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思い出した恐怖

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声のした方にみんなが一斉に視線を向けると、笠原が真っ赤な顔をして睨みつけていた。

「おかしいじゃない!! 何でわたしが処分されなくちゃいけないのよ! わたしが何したっていうの? みんなでわたしを悪者みたいに扱って!!」

「笠原、黙るんだ!!」

谷口部長がなんとか笠原の暴言をやめさせようと怒鳴りつけるが、当の本人は谷口部長を睨みつけながらなおも続ける。

「はぁ? こんな扱いされて黙るわけないでしょ? 少しあの子に会いに行ったからって一体なんだっていうの? 大した怪我でもないくせに大袈裟に言って、いちゃもんつけないでよ。こんな面倒に巻き込まれるなら、会いに行かなきゃよかったわ! わたしを処分するなんて言うならね、モデルだかなんだか知らないけどあんたも辞めなさいよ! それで全部うまくいくじゃない!!」

そう怒鳴りながら、晴の元へと突進してくる。

だんだん近づいてくる笠原に以前の恐怖を思い出したのか、晴が

「うわぁー!!」

と声をあげガタガタと身体を震わせている。

まずい!!!


そう思ったと同時に体が動いていた。
俺はさっと晴を自分の身体で覆い隠した。

「邪魔しないで! そこ退きなさいよ!」

笠原は突然目の前に現れた俺に驚いていたものの、すっかりヒートアップして両拳で俺の背中を叩きつけるが、俺は怯むことなく晴を内に隠し続けた。

谷口部長は目の前で起こっている信じられない出来事に呆気に取られていたがふっと我に返ったようだ。

「加納! 何してるんだ! 早く止めろ!」

そう叫ぶと、加納は思い出したように慌てて笠原の背中から羽交い締めにし、俺から引き離した。

「やめてよ加納さん!! 離してよ!」

加納は必死にしがみついているが笠原の力が思ったよりも強く、加納一人では抑えられないようだ。

「おい! 警備員に連絡して!」

桜木部長は応接室の扉を開け、近くにいた社員に指示をする。
先ほどからの騒ぎが外に聞こえていたらしく、応接室前には内勤の社員、数名が中の様子を伺っていたようだ。

警備員に連絡する声が聞こえると同時に、女性社員が数名入って来て加納と一緒に笠原の手や身体を掴んだ。
笠原は数名の女性社員にしがみつかれ、バランスを崩して床に倒れた。

「もう何もしないから、離してよ!」

笠原がそう叫んだそのタイミングで警備員が2名駆けつけた。

「とりあえず警備員室に連れて行ってください。加納さん、付き添っていってください」

桜木部長の指示に警備員たちは両腕を持って笠原を立たせると、加納は一緒に警備員室へと向かった。


俺を始め、部屋にいた男性社員が笠原を抑えなかったのは、後でセクハラと言われないようにするためだ。
加納には1人で笠原を止めさせることになって申し訳なかった。
怪我などしていなければいいが…。
後日その話を加納にはしたが、
『大丈夫です。あそこで男性が彼女に触れて何かトラブルになるより私が抑えられて良かったです。他の方にも助けていただきましたし』と言ってもらえて安心した。



嵐のような騒ぎが去った後、応接室には再び静寂が訪れた。

そこに『はぁ、はぁ、はぁ』と浅い呼吸音だけが響いた。
ハッとして覆い隠していた晴の顔を覗き込むと、真っ青で手も冷たい。

まずい! 過呼吸を起こしている!


「すみません、誰か紙袋かビニール袋を! 急いで!!」

その言葉にバタバタと谷口部長が外に出て、ビニール袋を持ってくる。
俺はそれを受け取ると胸ポケットにあったボールペンで小さな穴をいくつか開けてから晴の口に軽く当てた。

「ゆっくり息をしよう。ゆっくりだよ。ゆーっくり」

晴の背中を手のひらから温かさが伝わるようにゆっくり撫でながら俺も一緒にゆっくり呼吸をしながら、晴に呼びかける。
その合間に医務室の渡辺医師を呼ぶように頼んだ。

ビニール袋を軽く口に当てて十数回と呼吸を繰り返し、やっと晴の顔に赤みが戻ってきた頃、渡辺医師が到着した。

晴をソファーに横たわらせ診てもらおうとしたが、晴は首を横に振り俺から降りようとしなかった。

「無理に下ろさないでいい。そのままで」

優しい口調でそう言われて、晴を抱き寄せたまま診てもらった。

「うん、呼吸も安定しているし、ひと安心だね。でも、しばらくは身体を動かさないで。早瀬くんは大変かもしれないがそのままの状態でね」

「はい。大丈夫です」

「……はや、せさん……ご、めん……なさ、い……」

晴は弱々しい声で謝ってきた。

自分がこんな辛い状況であっても俺に申し訳ないと思うのか……。
もっと甘えてくれていいんだよ。

「軽すぎるくらいだから大丈夫。無理して喋らなくていいからゆっくり休んで」

晴はその言葉に安心したのか、ゆっくりと目を閉じしばらくするとスースーと穏やかな寝息を立て始めた。

渡辺医師は寝入った晴の手首に指を当て検脈すると、

「大丈夫です。緊張が解れたんでしょう。起きた時には落ち着いていると思いますよ」

ニッコリと笑顔を見せたので、ようやく安心した。

「それにしても、あの時の香月くんの怯えようは尋常じゃなかったな。過呼吸になるほどパニックを引き起こす何か理由があるのか?」

桜木部長が晴に配慮して小声で問う。

そういえばストーカーに襲われた件は社内の人間には話してなかったな。

「実は……」

晴がストーカーに狙われていること、犯人は捕まったもののその仲間がまだ晴を狙っていること、犯人に正面から襲われた時の恐怖心から一度フラッシュバックを起こしたことがあることなどを応接室に残っていた桜木部長、谷口部長、そして渡辺医師に説明した。

「可哀想に……。香月くん、相当怖かっただろうな。まさかこんなことになるとは思わなかったから……こんなことなら笠原に対面させるべきではなかったな」

桜木部長は後悔の念に駆られ項垂れている。

「私が、笠原があんなことを思っていたなどと思いもせず、すぐにお詫びをとそれしか考えていなかったもので……今考えれば浅はかでした。申し訳ありません」

自分の部下がトラブルを起こした以上、上司としてすぐに謝罪に訪れるのは常識というか、決して誤りではないだろう。
ただ、笠原が謝罪する気どころか、自分が謝罪される側だと思っていたことは驚きであり、それはきちんと諭してくるべきだったとは思う。
話の通じる相手でなかったことは先ほどよく分かったが、谷口部長が前もって笠原と話していればこれは予期できたわけで、そうであれば笠原を連れて来ずに、まずは谷口部長と加納だけで謝罪にくれば、田村さんを怒らせることも晴に恐怖を味わせることもなかったのではないかと思うと、やはり浅はかだったと言わざるを得ない。

しかし、それは全て結果論であり、まさかいち社会人があの場であんな暴挙にでるなど誰も思わないだろうから致し方ないことだとも言える。

ああ、俺がもっと早く気づいて晴がパニックを起こす前にあいつを遠ざければ良かったんだ…
晴を守れなかった……。

俺は、桜木部長や谷口部長よりも深く後悔の念に苛まれながら、腕の中でスヤスヤと眠る晴を抱きしめそんなことを頭の中でグルグルと考えていた。


気づくと部屋には晴の穏やかな呼吸音だけが響いていた。
そんな中、桜木部長と谷口部長の後悔の言葉をじっと聞いていた田村さんがゆっくりと口を開いた。

「初めて香月くんのフラッシュバックを引き起こしたのは、私だったんですよ」

「「えっ?」」

二人の驚いた声が重なる。
渡辺医師はじっと田村さんを見つめ、次の言葉を待っている。

「彼が小蘭堂さんからのモデル依頼を引き受けてくれたことが嬉しくて、つい抱きつこうとしてしまったんですが……その日、彼は犯人に襲われた直後だったんですよ……彼は私の目の前でさっきのように大声をあげてその場に崩れおちるように倒れたんです」

田村さんは俺の腕の中で眠る晴を痛ましく見つめた。

そう、晴がフラッシュバックに襲われたあの日、田村さんは晴が真っ青になって恐怖に身体を震わせる様を真近で見ていた。

田村さんはあの時の衝撃を思い出したんだろう。
握り締められた田村さんの拳は小刻みに震えていた。
田村さんはあれからひとりでずっとあの時のことを悔いていたんだな。

「あの時も早瀬さんがいち早く気づいて香月くんのケアをしていた。私はあの姿を真近で見ながら身動きひとつ取れなかった。今日も同じです。彼女が香月くんに突進してくるのを見ていながら、動くこともできなかった。咄嗟に身を挺して庇っていた早瀬さんとは雲泥の違いです……。私は彼を家族のように思っているなどと言いながら、彼を守ることすらできなかった。私より早瀬さんの方がよほど彼を守っています。この状態の彼を見ると、早瀬さんから引き離すことはかえって良くないのかもしれませんね……」

田村さんは晴を慈しむような眼差しで見つめそっと頬を撫でると、晴はくすぐったかったのか『ううーん』と身を捩りながら俺の胸に顔を擦り寄せた。

「ふふっ。香月くんは早瀬さんのことを心から信頼しているようですね。ほら、見てください。あの安心しきった顔を……」

田村さんが晴の可愛い仕草に顔を綻ばせると、先ほどまで憔悴しきった表情をしていた桜木部長と谷口部長も、晴の柔らかな寝顔に癒されたのか小さく笑顔を見せた。

「トラウマを克服するのは容易いことではありません。けれど、そばに居て苦しみをわかり合ってくれる人がいるだけでトラウマから回復する力が増して、克服へと近づくことができます。香月くんにとって今は早瀬さんが一番そばにいて安心できる人なのかもしれませんね」

渡辺医師の言葉に田村さんは頷く。

「でもね、田村さん。あなたの香月くんへの深い慈愛の心も彼にとって安心できるひとつの要素だと思いますよ。あなたが怪我をさせられた香月くんを守ろうとした気持ちはちゃんと彼に伝わっていますから、もう自分をそんなに責めないでください」

続けられた医師の言葉に田村さんはほっと胸を撫で下ろした。

「桜木さん。最終的には香月くんの気持ちを聞いてからになりますが……私としては先ほどの発言を撤回してこのままこちらにお任せしようと思います」

「ありがとうございます田村さん! 香月くんは必ず御守りします!」

穏やかな表情を浮かべる田村さんの言葉に桜木部長は間髪入れずにお礼を述べた。

「あくまでも香月くんの気持ちを聞いてからですよ」

田村さんはそう 念を押したその時、俺の腕の中にいた晴が身じろいだ。

「んんっ」

「晴、起きたか?」

「んん……っ、もっと、ぎゅってして……」

心配のあまりつい名前で呼んでしまった俺につられてしまったのか、ここが会社の応接室だということも忘れてしまったらしい、まだ目も閉じたままの晴が寝惚けた声で甘えてきた。

「あ、あの、えっと……その……」

桜木部長と谷口部長の視線を感じてどう返そうか焦ってしまったのだが、

「香月くんの気持ちは改めて聞かなくてもよく分かりましたね」

「「うわっはっは」」

田村さんが笑ってそんなことを言ったので、応接室中に笑いが溢れた。

晴が甘えてくれたおかげで小蘭堂うち田村リヴィエラとの縁が切れずに済んだな。
晴はやはり小蘭堂にとって特別な存在だ。
もちろん、俺にとっては唯一無二の存在だよ。

晴は急に聞こえてきた大きな笑い声に驚いて起き上がったが、渡辺医師の言う通り少し眠ったおかげか先ほどより落ち着いた表情を見せていた。

「……早瀬さん、僕、何かしちゃいましたか?」

戸惑った顔で見つめる晴が可愛くてたまらない。

「いいや、大丈夫だよ。身体はどう?」

「はい。もう大丈夫です。あっ、僕下ります」

晴は自分が抱っこされていることを思い出し恥ずかしくなったのだろう。
顔を少し赤らめて慌てて下りようと身体を動かした。

「香月くん、急に動いてはダメだよ」

渡辺医師に止められて『はい』と小さく返事をした。

「ちょっと診るね」

晴の腕をとり検脈をし、『うん、うん』と頷いた。

「もう落ち着いてはいるけれど、無理してはいけないよ。今日はもう帰って安静にした方がいいな。桜木さん、タクシーを呼んでもらえますか?」

「いえ、車で来ているので私が連れて帰ります」

「ああ、そうだったな。早瀬、頼むぞ」

桜木部長は俺の背中をポンと叩いて晴に優しく声をかけた。

「香月くん、今日は嫌な思いをさせてしまって申し訳なかった。身体はもちろん、腕の方も週末ゆっくり休ませてくれ」

「はい。あの……」

晴が何か言いたげな様子で田村さんの方を向いた。

「うん? 香月くん、どうかした?」

田村が晴の傍に近づき、跪いて顔を寄せる。

「あ、あの、僕……このままモデル続けたいです! 田村さんが怪我をした僕を心配してくれたこと、すごく嬉しいんですけど、今日会議に参加して自分の考えたことが誰かの役に立つって分かって、それがもっともっと嬉しくて、だから、その、最後まで頑張ってみたいです! あの……いい、ですか?」

晴が一生懸命伝えようとする姿が、健気でいじらしく田村さんはもちろん、桜木部長や谷口部長も心を打たれたようだ。

「香月くん、よくわかりましたよ。先ほどは心配のあまり、ついあのようなことを口にしてしまいましたけど、香月くんがそこまでやりたいというなら私はこのまま小蘭堂さんにお任せします。けれど、何か不安なことや気になることがあったらなんでも相談してくださいね」

「ありがとうございます! 田村さん、大好きです!」

よほど嬉しかったのだろう、そう言うが早いか、晴は目の前に跪いていた田村さんの首に手を回し、ぎゅっと抱きついてお礼を言った。

田村さんは思いがけない晴からのハグに顔を真っ赤にして驚きながらも嬉しそうだ。
その顔を見て俺は田村から晴をもぎ取るように抱きしめ直した。

「ふえっ? なに?」

なぜ急に強い力で引っ張られたのか全くわかっていない晴が目を見開いて俺に問いかけたので、ちょっとイタズラ心がむくむくと湧き上がってきて晴の耳元にそっと口を寄せ

「俺の目の前で他の男に抱きつくなんてあとでお仕置きだからな」

と言ってやると、今度は晴が顔を真っ赤にさせていた。

「うん? 早瀬、香月くんに何言ったんだ?」

「いえ、何も。ねえ、香月くん」

晴に話を振ると、晴は真っ赤な顔をぶんぶんと上下に振っていた。

「そうか?」

桜木部長たちは不思議そうな顔をしていたがそれ以上の追及はなかった。
晴に抱きつかれていた田村さんだけは俺に対してニヤニヤとしていたが、それは見ないふりをして、恥ずかしがる晴を抱き抱えたまま応接室を後にした。
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