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番外編
1-3 決意
しおりを挟むこの王宮に数ある噴水の中でも、その噴水は一番大きい。そこそこ深さのある円形の噴水の中央には、豊穣と水を司る水の女神の彫刻が立ち、その手に掲げた壺からは音を立てて大量の水があふれている。
そして噴水の前にはすでにクロスを掛けられた丸い卓が立ち並び、お茶とお菓子が並べられていた。
「皆様、王子妃様のご到着ですわ」
集まっていた人々は、全部で十人にも満たないほどだ。全員、先ほどまで議会に参加していた貴族の奥方たちで、年齢はやはりアンリエッタの母親と変わらないほどである。
王妃のお茶会では彼女たちの娘も集まるため、年の近い令嬢たちと会話して時間を過ごすことが多かったが、これだけの年長者相手にお茶を飲むのは初めてのことだった。
「お招きいただきまして、ありがとうございます。今日はとてもいい陽気ですね」
少なからず戸惑いながらも、アンリエッタは王子妃にふさわしい笑顔を浮かべて、集まった人々に挨拶する。彼女たちもにっこりと挨拶を返し、一見和やかな雰囲気の中、お茶会は始まっていった。
給仕をつけていないらしく、この場にいるのは貴人ばかりだ。エリナも下げてしまったため、アンリエッタはたったひとりで貴婦人たちの相手をすることになってしまった。
年がいった……という表現は失礼だが、そういう方々の話題は少々あけすけで、おまけにかなり毒混じりだ。普段は澄ました表情で議会に臨んでいる奥方が、かなりきつい言葉で夫の女性関係を嘆く件など、どう反応したらいいのかわからなかったほどである。
必然、お茶やお菓子を食べる時間が多くなったアンリエッタは、不意に話の矛先を向けられ、危うく噎せ返りそうになってしまった。
「王子妃様はその点どうなのでしょう? オーランド王子殿下は最近では愛妻家だともっぱらの噂ですが、もともとの素行はさほどよろしくない方でしょう?」
「今でも色街に繰り出しては、奥方様を泣かせているのではないかと、わたくしたちとても心配しておりますのよ?」
心配と言いつつその顔は明らかに楽しんでいる。さぁどう出る? とでも言いたげな貴婦人方の視線に、アンリエッタは口元を拭きながら毅然と答えた。
「ご心配には及びませんわ。王子殿下はわたくしのことをとても大切に扱ってくださっております。もったいないくらいですわ」
本心からの言葉だが、この場ではあまりふさわしからぬ言い方だったと、口にしたあと後悔した。
案の定、夫のことを嬉々としてこき下ろしていた貴婦人方は一様に顔を見合わせ、それから暗い微笑みを浮かべてアンリエッタを見やる。
「まぁ、それはなんともお熱いことで――」
「殿下も今は隣国からいらした奥方に熱を上げていらっしゃるのね」
「そのご寵愛が長く続くことをお祈りしなければね……」
まるで明日にでもオーランドが掌を返して、アンリエッタを邪険にするとでも言いたげなまなざしだった。
そんなことがあるものか、とは思うものの、ついさっき冷たい言葉を投げつけたばかりだと思うと、自然と自信が揺らいでしまう。まさかあの程度のことで嫌われることはないだろうが……と思わず考えてしまい、アンリエッタは急に不安を覚えてしまった。
それが顔に出たのだろうか。腹の探り合いという点で年季の入った貴婦人方は、アンリエッタのそんな様子を見逃さない。途端に追撃を浴びせられ、アンリエッタは徐々に顔色を悪していった。
「そうでなくてもオーランド殿下を慕う娘は多かったですからね。殿下の成人の折、近隣諸国を含め、三桁に上るほどの縁談が舞い込んだのは記憶に新しいですわね」
「一度でいいから殿下にご寵愛いただきたいと、苦しみのあまり涙するご令嬢も多かったとか」
「当時の殿下はお優しくて、そういった娘たちにも存分に優しさを振りまいておいででしたからね」
「一時期かなりの数のご令嬢とお噂になりましたわねぇ。今でもそういった方々と続いていらっしゃるのかしら?」
もしそうだとしたらどうしよう。
最近はオーランドの愛情をまったく疑うことのなかったアンリエッタだが、かといって彼が娼館で美女を侍らせていた記憶が消えるわけでもなく……もし、自分の知らぬ間に、そういったところに出入りしていたのなら……
(な、なにを考えているの、アンリエッタ。そんなわけわけないでしょう? 無責任な噂に振り回されてはだめ。それはオーランド様の誠実さに背を向けることになるわ)
アンリエッタはかろうじてそう自分を奮い立たせ、しゃんと背筋を伸ばして答えた。
「わたくしは、殿下のお気持ちを信じております。殿下が与えてくださったものこそ真実だと思っておりますわ」
言葉にすると、沈みそうになっていた心がかろうじて浮き上がった。
そうだ。自分の夫を悪く言うような人々の言葉に踊らされてはいけない。
決意も新たにお茶をぐいっと飲んだアンリエッタに、貴婦人方は一瞬度肝を抜かれた表情で見入っていた。
しかし、さすがというか、立ち直るのも早く、一番近くにいた貴婦人が「さすが王子妃様」と取り繕う。
「王女としてお育ちになった方のお言葉はやはり違いますわね。今言いましたことは忘れてくださいまし」
(忘れられるわけないでしょう)
半ばあきれながらも、アンリエッタはふーっとため息をついてしまう。もしかしてこんな話をしたのは、アンリエッタに対するやっかみかなにかだったのだろうか?
考えてみれば彼女たちは毎日、朝議の席でアンリエッタとともに座るオーランドを見ているのだ。ふたりは毎日腕を組んで入場し、退室するときも必ず手を取り合っている。そうしてお互い微笑みながら歩いているのを見れば、夫婦仲がうまくいっていない女たちは決していい気分にはならないだろう。
(そうだとしたら、言ってはなんだけど、なんて馬鹿馬鹿しい――)
彼女たちの夫を愚痴っていたオーランドとレオンの気持ちが、なんだか少しわかるような気がしたアンリエッタだった。
だが貴婦人方の攻防もここでは終わらない。「そういえば」となんでもないことのように、ひとりがゆっくり切り出した。
「国王陛下は近々、レオン王子殿下を王太子に指名するとか。王子妃様、そのことでなにかお話は聞いておりませんこと?」
あまりにひねりのない問いかけにアンリエッタは驚いたが、すぐ笑顔を浮かべて、用意された答えを口にした。
「さぁ……、そのような噂があることは存じておりますが、公務のことについては、なにもうかがっておりませんので」
とはいえ人事異動が発表されたということは、政権は次の世代に移ると知らされたということに他ならない。
そして最近の朝議で発言するのは主にレオンだ。王太子に推挙されたとはっきり発表されていないものの、その姿勢を見ていればそういう話になったということは自ずと察せられる。オーランドがレオンを補佐するような発言をすることにも原因しているだろう。
しかし、正式に発表しない限りは知らぬ存ぜぬで通せ、というのがふたりから命じられたことだ。アンリエッタはそれを忠実に守るつもりでいる。
とはいえ、貴婦人方は明らかに「嘘つけ」という顔でこちらを見ていた。
「殿下方もなにを考えていらっしゃるのか……失礼ながら、わたくしたちには計りかねますの」
ため息混じりにお茶をすすりながら、貴婦人方が不安げな顔を見合わせた。
「なんといっても殿下方はまだお若いですからね。わたくしたちの夫がこれまで護ってきた国政を、その若さでどう担っていくのか、興味が尽きない一方心配でもありますのよ」
アンリエッタはふと真顔になる。ふたりの王子方に向かって『心配』というのはなんとも不敬な発言に思えるが、彼女たちもまた夫ともに議会に参加してきた人々なのだ。国政に関し、まったくわからないということはないはずである。
黙って先を促すアンリエッタに、貴婦人方はさらに言い募った。
「こう言ってはいけないとは思いますが、殿下方にはここ数年よい噂がございませんでしょう? 人事を大幅に入れ替えたのも、ご自分たちが楽をするためのものではないかと心配で……」
「楽をするだけならよいのですが、そういった方々がご自分の利益ばかり追求して、甘い汁をすすることになるのではないかと思うと、やはりため息を禁じ得ませんの」
アンリエッタは思わず非難の声を上げそうになった。
確かにオーランドもレオンも、これまでのことから信用できないというのは無理からぬことだが、甘い蜜を吸っていたのは自分たちの夫のほうではないかと、つい叫びそうになってしまったのだ。
「まして今回の人事、これまで国のために尽くしてきた我々の夫をあまりにも蔑ろにしているように思えてなりませんの」
しかし貴婦人方はアンリエッタに気づかず、さらに言葉を続ける。
「若い方々が国のために力を尽くそうとするのは素晴らしいことだと思いますわ。けれど我らの夫の意見も聞かず、好き勝手やってしまうようでは、やはり一国の王としてあってはならぬことだと思いますのよ」
「なにせ我らの夫は国王陛下と同じかそれより前の時期に、議会に参加してきた重鎮たちですもの。その責務はわたくしたち妻が一番に把握しております」
「ですから王子妃様」
隣に座る貴婦人がアンリエッタの手に手を重ね、にっこりと微笑みを浮かべた。
「王子妃様からも、どうぞ王子様方におっしゃってくださいませ。殿下方がしようとしていることは大変な危険をはらんでいるということを、こういうときこそ、妃である王子妃様が諭してさしあげなければ」
要するに――
(自分たちの夫が更迭されないよう、わたくしに取りなしてほしいというわけね)
たったそれだけのことを言うのに、これだけの時間をかけるとは……
(おまけに前半はかなり失礼なことを言っていらしたと思うけど)
ともすればアンリエッタの機嫌を損ねるようなことを言って……
(それともそれも計算のうち? わたくしがその程度のことで腹を立てるなら、こんなことは言わなかったとか? 逆にその程度でうろたえる不誠実な妻として噂するつもりだったとか……?)
いくらでも考えられるのが自分でも切なく思うところだ。それくらい、この国にきてから色々なことがあったということだが。
とはいえ、答えはひとつしか決まっていない。
「わたくしは、オーランド様たちを信じております」
カップを置いて、アンリエッタは静かな声で言った。
「なんですって?」
「わたくしは、自分の夫と義弟が決めたことが、正しいことだと信じております」
顔を上げ、今度ははっきり言ってやった。
「妻であるわたくしがそれを信じず、誰がおふたりのすることを正しいことだと信じるのでしょう。おふたりが最良と決めたことならば、わたくしはそれに従うまでです」
「――王子妃様」
「残念ですが、皆様のご期待には添えませんわ」
アンリエッタは、決意を込めてきっぱりそう答えた。
貴婦人方は虚を突かれた様子だったが、その後の表情の変化はさまざまだった。思いがけず感心する顔があれば、あからさまに顔を歪める者もあり……だが最終的には、全員がアンリエッタに憎々しげな目を向けた。
ちょうど、議会のとき貴族たちがオーランドとレオンに向けていたような目を――
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