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第四章 皇帝と魔塔
6 女と黒犬
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(あれは、だれ……?)
目を凝らしているうちに、像が次第に鮮明になっていく。
それは、大小ふたつの黒い影だった。
片方は巨大な犬のような姿をした真っ黒い生き物。もう片方はシディの姿によく似た、黒い毛皮と耳と尻尾をもつ女性らしい姿だった。大きな黒犬の肩は女性の頭よりも高い位置にある。そんなにも大きな犬は見たことがなかった。
ふたり──と言っていいのかどうかは謎だが──は、いかにも親しげだった。ちなみに女性のほうは人型ばかりだったが、犬のほうはその姿から逞しい男の人型へと自由自在に姿を変えられるようだったから、「ふたり」と表現して問題はなさそうだった。
女性は黒犬の首のところにしがみつき、時にはその背に乗って、だれもいない荒野を、草原を、また森を、自由にのびのびと駆けまわっていた。
ふたりはそうして、木の実を集めたり小さな動物を狩ったりして、かれらだけで暮らしているようだった。
ふたりの仲睦まじい様子を見ているうちに、シディの胸になんとも形容のできない熱いものがふつふつと湧き出してきた。これがいったいなんという感情なのかよくわからない。
ただただ、胸が痛いのだ。
やがて映像がふっとぼやけると、今度は次の映像になった。
(え──)
その映像では、かれらはもう「ふたり」とは言えなくなっていた。女性が布にくるんだ小さな生き物を大事そうに抱えているのが見える。時おり、それに乳をやる様子も見えた。
(あ、あれ……は)
布の中におさまっているのは、小さな小さな「黒い仔」だった。顔は真っ黒くて、あの大きな黒犬にそっくりだ。人間に近い顔ではなく、それはそのまま犬としての顔に見えた。
胸の鼓動がどきん、どきんと早くなる。
気がつけば、少年の頬をぬるい雫が滴りおちていた。
あれは……あれは。
説明されるまでもない。そんな必要はまったくなかった。
だって、知っている。あの人たちが自分の何で、どういう立場の人たちなのかということを。恐らく本能的に、自分は知っていたのだ。ずっと。だが、なぜかその記憶は封印されていたらしい。今の今まで、ずっと。
と、突然映像の色目が変わった。
爽やかな風が吹いていた草原や森の景色が、急に真っ赤なものへと変貌したのだ。細かく黒い塵が、肌を焦がすような熱風に吹き上げられている。
(火事……?)
いや、恐らく通常の火事とは違う。なぜか少年はそれを確信していた。
毛皮のあちこちを焦がし、火傷を負った黒犬が、体じゅうに布をまきつけた女性を背に乗せて熱風の中を駆け抜けている。女性は胸にしっかりとあの赤子の黒い仔を抱いている。
逃げようとしているのだ。
しかし、何から?
やがて黒犬がくるりと身を翻して巨大な牙を剥きだした。身を低くし、大地を震わすような唸り声をあげ、金色の瞳をかっと開いて何かを睨みつけている。だがその視線の先にあるのは、凄まじい炎の渦だけだった。少年には、その正体がなんであるのかは分からなかった。
黒犬は背後に女性と赤子を守るようにしていたが、やがてふっと首だけを後ろに振り向け、女になにごとかを囁いた。女性は何度も首を横にふり、なかなか頷かなかった。が、最後にはとうとう項垂れた。
一度だけ黒犬の首筋に抱きついて、この世の中でもっとも優しいくちづけを彼に落とし、赤子を抱いて走り去った。
黒犬は再び炎に向き合うと、猛る吠え声ひとつとともに高く跳んだ──
(おとうさんっ……!)
少年の思念が、勝手にその言葉を紡いだ。
その言葉が頭の中に閃いたのだ。まるでそれが当然であるかのように。
炎の攻撃を逃れ、やっとのことで女性が辿り着いたのは、高い崖の上だった。背後には相変わらず、憎悪に狂った思念を巻き込んだ炎が迫っている。
女性の命もすでに、風前の灯火となっていた。体の多くが焼けただれ、両足は赤黒く腫れあがっている。だが、赤子だけは無事だった。
女は海に何かを祈った。
赤子を高く空へと差しあげ、朗々となにかの祈りを歌いあげる。
ラララ ウォルララ……
リララァ ウルルアアァ……
それは犬の遠吠えにも似た、悲しくも美しい旋律だった。
煤けて真っ黒に焼けただれた女性の顔のなかに、光る両目だけがどこまでも澄んでいた。
やがて海の中からあの光る帯が出現し、差し出された赤子をそっと受け取った。そのまま、まるで何ごともなかったかのようにするすると海の中へと消えていった。
女は安堵した表情で柔らかく微笑むと、急にがくりと力をなくした。
そのまま小さな荷物のように、体が崖下へと落ちていく。
ひどくあっけなく。
その体に、もう命の輝きは残っていなかった。
(お……おかあさんっ……!)
いやだ、いやだ、いやだ。
なんだこれは。
いったいなんなんだ!
どうしてこんなもの、いまオレが見せられなきゃならないんだ……!
「うわあっ……ああああ! うああああああ──っっ!」
気がつくと、映像はすっかり目の前から消え去っていた。
しかしシディがそれに気づくことはなかった。隣にいる殿下の胸にすがって、ただただ大声で吠え泣いた。
殿下は呆然とした顔をしていたが、それでもしっかりとシディの体を抱いてくださった。そうしてずっと、優しく頭を撫でつづけてくださった。
目を凝らしているうちに、像が次第に鮮明になっていく。
それは、大小ふたつの黒い影だった。
片方は巨大な犬のような姿をした真っ黒い生き物。もう片方はシディの姿によく似た、黒い毛皮と耳と尻尾をもつ女性らしい姿だった。大きな黒犬の肩は女性の頭よりも高い位置にある。そんなにも大きな犬は見たことがなかった。
ふたり──と言っていいのかどうかは謎だが──は、いかにも親しげだった。ちなみに女性のほうは人型ばかりだったが、犬のほうはその姿から逞しい男の人型へと自由自在に姿を変えられるようだったから、「ふたり」と表現して問題はなさそうだった。
女性は黒犬の首のところにしがみつき、時にはその背に乗って、だれもいない荒野を、草原を、また森を、自由にのびのびと駆けまわっていた。
ふたりはそうして、木の実を集めたり小さな動物を狩ったりして、かれらだけで暮らしているようだった。
ふたりの仲睦まじい様子を見ているうちに、シディの胸になんとも形容のできない熱いものがふつふつと湧き出してきた。これがいったいなんという感情なのかよくわからない。
ただただ、胸が痛いのだ。
やがて映像がふっとぼやけると、今度は次の映像になった。
(え──)
その映像では、かれらはもう「ふたり」とは言えなくなっていた。女性が布にくるんだ小さな生き物を大事そうに抱えているのが見える。時おり、それに乳をやる様子も見えた。
(あ、あれ……は)
布の中におさまっているのは、小さな小さな「黒い仔」だった。顔は真っ黒くて、あの大きな黒犬にそっくりだ。人間に近い顔ではなく、それはそのまま犬としての顔に見えた。
胸の鼓動がどきん、どきんと早くなる。
気がつけば、少年の頬をぬるい雫が滴りおちていた。
あれは……あれは。
説明されるまでもない。そんな必要はまったくなかった。
だって、知っている。あの人たちが自分の何で、どういう立場の人たちなのかということを。恐らく本能的に、自分は知っていたのだ。ずっと。だが、なぜかその記憶は封印されていたらしい。今の今まで、ずっと。
と、突然映像の色目が変わった。
爽やかな風が吹いていた草原や森の景色が、急に真っ赤なものへと変貌したのだ。細かく黒い塵が、肌を焦がすような熱風に吹き上げられている。
(火事……?)
いや、恐らく通常の火事とは違う。なぜか少年はそれを確信していた。
毛皮のあちこちを焦がし、火傷を負った黒犬が、体じゅうに布をまきつけた女性を背に乗せて熱風の中を駆け抜けている。女性は胸にしっかりとあの赤子の黒い仔を抱いている。
逃げようとしているのだ。
しかし、何から?
やがて黒犬がくるりと身を翻して巨大な牙を剥きだした。身を低くし、大地を震わすような唸り声をあげ、金色の瞳をかっと開いて何かを睨みつけている。だがその視線の先にあるのは、凄まじい炎の渦だけだった。少年には、その正体がなんであるのかは分からなかった。
黒犬は背後に女性と赤子を守るようにしていたが、やがてふっと首だけを後ろに振り向け、女になにごとかを囁いた。女性は何度も首を横にふり、なかなか頷かなかった。が、最後にはとうとう項垂れた。
一度だけ黒犬の首筋に抱きついて、この世の中でもっとも優しいくちづけを彼に落とし、赤子を抱いて走り去った。
黒犬は再び炎に向き合うと、猛る吠え声ひとつとともに高く跳んだ──
(おとうさんっ……!)
少年の思念が、勝手にその言葉を紡いだ。
その言葉が頭の中に閃いたのだ。まるでそれが当然であるかのように。
炎の攻撃を逃れ、やっとのことで女性が辿り着いたのは、高い崖の上だった。背後には相変わらず、憎悪に狂った思念を巻き込んだ炎が迫っている。
女性の命もすでに、風前の灯火となっていた。体の多くが焼けただれ、両足は赤黒く腫れあがっている。だが、赤子だけは無事だった。
女は海に何かを祈った。
赤子を高く空へと差しあげ、朗々となにかの祈りを歌いあげる。
ラララ ウォルララ……
リララァ ウルルアアァ……
それは犬の遠吠えにも似た、悲しくも美しい旋律だった。
煤けて真っ黒に焼けただれた女性の顔のなかに、光る両目だけがどこまでも澄んでいた。
やがて海の中からあの光る帯が出現し、差し出された赤子をそっと受け取った。そのまま、まるで何ごともなかったかのようにするすると海の中へと消えていった。
女は安堵した表情で柔らかく微笑むと、急にがくりと力をなくした。
そのまま小さな荷物のように、体が崖下へと落ちていく。
ひどくあっけなく。
その体に、もう命の輝きは残っていなかった。
(お……おかあさんっ……!)
いやだ、いやだ、いやだ。
なんだこれは。
いったいなんなんだ!
どうしてこんなもの、いまオレが見せられなきゃならないんだ……!
「うわあっ……ああああ! うああああああ──っっ!」
気がつくと、映像はすっかり目の前から消え去っていた。
しかしシディがそれに気づくことはなかった。隣にいる殿下の胸にすがって、ただただ大声で吠え泣いた。
殿下は呆然とした顔をしていたが、それでもしっかりとシディの体を抱いてくださった。そうしてずっと、優しく頭を撫でつづけてくださった。
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