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第九章 暗転
10 壁
しおりを挟む(そうだったのか……)
首飾りを両手に包み込むようにして、シディはじっとその宝玉を見つめた。深みのある紫色の石。奥の方には光が閉じ込められていて、それが角度によってきらきらときらめいている。……これを見ていると胸が痛い。あの人の優しい目をどうしても思い出してしまうからだ。
(だけど、それだけじゃなかった)
ここにはインテス様のお気持ちが籠められていたのだ。シディが考えていた以上に。
「あの、でも──」
あのとき、《皿》から現れた腕が殿下を襲ったとき。これはまったく何の反応も示さなかった。
それを問うと、師匠は「うむ」と難しい顔になった。
「それはお主を護るためにのみ発動するよう調整されておる。残念ながら先日の事件の時には発動せなんだが、恐らくそれは、かの者が狙ったのが殿下のみであったからであろう」
「そんな……」
そんなの、なんの意味があるんだ。
「じゃが、もうひとつの理由があるようじゃ。これはそなたの魔力技術がいまひとつ壁を越えられぬ理由にもつながろうと思うのじゃが」
「えっ。それは……」
「あいや。誤解するでないぞ。先般も申したとおりじゃ。この短期間で、そなたは非常な成長を遂げておる。この条件で考えれば十分以上の働きをしておることは間違いない。じゃが……《半身》であればさらに強大な能力を発動させられるはずなのじゃ。それもまた、間違いではない」
「そ、そうなんですか……」
と、セネクス翁は突然威儀を正した。そうして非常にまじめな顔でまっすぐにシディの目を見つめてきた。
「そなた。まことに『この世界を救いたい』と望んでおるかの?」
「……え?」
がつんと頭を殴られたような衝撃。
と同時に、部屋が一段暗くなったような錯覚が襲ってきた。
(どういう、こと……?)
もちろんそう思っている。いや、そう思っていた。
インテス様だってそうすることをお望みだったし、ほかのみんなだって──
セネクス翁はそんなシディの動揺を余すところなくじっと観察する目で見つめていた。
「『殿下やほかの者がそなたにそう望んだから』。それも間違いではない。だが、それだけでは不十分じゃ。動機がただそればかりなのであれば、それは少うしばかり足りぬ、と言わざるを得ぬぞよ」
「え、あの──」
「よいか、シディ」
言って師匠はシディの首飾りの上からそっと胸に手を当てた。
「……ここじゃ。ここから自然に満ち溢れ、求めてたまらぬ望み。なにを措いてもやらずにはおられぬ衝動。……結局そうしたものが魔導士の──いや、魔導士だけのことではないが──前に立ちはだかる大きな壁を突き崩す源となる。人がひと皮剥けるとき、ひとつの壁を越えるとき。その者の胸には必ずそれがあるものじゃ」
「…………」
シディはうつむいた。
正直、こうして問われるまでそんな風に真剣に考えてみたことがなかった。
自分に本当にそんなものがあったか、と真正面から問われたら。
それは……それは、申し訳ないけれど「なかった」と答えるしかないのかもしれない。
大好きなインテス様や、優しく頼りになるティガリエやレオ、インテス様など、周囲の素敵な人たちがそう望んでくれたから。シディには今まで、そんな風に自分を望んでくれる人なんていなかった。だからそれだけで十分だと思っていたのだ。それなのに。
「誤解せぬようにたのむぞよ、シディ。そなたを責めるつもりは毛頭ないのじゃ」
シディはただ困って俯いたままだ。
「そなたの来歴については殿下からお聞きしておる。これまで、そなたを食い物にし、ひどい目に遭わせる男どもばかりに会ってきたそなたに『この世界を心から愛せ』などというのは酷なことじゃ。それは理解しておるつもりじゃよ」
「し、ししょう……」
シディの声は涙に歪んだ。セネクス翁の顔が涙に滲んでいく。
「無理もないことなのじゃ。左様な目に散々に遭ってきたそなたに『世界を救え』などと言う。土台おかしなことなのじゃよ。勝手なものじゃ。……そうとわかっておっても我らは、《半身》たるそなたに望みをかけるほかはない。まことに申し訳もなきこととは思うておるが……」
この通りじゃ、と言ってセネクス翁が頭を下げてくる。
「いえ。いえっ……! やめてくださいっ」
シディは必死で、ぶんぶん頭を左右にふった。
「そんなこと、言わないでくださいっ……。オレだって、自分でやりたいと思ってやってきました。これでも……ちゃんとみんなを、救いたいって」
「わかっておるよ。それが間違いでないことも、よくじゃ」
小さな手がのびてきて、背中をとすとす叩いてくださる。
それでもう、シディの目は決壊した。
セネクス様は咽び泣いているシディの頭を小さな体で抱きかかえて、いつまでも背中を撫でてくださっていた。
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