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第二章 辺境の惑星(ほし)
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しおりを挟む遠くで、意地の悪い声がする。
『愚かな奴だ。なんの夢を見ているのだ』
ねっとりとしているのに、ぎすぎすと軋んで不愉快なこの声を、<玩具>はよく知っている。それは、あの主人のものだ。
『お前に助けなど、来るわけがない。都合の良い夢を見おって』
『良いから、目覚めてもう一度足を開け』
『さあ、ご奉仕の時間だぞ』
『お前の存在意義など、それしかないのだ』
『それとも何か。もう一度はじめから、その身に分からせてやらねばならんか』
(ああ、……そうか)
やはり、あれは夢だったのかと<玩具>は思う。
不思議な鷹の顔をした男がやってきて、あっという間にあの主人を殺め、商船のすべてを沈黙させて自分を救出してくれるなど。
まるで、物語のヒーローもかくやと言うあざやかさで。
(そうか。……すべて、夢だったか)
触れればざらざらと不快な音のする、鱗のへばりついた主の肌が体を這い回る。
ちろちろと動き回る長い舌で、またあらぬところを舐めまわされる。
指やそれ専用の怪しからぬ玩具で、体の奥を暴かれる。
そうして、声が枯れるまで鳴かされる。
終わるはずがない。
この悪夢が、終わるはずなどなかったのだ……。
すべてを諦めかけたそのとき、鼻腔をくすぐるものを覚えて、<玩具>ははっと我に返った。
それはこのところ、自分が眠りから覚める時間に決まって漂ってくる芳醇な香りだ。
(これ、は……?)
そこでようやく、アルファは本当に目を開けた。
◆◆◆
贅沢ではないけれど、白く清潔なシーツと温かな毛布。それに、ふかふかの大きな枕に包まれるようにして、アルファはベッドの上にいた。
小ぶりだがよく整えられ、清掃の行き届いた落ち着く部屋。ここはこの家にやってきて以来、自分に与えられた場所だった。
窓の外が暗いのは、別に今が夜だからでないことを、すでにアルファは知っている。
(ああ……夢だった)
よかったと、胸に安堵の思いが広がる。黒い染みのように広がっていた絶望という名の汚泥が、夜闇が朝の光に駆逐されるようにして消えてゆく。
豊かなコーヒーの香りがしている。
遠くで食器を準備する控えめな音がして、やがてドアをノックされ、「そろそろ起きろよ」と低い男の声が掛かる。
そんなのんびりとした朝を迎えられる日々は、自分の記憶にある限り、これが初めてのことだった。
それ以前のことについては残念ながら、まだ相変わらず思い出せない。
が、「参ったな」とは言いつつも、男もこちらを急かすようなそぶりは見せない。彼としても、そうそうすぐに記憶が戻るとまでは思っていなかったらしいのだが、それでもあのナノマシンさえ取り除けば、それなりの進展があるのではないかと期待していたのは確かだった。
ベータ――今ではようやく、アルファもかの男のことをこう呼ぶことに慣れてきた――はその予告どおり、あれから何度も異空間航行を繰り返し、銀河の片隅の恒星系の、小さな惑星へと辿りついた。
あの大きな戦乱は一応の終息をみて、今は上層部での事後処理だの戦後保障だのの話し合いがおこなわれている時期である。数百年にわたってつづいた戦乱であるだけに、その事後処理だけでもゆうに十数年を要するかもしれぬというのが、庶民の間でのもっぱらの噂であるらしい。
曲がりなりにも終戦ということにはあいなったわけなのだが、だからといってこの銀河から戦争が絶えたということではない。各星域で、それぞれに頻発する人間たちの紛争が絶えたことなど、三千年を超えるこの宇宙暦の間にも存在したことは一度もないのだ。
とはいえ、トヴァースという名のこの惑星を含む宙域は、そうした戦乱を免れているようだった。しかしその分、この惑星には資源も乏しく、全体的な環境もそこに暮らす人々も、貧しく寂れた雰囲気をまとっている。
荒れ放題の地表には赤錆色の砂と山脈がつらなって、普段の日でもごうごうと砂嵐が吹き荒れている。
人々は地下にわずかに存在する水をよすがに、深いクレバスのようになった地溝のなかに、あたかも苔が岩に張り付くようにして街を築き、洞窟の穴を広げて発展させ、身を寄せ合って生きているのだ。
とはいえ、実のところこれらの話はすべて、この数週間でベータから聞いたことばかりだった。なぜならアルファ自身は当のベータから「決して家から外へ出るな」ときつく言い渡されており、日々、彼が手ずから作る料理を頂いては傷の手当てをしてもらい、療養しているばかりだったからだ。
あれ以来、ベータの態度が特に冷たくなったということはなかった。アルファに対して普通の態度と声音を崩さず、努めてそれまで通りに接してくれているのが分かる。
だが、もちろん温かくなったというわけでもなかった。むしろ逆に、彼はあのシャワールームでの一件のあと、決してある一定の距離からこちらへ入ってこようとしなくなった。
当然ながら、夜、こちらの寝床に忍び入ってくるなどといったことも一切されない。体の関係を強要されるなどということもない。つまりアルファにとってここ最近は、妙な悪夢を見ること以外、至って心安らかに眠れる日々だったということだ。
しかし、本来であればありがたく思うはずのそれがなぜか、アルファの胸の奥のほうを氷の刃で突き刺すように思われるのだった。
もちろん、彼に忍んで来て欲しいというのではない。抱いて欲しいというのでもない。そういう、即物的なことでは決してない。
そう、思う。
いや……思いたい。
(だが……)
もやもやと、この胸の中の刺草が蠢くことがやまないのだ。
どうしてなのかは、分からない。
「ほら、早く来い。冷めるぞ」
顔を洗って寝巻きから部屋着に着替え、遠慮がちにドアを開けたとたん、そんな声に迎え入れられた。
今朝の朝食は、バターを塗られたトーストに、スクランブル・エッグとかりかりに焼いたベーコン、野菜サラダというものだ。
ベータの作る朝食はさまざまで、ときには箸を使うメニューであることもある。ベータは自分の意思で自在に変形させられるらしい左手でも、またごく普通の右手でも、器用にその箸を使いこなした。聞けば彼は、基本的に両利きであるのだそうだ。
そしてこれは自分でも驚いたことだったが、アルファも目の前に出された箸を、まったくの無意識に自在に使うことができたのだった。びっくりして目を丸くしていたら、ベータに「それは当然だと思うがな」とあきれたように言われたのだったが、それがなぜであるのかを、この男は語らなかった。
ちなみにこれら食材について、ベータは決して出所を明かしてくれなかった。この貧しい辺境の惑星にあっては、こうしたものを日々そろえることも並大抵のことではないはずである。だというのに、彼はごく平然と、毎日こうした食事を調えてはアルファの前に出してくれる。料理は嫌いではないのだそうだ。
この星では十分に「豪勢」と言えるその朝食を前に、アルファはそっと、テーブルの向かいでコーヒーカップを傾けている精悍な男のほうを伺い見た。
彼は至って、涼しい顔だ。先日のあの一件など、まるでなかったことのように。
「あの、……ベータ」
「なんだ」
男は毎朝、各宙域のニュースを配信しているサイトのチェックを怠らない。テーブルに備え付けの小さな端末を操作して、手のひら二つ分ほどのサイズの画面を空中に映し出し、それから目を離さないままに返事をする。記事に集中しているのだろう。完全になま返事だ。
しかしアルファは、むしろそこにこそ望みをかけていた。
今なら彼も、こちらの言うことを半分ほどしか理解せずに、軽く「うん」と言ってくれるかも知れない。
つまり、だいぶ体もよくなってきたし、少し散歩に出るぐらいは構わないだろうという、アルファのささやかな望みに対して。
彼の話として聞いているばかりではなく、せっかくならアルファだって、自分の足でこの街を歩き、周囲の景色を実際に目にしてみたいと思ったのだ。
だが。
そうは問屋が卸さなかった。
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