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第三章 ゆれる想い
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しおりを挟む「愛してる……タカアキラ」
とろとろと幸せに包まれて眠りかけていたアルファの意識は、耳朶にそっと囁かれた、そのひと言で打ち砕かれた。
(……!)
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
が、脳の奥から何かが迸りでて、まるで強大な軍勢が長閑な田園を踏み荒らすように、脳細胞を破壊せんとするかのようだった。
「う、あ……がああああッ!」
突然頭を抱えてその場でのたうち回り始めたアルファを見て、さすがのベータも一瞬、呆然としたようだった。
「どうした、アルファ!」
言って肩を掴まれるが、その手をはねのけてなおもベッドの上で転がりまわる。
恐ろしい頭痛と吐き気。目の前が真っ暗になり、次には白へ赤へと点滅する。
自分にいったい何が起こっているのか分からなかった。
「落ち着け!」
なおも手を出してこようとするベータを振り切り、ベッドからとび出たまでは良かったが、足がもつれて壁に激突し、そのまま部屋の隅にうずくまる。
「あ……、ああっ!」
怒涛のような記憶の津波が頭の中をかき回す。今にも頭蓋が割れるかと思われるような激痛。
「私は……わたしは!」
誰が叫んでいるのだろう。
ああ、自分だと思う頃には、違う言葉が叫ばれている。
「駄目だ……駄目だ! そんな──」
酸素が薄い。
この部屋、こんなに空気が薄かっただろうか。
いや、自分があまりの過呼吸に襲われているだけだ。早鐘のような心臓の拍動音がそのまま、直接に脳細胞を刺激する。
「アルファ……!」
もはや何度も床に額を打ち付けるようにしてうずくまっているアルファの傍らに、ベータがやってきて背中に触れてくれている。
そうしているうち、やっと呼吸が楽になってきた。それと同時に、視界が少しずつ明瞭になり、次第に周囲の景色が目に入りはじめる。
目の前の床。
壁。
その先のベッドの足。
フロアライトとテーブル。
そして――
(ここは……? 私は)
そこでようやく、隣から心配げにこちらを見下ろしてくる精悍な男の瞳と目が合って、アルファはのろのろと顔を上げた。
この男のことは知っている。
正確なことを言えば「よく」とは到底言えないが、それなりによく知っている──。
ベータ。
それは単なるコードネームに過ぎないが、よく使用している「ブラッド」という名も、決して本名などではないはずだ。
当然だ。彼が、ほかならぬこの自分に、彼の過去を明かすはずなどないのだから。
まだひゅうひゅう言う自分の喉を叱咤して、アルファは男の顔をじっと見返し、喘ぎながらもただ訊いた。
「ブラッド。……今は、何年だ」
「なに……?」
困惑した瞳に見つめ返されるが、構わず再度、同じ事を訊く。その声は自分でも驚くぐらい、ひどく冷たい響きだった。
ベータは厳しい顔になり、眉間に皺を刻むと、静かに現在の宇宙暦を答えてきた。その蒼き瞳には、すでに多くのことを察した色が浮かんでいる。
アルファは彼の応えに対して、すぐに反応することができなかった。しかしそれを反芻し、自分の記憶を詳細にたどってみて、慄然とした。
(三年……。三年、だと……?)
わなわなと体が震えだす。
三年。
あれから経ったというその時間のあいだに、いったいあの子らは。
(そうだ、あの子らは……!)
がばっと立ち上がると、すぐにぐらりとよろめいた。腰が重い。足の付け根にじんじんと、あらぬ行為の名残りを覚える。
見下ろせば我が胸元といわず内腿といわず、腰にも脇腹にも腕の内側にすら、明らかな男の「所有の証」が散っている。それに気づいて、かっと体が熱くなった。それはかの男が自分を愛した証でもある。
ふと見れば、隣には微妙な瞳の色になった当の男の顔がある。その腕が、いつの間にかよろけかけた自分の体を支えてくれていた。
(抱かれたのか。……この男に、こんな形で)
なんという皮肉だろう。
自分がこの先、決してこの男から言われるはずがないと諦めていたあの台詞。あれを「解除キー」にしていたことが、こんな裏目に出てしまうなど。
だが今は、そのことに拘泥している暇はなかった。
「ブラッド。済まない。悪いんだが、何か着るものを貸してくれ」
「…………」
気のせいか、男の瞳が一瞬だけ、悲痛なものをちらりと過らせた。が、すぐに「わかった」と立ち上がり、クローゼットへと歩いていく。
広い背中。引き締まった腰。左腕には、竜のごとき赤い刻印。
蜂蜜のような髪色も、蒼く燃える若い恒星のような目の色も、この男が生まれながら持っていたものではない。
(あれほど、恨んでいたくせに。この私を、貴様はあれほど──)
それなのに、抱いたのか。
まして、あんな台詞を囁いたのか。
あんなにも優しい声で、この耳朶に。
ぎりぎりと奥歯を軋らせる。そんな筈がない。そんなはずがないではないか。この男が、この自分を、あのスメラギ皇国のタカアキラを、心から愛するはずがないのだから。
心から憎いと思いこそすれ、愛してくれるわけがない。むしろ心の底から殺したいと、しかも死にたいほどの苦痛を与えた挙げ句にそうしたいと思われても不思議ではないというのに。
ほとんど申しわけ程度の礼を言い、男が持ってきたバーテンダーの服をひったくるようにして受け取ると、アルファは素早くそれらを身につけ、あっさりと扉に向かった。もちろん、例のマスクとマントのことも忘れない。
「どこへ行く」
押し殺したような声が背後からかかり、アルファは一瞬だけ足を止めた。わずかに半身になり、細めた目の端で彼の姿をとらえる。
「戻らねばならん。……スメラギへ」
そうだ。戻らねばならない。
あのおぞましき故国。
美しくも恐ろしい、あの故郷へ。
「そうか」
男の応えは端的だった。
そうして自分も同じ衣装を身につけながら、当然のようにこう言った。
「……なら、途中まででも送らせていただこう。そのぐらいは構うまい? タカアキラ殿下」
それはいつも、店にやってくる客に対するのと変わらない、ごく慇懃な声だった。
さきほどまでの甘く蕩けるような時間など、まるで無かったかのようだ。つい先ほどまで優しく自分の髪を撫でてくれていた手も、肌に触れてくれた唇も、何も変わってはいないのに。
それでも二人の距離はこのわずかな時間のあいだに、もはや絶望的なまでに開ききってしまっていた。
(いや。これが本来の私たちだった。……それだけだ)
もともとの「アルファとベータ」が保っていた距離。その時点へと、ただ時計が巻き戻っただけ。
自分にそう言い聞かせていながらも、アルファの胸はその奥のほうでちりちりと、ひそかに焦げるような臭いをさせた。が、もちろん態度には微塵も見せない。
そしてただひと言、こう言った。
「……そうか。ご配慮、感謝する」
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