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24 ながむれば

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 渡された缶コーヒーはまだ温かい。
 陽がだいぶ傾いた空は、次第に夕日を呼び込もうとして青みを増している。周囲の山々の木々をゆらす風が、標高のせいなのか少し肌寒いようだった。
 コーヒーを一口飲んで、律はかるくため息をついた。海斗も黙って、同じようにコーヒーに口をつけ、景色を眺めているようだ。

(昔のままなのにな。海の景色、そのものは)

 あの由比ヶ浜でも思ったことだ。昔も今も、海はただただ、水を湛えて陽光を反射させ、きらきらとまぶしく光っている。曇りの日にはどんよりと、空との境界をなくしているし、夜ともなれば月の光を照り映えさせる。
 ……昔も今も、自然そのものは変わらない。
 変わっていくのは、人ばかりだ。人だけが時代をうつろい、社会を変え、寿命を尽きさせては消えてゆく。誰かをどんなに愛しても、ふたりのうちの片方が、あるいは両方が、いつかはその命を燃やし尽くして消えていくのだ。

 缶の縁を爪の先でひっかくようにしてもてあそぶと、きしきしと控えめにスチールが軋む音がした。
 と、海斗がようやく口を開いた。

「なにか……ずっと思い悩んでおられたのではありませんか」
「え?」
「このような関係になる前は、このことを悩んでいらしたのかとも思っていたのですが。……どうも、そればかりではないようにもお見受けします」
「え。い、いや……」

 いきなり核心を突かれたような気がして、慌ててまた缶コーヒーに口をつけた。

「悩む、というか……。その、つまり」
「はい」
「もちろん、その……昨夜ゆうべのようなことについても、あれこれと、つい考えてしまってはいたのですが」
「はい」

 いまの海斗はどこまでも、ただ律の言うことを聞いてくれるつもりのようだった。
 だが、こんな時に限ってうまく言葉がまとまらない。しかし、これはせっかくの機会なのだろう。幸い、この小さな展望台には他に人はいない。今ここにいるのは海斗と律のふたりきりだ。

「本当に、恥ずかしいことばかりなのですが」
「構いませぬ。どうぞ、思っておられることはなんでもお聞かせ願いたい」
「……ええと」
 つい口元をさするようにして、律はなんとか考えをまとめようとした。
「だから……。体のことについても、結構うだうだと考えこんでいました。正直、自信がなさすぎて」
「はい」
「だって、俺はどう転んだって男ですし。……あなたは前世でも今生でも、普通に女性にょしょうを愛することのできる人だし」
「それは、まあ……はい」
 しかし、と海斗は言葉を継いだ。
「それは自分も事前に何度も考えてみたのですが。……全員をというわけではないにしても、どうやら自分は、男女の両方ともを恋愛対象にできる人間であったようです」
「え、そうなのか」
「もちろん、全員ではありませぬが」
「……うん。それはまあ、別に異性が相手でも同じだと思うけども」
「確かに」

 ふっと海斗が微笑んだ。

「少なくとも、殿……律くんについてはいささかも違和感を持つことはありませんでした。これは断言できます」
「そ、そうなのか?」
「物慣れない点は多々あったろうと思いますが、基本的にああした行為に対する嫌悪感などはいっさいなく。むしろ、ずいぶんと我慢しすぎてしまったぐらいなことで」
「そうなのか!?」

 あまりにも驚いて、つい素っ頓狂な声が出てしまった。海斗がすっと目を細めてこちらを少し睨むようにした。

「何度も申しているではありませぬか。……あなた様は、お可愛らしすぎるのです。ですからあまり、他の者によい顔をしすぎられるのも考え物にございますよ。いろいろな男が勘違いして寄ってくるのではかないませぬゆえ」
「いや。いくらなんでもそれはあるまい──」

 なんだかまた、頬や耳が熱くなってきた。
 だが、よかった。少なくとも今は、彼は自分のような者を相手にすることをイヤだとは思わずにいてくれるらしい。本当によかった。
 ただそれが、いつまで続くことなのかは定かでないが。

(でも……いいか。それでも)

 少なくとも、前世であれほど望んで望んで果たせず、奥方を深く愛して家庭を築いている彼の姿を指をくわえて眺めているしかできなかったことを思えば、今は天国だ。彼とこんな風になって、あまつさえ抱いてもらって。たとえこの関係がずっと長く、死ぬまで続くものではないとしても。
 これで、十分幸せだ。これ以上を望むなんて、むしろ盗人猛々しい。ばちが当たるのではないかと思うぐらいだ。

「……また、そんなお顔をなさる」

 やや悲しげな海斗の声が聞こえて、律はハッと目をあげた。
 海斗の指がそっと伸びてきて、律の頬を優しく撫でた。

「あなた様は、いつもいつも……そうやってなにかを諦め、さびしく世間を眺めていらっしゃるようで。どこか蜻蛉かげろうのようにも見えて、ひどくはかなく思われたものでしたが。今もまだ、そうしたふうをまとっておられるように見えまする」
「まさか。私なんかが……。到底、そんな美しいものではないさ。そなたが知らぬだけのことよ」

 律はつい、苦笑していた。

「そなたは知らぬ。私が前世で、どんなにそなたを恨めしく、物欲しげに眺めていたか。そなたに心から愛され大事にされていた奥方やお子たちを、どんなに羨ましく見ていたか」
「左様なこと、当たり前にございましょう」
「……え?」
「人に懸想するというのは、なにも美しいことばかりではございますまい。事実、醜い嫉妬をする者、競争相手を蹴落とすために策を弄する者も多い。そんなことは古今東西、どこにあっても普通のことではありませぬか」
「そ……そうであろうか」
「左様にございますよ」
「……あ?」

 律の頬を撫でていた海斗の手が少し離れ、今度は両腕でぐっと体を抱きしめられた。

「このような関係になってもなお、左様にご不安そうなお顔をなさることが気にかかってならぬのです。このに及んでなお、自分はあなた様を不安にさせているのでしょうか。左様なことは望みませぬ。あなた様には今生こそ、どうあってもお幸せになっていただきたい」
「や、やすとき……」
「ですからどうか、思っておられることは自分にお聞かせ願いたい。どんな些細なことでも構いませぬ」
「……」

 思わず喉の奥が痛くなって、律は言葉をのんだ。



 ながむれば 吹く風すずし 三輪みわの山 杉のこずゑを づる月影
                     『金槐和歌集』(実朝歌拾遺)707
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