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25 山は裂け

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「……殿」

 そう言ったきり、海斗は目をみはって沈黙した。
 痛みをともなって喉にひっかかってしまったものは、代わりに別の場所であふれてしまったようだった。

「……あ。す、すまない、これは」

 慌てて手の甲でぬぐうのだが、それはあとからあとから溢れてぱたぱたと膝の上に染みをつくった。
 海斗は律の手からコーヒー缶をさりげなく取り上げながら、自分の指で雫を拭ってくれた。

「……お泣かせしたかったわけではありませぬ。どうかお許しください」
「そなたのせいでは……ない」

 言葉を発すると、変な風に音が飛び上がってしまいそうであまりしゃべれない。律はうつむいて目元を覆った。

「す、少し……まってくれ」

 海斗はほんのわずかこちらを見つめていたようだったが、あらためて両腕で律の体をゆったりと抱きしめてきた。
 触れた場所から、先ほどまで感じていた肌寒さが去っていく。恋人とのふれあいというものがこんなにも体も心も温めてくれるものだなんて、自分はずっと知らなかった。鎌倉の頭領として過ごした八百年も昔から、ずっと。
 嬉しいのだかせつないのだかわからなくて、また涙腺が言うことを聞かなくなっていく。次々とあふれる雫をとどめようもなく、声もなくうつむく律を見て、海斗はやや焦ったようだった。だがその手はあいかわらず優しく、律の背中や肩、そして後頭部を撫でてくれている。

「どうか、ご安心を。ここにはだれもおりませぬゆえ。……思う存分になさってくださればよいのです。声をおあげになっても構いませぬ」
「や……やすと、き……」

 嗚咽がこらえきれず、彼の肩に額を押し付けるようにして背中を丸めた。

「嬉しい、んだ。それに……今もまだ、信じられぬ。そ、そなたと……こんな風になれるなど」
「はい。自分もにございます」

 とんとんと背中を叩かれる、その手つきがあまりに優しくて、余計に涙が止まらなくなった。

「ゆ、夢のようで……今でもまだ、夢じゃないかと、思うときがあって」
「はい」
「信じられない。……このようなこと、あの頃は夢にも思いはしなかったのに」
「はい」

 海斗はそっと体を離すと、両手で律の頬をはさむようにして、そっと額に口づけを落とした。それから丁寧に目元や頬の雫を吸い取り、やがて静かに優しく律の唇をんだ。
 軽い眩暈をおぼえて、少し気が遠くなった。自分の体重がまるでなくなってしまったかのように、ふわふわする。
 しかし、と唇のすぐ前で海斗が告げた。

「今は紛れもない現実にございますよ。これからもそのことを、あなた様にしみこませて参りますのでどうかよろしく」
「……んえ?」
「あなた様のお心にも、お体にも。これからいやというほど自覚していただくように努力いたしますゆえ」
「ん、……んん?」
「どうもあなた様は、この奇跡を軽く見ておられるようですし」
「え?」

 なんだか急に、意外なことを言う。

「考えてみてもごらんください。輪廻転生と言うは、決して『人から人へ』と決まったものでもありませぬでしょう」
「あ……それは」

 確かにそうだ。その教えは生きとし生けるものすべてに命が輪廻してゆくことであって、必ずしも人から人へと生まれ変われるというものではなかったはず。

「今回、こうして同じ人として、しかも同じ大学の学生として似たような年ごろで生まれ変わりを果たしたことが、どんなに信じられぬほどの奇跡であろうことか。それをお考えになったことはないのでしょうか、殿は」
「い、……いや。ええと」

 正直、あまり考えたことがなかったかもしれない。あの泰時が海斗となって目の前に現れたという事実に翻弄されて、それどころではなかったからだ。というかこの男、はじめて自分に会ったときからこんなことを考えていたのだろうか。

「もしも自分が人でないものとしてあなた様のおそばに生まれ変わっていたらと思うと、今でもぞっとするのです。あなた様の足元で、たとえばカメムシにでもなっていたら?」
「カッ……?」
「殿」
 ぶふぉ、と思わず吹き出してしまって、海斗にえらい目で睨まれてしまった。
「……す、すまぬ。しかしぶふっ……」

 それでも笑いが止められない。どうしても。
 まったく、泣いたり笑ったり忙しい。この男の側にいれば、こういう人生がずっと続くのだろうか? そういうのも悪くない。いや、こういうのこそが「幸せ」と呼ばれるものなのではないだろうか。

「カメムシにゴキブリに蚊に、ムカデ。蠅に蜂。人から忌み嫌われ『害虫』などと呼ばれる生き物など、この世にごまんとおりまする。決して身ぎれいに生きたわけでもなかった前世の自分からすれば、そうしたものに生まれ変わっていたとしてもなんら不思議はなかったのですぞ」
「そ、そんなはずはあるまい。ほかならぬ泰時なのだし──」
「為政者というは、左様に『きれいに』生きられる者ではございませぬ」

 海斗は溜息まじりに言って、また律を抱きしめた。そのまま律の肩の上に頭を落とす。

「……ですから。この『奇跡』に最大限の感謝をしたいのです、自分は。ゆえにこの機会を最大限に大事にいたす所存にございますぞ。一生をかけて」
「や、やすとき……」
「ですから殿も、そのようにお覚悟をなさっていただきたい。……まこと身勝手なお願いではございますが」
「やすとき」
「自分に愛される、ということはこういうことにございまする。……重い男であることは前世の折から重々自覚してございまするが、どうか殿も、そのことはお忘れなさらぬよう」
「……す、すごいことを言い出すなよ、いきなり……」

 もはや「重い」の一言ではすまぬ勢いではないか。
 律は困りはてた。まったく、この男には毎度毎度、参らされる。だが不思議といやではない。いや、むしろ嬉しい。

「しかし。『愛の重さ』に関してはそなたに負けるとは思わぬぞ。……そなたこそ覚悟せよ。なにしろこちらは八百年ごしの『おおおも』な愛なのだから」
「望むところにございます」

 海斗はようやく顔をあげて、にこっと笑った。
 晴ればれとしたよい笑顔だった。やはり男ぶりがいい。
 そのいい男ぶりの顔が珍しくも、ぱちんと片目をつぶって見せてきた。

「しからばいかがにございましょう。今宵はどこかでもう一戦」
「……そ、それは勘弁してください……」

 いくらなんでも腰がもたない。
 げそっと肩を落としたら「あはははは!」と大笑いされ、力いっぱい抱きしめられた。
 しあわせが、体いっぱいに満たされていく。

(やすとき……海斗さん)

 一度目を閉じ、また開く。
 彼にこうして抱かれているとき、おなかの底から湧きあがってくるものは、いつも穏やかな幸福感だけだ。

 これでいい。これでよかった。
 こうなるために、こうしてふたり、この時代に生まれてきたのだ。
 そのために前世のあの苦しみのすべてがあったと言うなら、今はもう受け入れようと、そう思う。

 遠く海に浮かぶ船の灯が明るくなりかかっている。
 ふたたび優しく唇を塞がれながら彼の肩越しに目をあげると、暮れかかった紺の空に、ひときわ明るい一番星がぽつりと輝きはじめていた。



 山は裂け 海は浅せなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも
                     『金槐和歌集』663

                        了


 2024.2.20.Tue.~2024.5.3.Sat.
 これにて完結です。
 本編からつづけてお立ちよりいただいた皆様、まことにありがとうございました。
 いつかまた、どこかで!
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