176 / 191
第八章 愛別離苦
4
しおりを挟むアルファは目を見開いた。その仕草には覚えがあった。
彼が「彼女」を呼ぶ、その仕草には。
(……イヤだ)
とくとくと胸の鼓動が早くなってくる。
その先は、聞きたくない。
ベータは微笑みを消さないままに、夏の青空をふいと見上げた。それはその青嵐の果ての、さらに遠くを見る目だった。
「俺には、俺の場所がある。長いことほったらかしにしていたあっちこっちの店のことも気がかりだ。そろそろ失礼させていただく」
「な──」
「貴様、何を言っている」
遂に、たまりかねたようにしてミミスリが立ち上がった。ザンギとマサトビもそれに続く。
「勝手が過ぎよう。殿下のお許しもなしに──」
「ベ、ベータ殿っ。さ、左様な……」
「聞こえなかったのか? 言ったろう。『俺との契約はここまでだ』とな」
「左様な詭弁が通ると思うか! 貴様、殿下のお気持ちを──」
噛みつくように叫びかかったミミスリの声を、低いベータの声が打ち消した。
「報酬はいずれ、国庫が少し潤ったあたりで回収に来る。だからせいぜい、頑張って金を貯めろよ。踏み倒すのだけは許さんからな」
言い捨てて、もう踵を返している。
「待っ……」
そう言いかけた時だった。
きゅうん、と頭上で静かな振動音がした。
あの音は知っている。
彼の愛機、<ミーナ>が来たのに違いなかった。
「う……?」
思わず彼に駆け寄ろうとしたが、あまりうまく行かなかった。手にも足にも、まるで力が入らない。自分の体とは思えないほどに、本当に言うことを聞かないのだ。アルファは思わずその場に膝をついた。
周囲を見れば、どうやらザンギやミミスリも同様らしい。何となく体が痺れたようになり、それぞれ地面に片手をついている。
「き、貴様っ……! 何をした……!」
ベータが楽しげにくはは、と笑った。
「忘れたか? 機内で皆様に、俺特製のコーヒーを差し上げた。一応、そっちのプロとしてはそんなものをお出しするのは不本意ではあったんだがな。心配するな、すぐに治る。後遺症もないはずだ」
「ベータ……!」
アルファはそれでもどうにか彼の方へと必死に手をのばした。
「いや……だ。ベ──」
いやだ。
こんな。
こんな形で、お前と別れてしまうなんて。
ベータは相変わらず体を向こうに向けたまま、横顔だけをちらりと見せた。
「……元気でな。皇子サマ」
途端、ベータの左腕が変形した。
しゅるっと鋼の縄のように伸びたそれが、ぐんぐん空へ向かっていく。そこにはすでに、見慣れた彼の愛機<ミーナ>がやってきて空中にとどまっていた。
と見る間に、ベータが一散に走り出した。
もう、一顧だにされなかった。
「ベータ……!」
そういう間にも彼の体はあっと言う間に上方へと跳ね上がり、<ミーナ>の機体に吸い込まれていった。
周囲のミミスリやザンギたちも、ただ驚いて悔しげに空を見上げる様子だ。ベータの「特製コーヒー」を頂かなかった唯一の人物、マサトビはと言えば、ただおろおろしてアルファの体を支え、同じく空を見上げるばかりだ。
「なんっ……! あいつッ!」
「なんのつもりだ……!」
ミミスリとザンギの声も虚しい。
アルファ自身、動かぬ自分の体がひどく歯がゆかった。
(いやだ……!)
ダメだ。
そんな……そんなことが。
ミミスリとザンギが痺れた体をおしてこちらへ這い寄るようにしてきた。二人とも何もできない申し訳なさをその瞳に浮かべ、奥歯を噛みしめているようだ。
(ベータ……!)
もう遅かった。
彼の愛機<ミーナ>はとっくに上空へと舞い上がり、宇宙を目指して加速を掛けたところだった。そのまま、真っ青な夏の空の中に吸い込まれてどんどん小さくなっていく。
(そんな……。そんなっ……!)
やがて<ミーナ>は小さな米つぶほどになり、一瞬だけ日の光にその銀翼をきらめかせて、白く湧きあがる悠々とした雲の狭間に隠れてしまった。
「ベータ……ベ──」
わなわなと声が震え、アルファはあとは言葉もなく、機影の消えた空の彼方を見つめ続けていた。
「……なんなのでしょうな、あやつ」
ザンギとは反対側に座ったミミスリが独り言のように言った。
「殿下が臥せっておいでの間はあれほど──」
言いかけてアルファの表情に気づき、ミミスリはふと言葉を途切れさせ、耳をしおたれさせた。
(もしや──)
そこで襲ってきたのは、恐ろしい考えだった。
(まさか……。まさか、私があの時──)
自分が、調子に乗ってあんなことを言ってしまったのがいけなかったのか。
あれが自分の命の終わりだと思えばこそ、言ってしまったあの言葉。
いくらあのどさくさだったからとは言っても、隠し続けてきた気持ちをただ彼に強引に押し付けてしまったから……?
「そうだ……。きっと──」
自分は何だ?
彼と彼の母親を地獄に叩き落した一族の、その一人ではないか。一切預かり知らなかったことだとは言え、間違いなく責任の一端はあるくせに。
どんなきれいごとを並べたところで、それは違えようのない事実なのに。
そんな自分に告白などされて、彼が喜ぶはずなどないではないか。
むしろただ、心底からの嫌悪を覚えたって無理もないのに。
間違いなく、「殺してやりたい」と思われていたはずのこの自分が。
ましてやあの蜥蜴の男に散々に弄ばれて、すっかり汚れ切ってしまったこんな身で。
(わたし、なんかが……!)
「で、殿下……?」
アルファが真っ青になり、かたかたと震えだしたのを見て、ミミスリとザンギがさらに近くに寄って来た。
「ミ……ミ、スリ……」
アルファはミミスリの胸元を思わず握り、そこに顔をうずめた。
「わ……わたしが──」
わななく声はもう、どうしようもなかった。
「私が、いけなかったんだ。私が……わたしが……!」
「殿下……? 一体──」
まごまごしながら背中を軽く抱かれた時には、アルファの喉からはもう子供のような嗚咽が飛び出していた。
「め……いわく、だったんだ……! わ、わたしが……わたしが、あんなことを言ったからああっ……!」
ミミスリは胸元で幼子のように泣きじゃくっているアルファの背中におずおずと手を回した。そのまま困り果てたような顔で耳をたれ、ぽすぽすとアルファの背中を叩いている。側に座り込んだマサトビはと言えば、しゅんと項垂れてひたすらに涙をぬぐうばかりだ。
「何を仰います」ザンギが押し殺したような太い声で言った。「左様なこと、あるはずがございませぬ」
「殿下はご存知でいらっしゃいませぬ。殿下がお目を覚まされなかった間、あの男がどんな様子であったのか」
耳元でミミスリも言う。
「奴は決して、殿下のお言葉を迷惑などと思ったはずがありませぬ」
「と言うか、そんなことを抜かすならこの自分が許しませぬ」
「それは我ら二人が保証いたしまするぞ」
しかし、二人からなんと言われてもダメだった。
アルファはミミスリの軍服に取りすがり、ただもう周囲の目も憚らず、ひたすらわあわあ泣き続けた。
0
お気に入りに追加
56
あなたにおすすめの小説
よくある婚約破棄なので
おのまとぺ
恋愛
ディアモンテ公爵家の令嬢ララが婚約を破棄された。
その噂は風に乗ってすぐにルーベ王国中に広がった。なんといっても相手は美男子と名高いフィルガルド王子。若い二人の結婚の日を国民は今か今かと夢見ていたのだ。
言葉数の少ない公爵令嬢が友人からの慰めに対して放った一言は、社交界に小さな波紋を呼ぶ。「災難だったわね」と声を掛けたアネット嬢にララが返した言葉は短かった。
「よくある婚約破棄なので」
・すれ違う二人をめぐる短い話
・前編は各自の証言になります
・後編は◆→ララ、◇→フィルガルド
・全25話完結
所詮は他人事と言われたので他人になります!婚約者も親友も見捨てることにした私は好きに生きます!
ユウ
恋愛
辺境伯爵令嬢のリーゼロッテは幼馴染と婚約者に悩まされてきた。
幼馴染で親友であるアグネスは侯爵令嬢であり王太子殿下の婚約者ということもあり幼少期から王命によりサポートを頼まれていた。
婚約者である伯爵家の令息は従妹であるアグネスを大事にするあまり、婚約者であるサリオンも優先するのはアグネスだった。
王太子妃になるアグネスを優先することを了承ていたし、大事な友人と婚約者を愛していたし、尊敬もしていた。
しかしその関係に亀裂が生じたのは一人の女子生徒によるものだった。
貴族でもない平民の少女が特待生としてに入り王太子殿下と懇意だったことでアグネスはきつく当たり、婚約者も同調したのだが、相手は平民の少女。
遠回しに二人を注意するも‥
「所詮あなたは他人だもの!」
「部外者がしゃしゃりでるな!」
十年以上も尽くしてきた二人の心のない言葉に愛想を尽かしたのだ。
「所詮私は他人でしかないので本当の赤の他人になりましょう」
関係を断ったリーゼロッテは国を出て隣国で生きていくことを決めたのだが…
一方リーゼロッテが学園から姿を消したことで二人は王家からも責められ、孤立してしまうのだった。
なんとか学園に連れ戻そうと試みるのだが…
婚約破棄令嬢ですが、公爵様が溺愛してくださいます!
安奈
恋愛
ファリーナ・オルスト伯爵令嬢は、同じく伯爵令息のザイル・マクレガーに婚約破棄をされてしまう。
「お前は前髪をいつも垂らしている為、不気味だ。私の妻にはふさわしくない」
気弱なファリーナは目を髪で隠す癖があり、それを指摘されての婚約破棄となってしまった。
それにしても一方的過ぎる婚約破棄にファリーナは強い悲しみを覚えた。
「気にすることはないぞ、オルスト嬢よ。外見でしか判断しないのは貴族として失格だ。君の誠実さはいつも見てきた、よろしければ私と付き合ってくれないか?」
なんと求婚してきたのは若き公爵、ハンニバル・ライジングではないか。そして、彼女はハンニバルの気持ちに応えるべく前髪を上げる決意を示す。そこには……信じられない美少女が立っていた。
矢倉さんは守りが固い
香澄 翔
青春
美人な矢倉さんは守りが固い。
いつもしっかり守り切ります。
僕はこの鉄壁の守りを崩して、いつか矢倉さんを攻略できるのでしょうか?
将棋部に所属する二人の、ふんわり将棋系日常らぶこめです。
将棋要素は少なめなので、将棋を知らなくても楽しめます。
【R-18】踊り狂えその身朽ちるまで
あっきコタロウ
恋愛
投稿小説&漫画「そしてふたりでワルツを(http://www.alphapolis.co.jp/content/cover/630048599/)」のR-18外伝集。
連作のつもりだけどエロだから好きな所だけおつまみしてってください。
ニッチなものが含まれるのでまえがきにてシチュ明記。苦手な回は避けてどうぞ。
IF(7話)は本編からの派生。
【R18】両想いでいつもいちゃいちゃしてる幼馴染の勇者と魔王が性魔法の自習をする話
みやび
恋愛
タイトル通りのエロ小説です。
「両想いでいつもいちゃいちゃしてる幼馴染の勇者と魔王が初めてのエッチをする話」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/902071521/575414884/episode/3378453
の続きです。
ほかのエロ小説は「タイトル通りのエロ小説シリーズ」まで
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる