閉じたまぶたの裏側で

櫻井音衣

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一人で傷を癒すため

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その日の夜、母から電話があった。
最近どうしてるのと尋ねられても、本当の事など何一つ話せない。
当たり障りなく『毎日元気でやってるよ』と答えた。
私の両親は海辺の町でペンションを経営している。
私が就職して家を出てから、料理人の父が故郷に帰って民宿を始めると突然言い出し、勤めていた三ツ星ホテルの和食レストランを早期退職した。
母は文句を言うどころか、民宿よりオシャレなペンションにしましょうと言って、嬉しそうに父について行った。
私も夏の休暇の時などに何度かそのペンションを訪れ、少し手伝ったりもした。
仕事の合間に客室から眺めたキラキラと光る海を思い浮かべて、不意に應汰と一緒に眺めた海を思い出した。
従業員の女性が結婚を機にペンションを辞めて相手の実家の商売を手伝う事になったので、新しい従業員を探さなくちゃと母は言った。

「お母さん……。私、会社辞めてペンション手伝おうかな」

考えるより早く、その言葉は自然に私の口からこぼれ落ちた。
母は少し驚いていたようだけど、芙佳がそうしたいなら構わないと言った。
どうせもう、ここには私を必要としてくれる人なんていないし、目をそらしたいものはあっても、私が欲しいものなんて何一つない。
電話を代わった父にも、母に言ったのと同じ事を伝えた。
父は何も言わなかったけど、もしかしたら私がここを離れたい理由がある事に気付いていたかも知れない。


電話を切ってから、退職願を書いた。
もう泣くのはやめよう。
手に入らないものを望んだって、帰らない日々を悔やんだって、なんの意味もない。
自分の足で前に進むには、目の前の壁を避けて遠回りする事も必要だ。
この傷がすっかり癒える頃には、きっと前を向いて笑えるだろう。


翌日、部長に退職願を出した。
今月いっぱいで退職したいと伝えると、部長は一応理由を聞いて、そういう事ならとすんなりそれを受け取った。
できるだけひっそりと辞めたいので、退職するその日まではこの事を伏せておいて欲しいとお願いした。
部長は少し怪訝な顔をしたけれど、私の仕事を引き継ぐ人を早急に探すと言った。
月末まではあと半月以上ある。
たいした引き継ぎもなさそうだし、問題なくこの会社を去る事ができるだろう。

会社には代わりの人間なんていくらでもいる。
恋愛も同じなのかも知れない。
相手が私じゃなくたって、勲も應汰も新しい幸せを見つけた。
いつかは私の事なんて、きれいさっぱり忘れてしまうんだろう。
だから私も忘れてしまおう。


仕事が終わって家に帰ると、引っ越しのために荷物の整理をした。
ずっとしまい込んでいた勲との思い出の品が、押し入れの奥から見つかった。
こんなものを持っていたって、あの頃に戻れるわけじゃない。
記憶を消す事はできないけれど、物なら簡単に捨てられる。
そう思っていたのに、いざ捨てようとすると手が震えて、また涙が溢れた。
本当に大好きだった。
罪を重ねるだけだとわかっていてもあきらめられないほど、勲を愛していた。
今もまだ勲との恋を完全に過去形にできるほど前には進めていない。
だからもう、何もかも捨ててしまおう。
残したいものなんて、何もないんだから。


それからも普段通りに仕事をこなし、自宅に帰ると引っ越しの準備をして、思っていたよりも早く時間は過ぎた。
休みの日には両親の元を訪れ、ペンションの近くに住むためにアパートを探した。
ペンションには客室と両親が生活する部屋しかないので、私は毎日自分の借りた部屋から通う事になる。
田舎なので、こちらよりも広くて家賃が安い物件が、割と簡単に見つかった。
2LDKで家賃は5万6千円、しかも新築だ。
私がその部屋の初めての住人になる。
一人なんだし、たいした荷物もないからもっと狭くても良かったのだけど、窓から海の見える部屋はとても気に入った。
両親のペンションまで、自転車で5分。
もうすぐここで、私の新しい暮らしが始まる。

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