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第六章 罠
10 苦悩
しおりを挟む《な……なに……?》
愕然とする。目の前が一瞬、暗くなった。
まじか。一体なにしてくれてんだ!
《『本体』が死ねば、こちらが自動的にメインに切り替わる。何度か試してみてわかったことだが、どうやらそういうシステムらしくてね。私がこの世に同時に何人も存在するのではややこしいからかも知れないが》
《なんだよ、それは……》
なんか、めちゃくちゃずるくねえ?
《つまり、君たちが本体の私を殺したからこそ、こちらが活性化したわけだ。皮肉だろう? 私にはとてもラッキーだったけれどもね》
《なんだそりゃ。トカゲかよ。いや、ほとんど病原菌か?》
《おやおや、ひどいね。だが当たらずとも遠からず、かな。君、なかなか勘がいいじゃないか》
大きなお世話だわ、どアホ。
《……あれ? だけどそうすると、この子が巻き込まれてしまったのは、半分は君たちの責任ってことになるんじゃないかな。ご感想を聞いてみたいね。気分はどう?》
(こいつ──)
俺のイライラは頂点に達する。
なにをしれっと主張してんだ。ニヤニヤしやがって、クソむかつく。
それにしてもこいつ、いったいどのぐらい自分の細胞をまき散らしているんだろう。怜二のメイドの人に成り代わっていた期間にもよるんだろうけど、今の話を聞く限り、かなり周到に準備してたってことだよな。もしも被害者がゆづきちゃんだけじゃなかったら、今後どうなってしまうんだ。
たとえゆづきちゃんをうまく助けることができたって、その後も誰かの身体の中で別の細胞が活性化するんじゃ、どうしようもない。今後も似たような事件が繰り返されることになる。
それじゃいたちごっこじゃねえか! マジ最悪。
冷や汗がこめかみを流れ落ちる。俺はいつのまにか、かちかちと親指の爪を噛んでいた。
「きゅう、きゅうう……?」
姿を現したクロエがまた、俺の肩に乗って心配そうに鳴いている。
《まあ、とにかくね。健康な乙女の美味しい血液の中で、私はゆっくりと育ってきた。まだほんの肉片だけれどね。でも、ここまで育てばこうやって、君と十分に接触もできる。今からなら、あっという間に彼女を屠って元の姿に戻ることも可能だ》
《なんだって……?》
《ああ。もちろんその場合、彼女の身体は一瞬にして細切れ肉になって飛び散るだろうがね。つまり即死さ。わかるだろう?》
《ってめ……!》
思わず、力まかせにトイレの壁を拳で殴った。拳にビリビリと痛みが走る。
ざあっと血がさがって、次にはどっとまた冷や汗が出た。背中を冷たい汗が滑り落ちる、気持ち悪い感覚。
俺は必死に吐き気を飲み込んで、押し殺した思念で訊いた。
《で、なんだよ。てめえの要求はよ》
《おや。意外と話がわかるねえ──》
男はにやけた笑みを思念の声に乗せて、滔々と自分の要求を語って聞かせた。
「うっ……!」
もう我慢できなかった。次の瞬間、胃からさっきのアイスコーヒーがせり上がってきて、俺はそのまま盛大に吐いた。ちょうどトイレにいて、本当に良かった。
俺はしばらく、そこで喉をヒューヒューいわせながら荒い息を吐いていた。クロエが俺の首元にぴたりと体をくっつけたまま、ブルブル震えているのが伝わってくる。
「っくそ、ボケがっ……!」
なんてことを言いやがる。
ひでえよ。ひどすぎるにも程がある。
最低、最悪。そして悪趣味。
怜二があれほどこの野郎を憎み、軽蔑し、殺意を抱く理由がようやく俺にもはっきりと理解できた。大昔、まだ少年だった怜二も、こんな調子でこいつにさんざん弄ばれ、しまいには咬まれたんだもんな。
(でも、このままじゃ──)
もし俺が要求を飲まなければ、ゆづきちゃんが辿ることになる運命。それを思い描いて、俺の胃はまたむかむかとひどい吐き気を訴えた。
どうしよう。
そんなことになったら俺、どうしたらいいんだ。
ゆづきちゃんの親父さんやおふくろさん、どんなに悲しむことになるだろう。
そんなの絶対、絶対に「弁償」なんてきかないのに。
人の命には、絶対に替えなんてきかねえのに!
思わず自分のワンショルダーバッグを握りしめる。その中に入っているものの存在をしっかりと確かめる。ギリギリと自分の奥歯が軋む音がした。
こいつは、ダメだ。
絶対に生かしておいちゃあダメなやつだ……!
バッグを握りしめながら、俺は昨夜のことを思いだしていた。
怜二が不意に、俺を部屋に呼びだしたときのことを。
◆
怜二の書斎にひとりで呼ばれた俺は、正直、微妙な気持ちだった。
美里ゆづきちゃんとのあれこれで、怜二はすっかり臍を曲げていたからだ。あれからしばらく、怜二と俺の関係はひどくぎくしゃくしたものになっていた。
凌牙には「あんまり残酷なことしてやんなよ」ってやんわりと釘を刺されたけど、なんかこっちから謝るのも変だよなって思って、そのまんまにしちゃっていたし。
怜二は俺が部屋に入ると、使用人とクロエまで下がらせて人払いをした。それから、徐に壁一面が本棚になっているところに近づいた。
怜二が分厚い本のひとつにわずかに触れると、本棚の一部がちょうど扉のようにぱかりと開いた。扉の奥はさらに分厚い金属製の扉になっていて、つまりは金庫みたいになっている。
(……あれ?)
俺は変な既視感を覚えて首をかしげた。
この場面。このシチュエーション。
なんか、どっかで見たような気が……?
その奥には確か冷蔵庫みたいなのがあるんじゃね? そんで、血液パックがいっぱい並んでて、ジュラルミン製の小さなケースが入ってて──
驚いたことに、それはまったくその通りだった。怜二はそのケースを手に取ると、書斎机の上にそっと置いて俺に手招きをした。
「おいで。勇太」
「え? あ、うん……」
俺はそろそろと近づいて、ケースを見つめた。やっぱり、でかい百科事典ぐらいの大きさの銀色のケースだ。
怜二が俺の目の前でそれを開く。小さなパネル式のボタンがついていて、パスコードを入れないと開かないしくみのようだ。
中には、ちょうど手で握りこめるぐらいのサイズの円筒形の器具が十個ぐらい入っていた。刑事ドラマなんかでよく見る、カプセルなどを固定できる柔らかい素材に、整然と詰められて並んでいる。
「な、なに? これ……」
「君の血液。……それを使った『対ヴァンピール最終兵器』とでもいうべきもの、かな」
「えええっ?」
俺の血液? どういうことだ。
混乱している俺の気持ちを見透かすような目で見て、怜二はひとつ溜め息をついた。
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