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第七章 兄二人
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しおりを挟むゆらゆらと、なにもない空間を飛んでいた。
鳥が空を舞うような爽やかなものでは全然なしに、彼は両手も両足もだらりと下げて、波にのまれて命を失くした人のように漂っていた。
周囲はぼんやりと薄明るい。ちょうど、日の出前に白み始めるころの空の色のようだと思った。
(ここは……どこ)
やっとのことで絞り出したその想念もひどく輪郭がぼんやりとして曖昧だ。まるでそれが、自分のものではないのではないかと思えるほどによそよそしく遠いものに感じられて、彼はうそ寒いような不安を覚えた。
手も足も、自分のものではないかのように感覚がおぼろげだ。それどころか、この自分の意識さえもがまるで他人のもののようにあやふやだった。
(だれ……だった?)
ふと気づけば、自分の名前さえ思い出せない。
周囲は上も下もない、ただ茫漠と広いばかりの果ても見えない灰色の空間だ。ただ、灰色といってもじんわりとした濃淡はある。ただそれを見ても、どちらが上なのか下なのかも判然としない。子供があてずっぽうに墨滴を落としてしわくちゃにした紙のようにしか思われなかった。
「なぜ」
「どうして」
「どこへ」
「だれ」……
様々な疑問詞が、順序もめちゃくちゃのままに浮かんでは消えるを繰り返す。
そうこうするうち、どうやら彼はゆらゆらととある「場所」へと辿りついたらしかった。なぜそう思ったかと言うと、彼の体が勝手に下降をはじめ──とは言っても、やっぱりどちらが「下」なのかは判然としたわけではなかったが──地面らしきところで唐突に止まったからだ。
彼はしばらく、そこで呆然と座り込んでいた。
自分がなぜこんなところに居て、たった一人なのかとか、これから何をすればいいのかとか、つぎつぎに湧き上がってくる疑問はあるのだったがひとつも分かりはしなかった。
ただ、なんとなく胸の中が空洞になったような感覚があるばかりだ。
「それ」を思うと不思議なことに、胸の奥のほうがきりきりと痛む気がした。飽くまでも「気がした」だけだ。なぜならその痛みの意味も理由も、今の彼には分からなかったから。
いや、実は「彼」とは言うけれど、本当は自分が男か女かもよく分からなかった。と言うよりも、人間であるのかどうかすら怪しかった。こうしていろいろなことを考えているとは言っても、実際のそれは言葉を使ったものではなく、ただ頭の中に浮かんでは消えていく水の泡のような思念に過ぎなかった。
どのくらいそうしていただろう。
ぼんやりと周囲の景色を見つめていたら、目の前がぽっと明るくなった。
「これは何かしら」と思っていたら、光の玉のようなものがどんどん大きくなり、それと共に周囲の温度がふわりと上がったようだった。
温かい。
いつかどこか、遠い遠いどこかで、彼はこんな温かさを体じゅうで感じていたことを思い出した。
……あれは、誰の腕の中だったか。
そう思ったときだった。
目の前の光がすう、と縦に細長くなり、あっというまに人の形をとった。
『タカアキラ……』
現れ出たのは、光り輝くような女人だった。
長くながれる翠の黒髪。
あでやかな色彩で重ねられた十二単の裾が、するすると衣擦れの音をたてる。
『……まだ、こんなところへ来てはいけないわ』
この世のものとも思えぬような、優しくかなしい声だった。
彼はその声を、その人を、とてもよく知っていた。
しなやかな手がそっと伸びてきて、「タカアキラ」と呼ばれた自分の頬に触れるのを彼は感じた。
『お戻りなさい。ここへ来るのは、もっともっと後でもいいのよ』
「……かあ、さま?」
何の気なしに出してみた声は、驚くほどに幼かった。
なんとなく違和感を覚えて彼は黙り込んだ。
女性は優しい微笑みを浮かべてゆっくりと頷いた。
『許してくださいね、タカアキラ』
女性はただただ悲しげに微笑みながらそう言った。
『兄上たちを、どうか許して欲しいのです。あの方たちとて、生まれた時からあのような方々だったわけではないのです。末の子だったあなたとは違い、あの方たちは本当にごくごく幼い頃からわたくしから引き離され、厳しく育てられてきたのです。本当に、乳飲み子だったうちから早々に……この母の手から、あっというまに取り上げられてしまったの──』
そう言われても、今の彼には誰のことかさえよくは分からなかった。それでも少年の姿をした彼は、こくりとその女性にうなずいて見せた。なんだかそうしなければ、この人がますます悲しい顔になることが分かっている気がしたからだった。
『とくにツグアキラはそうだったと思います。<恩寵>に恵まれなかったばかりでなく、皇太子たる兄上ほどの聡明さも、あなたほどの優しさや美しさもないと思っておられたためか……ひどく、ひどくお心を歪めてしまわれたようで。それであなたをこのような目に……』
そっと目元を袖で隠すようにされた女性に、彼は慌てて近寄った。
「かあさま……かあさま。泣かないで」
『ともかく、早くお戻りなさいませ。ほら……お父上が、あなたをお呼びでいらっしゃいます』
「ちち、うえ……?」
それはどういうことだろう。
と、そう思ったときだった。
不意に女性の顔が変わった。
『……殿下。殿下。お母上様のおっしゃる通りです』
「え?」
その瞬間、自分の背がすうっと伸びたことに彼は驚いた。まったく唐突に声も変わって、だいぶ低いものになっている。
目の前にいる輝くような容姿の少女は、母でこそなくなっていたけれど、それでもやはり美しかった。
『早くお戻りなさいませ。間に合わなくなってしまいます』
「え……」
『皆様がお待ちです。どうかどうか、そちらで殿下のお幸せを掴んでくださいませ……』
「ヒ……ナ、ゲシ……?」
思わず口から飛び出したその人の名前に、また彼は驚いた。
どうして自分はこの人の名前を知っているのだろう。
そうやって訝しんでいるうちに、またしても目の前の人はあざやかに姿を変えた。
(えっ……?)
だが、今度は知らない女だった。
やはり女神と見紛うような美しい人だったけれども、彼はこの人とは会ったことがないということを何故か知っているのだった。
しかし。
(似て……いる?)
だれに似ているというのだろう。
しかし、その目元や口元が、ひどく懐かしいだれかをどうしても思い出させずにはおかなかった。
女性はぼんやりしている彼をじっと見ると、優しいけれども悲しげな微笑みをそっと浮かべて頷いた。
『……そうですか。あなた様がタカアキラ殿下……』
「え? あ……は、はい……」
彼はしかたなく、まだ不安に思いながらも頷いた。
『ありがとうございます、殿下』
「え……」
いきなりお礼を言われてしまって、ひどく戸惑う。目をぱちくりさせている彼の手を、女性は白魚にも譬えられるような細い手でそっとにぎってきた。
『あの子を愛してくださって、ありがとうございます。心から感謝を申し上げます』
「…………」
『あの子はまことに、孤独な子です。あの容姿でありますために、幼い頃から皆に疎んじられ、わたくしが儚くなってからは本当に、ただただ一人で……。誰からも愛されず、心を閉ざし、ゆえに誰を愛することもなく──』
「…………」
『それが、殿下のような方に……。こんな嬉しいことがありましょうか』
何を言われているのか分からなかった。
女性は静かに袖で涙をぬぐうようにすると、顔を上げて彼を見た。
『母君様、ヒナゲシ様のおっしゃる通りでございます。殿下はもう、ここにおられてはいけませんわ。陛下も必死にお呼びです。あの子も待っておりますわ』
「えっ……? それは」
『少し素直でないところはありますけれど。それでもほかのどなたより、誰よりあの子があなた様のお戻りを待っております。……さ、お早くお戻りあそばせ』
「あ、あの……あなたは」
懸命にそう訊ねたが、女性はそっと微笑むだけで答える様子はなかった。
すると急に、女性の姿が光り輝き始め、その顔がはっきりとは分からなくなってしまった。光は人の姿から、またもとの光球へと戻っていく。
『さ。わたくしたちが手をお貸ししましょうほどに』
三人の女性の声が入り混じり、ころころと鈴をふるように心地よく耳に届いた。
「ま、待って……! お名を、お名をお聞かせくださいませ……!」
もちろんそれは、最後の女人に向かって放った言葉だった。
が、それでも女性たちは、美しい声をほころばせてこう言っただけだった。
『あなた様は、もうご存知でいらっしゃいます』
『お戻りになればわかります』
『ごきげんよう、タカアキラ殿下──』
『どうかお健やかに。お幸せに──』
『あの子をどうぞ、よろしくお願い申し上げます』
『母はいつでも、あなたを見守っておりますよ……』
(母上。義姉上……!)
意識にそう閃いたときには、もう彼の体は浮き上がり、ぐいと背後に向かって強く引き戻されていた。
光が遠のいていく。
もう二度と会えないだろう人たちが、どんどん遠ざかっていく。
彼は知らず、あふれるものを押しとどめられずにいた。
「……かならず。かならず……!」
必死にそう叫んだ瞬間、
タカアキラははっと目を見開いた。
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