白と黒のメフィスト

るなかふぇ

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第三章 離宮にて

1 インテス様との日々(1)

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「シディ。今もどったぞ」
「インテス様! おかえりなさい!」
 
 それからひと月あまり。
 シディはだいぶこの離宮での生活に慣れてきた。
 青年が外から戻ってくると、手習いや読書の手を止めて一目散に彼のもとへ走っていく。
 本当は「『様』なんてつけなくていいんだぞ」とかなりしつこく言われたのだったが、人から「殿下」なんて呼ばれている人をまさか呼び捨てになんてできなかった。

 実は彼が戻ってくることは、だいぶ前から気づいている。足音はとっくに憶えてしまったし、なにしろ彼の匂いは特別だから。
 というわけで彼の姿が見える前から、少年はタイミングを計っている。胸がドキドキして目はとっくに文字の上を滑ってしまっているのだが、それでもなんとかギリギリまで我慢するのだ、彼の顔が見えるまでは。

「今日は一日どうだった」

 いつものように少年の頭を優しく撫で、侍従がマントや剣などを受け取る間もすてきな笑顔を見せてくれる青年に、少年もいっぱいの笑顔を返す。
 そうして、今日一日どんな勉強をしたか、何を見聞きしたかを話して聞かせる。少年が何を言っても、青年は「そうか、それはよかった」と笑顔で聞いてくれるのだ。
 それを見ると、少年のしっぽもまた素直にぶんぶん左右に振れる。

「勉強のきりがいいなら、そろそろ終わって食事にしないか。夕餉ゆうげの間へ参ろう」
「はいっ。オレ、おなかぺこぺこですっ」
「ふふ。私もだ。いつも言ってるが、無理をして私を待たなくていいんだからな? そなたはもっと成長しなくてはいけないのだし」
「ううん、大丈夫です! ほ、ほんとはそんなにおなか減ってないから──」

 と言ったとたんに派手な音で腹が鳴ることもしばしばだ。そんなとき、少年は体じゅう真っ赤になって顔を隠してしまう。青年はいつも「そら、無理をするなと言うのに」と苦笑している。

 本当は、どんなに腹が減っていても彼を待つと決めている。彼だって、腹を減らしながら仕事をしてきているのだ、自分だけ先に食べているなんてとてもできない。
 その夕食というのがどれも、またシディの人生を一変させるような豪勢なものばかりだった。肉に魚、各種の野菜と果物をふんだんに使った、この世のものとは思えない美味い料理が毎日ならぶ。「とにかくしっかり食べて体力をつけてくれ」というのが青年のなによりの望みなのだった。
「さあ、これも美味いぞ。これも、これもだ」と、少年の口にどんどん料理を放り込もうとするので困ってしまう。困ってしまうが、実はとても嬉しい。これがやりたいからこそ、少年だって腹をすかせて彼を待っているのだから。

 青年は時間があればそばにいてくれるのだが、大切な仕事があるらしく、実は相当忙しい身のようだった。シディの体が回復してくるにつれて、昼間はこうして外に出ていることが次第に多くなっていったのだ。
 本人は「いやもうしばらくシディのそばに」と非常にいやがっていたのだが、彼の周囲の人々が許してくれなかった。「どうかお願いです、殿下」と懇願する日が続いたのだ。最終的に泣き落とされたらしい。
 だが、仕事に出ても夜には必ず戻ってくる。遅くなっても、できれば夕食は少年と一緒にとりたいらしい。

 実はしばしば、引き連れている武官や文官らしい人が「殿下、お願いですからもう少し書類の裁可を……」などと食い下がっていることもある。だが彼は「あとは任せた!」といつも振り払っているようだ。あとに残された人々がほとんど涙目になっていることもしばしばである。

「美味いか? シディ。これは好きか」
「はいっ。オレ、これ大好きです」
「そうか。苦手なものは無理に食べなくていいんだからな」

 食事中、青年はやっぱりあれこれと少年を気遣ってくれる。
 最初のうちは警戒していた少年も、今ではすっかり心を許してしまった。いずれにしても少年の鼻をだますことは難しい。悪意や欲望をもって近づいてくる者は独特の悪臭をもっているものだ。少年の鼻がそれを嗅ぎ分けないはずがなかった。

 そんなわけで、まことに幸せいっぱいな少年だったが、ひとつだけ不満に思っていることがある。
 出迎えをしたときなど、シディ自身は本当は彼にとびついてしまいたい衝動に駆られるのだが、青年は「はいはい」といったような顔でにこにこしているのに、必要以上に体に触れてくることはない。頭をなでてくれたり、手を握ってくれたりする程度だ。
 少年としては、もっともっと彼に触れたいし、触れられたいと思っているのに。

 夜には別々の部屋で眠るのだが、本当は一緒に寝たいと思っていた。彼が眠っている寝台の足元で、うずくまって眠るだけでもいいから。
 だから一度、訊いてみたことがある。
 「おなじ部屋で眠っちゃダメですか」と。

 そのとき、青年は非常に困った顔になったのだ。

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