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第一章 スメラギの少女
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しおりを挟む「ザンギ、お前も……。よくぞ、よくぞ無事で──」
相手の男が重々しくうなずいた。
「ああ。まあ、どうにかな」
鷲の瞳は非常に厳しいものに見えたが、不思議とそこに父に対する怒りや憎しみがあるようには見えなかった。それでも父は義理がたいほどにその男に向かっても頭を下げた。
「お前にも、謝らねば。あの時は本当に──」
「やめろ。今は斯様な『謝罪祭り』をやっている場合ではない。……殿下、そろそろ参りましょう。あまり時間がかかっては、殿下のご負担が大きくなりすぎまする」
「ああ……うん。そうだね」
殿下と呼ばれた青年はにっこり笑うと、今度は反対隣に座る黒髪の男にうなずいて見せた。男は彼にうなずき返すと、水干の懐からなにか黒いものを取り出しながらザンギに目配せをして立ち上がった。
それは顔に掛ける眼鏡のようなものだったが、全体に真っ黒で、掛けると男の目はこちらから見えなくなってしまった。その姿はちょっと不気味な感じである。
「ということで、始めるぞ。ミミスリ以外、少し壁際まで離れていてくれ」
彼だけは何となく殿下に対してぞんざいな態度や口調であるのが気になったけれども、スズナは彼に命じられるまま母とともに素直に部屋の隅に退避した。
そこから起こったことは本当に、後で考えてもなんだか本当のこととは思えなかった。
男はしばらく、その黒眼鏡をつけたままで父の全身をじろじろと眺めていた。が、やがてごく無造作に父の首筋に左腕を伸ばした。その指の先が人のものとは思えないほど細くて鋭いものになったのを見て、スズナは一瞬ぞくりとした。
(あ、……あぶない……?)
スズナは思わず目をつぶってしまったのだったが、別に何も困ったことにはならなかった。ぱつんと乾いた音がして、目を開けてみると男が手のひらの上でなにかごく小さなものを転がしているのが見えた。
父が驚いた眼でそれを見つめている。父の横からザンギと呼ばれた鷲顔の男が薄い布のようなものをぺたりと父の首にはりつけた。
「やっぱり、仕込まれたままだったな。どうする」
黒眼鏡の男がその小さな物体を、ぽろっと殿下の手のひらに落としながら訊いている。殿下はわずかに顔をしかめた。
「まあ、しばらくは壊さないでおくのがいいだろう。あとで川にでも流しておけば、陽動になっていいんじゃないか」
男が殿下を見てにやりと笑った。
「ふむ。悪くない答えだ」
(な、なんなの……?)
スズナや母がわけもわからないでいるうちに、今度は突然、鷲の顔をした大きな男の片腕がぐにゃりと変形した。
(えっ……?)
驚く間もなく、次にはぱっとその手が開いて大きな網目状の袋のような形になった。わが目を疑う暇もなかった。
鷲の男はそのまま、その腕ともいえない物体で身動きのとれない父の体を包み込み、抱え上げるようにした。なんだかちょうど、子持ちの女が体の前で赤子を抱く抱っこ布のような感じに見えた。
多少、変形した腕に不具合かなにかを見つけて黒眼鏡の方が鷲の男に手みじかに助言らしいものをしている。
タカアキラ殿下はその間に「何か大切なものがあるなら今のうちにまとめておいてください」と母に指示をしていた。スズナの耳に「恐らくもう、ここに戻ることはないと思いますから」と言うのが聞こえた。
その後こちらを向き、赤子のように抱え上げられた父を見て、皇子殿下はやや申し訳なさそうな顔になった。
「少し恥ずかしい思いをさせてしまうが、すまない。どうかしばらくの間だけ我慢してくれ、ミミスリ」
「いえ、殿下。どうかお気遣いなく」
「君についていた例の発信機は取り除いた。もう安心してここを離れられるからね」
「お、……恐れ入ります」
父もここまでの顛末に少なからず驚いたようだったが、それでも大人しくザンギと呼ばれる大男の腕のなかに包まれるままになっている。
母が当面の着替えやなにかを手早くまとめ、布に包んだのを確認すると、殿下はあらためて皆を見渡してこう言った。
「それでは、急ごう。すぐ近くにベータの小型艇を隠してある。すでにそこでザンギの家族も待っている。そこまでは、なるべくみんな静かに頼む。どうか、私からなるべく離れないようにしてついて来てくれ」
どうやらその「ベータ」というのが、先ほどから殿下の隣にいる多少ふてぶてしい感じの男の名であるらしかった。
みんなは黙ってうなずくと、殿下を囲むようにして一団になり、足音を忍ばせてその小屋から外へ出た。
月明かりの下、母と手をつないで小走りになりながら、スズナの胸はなにかワクワクするような、熱い熱いものでいっぱいになっていた。
(……終わるんだわ)
これで終わる。
これで、今までのつらくて苦しかったことが終わるんだ。
だってスズナが信じていた通り、皇子さまが助けにきてくださったから。
スズナは希望に胸を膨らませながら、隣を走っていく皇子さまの美しく気高い横顔をそっと見上げた。そうして次には、自分と手をつないで走る母を見上げた。
母の顔は、これまで見たこともないほど嬉しそうに明るく輝いて見えた。
そうして、とてもとてもきれいだった。
スズナはそんな母の顔を見あげて、
たぶん生まれてはじめて、
心の底からにっこりと微笑んだ。
足元を照らす大きな夜空の月だけが、なんの感慨もないような顔をしてみんなをひっそりと見下ろしていた。
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