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おまけのおはなし2 ロマン君のおたんじょうび

5 過去の夢

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『きみ、どうしたの』

 殿下に初めてお会いしたのは、ちょうど、そんなころだった。
 もちろん遠くからお見掛けしたことはあったけれども、こんなに近くで直接お顔を見たのはそれが初めてのことだった。まして、声を掛けていただくなんて。
 四つほど上でいらっしゃるから、当時の殿下は十六、七でいらしたはずである。すでに兄君たちの代わりに地方回りの仕事もされはじめた頃だっただろうか。
 侍従らしい年配の男を連れて、殿下はたまたま外からお戻りになったとき、戸外で洗濯をする下働きの少年に目を留められたのであろう。

 周囲の様子をちらりとうかがって、殿下はちょっと困ったような目になった。
 青くてきれいな澄んだ瞳をされた王子。噂に聞いていた通り、皇太子殿下や第二王子殿下のような光り輝く雰囲気はない。でもそのぶんだけ、殿下は当時からまろやかで柔らかく、下々の者でも話しやすい雰囲気をお持ちだった。

『こんなに沢山……ひとりで洗うのかい? 今、ここの仕事はそういうものなの? 前はそうじゃなかったように思うけど……』

 後半の質問は、背後にいた侍従に向けられたものだった。初老の侍従は「皆が多忙のときにはそういうこともございますが」と、言葉を濁したようだった。殿下は困った顔のまま「なんとかならないものかな」と何度もその者にお訊ねになっていた。
 その後、殿下と侍従の間でどういう話があったのかをロマンは知らない。だが、それからすぐに配置換えの辞令がきた。ロマンはその部署から離れ、別の仕事を任されることになったのだ。当然、意地悪をしてきていた少年たちと顔を合わせることもなくなった。王宮はそれほどに広いのだ。

 新しく配属されたのは、侍従長と侍従たちの、さらに下働きのような部署だった。直接殿下にお会いできる立場ではないながら、実質的にはかなり昇進したに等しかった。下級貴族の出身に過ぎないロマンとしては異例のことであり、ほとんど引き抜きに近かった。
 あとであの時の侍従からこっそりと教えてもらった。「すべてユーリ殿下のお計らいだ。しっかりと感謝もうしあげ、誠心誠意努めるように」と。驚いたことに、殿下はあのあと、ロマンの扱われ方や彼の周囲の環境について密かに調査なさったというのである。
 虐めの実態などについては普通なかなか明らかになりにくいものだけれども、幸い今回は目撃していた別の使用人たちが様々に証言してくれたらしい。

『あの年で田舎からひとりで出てきて、そんなつらい目に遭うなんて。とても放っておけないよ。なんとかならないものだろうか』。
 そんな風に、殿下が困り果てた顔で何度も頼むものだから、とうとう侍従長の方が折れたらしい。
 そこでも水仕事がないわけではなかったけれども、ロマンは随分と楽に仕事ができるようになった。いや、責任は重くなったけれども、少なくとも楽になった。もちろん、変なやっかみから小汚い意地悪をするような者もいなかった。ユーリ殿下に仕える人々は、基本的にこまやかに気が利いて心優しい人が多かったのである。これはもはや、殿下ご自身のご気性の賜物でもあるようだった。

 実際殿下は、それから少ししてこっそりと、ロマンが一人で仕事をしている部屋にやって来こられた。

『さ、早く。みんなには見られないようにしてね』

 手の中に何かを握らされ、こそこそと囁かれる。ロマンは面食らって口をぱくぱくさせてしまった。見れば小さな布袋だった。重さからして金銭ではなさそうだったけれども、ロマンはひどく恐縮した。

『あ、あの、殿下……困ります。このようなことをなさっては』
『いいからいいから。あ、使い方を教えておかないとね』

 殿下はそうおっしゃると、袋の中から貝殻を合わせたような形をした小さな桃色の容器を取り出した。そのまま無造作にロマンの手を引きよせる。びっくりして必死に引き戻そうとしたけれど、意外に強く掴まれていて叶わなかった。
 殿下はそのまま傷ついた指先に容器の中の練り薬をぬりこんでくださった。それがまた、なんとも優しい手つきなのである。呆然としているうちに、殿下は元通り袋の口を閉め、あらためてロマンにそれを握らせてくださった。

『こんな風に寝る前にすりこんで、清潔な布を巻いておくとよいそうだよ。り傷なんかにも効くからね。必ず、傷口を清潔にしてから塗るんだよ。お菓子はほんのちょっとで悪いのだけれど。よかったら食べておくれね』
『殿下、あの、でもっ……』
『さあ、早くしまって』
 殿下はにこにこ笑って、唇の前に指を立てられただけだった。
『本当に内緒だよ。約束だよ? 私が侍従長に叱られてしまうから』
 そう囁くと、逃げるように部屋から出ていかれてしまった。

(ユーリ殿下……)

 そうだ。
 殿下はずっとずっと前からお優しい。殿下にお仕えする者の多くは、そのことをよく分かっている。もちろん、上の兄君さま方と比べて見下す者だって大勢いたけれど。幸いにしてというのか、自分は当然、そうはならなかった。
 あの日から、ロマンは必死で侍従としての知識と技術を身につけようと、見よう見まねで周囲の者の仕事を観察し、懸命に学び始めた。

 いつかきっと、殿下にこのご恩返しをしようと。
 必死で勉強して、できればもっとお傍で仕えられるようになり、いざというとき殿下をお守りできるような存在になりたいと。
 ロマンの目標はその日からずっと、ひたすらにそれであり、まさに今に至るまで、真実そのままなのである。





「……どの。ロマンどの」

 耳元で優しい声がして、肩をそっと揺する者がいる。

「こちらでうたた寝などなさっては、お風邪を召しますぞ」
「あ。えっ……!?」

 ぱっと目が覚めた。
 どうやら、昔の夢を見ていたようだ。
 見上げると、大好きな人が夕日を浴びて、ひどく優しい目をして自分を見ていた。

「……いかがなさいました」

 男は少し心配そうな目になって、ロマンの目尻を指先でそっと拭った。眠りながら、つい涙を流していたらしい。

「あ、ごめんなさい。……大丈夫。嬉しくて、ちょっと懐かしい夢をみていたのです」
「左様ですか」

 黒鳶はロマンの隣に座ると、「哀しみの涙でないなら良かった」と言わぬばかりにロマンの体を抱きしめた。頭を撫で、背中をさすってくれる手が優しい。
 そのまままた、優しいキスを落とされた。ロマンはうっとりと目を閉じる。
 ついばむようだった口づけは、やや深くなってロマンの舌を捉えた。

「ん……んん」

 この男は言葉などよりもずっと、その手と唇で、雄弁に感情を語ってくれる。

(そうだな……。いいよね)

 この男であれば。きっと大丈夫。
 初めてで、怖い気持ちがあるのは本当でも。
 この体をこの人のものにしてもらうことに、躊躇ためらいはいっさいない。
 優しい唇が離れていくと、男はすぐそばからロマンの目を見つめながら囁いた。

「夕餉が届いておりますが。召し上がりますか」
「はい」

 そのまま手を引かれて立ち上がり、ロマンは室内へと足をはこんだ。


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