パドックで会いましょう

櫻井音衣

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恋人ごっこ

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「じゃあ……ベッドに横になって。僕、そばにいますから」

ねえさんは黙ってうなずいた。
固くて冷たい床に、ねえさんを寝かせるわけにはいかない。
もしかすると、そんなことは自分に対する言い訳かも知れない。
僕はただ、今にも消えてしまいそうなほど儚げなねえさんを、どこにも行かないように抱きしめたいと、そう思ったのだから。

ねえさんはベッドに横になると、僕の目をじっと見つめた。

「アンチャンも、ここに一緒に寝て」

ためらったのは、ほんの少しだけだった。
僕はねえさんの隣で横になり、華奢なその背中に腕をまわして抱きしめた。

「こうしていても、いいですか」
「うん……」

ねえさんは僕の腕の中で、仔猫のようにおとなしくしている。
ねえさんの髪からは、いつもとは違う、僕と同じシャンプーの匂いがした。
それだけのことで煽られる欲情を、僕は必死で理性で抑え込もうと固く目を閉じる。

「アンチャン、あったかいな」
「あったかい?暑くないですか?」
「うん、あったかくて気持ちいい」

今すぐこの手で、ねえさんのすべてを温められたらいいのに。
ねえさんの背中にまわした腕に、力がこもる。

「眠れそうですか?」
「どうやろ……。でもアタシよりアンチャンが寝られへんか?」
「えっ?!」
「心臓、めちゃめちゃドキドキ言うてる」
「……仕方ないでしょう。僕はこういうことに慣れてないんです」

こんなふうに女の人を抱きしめるのも、一緒に寝るのも、慣れてないどころか初めてだよ!!
しかもそれが大好きなねえさんなんだから、ドキドキするなって言う方が無理な話だ。

「心臓の音、聞いとったらな……なんかようわからんけど、安心するねん」
「それ、なんかで聞いたことありますよ。母親のお腹にいる時に、胎内で聞いた母親の心音の記憶がどこかに残ってるとか」
「うーん……なんやろな。似てるけど、そういうのとはまたちょっとちゃう気がする」

ねえさんは目を閉じて、僕の左胸に耳を押し当てた。
そして少し笑って、顔を上げた。

「でもやっぱり……これは速すぎるな」

ねえさんにドキドキしていることを、ねえさん本人に指摘されたのが恥ずかしくて、また鼓動が速くなった。
こんな僕は、大人の男には程遠い。
情けなくて奥歯をギュッと噛みしめる。

「……やっぱり僕じゃダメですね。ねえさんが一人で不安な時も、安心させてあげられない」

僕がねえさんの体から腕をほどくと、ねえさんは小さく笑って、僕の胸に顔をうずめた。

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