パドックで会いましょう

櫻井音衣

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最後の願い

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おじさんとの約束を守ろうか、それとももう一度会いに行こうかと迷っているうちに数週間が過ぎ、競馬場に行ってもねえさんとは一度も会えず、指輪を渡すことはできなかった。
その日僕は、仕事を終える頃に妙な胸騒ぎを覚えた。
なんだろう、気のせいかなと思いながらジムに足を運びかけたけれど、気が付けば僕の足は駅に向かっていた。
なぜだろうと不思議に思いながら不意に手を入れた鞄のポケットの中で、おじさんから預かった指輪の入った小箱が指先に触れた。
どうしてこんな所にこれがあるのか?
夕べ遅く、寝ぼけていたのか、バッグの中の物を通勤鞄のポケットに移した記憶が微かに蘇る。
僕は仕事を終える頃に覚えた妙な胸騒ぎを思い出し、スマホを出しておじさんのいるホスピスの場所を調べた。
おじさんに会いに行こう。
男同士の約束をやぶるのは忍びないけれど、そんなことを言っている余裕は僕の中にはなかった。

電車を乗り継いで1時間ほどかけてたどり着いたその建物は、人目を忍ぶようにひっそりと佇んでいた。
『木蓮の家』と小さなプレートが掛けられた玄関のドアを開けると、スタッフらしき人たちが慌ただしく動き回っていた。
受付の前で立ち尽くす僕に、スタッフの名札をつけた初老の男性が声を掛けてくれた。
おじさんに会いたいと言おうとしたけれど、困ったことに、僕はおじさんの名前を知らない。
僕が知る限りの、背格好や病状などのおじさんについての情報を話すと、その人はすぐにおじさんのことだと気付いてくれた。
案内されたその部屋で、おじさんは安らかな顔をして眠っていた。

「ついさっきな、息を引き取ったんや」

その人はおじさんの最期の様子を教えてくれた。
苦しむ様子はなく、ただ一言『幸せにしてやれんでごめんな』と呟いて、静かに逝ったそうだ。
ホスピスのスタッフが、おじさんの伸びた髭をカミソリで綺麗に剃って、濡らしたタオルで丁寧に顔を拭き、ボサボサに伸びた髪を櫛で整えた。

「おじさん、ホントはこんなイケメンだったんですね。隠してるなんてずるいよ……」

もう目を開けることはないおじさんの痩せた手を握りしめて、僕は泣いた。
もっと早く会いに来れば良かった。
思い出すことはできなくても、せめてもう一度、ねえさんと会わせてあげたかった。


おじさん、ごめんなさい。
僕はねえさんの心の隙間につけこんで、この手でおじさんの大切なねえさんを抱きました。
ねえさんの心は、本当は僕を求めてなんかいなかったのに。
だけど僕は、どんなつらい過去を聞いても、ねえさんが好きです。
おじさんの代わりに、とは言いません。
僕は、僕自身のこの手で、ねえさんの笑顔をずっと守りたい。
できるなら、おじさんよりもねえさんを幸せにしたいです。

おじさんは、それを許してくれますか?



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