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第九章 めぐりあひて
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しおりを挟む「……お客様」
男は掠れそうになる声を叱咤して、なるべくいつもの声でそう言った。
「先ほどのお客様に申し上げた通りです。そろそろ閉店させていただきますので」
だが、相手のクマ青年はぴくりとも動かなかった。
前の時と同じように品よくダークスーツを着こなし、カウンターに手を置いてじっとそこを見つめる様子だ。
もちろん、男には分かっている。その熊の形をしたマスクの下にどんな顔が隠れているかをだ。彼でなければ、自分のこの警備システムをすりぬけてそこに座れるわけがない。改めて調べてみれば、なんのことはない、ドアの外にも見慣れた凸凹コンビが仁王立ちになっていた。
(やってくれたな──)
男は思わず、羊顔の下で舌打ちをした。
どうやらこの「かくれんぼ大得意」のクマ君にしてやられたということらしい。
「すみません」
青年がやっと少し動いた。
半身になる程度だったが、こちらに体を向けたのだ。
「こちらに、『小鳥の遊べぬ木々の唄』というカクテルがあると聞きまして」
(こいつ──)
間違いなかった。
マスク越しだとはいえ、ほかならぬこの自分が彼の声を聞き間違えるはずがない。男は一度、目立たぬように深呼吸した。
「……ご依頼ですか。それはありがとうございます。しかし──」
言いかけてふと見れば、青年の手が小刻みに震えている。それを見て、男はつづく言葉を変えた。
「本日は、日が悪うございます。生憎と、主人が席を外してございます。ご依頼内容をお伺いして、後日ご連絡させていただく形でもよろしいでしょうか」
「…………」
クマの青年が俯く。
もちろん、こんなのは詭弁中の詭弁だ。「次」などない。
こんな店、自分はすぐに放棄して、二度とこのあたりには近づかない。宇宙にはこうした惑星などごまんとあるのだ。どこに店を構えるにしても資金はいるが、こうした事態に備えてそれぐらいのものは常にプールしてある。
クマ君もそんなことは百も承知なのだろう。しかし、だからといってうまい返しが見つからないといったところか。
(不器用な奴)
マスクの下で、男は思わず目を細めた。
いつもいつも、こいつはこんな風だった。
はじめのうち、その出自を知ってからは憎くて憎くて、どうにかしてその「おきれい面」を歪めてやろう、汚してやろうと考えてすらいたものを。
いったいいつから、自分はこいつに何もかも持って行かれていたものか。
あんな風に人前で取り乱し、死にかけた彼をかき抱いて怒鳴り散らすほどになっていたのか。
(……は。お互い様か)
それに関しては、自分も人のことは言えない。
まさか自分がこんな風になるとは思わなかった。しかし、こと、このクマ君に関して言えば、自分はこのところそういうみっともない事ばかりをやらかしていたような気がする。
と、店に小さく流れているジャズナンバーがふと曲間に入った。
しばしの沈黙。
「……どう、して……なんだ」
掠れた声がクマのマスクの下から聞こえた。
「はい?」
「あ、いや……。そうではなくて」
彼がこくりと喉を鳴らしたのが聞こえるようだった。
「私が、悪かった。不用意に、あんなことを言ってしまって」
「……なんのことでしょうか」
分かっているのに、つい意地悪な返しをしてしまう。
「いや……。いいんだ、そんなことは。それよりも……」
そこでやっと青年はスツールから下りてこちらを向いた。一歩、こちらへ近づいてくる。
やがてその手がマスクにかかり、ほどなく懐かしい顔が現れた。
「依頼がしたい。わが国のこれからのために、君の力が必要だ」
「…………」
「これは、私個人の希望ではない。新政府にいる君を知る人たちの多くが、君に『是非とも戻ってきてほしい』と言っている。君の高い能力を買ってのことだ。私はその懇願を聞いて、こちらに伺うことになったんだ」
素直な黒髪をしたきれいな皇子。
いまではかの惑星の皇太子になったその人が、自分の前に立っていた。
(……少し、痩せたか)
そればかりではない。皇子は顔色もあまりよくはなく、そのせいなのか目ばかりが大きく見えた。
必死に何かをこらえようとしているのだが、それは成功しておらず、男が夢にまで見ていた澄んだ黒い瞳のまわりはうっすらと赤らんでいる。
それがいやに、男の体を刺激した。
「……何をおっしゃる」
言って、男も自分のマスクに手を掛けた。
現れた素顔を真正面から見て、青年の目が見開かれた。
途端、ずっと堪えていたらしいものがうわっとその目からあふれ出した。
「ベータ……」
青年は顔を歪ませ、もう何も言えずに口元を覆っている。
「どうして」「なんで」と、訊きたいことが山ほどあるのが、別に<感応>もちでもない自分にも嫌というほど伝わって来た。
(……理由は、あるんだがな)
彼に黙って出奔した理由。
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しかしこれは、口が裂けてもこの皇子サマには教えられない。あの鷲顔をした大男にだけは言ってもいいかもしれないが、どの道お互い墓までもっていくしかない話なのだ。
そして出来ることなら、このままあのスメラギに自分が関わらないことが、なによりベストの選択であるはずだった。
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ぽろぽろと彼の両目から大きな雫がこぼれている。
漏れ出しそうな声を必死に手で抑え込み、肩を震わせている皇子を見つめて、男はとうとうため息をついた。
「……いいから、泣くな。皇子サマ」
そうして遂に手をのばし、彼の体を引き寄せた。
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