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第四章 皇帝と魔塔
9 困惑
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「はいはい、もうよかろう。双方、落ちつけ」
片手をあげて割って入ったのはインテス様だった。
「インテス様……っ」
シディはもう半泣きになっている。心臓なんてバクバクだ。
こんなことで、こんなすてきな虎の獣人を罰するなんてとてもできない。もちろん首はおろか、腕や足なんて奪いたくない。絶対にイヤだ。
インテス様がすぐ隣に座って、震えているシディの体をぎゅっと抱きしめてくださった。
「だから申したではないか、ティガリエ。私のシディが、側近のそなたにそんな酷薄な罰を下すはずがないと。勝手な自決を思いとどまらせた私の判断は誤りではなかっただろう? どうだ」
「じ、じけつ……」
くらくらと眩暈がする。
もしもインテス様が止めてくださっていなければ、自分が気を失っていた間にこの武人は自ら命を絶っていたかもしれないのだ。
「ああ、ほらほら、シディ。安心してくれ。そんなに震えなくてもいい。そんなことにはさせなかったのだから。な?」
「は、はい……」
よしよし、と頭を撫でられて、ようやく落ちついてくる。
(そうか……。もうオレは)
性奴隷として社会の最底辺にいたあの頃とは、ちがう存在になってしまったのだ。
あの頃にはまったく考えもしなかったことだが、どうやらこうして高い身分を持つ人には、高貴な人なりの責任や、周囲の者らに迷惑を掛けぬようにふるまう自覚と智恵などが必要であるらしい。
自分が下手なことをやらかしてしまえば、側にいる人たちの命さえ危うくなる場合だってあるのだ……。なかなか責任重大である。
「……とにかく。ティガリエさん」
「はい」
床にぴたりとはいつくばった状態のまま、ティガリエが頭を垂れる。
「自殺なんて許しません。絶対に許しませんっ。オレは、あなたの首も腕も足もいらない。それに、どこへも追放なんてさせませんっ! ……いいですね?」
ティガリエは答えない。
「このままずっと、オレの護衛でいてください」
「は……」
ぴく、と武人の肩が震えた。
「オレの望みはそれだけです。オレはあなた以外の人に、自分の護衛になってほしいとは思わないです」
「…………」
「あなたに守ってほしいです。……オレを。ずっと」
震えながらも、シディは自分でも驚くほどしっかりした声を出しているのに気がついた。隣で自分を抱きしめて優しい瞳で見守ってくれている人が、きっと勇気をくれたのだろう。
「いいですねっ? ティガリエさんっ!」
叫んだらとうとう、ティガリエはまたごん、と床に額を叩きつけた。
ひいっ、とまた尻が浮いてしまう。
「……承知つかまつりまして、ございます──」
武人の大きな拳と声がほんのわずかに震えていたのを、シディの目と耳は見逃さなかった。武人の匂いも、緊張した悲壮なものから感極まったようなやわらかなものに変化している。
(よかった……とりあえず)
「うーん。ちょっと妬けるな」
ようやくほっとしていたら、隣からこんな囁きが聞こえてきた。
「でっ……殿下!?」
かっと体が熱くなる。
なにを言ってるんだ、この人は!
「あはははは!」
楽しげに大笑いして、殿下は素早くシディこめかみに口づけを落とした。ちゅっと軽い音がする。
(わ……!)
全身がかちんと固まる。
やっぱり慣れない。こういう扱い、どうしても慣れない。いったいこの人は自分をどういう扱いにしているつもりなのだろう。
「さあ。ということで、いろいろあったがそろそろ魔塔の島が近いぞ。シディはなるべく体力の回復に努めなければな。ティガリエは上陸の準備にかかってくれ」
「……は、はは」
武人は再び、床をかち割る勢いでおおきな頭を低く下げた。
「あ。その前に!」
「……は」
はっと顔を上げたティガリエに、シディはにっこり笑って見せた。
「ティガはちゃんと寝てください。寝不足のままオレの護衛をすることは許さないです。……いいですね?」
「……は、はは」
大きな体をかしこまらせてトラの武人が出ていくと、殿下はあらためてシディの体を抱き寄せた。
「う、うわっ……」
「シディ。『ティガ』と呼ぶことにしたのかい?」
「え──」
そう言えば。どうやら無意識にそう呼んでしまっていたようだ。
「私は?」
「……は?」
「私のことも、いい加減『インテス』呼びにして欲しいのだが。もちろん無粋な『様』などつけずに」
「そっ……そそそ、それはっ」
無理だ。
無茶を言わないでくれ!
必死に目でそう訴えたら、殿下はしばらく不満そうにしていたが、やがて表情をあらためて話題を変えた。
「ともかく、良かった。そなたが目を覚まさなかったら、いかに海の精霊といえども必ず復讐を遂げるつもりでいた。我が手でな」
「でっ……殿下!」
声も目つきもまったく冗談とは思えないのだが。……いや、冗談だよな??
「黒狼王の末裔たるそなたが、ようやくその記憶を取り戻した。……これからは、恐らくその身に魔力が宿ることになるだろう」
「ま……魔力ですか? オレに……?」
「ああ。魔塔のジジイどもに、扱い方をよく教わっておくとよいぞ」
言って殿下はまたシディの頭をぽすぽす叩いた。
「そなたの父御がそうであったように、今後はその姿も変化させられるようになるだろう」
「そ、それも精霊さんたちが?」
「ああ」
言って殿下はまたニコニコ笑う。
「可愛いだろうなあ、黒狼になったシディ。ぜひ私にも見せてくれよな。それから存分に撫でさせてくれ。しかも最初に!」
「え、ええっ……」
「今のように、耳と尻尾だけがふさふさしているのも可愛いが。全体が狼になっても、シディなら至上の可愛さ、そして美しさに決まっている。オオカミというのは、まことに高貴な生き物だと言うからな。……ああ、まことに楽しみだ」
「…………」
まったく、この人は。
なんと返事すればいいのかさっぱりわからない。
黒ではなく、もう体じゅうが真っ赤になりそうな気になりながら、シディは体を小さくして、しばらく殿下に撫でられていた。
片手をあげて割って入ったのはインテス様だった。
「インテス様……っ」
シディはもう半泣きになっている。心臓なんてバクバクだ。
こんなことで、こんなすてきな虎の獣人を罰するなんてとてもできない。もちろん首はおろか、腕や足なんて奪いたくない。絶対にイヤだ。
インテス様がすぐ隣に座って、震えているシディの体をぎゅっと抱きしめてくださった。
「だから申したではないか、ティガリエ。私のシディが、側近のそなたにそんな酷薄な罰を下すはずがないと。勝手な自決を思いとどまらせた私の判断は誤りではなかっただろう? どうだ」
「じ、じけつ……」
くらくらと眩暈がする。
もしもインテス様が止めてくださっていなければ、自分が気を失っていた間にこの武人は自ら命を絶っていたかもしれないのだ。
「ああ、ほらほら、シディ。安心してくれ。そんなに震えなくてもいい。そんなことにはさせなかったのだから。な?」
「は、はい……」
よしよし、と頭を撫でられて、ようやく落ちついてくる。
(そうか……。もうオレは)
性奴隷として社会の最底辺にいたあの頃とは、ちがう存在になってしまったのだ。
あの頃にはまったく考えもしなかったことだが、どうやらこうして高い身分を持つ人には、高貴な人なりの責任や、周囲の者らに迷惑を掛けぬようにふるまう自覚と智恵などが必要であるらしい。
自分が下手なことをやらかしてしまえば、側にいる人たちの命さえ危うくなる場合だってあるのだ……。なかなか責任重大である。
「……とにかく。ティガリエさん」
「はい」
床にぴたりとはいつくばった状態のまま、ティガリエが頭を垂れる。
「自殺なんて許しません。絶対に許しませんっ。オレは、あなたの首も腕も足もいらない。それに、どこへも追放なんてさせませんっ! ……いいですね?」
ティガリエは答えない。
「このままずっと、オレの護衛でいてください」
「は……」
ぴく、と武人の肩が震えた。
「オレの望みはそれだけです。オレはあなた以外の人に、自分の護衛になってほしいとは思わないです」
「…………」
「あなたに守ってほしいです。……オレを。ずっと」
震えながらも、シディは自分でも驚くほどしっかりした声を出しているのに気がついた。隣で自分を抱きしめて優しい瞳で見守ってくれている人が、きっと勇気をくれたのだろう。
「いいですねっ? ティガリエさんっ!」
叫んだらとうとう、ティガリエはまたごん、と床に額を叩きつけた。
ひいっ、とまた尻が浮いてしまう。
「……承知つかまつりまして、ございます──」
武人の大きな拳と声がほんのわずかに震えていたのを、シディの目と耳は見逃さなかった。武人の匂いも、緊張した悲壮なものから感極まったようなやわらかなものに変化している。
(よかった……とりあえず)
「うーん。ちょっと妬けるな」
ようやくほっとしていたら、隣からこんな囁きが聞こえてきた。
「でっ……殿下!?」
かっと体が熱くなる。
なにを言ってるんだ、この人は!
「あはははは!」
楽しげに大笑いして、殿下は素早くシディこめかみに口づけを落とした。ちゅっと軽い音がする。
(わ……!)
全身がかちんと固まる。
やっぱり慣れない。こういう扱い、どうしても慣れない。いったいこの人は自分をどういう扱いにしているつもりなのだろう。
「さあ。ということで、いろいろあったがそろそろ魔塔の島が近いぞ。シディはなるべく体力の回復に努めなければな。ティガリエは上陸の準備にかかってくれ」
「……は、はは」
武人は再び、床をかち割る勢いでおおきな頭を低く下げた。
「あ。その前に!」
「……は」
はっと顔を上げたティガリエに、シディはにっこり笑って見せた。
「ティガはちゃんと寝てください。寝不足のままオレの護衛をすることは許さないです。……いいですね?」
「……は、はは」
大きな体をかしこまらせてトラの武人が出ていくと、殿下はあらためてシディの体を抱き寄せた。
「う、うわっ……」
「シディ。『ティガ』と呼ぶことにしたのかい?」
「え──」
そう言えば。どうやら無意識にそう呼んでしまっていたようだ。
「私は?」
「……は?」
「私のことも、いい加減『インテス』呼びにして欲しいのだが。もちろん無粋な『様』などつけずに」
「そっ……そそそ、それはっ」
無理だ。
無茶を言わないでくれ!
必死に目でそう訴えたら、殿下はしばらく不満そうにしていたが、やがて表情をあらためて話題を変えた。
「ともかく、良かった。そなたが目を覚まさなかったら、いかに海の精霊といえども必ず復讐を遂げるつもりでいた。我が手でな」
「でっ……殿下!」
声も目つきもまったく冗談とは思えないのだが。……いや、冗談だよな??
「黒狼王の末裔たるそなたが、ようやくその記憶を取り戻した。……これからは、恐らくその身に魔力が宿ることになるだろう」
「ま……魔力ですか? オレに……?」
「ああ。魔塔のジジイどもに、扱い方をよく教わっておくとよいぞ」
言って殿下はまたシディの頭をぽすぽす叩いた。
「そなたの父御がそうであったように、今後はその姿も変化させられるようになるだろう」
「そ、それも精霊さんたちが?」
「ああ」
言って殿下はまたニコニコ笑う。
「可愛いだろうなあ、黒狼になったシディ。ぜひ私にも見せてくれよな。それから存分に撫でさせてくれ。しかも最初に!」
「え、ええっ……」
「今のように、耳と尻尾だけがふさふさしているのも可愛いが。全体が狼になっても、シディなら至上の可愛さ、そして美しさに決まっている。オオカミというのは、まことに高貴な生き物だと言うからな。……ああ、まことに楽しみだ」
「…………」
まったく、この人は。
なんと返事すればいいのかさっぱりわからない。
黒ではなく、もう体じゅうが真っ赤になりそうな気になりながら、シディは体を小さくして、しばらく殿下に撫でられていた。
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