45 / 209
第五章 輝く世界
9 男の匂い
しおりを挟む「では、私たちがせねばならないことは、今はこちらではないのかもしれないな」
「えっ? うわっ!?」
言ったと同時に腕を引かれて、気がつけばシディの身体は殿下の胸に抱きしめられていた。
どくん、どくんと聞こえるのは殿下の胸の鼓動だ。いつも聞こえているけれど、こんなにぴたりとくっつくととても大きく響いてくる。いや、それともこれは自分の心臓の音だろうか? もう何がなんだかわからない。
「うわ、うわわわ……」
「シディ。ずっと訊きたいと思っていたんだが」
なにか言われているのはわかるが、内容がちっとも理解できない。頭の中が、大波にもてあそばれている小舟みたいな状態だ。
「その……爺に言われたからということではないが。もう少しだけ、『親密』になってみないか。私と」
「え──」
そっと目をあげてみると、きれいだけれど不安という名のゆらぎを湛えた殿下の瞳がすぐ上にあった。
「そなたに無理をさせたくないと……ずっと、ある程度以上のことは控えてきたが。やはりそれではいけないようだ」
「な、なにがですか……?」
「爺がどうとか、救国のためとかいうことは措くとしても。……つまり、私自身が」
「え……」
殿下ご自身が。
なにか非常にお困りだというのか。
(あ──)
それが何を意味しているのかがやっとわかって、カッと身体が熱くなった。
いや、知っている。ずっとわかっていた。
だって自分はオオカミの獣人だ。純粋な人間であるこの人よりもずっと敏感だし、この方の匂いや音から、身体の状態は仔細にわかる。
本当はわかっていた。
夜、この方は自分を抱きしめて一緒に休んでくださるけれど、その前に少し席をはずしてちょっと長い時間戻ってこないのが常だったから。
ああいう仕事をしていたから、男が性的に興奮するときどんな匂いを発するかはよく知っている。
いや、そういうシディだって男のはしくれなわけで。欲望を抑えることがいかに難しいかはわかっていた。
夜、シディと褥をともにする前、殿下は男に特有のある種の匂いを纏っておられる。
もともと《半身》として眩暈のするような芳香を纏った殿下だが、そちらについては毎日そばで眠っているためか、だいぶ身体が慣れてきたようだ。
しかしこの、男に特有の欲望の匂いには慣れるということがない。
あの店にいたとき、同じ匂いをまとわりつかせてやってくる客の男らには、なにより恐れや不快感が先だったものだ。
けれど、いまこの方から匂うものには魅力しか感じない。不思議なことだが、これは事実だった。
(殿下……ガマンしてる……んだよね? たぶん。ものすごく)
それはシディに絶対に無理強いはしたくないという、この人の決意の表れなのだろう。それなのに、それを寂しいだとか物足りないだとか思った自分が申し訳なくなる。
きっとこの人は、ものすごく自制心が強いだけなのだ……。
シディはきゅっと唇を噛んだ。
(やっぱり、このままじゃダメだ)
たぶん、いやきっと、ここから先はシディ自身が自分から動くしかない。
自分がちゃんと心からそれを求めているんだということを、この人にわかって頂かなければ。
しかし、そう決心してもやっぱり、絞り出さねばならない勇気の量といったら半端なかった。
知らず、両の拳をきつく握りしめている。
「あっ……あのあのっ。殿下」
出した声も恐ろしく掠れていて、格好悪いことこの上もない。
「うん?」
「えっと……えっとえっとっ」
「うん」
あまりに緊張してしどろもどろになっているシディを、殿下は不思議そうにしながらも優しく見守り、辛抱強く待ってくださっている。ここでやめるわけにはいかない。絶対にだ。
「く……くくく」
「く?」
「くっ、くちづけっっ」
「んん??」
「ヒイッ! じゃなくてっ……!」
だしぬけにそんな単語が出てしまって、もう耳まで熱くなる。
「どうしたんだ、シディ。まずは落ちつけ。口づけ? が、どうしたんだ」
「えっとえっと……だ、だから」
ああ。やっぱりムリがある。
こんなこと、自分から本気でねだったことなんて一度もないのだから。
「も……もうすこーし、だけ……しんみつ、に」
語尾はもう空気に溶けて消えてしまっている。
でも、幸い殿下の耳には届いたようだった。紫色の瞳が見開かれ、殿下の時が止まっている。
「……シディ。それは」
やっと言った殿下の声も、やっぱり少し掠れていた。
1
お気に入りに追加
176
あなたにおすすめの小説
虐げられ聖女(男)なので辺境に逃げたら溺愛系イケメン辺境伯が待ち構えていました【本編完結】(異世界恋愛オメガバース)
美咲アリス
BL
虐待を受けていたオメガ聖女のアレクシアは必死で辺境の地に逃げた。そこで出会ったのは逞しくてイケメンのアルファ辺境伯。「身バレしたら大変だ」と思ったアレクシアは芝居小屋で見た『悪役令息キャラ』の真似をしてみるが、どうやらそれが辺境伯の心を掴んでしまったようで、ものすごい溺愛がスタートしてしまう。けれども実は、辺境伯にはある考えがあるらしくて⋯⋯? オメガ聖女とアルファ辺境伯のキュンキュン異世界恋愛です、よろしくお願いします^_^ 本編完結しました、特別編を連載中です!
雪狐 氷の王子は番の黒豹騎士に溺愛される
Noah
BL
【祝・書籍化!!!】令和3年5月11日(木)
読者の皆様のおかげです。ありがとうございます!!
黒猫を庇って派手に死んだら、白いふわもこに転生していた。
死を望むほど過酷な奴隷からスタートの異世界生活。
闇オークションで競り落とされてから獣人の国の王族の養子に。
そこから都合良く幸せになれるはずも無く、様々な問題がショタ(のちに美青年)に降り注ぐ。
BLよりもファンタジー色の方が濃くなってしまいましたが、最後に何とかBLできました(?)…
連載は令和2年12月13日(日)に完結致しました。
拙い部分の目立つ作品ですが、楽しんで頂けたなら幸いです。
Noah
エロゲ世界のモブに転生したオレの一生のお願い!
たまむし
BL
大学受験に失敗して引きこもりニートになっていた湯島秋央は、二階の自室から転落して死んだ……はずが、直前までプレイしていたR18ゲームの世界に転移してしまった!
せっかくの異世界なのに、アキオは主人公のイケメン騎士でもヒロインでもなく、ゲーム序盤で退場するモブになっていて、いきなり投獄されてしまう。
失意の中、アキオは自分の身体から大事なもの(ち●ちん)がなくなっていることに気付く。
「オレは大事なものを取り戻して、エロゲの世界で女の子とエッチなことをする!」
アキオは固い決意を胸に、獄中で知り合った男と協力して牢を抜け出し、冒険の旅に出る。
でも、なぜかお色気イベントは全部男相手に発生するし、モブのはずが世界の命運を変えるアイテムを手にしてしまう。
ちん●んと世界、男と女、どっちを選ぶ? どうする、アキオ!?
完結済み番外編、連載中続編があります。「ファタリタ物語」でタグ検索していただければ出てきますので、そちらもどうぞ!
※同一内容をムーンライトノベルズにも投稿しています※
pixivリクエストボックスでイメージイラストを依頼して描いていただきました。
https://www.pixiv.net/artworks/105819552
異世界で8歳児になった僕は半獣さん達と仲良くスローライフを目ざします。……やっぱり狙われちゃう感じ?
み馬
BL
※ 完結しました。お読みくださった方々、誠にありがとうございました!
志望校に合格した春、桜の樹の下で意識を失った主人公・斗馬 亮介(とうま りょうすけ)は、気がついたとき、異世界で8歳児の姿にもどっていた。
わけもわからず放心していると、いきなり巨大な黒蛇に襲われるが、水の精霊〈ミュオン・リヒテル・リノアース〉と、半獣属の大熊〈ハイロ〉があらわれて……!?
これは、とある加護を受けた8歳児が、しゃべる動物たちとスローライフ?を目ざす、ファンタジーBLです。
おとなサイド(半獣×精霊)のカプありにつき、R15にしておきました。
※ 独自設定、造語、下ネタあり。出産描写あり。幕開け(前置き)長め。第21話に登場人物紹介を載せましたので、ご参考ください。
★お試し読みは、第1部(第22〜27話あたり)がオススメです。物語の傾向がわかりやすいかと思います★
★第11回BL小説大賞エントリー作品★最終結果2773作品中/414位★応援ありがとうございました★
Switch!〜僕とイケメンな地獄の裁判官様の溺愛異世界冒険記〜
天咲 琴葉
BL
幼い頃から精霊や神々の姿が見えていた悠理。
彼は美しい神社で、家族や仲間達に愛され、幸せに暮らしていた。
しかし、ある日、『燃える様な真紅の瞳』をした男と出逢ったことで、彼の運命は大きく変化していく。
幾重にも襲い掛かる運命の荒波の果て、悠理は一度解けてしまった絆を結び直せるのか――。
運命に翻弄されても尚、出逢い続ける――宿命と絆の和風ファンタジー。
【完結】白い塔の、小さな世界。〜監禁から自由になったら、溺愛されるなんて聞いてません〜
N2O
BL
溺愛が止まらない騎士団長(虎獣人)×浄化ができる黒髪少年(人間)
ハーレム要素あります。
苦手な方はご注意ください。
※タイトルの ◎ は視点が変わります
※ヒト→獣人、人→人間、で表記してます
※ご都合主義です、あしからず
転生するにしても、これは無いだろ! ~死ぬ間際に読んでいた小説の悪役に転生しましたが、自分を殺すはずの最強主人公が逃がしてくれません~
槿 資紀
BL
駅のホームでネット小説を読んでいたところ、不慮の事故で電車に撥ねられ、死んでしまった平凡な男子高校生。しかし、二度と目覚めるはずのなかった彼は、死ぬ直前まで読んでいた小説に登場する悪役として再び目覚める。このままでは、自分のことを憎む最強主人公に殺されてしまうため、何とか逃げ出そうとするのだが、当の最強主人公の態度は、小説とはどこか違って――――。
最強スパダリ主人公×薄幸悪役転生者
R‐18展開は今のところ予定しておりません。ご了承ください。
天寿を全うした俺は呪われた英雄のため悪役に転生します
バナナ男さん
BL
享年59歳、ハッピーエンドで人生の幕を閉じた大樹は、生前の善行から神様の幹部候補に選ばれたがそれを断りあの世に行く事を望んだ。
しかし自分の人生を変えてくれた「アルバード英雄記」がこれから起こる未来を綴った予言書であった事を知り、その本の主人公である呪われた英雄<レオンハルト>を助けたいと望むも、運命を変えることはできないときっぱり告げられてしまう。
しかしそれでも自分なりのハッピーエンドを目指すと誓い転生ーーーしかし平凡の代名詞である大樹が転生したのは平凡な平民ではなく・・?
少年マンガとBLの半々の作品が読みたくてコツコツ書いていたら物凄い量になってしまったため投稿してみることにしました。
(後に)美形の英雄 ✕ (中身おじいちゃん)平凡、攻ヤンデレ注意です。
文章を書くことに関して素人ですので、変な言い回しや文章はソッと目を滑らして頂けると幸いです。
また歴史的な知識や出てくる施設などの設定も作者の無知ゆえの全てファンタジーのものだと思って下さい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる