけた。
以来、主従関係を崩すことはない。
秀吉との熱い愛を、ねねは知っていても口に出すことはなく、顔に出すこともない。
お互いが過去を封印した。
「主君に命を預け、身を捧げるのは男も女も同じだ。恥ずべきことではない」とおふくの方は自信を持っている。
ねねも同じ考えだ。
天下人の妻、ねねと岡山藩主、宇喜多秀家の母の儀礼的な主従関係だった。
ところが、秀家と豪姫を通じて花嫁と花婿の母同士という親密な関係になる。
豪姫をとても可愛がったねねは、気さくな性格で、母親同士だと私的な話もするようになる。
とてもうれしい付き合いだが、微妙な問題は避けたくて気を遣う。
大坂城山里のねねの茶室に招かれることが増える。
おふくの方は幼い頃の秀家の思い出話をしながら、ねねの点てた茶をいただく。
ねねは豪姫の幼い頃を話す。
二人とも激動の世を生き抜き様々な経験を重ねた四〇歳を過ぎた熟年同士だ。
ねねは、たわいのない話をしながら笑い転げる。
その様子を微笑みながら見て、ねねのすべてを受け止める大きな力を感じる。
「天下人の妻としての存在感がある。素敵な方だ」と素直に尊敬する。
ねねも「三浦家・宇喜多家を守ろうとする気概、その勇気には叶わない」とにっこり受け止める。
二人とも生身の女を乗り越え、人としての年輪を重ね、余裕が出て来ていた。
おふくの方は秀家と豪姫が結婚を機に建てた聚楽第の屋敷に来るように言っても、大坂を離れず備前屋敷に留まったままだった。
豊臣家・前田家と付き合うのは気が重く、豪姫にすべて譲り一歩引いて、直家の菩提を弔う日々を送るつもりだ。
天下人、秀吉夫妻の娘として天真爛漫に育った豪姫はどこに出ても臆することなく堂々と、時代の最先端を行く存在だ。
豪姫はねねを母と言い、自由に大坂城に出入りする。
秀家は一本気でこせこせしないおおらかな性格に育っている。
元服の時、秀吉は秀の字を与え秀家と名乗らせ養子とした。
秀吉は疑い深く用心深い性格で終生、信頼し続けた近しい人は少ない。
だが、秀家だけは一度も疑うことなく生涯、我が子にふさわしいと信頼した。
秀家も生涯、秀吉を父と思い養子としての誇りを持ち続ける。
秀家は、一五八五年の四国征伐、一五八六年の九州征伐と果敢に戦い、文武両道の名君たる片鱗を見せていく。
秀吉も「豊臣政権を支える重要な柱になる」と満足げに話した。
「豪姫と秀家の結婚で豊臣家、前田家、宇喜多家は深く結ばれた」と自慢する良い縁組だった。
豪姫と秀家の仲は睦まじい。
おふくの方が微笑ましくまたうらやましく思うほど絵に画いたような天下人の子同士だ。
育ちのよい、高貴な香りが漂っていた。
だが、結婚生活は波乱万丈だった。
結婚後まもなく子が授かり、養父母、秀吉・ねねも実父母、利家・まつも大喜びだった。
もちろんおふくの方も嫡男の誕生を願い祝った。
だが、流産。
以後、豪姫は、起き上れない日々が続いた。
心配した秀吉は伏見稲荷に必ず豪姫を全快させるよう命じた。
天下人夫婦・その盟友夫婦は病気平癒の祈願を争うようにした。
娘、豪姫を想う愛情ゆえだ。
おふくの方は、ちょっと引いて見守るしかない。
豪姫の住む聚楽第に向かい、見舞い、静かに病気快癒を願う。
秀吉は広家の家督引き継ぎが順調に進み、容姫との仲も良好と確認し、一五九〇年、出雲一四万石を与える。
広家は喜び、尼子氏の居城、月山富田城に入るが、山城の限界を感じる。
そこで、秀吉の勧めもあり、城下町の繁栄を願い近世城郭、米子城の築城を決める。
一刻も早く築城を完成させ、容姫を迎えると張りきった。
おふくの方の元に「穏やかな瀬戸内から厳しい自然の日本海に移るのは少し怖いですが、広家殿と一緒だから安心です。いつか京・大坂に参ります。会いたいです」との容姫の書状が届く。
幸せそうな文は嬉しいが病に伏せっていると聞き心騒いだ。
容姫の病気快癒を一心に祈っていたが、一五九一年六月十日、亡くなったとの報が届く。
わずか二年半の結婚生活、二一歳の短い命だった。
おふくの方が、わが子の死を聞くのは二度目だ。
どちらも、親として最期を看取ることはなかった。
世の無常を感じ虚しく情けない。
出来れば代わりたかった。
吉川家の必死の看護を受けて愛されて迎えた死であり幸せだったと思うが。
秀吉は冷静だった。
すぐに、毛利輝元の養嗣子、秀元と秀吉の養女(弟、秀長の娘)善姫との結婚を決める。
毛利一族との縁は、とても重要で、途切れさせてはいけないと決めていた。
秀家は豪姫に対し、愛情が満ち溢れており常に優しい。
「ゆっくり休むがいい」とだけ言い、気長に回復するのを待った。
秀家の暖かい愛に包まれて、長く寝付いていたが、豪姫は元気を取り戻す。
続いて妊娠し一五九一年、嫡男、秀高が無事生まれる。
秀家は大喜びで「秀高の顔は自分そっくりだ」と秀吉、利家に自慢する。
すぐに朝鮮の役が始まった。
秀家は二十万人の兵を率いる総大将格で出陣だ。
続いて、聚楽第を引き払い大阪城下の屋敷に戻ることが決まる。
秀吉が関白を秀次に譲り聚楽第を引き渡したためだ。
すぐに、秀吉の隠居城、伏見城築城が始まる。
各大名には城下に屋敷地が与えられ、宇喜多屋敷もすぐ建てられる予定だ。
そのしばらくの間、おふくの方の住む玉造備前屋敷に、豪姫母子が移ってくる。
秀家もおふくの方と共に住むことを願っていたので、良い機会になった。
豪姫はおふくの方に朝鮮に渡った秀家の無事を祈る切ない思いを訴える。
おふくの方は軽く聞き流す。
天下人の姫として戦いを経験する事もなく危険を感じることもなく純粋無垢に育った可愛い顔を見つめる。
少しも動じることなく悠然として「生きるも死ぬもその時の武運に任せるしかないのです」と話す。
おふくの方には豪姫の苦労知らずが気がかりだ。
また、岡山藩宇喜多家に、秀吉の娘、豪姫を迎えて心配も増えた。
余りに秀吉に近く、天下人の娘として育った豪姫を歓迎しない重臣がいるのだ。
豊臣家・前田家の影響が強まることへの不満。
秀吉の養子であり婿として期待され、朝鮮へ莫大な出費となる軍事費を負担する不満。
豪姫は、すべてが派手で、宇喜多家に過大な責任と負担がかかることへの不満。などなど。
特に、法華宗の熱心な信者である重臣が煙たく思うようになっていた。
流産後、長く患っていた時だ。
秀家は、豪姫の病気快癒を法華宗に祈願した。
しかし豪姫の病状は良くならない。
秀吉も前田利家も必死で病気平癒の祈願している。
早く直さなければ夫としての面子がない。
そのあせりもあり、法華宗の御利益がないと怒った。
備前はもともと法華宗の信者が多く、宇喜多家中にも門徒が多い。
広島安芸地方に浄土真宗の信者が多いことと合わせ、「備前法華に安芸門徒」と皆が呼ぶほどだ。
岡山に初めて日蓮の教えを伝えた高僧として名高いのが、大覚(だいかく)妙(みょう)実(じつ)(1297-1364)。
近衛家出身の大覚(だいかく)妙(みょう)実(じつ)は、真言宗の僧を目指したが、日像(1269-1342)の説法を聞き感銘を受け弟子となる。
教祖、日蓮(1222-1274)の弟子、日像は、大覚(だいかく)妙(みょう)実(じつ)と共に、日蓮の教えを広め、京都布教の拠点、妙顕寺を建立した。
そして、近親者を紹介され、宮中や室町幕府で日蓮の教えを説く。
一三五八年には、雨乞いの祈祷を成功させ、妙顕寺を天皇の勅願寺、幕府の祈願所にする事に成功する。
ここで、法華宗は朝廷や幕府公認となる。
大覚(だいかく)妙(みょう)実(じつ)は、法華宗の唱える権力批判を押さえ協調路線を取る。
権力を批判した日蓮に反するが、布教を優先し、信徒は増え成功した。
大覚(だいかく)妙(みょう)実(じつ)は、京の布教が一段落すると畿内・瀬戸内諸国に布教に廻る。
京の帰依者からの紹介があっての布教であり、歓迎され、備前で三〇寺を超える法華宗寺院を作ることが出来た。
その後、二百年以上の歳月が流れ、名僧が次々生まれ、備前に広く深く法華宗が広まり、隆盛を極める。
西備前守護代、松田氏は法華宗を狂信的に信じ、他宗の寺社を強制的に改宗させた。
それどころか、改宗を拒否した寺院を焼き払い追い出すほどで、松田家中は狂信的に法華宗を信仰する家臣が増える。
松田家攻略を狙う直家は、この状況をうまく利用した。
家中すべてが法華宗を信仰するわけでなく、強制を嫌う反法華宗門徒がいた。
彼らを調略し、宇喜多家に取り込み、家中に内紛を起こさせたのだ。
松田家中の力が落ちた時を見計らい、直家が攻略し、岡山の地を手に入れた。
直家は、法華宗から距離を置き、天台宗光珍寺を菩提寺とするが、宇喜多一族にも法華宗信者は多い。
松田家を乗っ取り、その配下の国人衆を従えると、予期していた以上に法華宗に深く帰依している国人衆がおり、驚く。
高圧的に法華宗を排除する事は、治世に悪影響を与えると、協調路線を取らざるを得なかった。
三浦家も法華宗信者だったが、おふくの方には特別な思い入れはない。
三浦家に特別のご加護あったとは思えず、宇喜多家菩提寺、天台宗、光珍寺に帰依し賛成した。
秀家も岡山藩最大の宗教は法華宗であると、その存在を認めた。
だが、秀家に従わず、治外法権化する法華宗寺院もあり、あまりに力を持っていることを苦々しく感じていた。
しかも、豪姫の祈祷の効果がなかったと思わざるを得なくなり、たまっていた不満が一挙に吹き出す。
法華宗を特別視せず庇護しないと宣言した。
そして、重臣に法華宗への庇護をやめるよう言い渡す。
法華宗寺院は多くの賦役を免除されていたが、税の徴収を始めた。
同時に、藩主の支配力を強めるのだ。
熱心な法華宗信者の譜代の臣は、秀家の法華宗の弾圧に反対した。
信長は南蛮貿易を歓迎しキリスト教を認めた。
秀吉もその立場を引き継いだ。
中国明との交易を担っていた大内家が滅び、正式な交易が途絶えていたからだ。
中国明が行うのは、自らを世界の中心である(中華思想)と考える朝貢貿易であり、日本を中心に考える信長・秀吉とは相いれない。
南蛮船(ポルトガル・スペインの船)との貿易は、中国との迂回貿易の役割も担える朗報であり、信長は乗った。
ただ南蛮船は高度な文明と共にキリスト教をもたらした。
貿易と布教は一体だった。
そのため、信長はキリスト教を認めた。
同じように貿易で利益を得ようとする武将・商人もキリシタンを受け入れた。
自らキリシタンになる者も現れる。
ポルトガル・スペインや中国からの輸入品、鉄砲・火薬・織物・香料・菓子・磁器・薬材等々は関わる商人に巨万の富をもたらした。
そして、魅力的な高い技術文化を知り、宗教も含めて受け入れたのだ。
秀吉も、貿易の利益を当て込み、当初はキリスト教を認めた。
しかし、キリスト教徒が増えれば、政治的軍事的力を持ち、一向一揆の再来になると恐れた。
やむなく、一五八七年、キリスト教禁止令を出す。
全面禁止ではなく新たな布教活動を禁止し、許可制としただけだったが。
そうなると、中国明との貿易再開を急ぐ必要があり、緊急の課題となる。
私貿易を禁止し、貿易をすべて支配下に置けば、巨万の利益を得ることが出来、豊臣家の天下は安泰なのだから。
博多を拠点の貿易港とし、日本からの主要輸出品、となる銀の産地、石見銀山など全国の主要鉱山を支配下に置いた。
貿易を全て統制し、利益を一元管理するべく準備を整えた。
だが、中国明はあれこれ注文を付けて交易での優位性を主張する。
朝鮮を支配下に置き、円滑な貿易を実現するしかないと、朝鮮への出兵・中国明との対決を決意した。
この頃、京・大坂では宣教師が精力的に布教活動を行い武将・商人、海外貿易に関係する者らが信者となった。
秀家も反法華宗の立場からキリスト教を認める立場を取る。
好奇心旺盛・知的欲求の高い豪姫も南蛮貿易を大いに活用しており、秀家と同じ立場だった。
妊娠と流産、病と続き我が身が自由にならない、やるせない思いの中で秀家以上に、キリスト教の教えに傾倒していく。
おふくの方は、小西行長を側近とし、南蛮貿易の魅力に取り付かれたときもあった。
キリスト教にも寛大だったが、信者になるほどには受け入れなかった。
今は、出家している身であり、法華宗の信徒も多く知っている。
過度の弾圧は避けたい。
豪姫・秀家とは思いがずれていく。
藩主夫妻のキリスト教容認の立場に、宇喜多家家臣にもキリスト教を信ずるものが増えていく。
同時に、法華宗信者は、秀家や豪姫に反感を抱く。
家中では、キリスト教信者対法華宗信者の対立が始まる。
ここで、家康の密やかな調略が始まる。
一六 おふくの方の死
一五九六年、おふくの方は豪姫とゆっくりとした時を過ごし、孫の元気な成長を見て、そろそろ役目を終える時が来たと思う。
三浦家から宇喜多家、そして豊臣家と縁を結び生きた。
懸命に生きた。
そして秀家は岡山藩五七万四千石藩主となり、秀吉の養子として立派に役目を果たしている。
秀家に「宇喜多家を率いる将であることを第一に考えるように」と言い続けた。
だが、秀家は秀吉一門として宇喜多家を率いており、考えにずれがあった。
おふくの方にとっては、宇喜多家と三浦家を引き継いで生き今がある。
秀吉は大恩ある天下人だが一族ではない。
だが、秀家には三浦家が一族と言う意識はなく、宇喜多家譜代の重臣に対しても秀家に忠誠を尽くすかどうかで判断する。
秀家には、直家のような一門意識が少ない。
宇喜多家中には、秀吉一辺倒の秀家に不満も出ている。
おふくの方は勝山城が落城した時。
直家が亡くなった時。と二度、もはやこれまでと覚悟した。
その危機を切り抜ける決断力と行動力があった。
決断した道を切り開きながら進み、成功への道を歩むことが出来た。
同時に、天分の美貌と才に恵まれ、三人の愛する人を虜にした。
そして、勝山から岡山へそして大阪へと天下の中心に道を広げ、宇喜多家を導き、成功した。
だが、政治手腕はなかった。
宇喜多家中をまとめ率いるのは苦手だった。
家中が一致団結するために、重臣との意思の疎通、家中への目配りが、重要だが、できなかった。
直家の伴侶ではあったが、宇喜多家の奥に確固たる地位を築けなかった。
宇喜多一門との付き合いもどこか不自然なままだった。
宇喜多家中に信頼できる近習・家臣を持つことが出来なかった。
小西行長との縁は素晴らしかったが、秀吉直臣となって去り縁を繋ぐことはできなかった。
秀吉との縁をもっと活用すべきだったのだが、尼となり、秀吉の人脈に入り込むことはできなかった。
ねねとの縁も形式的なことが多かった。
もっと踏み込むべきだったが、窮屈で嫌だった。
分不相応な地位にまで上がってしまった気もする。
三浦家を引きずる三浦一族の姫でしかなかったのだ。
三浦家の再興に重きを置きすぎた。
秀家・豪姫のために家中をまとめたいが、能力の限界を知るばかりだ。
宇喜多家中で、身動き取れず、もがいている状態だった。
振り返れば、直家と結婚の時から家中不和の種があった。
直家には男子がなかなか生まれなかった。
秀家は、直家が四三歳の時に生まれている。
男子の生まれなかった直家はすぐ下の弟、春家の子、基家(1562-1581)を後継にする含みで養子にした。
その後まもなく、直家はおふくの方と結婚し、秀家が生まれ嫡男となったのだ。
直家亡き後、秀家が後継になり、まもなく、基家は若くして亡くなった。
ここで、秀家に次ぐ一門筆頭は、直家のもう一人の弟、忠家の嫡男、坂崎直盛(1563-1616)となる。
以来、坂崎直盛は、基家に代わり、秀家に次ぐ存在だと自負して生きる。
直家の弟、春家、忠家の乳母は、戸川秀安の母(-1603)妙だ。
生母は阿部家を離れることはなく、妙が二人の母親代わりとなり引き連れ、兄、直家に従った。
戸川家は、美作国富川より始まる菅家の嫡流、有元氏の一族になる。
おふくの方の母の実家、鷹取氏と同族だった。
この縁があり、妙は、おふくの方と直家の結婚を宇喜多家中に推した。
また、おふくの方の母の妹が嫁いだ鷹取備中守は、浦上宗景の重臣であり、妙と共に、直家との結婚を宗景に推してくれた。
その前、三浦貞勝との結婚を浦上宗景が許すよう後押してくれたのも、鷹取備中守だ。
妙は、鷹取備中守の力を見込んでおり、我が子、戸川秀安と鷹取備中守の妹との結婚を願い、鷹取氏と強い縁を結んだ。
縁が絡み、おふくの方は、鷹取備中守や妙に感謝している。
そのこともあり、おふくの方は、妙の便宜を図る。
直家も妙を信頼し、戸川秀安を厚遇していく。
その結果、宇喜多家の奥は、妙が仕切るようになる。
おふくの方が、宇喜多家の奥で確固たる地位を築こうとする頃には、妙が仕切っていた。
戸川秀安は、文武に優れていたこともあるが、妙の活躍で、宇喜多家第一の臣としての禄を得る。
「宇喜多家三家老(岡利勝 長船貞親 戸川秀安)」の一人となり、実質、筆頭家老として岡山藩政を仕切るようになる。
忠家は、妙を母とも思い信頼し、戸川秀安の娘を、嫡男、坂崎直盛の妻とした。
宇喜多忠家・戸川秀安(1538-1597)は、乳兄弟だが、実の兄弟以上の関係となり、常に協力し宇喜多家第一の力を誇る。
妙は岡惣兵衛と再婚。
戸川秀康の嫡男、達安は長船貞親の娘と結婚。
こうして妙を中心に、宇喜多三家老がつながる。
しかも、妙は、乳母となり育てた忠家の嫡男、坂崎直盛の世話もするようになり、その才知を高く評価した。
妙の影響力は大きい。
宇喜多家中に、三浦氏のおふくの方の子、秀家や秀吉の娘、豪姫の子、秀高より、宇喜多一門の娘、お鮮を母とする坂崎直盛が後継になるのが相応しいと思うものも出てくる。
三浦氏再興にこだわるおふくの方は、宇喜多家では外様だった。
直家との結婚で、宇喜多家に内紛の種をまいたのでもあった。
秀家と豪姫の結婚後、次第に、豪姫の生家、前田家が秀家に影響力を持つようになる。
しかも、秀吉は、秀家を高く評価し、信頼を増していく。
そんな様子を見る家康は、不快だった。
秀吉政権の中枢を担っている家康は、秀吉・前田家・宇喜多家が強く結びつくのを恐れた。
そこで、宇喜多家中での秀家の対抗馬として坂崎直盛を持ち上げていく。
岡山藩政に目が向かず秀吉の側を離れられない秀家より、坂崎直盛こそが岡山藩主に相応しいと親しげに話す。
そして、秀家の一方的な命令に不満を持つの話を真面目に聞き、賛同していく。
二人は、家康を頼るようになり、その後押しで力を得て、秀家に対峙していく。
しかも、坂崎直盛・戸川秀安は、仲間を増やしていく。
秀家は、家中に家康を信奉する重臣を抱え、統制が利かなくなる。
このような状況を、おふくの方は情けなく寂しく見た。
やむなく、宇喜多忠家・戸川秀安に「家中の和を重んじて、藩政に携わり、秀家に仕えるように」と意見する。
だが、宇喜多忠家・戸川秀安は、嫡男、坂崎直盛・戸川達安に家督を譲り、すでに秀家の側を離れていた。
「隠居の身でありどうにもならない」と答えるだけだ。
戸川秀安は、一五九七年には、亡くなった。
代が変わり、新しい時代となってしまった。
家中は内紛の種を抱えていくが、戸川氏を取り立てたのは、おふくの方でもあり、間を取り持とうとしても、秀家はかえって不信感を持つ有様だった。
秀家には、坂崎直盛(1563-1616)・戸川達安(1567-1628)は、命令に素直に従わない煙たい存在だった。
おふくの方は、宇喜多家の将来を思い、妙に「秀家を第一に考え、動くことを二人に念を押して欲しい」と申し伝える。
宇喜多家中に大きく根を張り、奥を率いる力を持った妙だが、高齢となり、すでに影響力はなかった。
「私は老いました。新しい世代を信じるだけです」としか答えない。
おふくの方は、新しい世代に力を持ちえないと限界を感じる。
秀家を信じ、思うように藩政を執らせるしかない。
宇喜多家を離れる決意をした。
出家し、寺に入ると決め、心のけじめをつける旅に出る。
岡山・勝山を廻る旅だ。
まず、直家の故郷に行く。
備前伊部・備前長船・備前福岡、懐かしい地を回る。
備前焼、名刀の創作の様子に心を動かされる。
備前福岡は以前よりひっそりしていた。
熱気に満ちた賑わいを岡山に持っていったのかもしれないと申し訳なく思う。
宇喜多直家の父、興家の墓や黒田官兵衛の祖父、曾祖父の墓もある妙興寺にお参りした。
次ぎは、岡山。
お忍びの旅であり、岡山城には入らなかった。
尼としての修行の旅に徹した。
宇喜多家菩提寺、天台宗光珍寺にお参りする。
光珍寺は、直家が父、興家の菩提を弔う為に、法名を取り名とし、建立した寺だ。
広大な堂宇を建て、父を祀り、自らの菩提寺とした。
墓前に秀家と宇喜多一族の安泰と栄華を報告し菩提を弔う。
「近いうちに会いに行きますから、待っていてください」と念を押す。
岡山城は壮大な城郭に拡張されつつあり勇ましい槌音が響く。
眼前の光景と在りし日の直家の姿と重ね合わせ万感の思いだ。
岡山城周辺をゆっくり見て回る。
二人で手を携えて岡山城入りしたのがついこの前のような気がする。
最後に、勝山城下の三浦家の菩提寺、妙円寺にお参りし三浦家再興が実現出来なかったことを夫、貞勝に詫びた。
続いて、円融寺に参る。
「菩提寺とし余生を過ごしたいが秀家の母であり、京を離れることは出来ない。京の円融寺に入ります」と別れを告げた。
直家は岡山城を居城とすると、法華宗との共存を図りつつ、法華宗を押さえる政策を取った。
前領主が、心酔した法華宗は、庇護され膨大な権力を握っており、焦ってはならないと心したのだ。
法華宗の勢力を徹底的に抑えたかったが、法華宗門徒はあまりに多く、反旗を翻されることを恐れた。
おふくの方も直家に同調していた。
三浦家も宇喜多家も法華宗門徒でもある。
秀家も同じ思いだったが、藩主は秀家であり、忠誠を誓わすべきだと、法華宗を配下に置こうとした。
だが、秀家の思い通りにはならなかった。
家臣の反発を招くのは藩主として得策ではないと何度も言ったが聞かなかった。
勝山城代、牧国信には「尼の自由な旅であり城内には入らないが、湯原温泉には行きたい」と伝えていた。
湯原温泉には立派な湯屋が用意されていた。
いつも変わらない義弟、牧国信の忠臣ぶりが嬉しい。
湯原温泉の湯治客は増え、にぎわっていた。
牧国信の手腕だ。
秀家にも湯原温泉を自慢し湯治を勧めたが、秀家は忙しく湯原温泉を知らない。
おふくの方が、牧国信や秀吉に温泉の効用を教えた。
そして二人とも、温泉の魅力に取り付かれることになったと、自画自賛していたが、秀家には通じなかった。
四七歳の身体を砂場に静める。いい気分だ。
これが最後だと分かっていた。
年老いた身体を見ると月日の過ぎ行く速さを感じる。
勝山、岡山を巡り京に戻ると、大原の円融院(京都市左京区大原)に作っていた庵に入り、世俗を離れ仏に仕える身となる。
後に、大原三千院と呼ばれる地だ。
天台三門跡の中でも最も歴史が古く、最澄が比叡山延暦寺を開いた時に、薬師如来像を本尊とする「円融房」を開基したのを起源とし幾度か変遷し、大原の地に移り来た。
まもなくの秀吉の死。
関ケ原の戦いと続く。
秀家は、秀吉の子として遺志に沿い、関ヶ原の戦いを総大将格で戦い、敗れ改易。
大名としての宇喜多家は滅亡した。
勝山を含めた美作国は小早川秀秋の領地となり、すぐに、森忠政(森蘭丸の弟)の領地となる。
忠政は居城を津山城とし、勝山城には城番を置くだけとし、勝山は以前のにぎわいを失う。
おふくの方は、この移り変わりを尼として聞く。
秀家には、母としての生き方をすべて話したが、女としての生き方をありのままには話せなかった。
もっと素直に、女人として誇るべき生き方をしたことを伝えるべきだったと反省する。
そうすれば、母子で家康の調略から宇喜多家を守ることが出来たかもしれない。
どちらにしても家康の勝利は覆せなかったろうが。
秀家の豊臣家への忠節を貫いた姿を誇りに思う。
そして、秀家も豪姫も子たちも生きており、支援者に守られていることを確認し、一六〇〇年、五一歳で亡くなる。
森忠政は、宇喜多家旧臣・三浦家旧臣を出来るだけ多く召抱えようとした。
宇喜多家の悲運に同情しており、仕官するよう知らせた。
だが、岡山・勝山の地は、豊かで「食えればよい」と武士を捨て、農業に携わったり商人となった旧臣が多い。
おふくの方の側近は宇喜多家・三浦家に忠誠を誓い仕官を断った。
牧良長・牧国信兄弟は大庭郡で庄屋となる。牧一族では森家に仕えた武将も多いが。
福島氏は大庭郡目木村(真庭郡久世町目木)大庄屋となる。
船津氏・近藤氏・宇野氏など帰農し庄屋になったものも多い。
庄屋は、身分は百姓だが、地元の有力な豪農であり、村政を担当する村役人でもあった。
一七 三浦家の再興
時を経て、一七六四年、三浦家は勝山の地に戻ってくる。
譜代大名、三浦明次が真島郡内の九六村と大庭郡内の一村を得て居城を勝山城とし二万三千石藩主となって戻ったのだ。
それまで、真島郡高田村にある城、高田城と呼ばれていたが、ここで、勝山城と名が変わった。
おふくの方の故郷は、勝山藩(岡山県真庭市勝山)となる。
三浦家は鎌倉幕府開府の大功労者の家柄であり、嫡流の末裔とされるのが、三浦明次だ。
おふくの方の三浦家は、同族だが、分家筋になる。
ただ藩主になった由縁は、三浦正次の母が土井利勝の妹だったからだ。
江戸幕府大老、土井利勝が三浦正次を引き立て幕府重職とし、二万五千石壬生(みぶ)藩(はん)主とした。
ここから、譜代藩、三浦家が始まる。
譜代藩の常で幕府の意向で、国替えが続く。
三浦家当主は、安次(1641-1682)・明敬(1682-1692)・明喬(あきたか)・義理(よしさと)と続き、明次となった。
ここで、森氏改易後、天領となっていた美作勝山を勝山藩とし、西尾藩(愛知県西尾市)主、三浦明次が国替えで藩主となったのだ。
石高が減る栄転とはいえない国替えで、国替えの移転費用も大きい。
また居城とする勝山城は、天領時代放置されたままで、痛みが激しく修復に莫大な費用が必要だった。
また三浦正次は、土井利勝に引き立てられ、将軍、家光の側近となっている。
以来、幕府の要職を占める家柄となったが、そのため、収入にはならない幕府内での出費がかさんだ。
そんな中での国替えは、三浦家の力を試されるきつい試練となる。
幕府は、美作勝山を天領とし、この地の特性を生かすことが出来る藩主を探した。
そこで、かって勝山を支配した美作三浦家に繋がる三浦氏こそ適任と、任せたのだ。
おふくの方の三浦氏に繋がる縁から決められたのだ。
おふくの方は、直家に嫁いだ後も勝山の地の庇護者だった。
秀家が改易されるまで、側近、牧国信が勝山城主であり、善政を敷いていた。
領民の良く知るところであり、幕府も知っていた。
秀家の岡山藩は解体され、宇喜多家は八丈島で続くことになってしまったが。
宇喜多家が去った後、小早川秀秋の岡山藩に組み込まれ、次いで森忠政の津山藩に組み込まれた。
一六九七年、森家改易の後、天領となったままだった。
そして、ようやく、この地に縁がある藩主が見つかり、美作勝山に三浦氏が移り来た。
苦しい藩財政を救うのは、鉄鉱石の宝庫、中国山地に位置する優位性を生かすことだと、三浦明次は決めた。
こうして、新庄村鉄鉱山経営に心血注ぎ、藩財政の柱とする。
石高以上の収入を得ることが出来、領民に誇れる藩政となり、明治まで続く。
資源とし資金化する為に技術力を習得し磨き高める知恵が必要だった。
同時に、燃料となる木材が必要不可欠だったが、豊富にあった。
運搬には交通の便が良いことが条件となるが出雲街道の要所にあり問題はない。
優秀な人材を集めることが最も大切だったが、疲労回復・活力の源となる湯原温泉があった。
快適に安心して、働く場としての条件は整っていた。
求める人材、実際に採掘に携わる人たちは、続々集まった。
こうして、鉱山を開発し成功した。
三浦氏は、おふくの方が、天から導いたように美作勝山藩主となった。
おふくの方が、愛した故郷を引き継ぎ治め、後々までも、おふくの方の威光は消えなかったのだ。
おふくの方が一番望んでいたような結末となった。
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歴史・時代
戦国異聞
鎌倉時代は、非常に面白い時代です。複数の権威権力が、既存勢力として複数存在し、錯綜した政治体制を築いていました。
その鎌倉時代が源平合戦異聞によって、源氏三代、頼朝、頼家、実朝で終焉を迎えるのではなく、源氏を武家の統領とする、支配体制が全国へと浸透展開する時代であったとしたらというif歴史物語です。
淡き河、流るるままに
糸冬
歴史・時代
天正八年(一五八〇年)、播磨国三木城において、二年近くに及んだ羽柴秀吉率いる織田勢の厳重な包囲の末、別所家は当主・別所長治の自刃により滅んだ。
その家臣と家族の多くが居場所を失い、他国へと流浪した。
時は流れて慶長五年(一六〇〇年)。
徳川家康が会津の上杉征伐に乗り出す不穏な情勢の中、淡河次郎は、讃岐国坂出にて、小さな寺の食客として逼塞していた。
彼の父は、淡河定範。かつて別所の重臣として、淡河城にて織田の軍勢を雌馬をけしかける奇策で退けて一矢報いた武勇の士である。
肩身の狭い暮らしを余儀なくされている次郎のもとに、「別所長治の遺児」を称する僧形の若者・別所源兵衛が姿を見せる。
福島正則の元に馳せ参じるという源兵衛に説かれ、次郎は武士として世に出る覚悟を固める。
別所家、そして淡河家の再興を賭けた、世に知られざる男たちの物語が動き出す。
鬼嫁物語
楠乃小玉
歴史・時代
織田信長家臣筆頭である佐久間信盛の弟、佐久間左京亮(さきょうのすけ)。
自由奔放な兄に加え、きっつい嫁に振り回され、
フラフラになりながらも必死に生き延びようとする彼にはたして
未来はあるのか?
御懐妊
戸沢一平
歴史・時代
戦国時代の末期、出羽の国における白鳥氏と最上氏によるこの地方の覇権をめぐる物語である。
白鳥十郎長久は、最上義光の娘布姫を正室に迎えており最上氏とは表面上は良好な関係であったが、最上氏に先んじて出羽国の領主となるべく虎視淡々と準備を進めていた。そして、天下の情勢は織田信長に勢いがあると見るや、名馬白雲雀を献上して、信長に出羽国領主と認めてもらおうとする。
信長からは更に鷹を献上するよう要望されたことから、出羽一の鷹と評判の逸物を手に入れようとするが持ち主は白鳥氏に恨みを持つ者だった。鷹は譲れないという。
そんな中、布姫が懐妊する。めでたい事ではあるが、生まれてくる子は最上義光の孫でもあり、白鳥にとっては相応の対応が必要となった。
陣代『諏訪勝頼』――御旗盾無、御照覧あれ!――
黒鯛の刺身♪
歴史・時代
戦国の巨獣と恐れられた『武田信玄』の実質的後継者である『諏訪勝頼』。
一般には武田勝頼と記されることが多い。
……が、しかし、彼は正統な後継者ではなかった。
信玄の遺言に寄れば、正式な後継者は信玄の孫とあった。
つまり勝頼の子である信勝が後継者であり、勝頼は陣代。
一介の後見人の立場でしかない。
織田信長や徳川家康ら稀代の英雄たちと戦うのに、正式な当主と成れず、一介の後見人として戦わねばならなかった諏訪勝頼。
……これは、そんな悲運の名将のお話である。
【画像引用】……諏訪勝頼・高野山持明院蔵
【注意】……武田贔屓のお話です。
所説あります。
あくまでも一つのお話としてお楽しみください。
毛利隆元 ~総領の甚六~
秋山風介
歴史・時代
えー、名将・毛利元就の目下の悩みは、イマイチしまりのない長男・隆元クンでございました──。
父や弟へのコンプレックスにまみれた男が、いかにして自分の才覚を知り、毛利家の命運をかけた『厳島の戦い』を主導するに至ったのかを描く意欲作。
史実を捨てたり拾ったりしながら、なるべくポップに書いておりますので、歴史苦手だなーって方も読んでいただけると嬉しいです。
空蝉
横山美香
歴史・時代
薩摩藩島津家の分家の娘として生まれながら、将軍家御台所となった天璋院篤姫。孝明天皇の妹という高貴な生まれから、第十四代将軍・徳川家定の妻となった和宮親子内親王。
二人の女性と二組の夫婦の恋と人生の物語です。
大航海時代 日本語版
藤瀬 慶久
歴史・時代
日本にも大航海時代があった―――
関ケ原合戦に勝利した徳川家康は、香木『伽羅』を求めて朱印船と呼ばれる交易船を東南アジア各地に派遣した
それはあたかも、香辛料を求めてアジア航路を開拓したヨーロッパ諸国の後を追うが如くであった
―――鎖国前夜の1631年
坂本龍馬に先駆けること200年以上前
東の果てから世界の海へと漕ぎ出した、角屋七郎兵衛栄吉の人生を描く海洋冒険ロマン
『小説家になろう』で掲載中の拙稿「近江の轍」のサイドストーリーシリーズです
※この小説は『小説家になろう』『カクヨム』『アルファポリス』で掲載します
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