3 / 5
10億の家
しおりを挟む
「そんなことは問題ではないっ!」
しかしネーガスは叫んで、呼吸を整えた。
彼はなにひとつ用意してきてはいないようだ。それでも勝てると思ったのだろう。
有利なのは間違いない。なんといっても裁判長とて、王に「ネーガスに便宜を図ってやってくれ」と言われているのだ。
だからネーガスが多少叫ぼうと、暴言を吐こうと、法廷を追い出されることはない。もっともそれは今のところ、彼の恥を広げるだけの結果になっているが。
「いいか、あの屋敷には安く見積もっても10億ベルの価値があったはずだ! 10億だぞ! 内装や家具を含めればその数倍になる! 食費や、護衛程度で使い果たせるはずがない。その女は私の金を盗み、だらだらと言い訳を述べているにすぎんのだ。断固として返却を求める!」
聴衆はネーガスの訴えに「そりゃ、10億ベルはな」「無理のありすぎる言い訳だな」と理解を示したようだ。裁判長も、いくらなんでもそれだけの額が、女ひとり、二年の生活費で失われるとは思えない。
クリスタ夫人の待遇には同情の余地があるが、二年で十億ベルを使ったとなれば、離縁され賠償を請求されても致し方ない散財妻と呼べるだろう。
「食費は変動がありますが、おおよそ1日2千ベル、ユナへの給与は1日3万ベルです」
「3万ベルだと!? 平民の女護衛にそんなにかかるわけがない!」
「住み込みですし、女性の護衛は数が少ないので給料は高くなるそうです」
貴族女性のそばに男性が侍るわけにはいかないので、女性の護衛は必要とされているが、なり手が少ない。そのぶん給料が高くなる傾向があった。
それでも日に3万ベルの支払いは高いが、そもそも通常なら、家にいるのに四六時中はりつく護衛など雇わないのだ。
「また、服飾費に月1万ほど」
「そんなもの、いらんだろう!」
ネーガスが叫んだのには、聴衆は失笑した。
貴族夫人が月1万の服飾費しか使わないなど、冗談としか思えない話だ。
「薪を森から拾ってきておりましたので、どうしても服は汚れるのです。調理も、ユナもわたくしも慣れないもので、よく汚してしまいました」
「……」
クリスタがどのような生活をしていたのか、ネーガスも具体的に見えてきてしまったようだ。沈黙し、聴衆にちらりと視線を向けた。
妻に平民のような生活をさせていた男。そのような目で見られることは、彼にとってひどい屈辱だったようだ。拳が震えている。
「よって月に九十七万ベルほどが必要になります。これは当初オフィリウス家のつけ払いにしてもらっていましたが、食材を入れてくださるサブナ商会の方が、一ヶ月以上のつけ払いはできないとおっしゃいまして、どうにか支払わなければならなくなりました」
爵位を返上する両親から嫁いできた娘が、そんなに金を持っているわけがない。そもそも生活費ならば、妻となった家の支払いにするのは当然だろう。
護衛をつけた理由も、自分の貞節を守るためだ。しかし、そのために月九十万ベルとなれば難しい話だ。
聴衆の、なんともいえない唸り声が聞こえた。
「わたくしが与えられた部屋は雨漏りが酷く、壁板の一部にカビが発生していました」
いきなり何を言い出すのだろう。疑問の視線を向けられながら、クリスタは落ち着いた様子で話を続ける。
「このまま放置すれば、周囲の板にも被害が及ぶと言われました。わたくしもそのように思いました。そこで、まだ無事な板を買い取ろうと提案を受けたのです」
「な……に……? 雨漏り……いや、板だと……?」
「はい。旦那様も、婚姻の後、北のカビ臭い部屋を使えと言っておりましたでしょう」
「そ、それは、カビ臭いのであって、我が屋敷に雨漏りなど」
クリスタはわずかにほほえみを浮かべ、まるで憐れむようにネーガスに言った。
「旦那様、カビ臭いのであれば、カビが発生しているのです」
まさに道理であった。
カビ臭いのにカビがないほうが間違っている。そして、浴室や厨房などの水回り以外でカビが発生しているということは、どこからか水分が入り込んでいるのだ。
「ユナも確認しておりますし、サブナ商会の方や、回収に来た方も見ています。カビの場所は大きく、あのまま放置すれば他の壁板も侵食されることは間違いなかったでしょう。わたくしは壁板を買い取っていただくことにしました。一枚、二千ベルをつけていただきました」
それが妥当かどうかは難しいところだ。
聴衆はざわざわと「我が家の壁板は一万ベルはしたぞ」「いや、雨漏りのある部屋の板だろう?」「カビがついているかもしれんしな」「捨てるものではないか」と雑談を始めている。
「一日の食費と同額に合わせてくださったのでしょう。ですので、月三十枚の壁板をお渡ししました。中には床板、天井板もありましたが、上手く取ってくださいました。わたくしの生活する部分はまだあったのです」
雨漏りのある部屋から、少しずつ木材が取られていく様子を想像した。実に切ないものだが、もともと雨漏りのある部屋だ。どうせ修復することを思えば、そこまでひどい破壊ではないだろう。
「ですが次の一月で、サブナ商会は取引を終わりにしたいと申し出てきました。貴族用の、大口の取引を得意としている商会なので、このような小口の取引なら別の商会に頼んだ方がよいということでした。それならばとわたくしは下働きの者に、平民が使う商会について聞きました」
一人、あるいは護衛と合わせて二人分の女の食材を届けるだけなら、たしかに平民用の商会で充分だろう。毎日二千ベルの取引は、とても貴族相手のものとは思えない。
それでも貴族家に違いはないので、二ヶ月は続けた。しかし一向にオフィリウス家の主人は出てこないし、利益はないと判断したのだろう。
「新たにファブランス商会に食材をお願いしたのですが、支払いは現金のみで受け付けるとのことでしたので、板の買取業者を、やはり下働きの方に紹介いただきました。ジョナス・ロイドという方です。ジョナスさんは板を全て取って構わないと思ってしまったようで、部屋が使えなくなってしまったので、わたくしは使われていない離れに移らせていただきました。わたくしの部屋以外からも板が搬出され、それをお金に変えてユナへの支払いにあてました。まとめての買い取りで少し色をつけて頂いたようで、四百枚ほどで九十万にしていただきました」
「よん、ひゃく、まい」
ネーガスが呆然と呟く声が法廷に響いた。
一部屋に板が何枚使われているか、ネーガスにはわからないだろう。裁判長にもわからない。ただ、月四百枚の板を剥がしていった屋敷が、二年後にどうなるのかなどわかりきっている。
聴衆も、十億ベルの豪邸がどうなったかを概ね察したようだ。同情のような、惜しむようなため息が場に広がった。
しかしネーガスは叫んで、呼吸を整えた。
彼はなにひとつ用意してきてはいないようだ。それでも勝てると思ったのだろう。
有利なのは間違いない。なんといっても裁判長とて、王に「ネーガスに便宜を図ってやってくれ」と言われているのだ。
だからネーガスが多少叫ぼうと、暴言を吐こうと、法廷を追い出されることはない。もっともそれは今のところ、彼の恥を広げるだけの結果になっているが。
「いいか、あの屋敷には安く見積もっても10億ベルの価値があったはずだ! 10億だぞ! 内装や家具を含めればその数倍になる! 食費や、護衛程度で使い果たせるはずがない。その女は私の金を盗み、だらだらと言い訳を述べているにすぎんのだ。断固として返却を求める!」
聴衆はネーガスの訴えに「そりゃ、10億ベルはな」「無理のありすぎる言い訳だな」と理解を示したようだ。裁判長も、いくらなんでもそれだけの額が、女ひとり、二年の生活費で失われるとは思えない。
クリスタ夫人の待遇には同情の余地があるが、二年で十億ベルを使ったとなれば、離縁され賠償を請求されても致し方ない散財妻と呼べるだろう。
「食費は変動がありますが、おおよそ1日2千ベル、ユナへの給与は1日3万ベルです」
「3万ベルだと!? 平民の女護衛にそんなにかかるわけがない!」
「住み込みですし、女性の護衛は数が少ないので給料は高くなるそうです」
貴族女性のそばに男性が侍るわけにはいかないので、女性の護衛は必要とされているが、なり手が少ない。そのぶん給料が高くなる傾向があった。
それでも日に3万ベルの支払いは高いが、そもそも通常なら、家にいるのに四六時中はりつく護衛など雇わないのだ。
「また、服飾費に月1万ほど」
「そんなもの、いらんだろう!」
ネーガスが叫んだのには、聴衆は失笑した。
貴族夫人が月1万の服飾費しか使わないなど、冗談としか思えない話だ。
「薪を森から拾ってきておりましたので、どうしても服は汚れるのです。調理も、ユナもわたくしも慣れないもので、よく汚してしまいました」
「……」
クリスタがどのような生活をしていたのか、ネーガスも具体的に見えてきてしまったようだ。沈黙し、聴衆にちらりと視線を向けた。
妻に平民のような生活をさせていた男。そのような目で見られることは、彼にとってひどい屈辱だったようだ。拳が震えている。
「よって月に九十七万ベルほどが必要になります。これは当初オフィリウス家のつけ払いにしてもらっていましたが、食材を入れてくださるサブナ商会の方が、一ヶ月以上のつけ払いはできないとおっしゃいまして、どうにか支払わなければならなくなりました」
爵位を返上する両親から嫁いできた娘が、そんなに金を持っているわけがない。そもそも生活費ならば、妻となった家の支払いにするのは当然だろう。
護衛をつけた理由も、自分の貞節を守るためだ。しかし、そのために月九十万ベルとなれば難しい話だ。
聴衆の、なんともいえない唸り声が聞こえた。
「わたくしが与えられた部屋は雨漏りが酷く、壁板の一部にカビが発生していました」
いきなり何を言い出すのだろう。疑問の視線を向けられながら、クリスタは落ち着いた様子で話を続ける。
「このまま放置すれば、周囲の板にも被害が及ぶと言われました。わたくしもそのように思いました。そこで、まだ無事な板を買い取ろうと提案を受けたのです」
「な……に……? 雨漏り……いや、板だと……?」
「はい。旦那様も、婚姻の後、北のカビ臭い部屋を使えと言っておりましたでしょう」
「そ、それは、カビ臭いのであって、我が屋敷に雨漏りなど」
クリスタはわずかにほほえみを浮かべ、まるで憐れむようにネーガスに言った。
「旦那様、カビ臭いのであれば、カビが発生しているのです」
まさに道理であった。
カビ臭いのにカビがないほうが間違っている。そして、浴室や厨房などの水回り以外でカビが発生しているということは、どこからか水分が入り込んでいるのだ。
「ユナも確認しておりますし、サブナ商会の方や、回収に来た方も見ています。カビの場所は大きく、あのまま放置すれば他の壁板も侵食されることは間違いなかったでしょう。わたくしは壁板を買い取っていただくことにしました。一枚、二千ベルをつけていただきました」
それが妥当かどうかは難しいところだ。
聴衆はざわざわと「我が家の壁板は一万ベルはしたぞ」「いや、雨漏りのある部屋の板だろう?」「カビがついているかもしれんしな」「捨てるものではないか」と雑談を始めている。
「一日の食費と同額に合わせてくださったのでしょう。ですので、月三十枚の壁板をお渡ししました。中には床板、天井板もありましたが、上手く取ってくださいました。わたくしの生活する部分はまだあったのです」
雨漏りのある部屋から、少しずつ木材が取られていく様子を想像した。実に切ないものだが、もともと雨漏りのある部屋だ。どうせ修復することを思えば、そこまでひどい破壊ではないだろう。
「ですが次の一月で、サブナ商会は取引を終わりにしたいと申し出てきました。貴族用の、大口の取引を得意としている商会なので、このような小口の取引なら別の商会に頼んだ方がよいということでした。それならばとわたくしは下働きの者に、平民が使う商会について聞きました」
一人、あるいは護衛と合わせて二人分の女の食材を届けるだけなら、たしかに平民用の商会で充分だろう。毎日二千ベルの取引は、とても貴族相手のものとは思えない。
それでも貴族家に違いはないので、二ヶ月は続けた。しかし一向にオフィリウス家の主人は出てこないし、利益はないと判断したのだろう。
「新たにファブランス商会に食材をお願いしたのですが、支払いは現金のみで受け付けるとのことでしたので、板の買取業者を、やはり下働きの方に紹介いただきました。ジョナス・ロイドという方です。ジョナスさんは板を全て取って構わないと思ってしまったようで、部屋が使えなくなってしまったので、わたくしは使われていない離れに移らせていただきました。わたくしの部屋以外からも板が搬出され、それをお金に変えてユナへの支払いにあてました。まとめての買い取りで少し色をつけて頂いたようで、四百枚ほどで九十万にしていただきました」
「よん、ひゃく、まい」
ネーガスが呆然と呟く声が法廷に響いた。
一部屋に板が何枚使われているか、ネーガスにはわからないだろう。裁判長にもわからない。ただ、月四百枚の板を剥がしていった屋敷が、二年後にどうなるのかなどわかりきっている。
聴衆も、十億ベルの豪邸がどうなったかを概ね察したようだ。同情のような、惜しむようなため息が場に広がった。
229
お気に入りに追加
1,373
あなたにおすすめの小説
私を家から追い出した妹達は、これから後悔するようです
天宮有
恋愛
伯爵令嬢の私サフィラよりも、妹エイダの方が優秀だった。
それは全て私の力によるものだけど、そのことを知っているのにエイダは姉に迷惑していると言い広めていく。
婚約者のヴァン王子はエイダの発言を信じて、私は婚約破棄を言い渡されてしまう。
その後、エイダは私の力が必要ないと思い込んでいるようで、私を家から追い出す。
これから元家族やヴァンは後悔するけど、私には関係ありません。
ある、義妹にすべてを奪われて魔獣の生贄になった令嬢のその後
オレンジ方解石
ファンタジー
異母妹セリアに虐げられた挙げ句、婚約者のルイ王太子まで奪われて世を儚み、魔獣の生贄となったはずの侯爵令嬢レナエル。
ある夜、王宮にレナエルと魔獣が現れて…………。
押し付けられた仕事は致しません。
章槻雅希
ファンタジー
婚約者に自分の仕事を押し付けて遊びまくる王太子。王太子の婚約破棄茶番によって新たな婚約者となった大公令嬢はそれをきっぱり拒否する。『わたくしの仕事ではありませんので、お断りいたします』と。
書きたいことを書いたら、まとまりのない文章になってしまいました。勿体ない精神で投稿します。
『小説家になろう』『Pixiv』(敬称略)に重複投稿、自サイトにも掲載しています。
貴方に側室を決める権利はございません
章槻雅希
ファンタジー
婚約者がいきなり『側室を迎える』と言い出しました。まだ、結婚もしていないのに。そしてよくよく聞いてみると、婚約者は根本的な勘違いをしているようです。あなたに側室を決める権利はありませんし、迎える権利もございません。
思い付きによるショートショート。
国の背景やらの設定はふんわり。なんちゃって近世ヨーロッパ風な異世界。
『小説家になろう』様・『アルファポリス』様に重複投稿。
何でも奪っていく妹が森まで押しかけてきた ~今更私の言ったことを理解しても、もう遅い~
秋鷺 照
ファンタジー
「お姉さま、それちょうだい!」
妹のアリアにそう言われ奪われ続け、果ては婚約者まで奪われたロメリアは、首でも吊ろうかと思いながら森の奥深くへ歩いて行く。そうしてたどり着いてしまった森の深層には屋敷があった。
ロメリアは屋敷の主に見初められ、捕らえられてしまう。
どうやって逃げ出そう……悩んでいるところに、妹が押しかけてきた。
悲恋を気取った侯爵夫人の末路
三木谷夜宵
ファンタジー
侯爵夫人のプリシアは、貴族令嬢と騎士の悲恋を描いた有名なロマンス小説のモデルとして持て囃されていた。
順風満帆だった彼女の人生は、ある日突然に終わりを告げる。
悲恋のヒロインを気取っていた彼女が犯した過ちとは──?
カクヨムにも公開してます。
私ではありませんから
三木谷夜宵
ファンタジー
とある王立学園の卒業パーティーで、カスティージョ公爵令嬢が第一王子から婚約破棄を言い渡される。理由は、王子が懇意にしている男爵令嬢への嫌がらせだった。カスティージョ公爵令嬢は冷静な態度で言った。「お話は判りました。婚約破棄の件、父と妹に報告させていただきます」「待て。父親は判るが、なぜ妹にも報告する必要があるのだ?」「だって、陛下の婚約者は私ではありませんから」
はじめて書いた婚約破棄もの。
カクヨムでも公開しています。
どーでもいいからさっさと勘当して
水
恋愛
とある侯爵貴族、三兄妹の真ん中長女のヒルディア。優秀な兄、可憐な妹に囲まれた彼女の人生はある日をきっかけに転機を迎える。
妹に婚約者?あたしの婚約者だった人?
姉だから妹の幸せを祈って身を引け?普通逆じゃないっけ。
うん、まあどーでもいいし、それならこっちも好き勝手にするわ。
※ザマアに期待しないでください
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる