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第十六章 恐慌
14 信仰対象
しおりを挟む「えっ。シディ? どうしてこんな所へ──」
皇宮内に仮に置かれた執務室で側近たちと忙しそうに話をされていたインテス様が、こちらを見たとたんに呆気にとられた顔になられた。
「ティガリエ。あれほどシディを外へ出すなと──」
「ティガを叱らないでください、インテス様。これはオレのワガママなんです。オレが無理を言いました」
ぺこりと頭を下げて言ったら、インテス様はぴたりと口を閉じた。頭を下げている間に、目だけで側近たちに指図をされたらしく、かれらが静かに部屋を辞していくのが音だけでわかる。
ティガリエはと言うと、ことの最初からほぼ平身低頭の状態でインテス様に頭を垂れたままだった。幸い、インテス様はティガリエにまでは出て行けとはおっしゃらなかった。
執務室の中は、机の上は言うに及ばず、座る場所にまで所せましと書類が乱雑に積み上げられた状態だった。いかに事後処理が煩雑を極めているかがこれを見ただけでも察せられる。
インテス様は自ら来客用の場所をあけてシディを座らせ、自分もそばに座ってくださった。
(ああ。ものすごく疲れてらっしゃるみたい……)
その横顔をちらっと見ただけでもシディの胸は痛んだ。いつもは輝くように美しいお顔に精彩や艶がない。顔色は悪いし、目の下の黒い隈が濃い。痛々しくてとても見ていられないほどだ。
インテスさまは目にかかった金色の髪を無造作にかき上げた。少しやつれておられるというのに、というか「だからこそ」というべきなのか、この方はこんな時でも凄まじいまでの男の色気をまとっておられる。シディにとっては目の毒だ。……決して口に出しては言えないけれど。
「先に申しておくが。そなたを遠ざけていたわけではないからな。私はまず、そなたの体のことを──」
「わかっています、それは。ご心配くださったんですよね?」
「いや、わかっていない。問題はそなたの体調のことだけではないからだ」
「え?」
「寝室に足止めさせられていただけでわからないかも知れないが。今、外は大変なことになっている」
「あ、はい……」
あの日、暴風がおさまった瞬間に、帝都にいた多くの人々はあの刮目すべき光景を目にした。上空に現れた白と黒の尊き神の腕。そしてそれに守られ勝利した、巨大な輝く《黒狼王》の姿をだ。
「そなたはすでに、民の信仰の対象に祀り上げられかけている。つまりサクライエのあとがまみたいなものに」
「ええっ。そんな」
それは正直、迷惑だ。
「民は不安の極致にいる。だから、心のよりどころが欲しいのだ。それは当然のことだろう。……だが、単純に喜んでいられる状況ではない。むしろこれは、非常に危うい状態だとも言えるからだ」
「ど、どうしてですか」
「もう聞いているだろうが、神殿の権威と求心力は、此度のことで失墜した。民らはあの神殿とサクライエたちこそが邪教の権化よと言い始めてもいる。神殿に石や汚物を投げ込む不届き者も少なからず出ている」
「ええっ」
「そしてその反動のように、そなたを真の神への導き手として祀り上げてしまっている。ここ数日というもの、この城の外にも大勢の民が詰めかけているのだ、そなたに会いたいと申してな。《救国の半身》は文字通り国を、世界を救ったのだから、無理もないと言えば無理もないことだが」
「そ、そんな……」
神だって? 救世主だって?
そんなことを言われても困る。
自分はそんなご大層な者じゃない。
自分はそもそも、この国で最下層の奴隷、しかも男娼だった身だ。だれよりも立場が低く、だれからも蔑まれる存在だった。
それはシディ自身がいちばんよくわかっていることだ。
いまさら「神」だの「救世主」だの」言われて崇められても困ってしまう。
「確かにそなたは素晴らしい。此度のことではまことに素晴らしい働きをしたし、世界を救ってもくれた。……だが、それで信仰の対象にされるのはいかにも危うい。これはそなたが真に幸せになるための重い枷になり得る。……それを案じていたのだよ、私は。なによりも」
「インテス様……」
じぃん、と胸が熱くなった。
こんな大変なときですら、インテス様は自分のことを考えてくださっている。ほかのどんなものからも守ろうとして矢面に立とうとしてくださるのだ。
(……でも)
ただ守られているだけなんて、もうごめんだ。
自分にだってきっと、お手伝いできることがあるはずではないか……!
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