閉じたまぶたの裏側で

櫻井音衣

文字の大きさ
上 下
39 / 52
一人で傷を癒すため

しおりを挟む
月曜日。
またいつものように1週間が始まった。
始業前に部長から預かった書類を総務部に届けに行くと、数名の女子社員が輪を作り、楽しげな声をあげていた。
その輪の真ん中では七海が幸せそうに笑って、同僚たちの問い掛けに答えている。

「おめでとう!」
「いつ生まれるの?」
「昨日6週目に入ったところで、生まれるのは来年の6月の終わり頃かな」
「つわりとか大丈夫?」
「今はまだそんなにひどくないから大丈夫」
「つらかったら無理しないで言ってね」

そちらを見ないようにして、近くにいた社員に書類を預け、足早に総務部のオフィスを出た。

……子供、できたんだ……。
その事実に、頭を鈍器で打ちのめされたような衝撃を受けた。
勲との関係を自分で終わらせておきながら、今だって私がほんの少し手を伸ばせば、勲はきっとこの手を取ってくれると期待していたのだと言うことを思い知らされた。
自分の部署に戻って席についても、すぐそこに何食わぬ顔をした勲がいる。
もし七海との縁談がなければ、勲のためにウエディングドレスを着てバージンロードを歩くのも、勲の子供を産むのも、きっと私だった。
勲もそれを望んでいたはずなのに、勲は私を抱いた手で七海を抱いて、私のためにすべてを捨てて七海と離婚すると言いながら、自分の遺伝子を七海の中にえ付けた。
私にそうしなかったのは、勲が不倫相手である私との子供を望んでいなかったからなんだと思う。
勲と七海は夫婦だから子供の誕生を誰もが祝福してくれる。
もし妊娠したのが私だったら、その子は望まれない子として誰にも知られないうちに命の灯を消されていたかも知れない。
たとえ私が一人で産んだとしても、勲の子として祝福される事はない。
非情な現実がまた私の心を打ちのめす。
世の中はなんて不公平なんだろう。

今更こんな事を考えても仕方がない。
もう考えるのはよそうとどんなに思っても、目の前であんなに幸せそうに笑われたら、叶わなかった夢がまた悲鳴をあげる。
癒えないうちにまた容赦なくえぐられた傷は、いつまでもジュクジュクと醜い膿をもつ。
傷の手当てをしてくれた優しい手を失った私は、ズキズキと疼く傷口を涙で洗い流し、耳を塞ぎ目を閉じて身を守るしかない。
でも……もう、泣くのは疲れた。


昼休み、社員食堂で彼女と楽しそうに笑っている應汰を見掛けた。
私を好きだと言っていた事なんて忘れてしまったんだろう。
新しい恋に踏み出した應汰は、私の存在になど気付きもしない。
私を癒やしてくれたはずの應汰が、私の醜い傷口を深くえぐる。
もう何も見たくない。
何も聞きたくない。
踵を返し、その場から逃げるようにして離れた。
私にとって何が一番大切だったのか。
私は何を求めていたのか。
ありのままの私を一番必要としてくれていたのは誰なのか。
失ってから気付く事があまりにも多すぎる。
今更それに気付いたところで、私には醜く膿んだ傷しか残らない。
ここにいる限り、私はずっと叶わなかった夢の亡骸にしがみついて、好きだった人を憎んで、好きだと言ってくれた人の幸せを妬んで、一歩も前には進めない。
自分ではどうにもできない醜い心をもて余して、朽ち果てて行くしかないのかな。
いっそ消えてしまえたらどんなにラクだろう。
大切だったものを失ってしまった今ならわかる。
私がここからいなくなっても、泣いてくれる人なんかいない。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

ずっと君のこと ──妻の不倫

家紋武範
大衆娯楽
鷹也は妻の彩を愛していた。彼女と一人娘を守るために休日すら出勤して働いた。 余りにも働き過ぎたために会社より長期休暇をもらえることになり、久しぶりの家族団らんを味わおうとするが、そこは非常に味気ないものとなっていた。 しかし、奮起して彩や娘の鈴の歓心を買い、ようやくもとの居場所を確保したと思った束の間。 医師からの検査の結果が「性感染症」。 鷹也には全く身に覚えがなかった。 ※1話は約1000文字と少なめです。 ※111話、約10万文字で完結します。

ミックスド★バス~家のお風呂なら誰にも迷惑をかけずにイチャイチャ?~

taki
恋愛
【R18】恋人同士となった入浴剤開発者の温子と営業部の水川。 お互いの部屋のお風呂で、人目も気にせず……♥ えっちめシーンの話には♥マークを付けています。 ミックスド★バスの第5弾です。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

ダブル シークレットベビー ~御曹司の献身~

菱沼あゆ
恋愛
念願のランプのショップを開いた鞠宮あかり。 だが、開店早々、植え込みに猫とおばあさんを避けた車が突っ込んでくる。 車に乗っていたイケメン、木南青葉はインテリアや雑貨などを輸入している会社の社長で、あかりの店に出入りするようになるが。 あかりには実は、年の離れた弟ということになっている息子がいて――。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

【完結】もう一度やり直したいんです〜すれ違い契約夫婦は異国で再スタートする〜

四片霞彩
恋愛
「貴女の残りの命を私に下さい。貴女の命を有益に使います」 度重なる上司からのパワーハラスメントに耐え切れなくなった日向小春(ひなたこはる)が橋の上から身投げしようとした時、止めてくれたのは弁護士の若佐楓(わかさかえで)だった。 事情を知った楓に会社を訴えるように勧められるが、裁判費用が無い事を理由に小春は裁判を断り、再び身を投げようとする。 しかし追いかけてきた楓に再度止められると、裁判を無償で引き受ける条件として、契約結婚を提案されたのだった。 楓は所属している事務所の所長から、孫娘との結婚を勧められて困っており、 それを断る為にも、一時的に結婚してくれる相手が必要であった。 その代わり、もし小春が相手役を引き受けてくれるなら、裁判に必要な費用を貰わずに、無償で引き受けるとも。 ただ死ぬくらいなら、最後くらい、誰かの役に立ってから死のうと考えた小春は、楓と契約結婚をする事になったのだった。 その後、楓の結婚は回避するが、小春が会社を訴えた裁判は敗訴し、退職を余儀なくされた。 敗訴した事をきっかけに、裁判を引き受けてくれた楓との仲がすれ違うようになり、やがて国際弁護士になる為、楓は一人でニューヨークに旅立ったのだった。 それから、3年が経ったある日。 日本にいた小春の元に、突然楓から離婚届が送られてくる。 「私は若佐先生の事を何も知らない」 このまま離婚していいのか悩んだ小春は、荷物をまとめると、ニューヨーク行きの飛行機に乗る。 目的を果たした後も、契約結婚を解消しなかった楓の真意を知る為にもーー。 ❄︎ ※他サイトにも掲載しています。

【R18】豹変年下オオカミ君の恋愛包囲網〜策士な後輩から逃げられません!〜

湊未来
恋愛
「ねぇ、本当に陰キャの童貞だって信じてたの?経験豊富なお姉さん………」 30歳の誕生日当日、彼氏に呼び出された先は高級ホテルのレストラン。胸を高鳴らせ向かった先で見たものは、可愛らしいワンピースを着た女と腕を組み、こちらを見据える彼の姿だった。 一方的に別れを告げられ、ヤケ酒目的で向かったBAR。 「ねぇ。酔っちゃったの……… ………ふふふ…貴方に酔っちゃったみたい」 一夜のアバンチュールの筈だった。 運命とは時に残酷で甘い……… 羊の皮を被った年下オオカミ君×三十路崖っぷち女の恋愛攻防戦。 覗いて行きませんか? ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ ・R18の話には※をつけます。 ・女性が男性を襲うシーンが初回にあります。苦手な方はご注意を。 ・裏テーマは『クズ男愛に目覚める』です。年上の女性に振り回されながら、愛を自覚し、更生するクズ男をゆるっく書けたらいいなぁ〜と。

処理中です...