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第一章 予感
4 輝く男
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匂いがやってきた後に続いたのは複数の足音だった。
犬系の獣人である少年は、鼻だけでなく耳もいい。人間の部分が多い者には聞き取れない音でも、かなり早くから察知できる。
足音はどんどん近づいてくる。その中心にいるらしい存在は、まっすぐにこちらを目指して歩いてくるのだ。間違いなく。
少年の胸の音が、とくとくと早まっていく。
(なに……? なんなんだ?)
困惑しながら檻の外の親方を見る。相手の姿はまだ見えない。
親方はまだ接近者にまったく気付いていないらしい。この男もまた、人間の部分の多い獣人だ。混ざっているのがなんの生き物かはわからないが、耳や鼻の形は人間のもの。能力的にはかなり低いはずである。
親方は不機嫌そうに鼻を鳴らし、それと同時にぶよついた腹を揺すりあげた。空はすっかり夜の闇に包まれている。いつも通りなら、これから男は出店で適当に自分の食事や酒を買い、檻車をひかせて自分の売春宿へ戻るのだ。子どもらの仕事ぶりを監視し、客からしっかりと代金を徴収するために。
少年はハラハラしはじめた。
もしも男が今すぐ「引き返す」と言ったら? いや、今にも言い出しそうだ。
もしもそうなったら、近づいてくるその存在を見ることは叶わないだろう。
(……イヤだ!)
「グルルルウッ」
思わず少年は唸った。いや、唸ってしまった。ひと目でもいいからその相手を見てみたかったという、悔しさのあまりに。やってしまってから「しまった」と思う。
「てめえ! いま、唸りやがったな!?」
案の定だった。親方は奴隷たちが反抗的な態度に出るのを決して許さない。腰紐にはさんだ鞭に手をかけて振り返り、殺意のこもった視線で少年を射る。
ビシッと鞭が地面を打った。少年は本能的に、びくっと跳ねあがる。
「客の前で粗相をするんじゃねえといつも言ってるだろうが! 貴様はいつになったらその小せえ頭に俺の教えをきざみこむんだ? ええ?」
「きゃうん……」
少年は檻の隅へ飛びすさって縮こまったが、ムダだった。親方はすぐさま檻の入り口を開けると、有無を言わさず少年を外へひきずりだした。
「ごめんなさい、もうしません」と言いたいのは山々だ。だが、歯のない少年に明瞭に言える言葉は少ない。「あう、ひゃうあう、わう……」と意味不明の音を並べ、哀れっぽく鳴いたり頭をさげたりするぐらいのことしかできない。
親方は当然、容赦などしてくれなかった。いつものように。
鞭が空気を切り裂いてうなる音がすれば、すぐにやってくるのはあの衝撃と痛み。そのはずだった。
(えっ……?)
ところが、いつまでたってもそれはやってこなかった。
むしろ「ん? うぐうっ」という親方の戸惑ったような声と、周囲の人々の不思議そうなひそひそ声が聞こえただけだ。
少年はおそるおそる目を上げてみた。
あの匂いがきつくなる。
(……!)
生まれてはじめてなほど、大きく目を瞠る。
その目に飛び込んできたのは「太陽」だった。
どこにも「黒い」ものがない姿。癖のない太陽の色をした髪と、涼しい紫色の瞳。宝石がきらめくような美しい色だった。もとは白い色だろう肌は健康的に日に焼けている。威風堂々たる青年だった。どこにも獣としての特徴がないところを見ると、純粋な人間のようである。
この国では貴族階級が身につける長衣とマントに身を包み、凝った彫刻のほどこされたサンダルを履いている。周囲には彼に従う者らしい、ごつい体をした兵士然とした男たちが数名立っていた。青年をはじめ、みな帯剣している。
青年は親方の腕をつかみ、他の者が鞭を抑えている。
親方も、少年以上に面食らった様子だった。
「な、なんですかい、旦那がた? ええと、この者をご所望で……?」
「とりあえず鞭をしまえ。……所望、と言えばまあ所望だがな」
「へ、へえ……」
親方はにやにや、へこへこしながら鞭を腰にもどす。「よしよし、どうやら商売になるぞ」と言わんばかりのにやけ顔だ。
どんなに奴隷たちに偉そうにしていても、親方とて庶民のひとりだ。貴族階級の者にはどうしても諂わざるを得ない。この国での身分差は絶対的なものである。ぶあつい手をしきりに揉みあわせながら頭をさげ、下卑た笑いをはりつけてにやにやと青年を見上げている。
「さすがお目が高うございますな、旦那さま。こやつはこの辺りではなかなか珍しい『呪われた仔』にございまして──」
「余計な講釈はいい」
少年にとっては聞きなれた口上を述べかけた親方に、青年はさもうるさそうに片手をふった。
その目は厳しく、少年のちぎられた耳や尻尾に向けられている。
「それより、ずいぶんと体に傷をつけられているようだが。これをやったのは誰だ。お前か?」
「へあ? ……い、いえいえ!」
親方が必死に首をふると、顎の下の醜くたるんだ肉がぶるぶる揺れた。
「お客様の中には色々とその……ちょっと乱暴なお方がおられまして──」
「ふむ」
そう言いつつ、青年の目はまったく親方の言うことなど信じていない様子だ。
「ならばその下手人の具体的な人相風体を教えよ。のちほど私の部下が詳しく話を聞く。みな、それ相応の罰を受けさせねばならぬゆえな」
「へ、……へえ? 罰と申されますと──」
「ところでこの者への鞭打ちは日常的に行われていたようだな? それについては貴様の所業ということで間違いないか」
「いっ、いえ! これはその……」
言いかけて、親方はやっと状況のまずさに気付いたらしい。慌てて鞭をごそごそと衣の下に隠している。
「自分のところの稼ぎ手どもをしつけるのは、主人としての勤めにございまするゆえ──」
青年はその言葉を鋭い眼光ひとつで黙らせた。
美しい紫の瞳は、明らかに怒りの炎に燃え上がっているように見えた。
犬系の獣人である少年は、鼻だけでなく耳もいい。人間の部分が多い者には聞き取れない音でも、かなり早くから察知できる。
足音はどんどん近づいてくる。その中心にいるらしい存在は、まっすぐにこちらを目指して歩いてくるのだ。間違いなく。
少年の胸の音が、とくとくと早まっていく。
(なに……? なんなんだ?)
困惑しながら檻の外の親方を見る。相手の姿はまだ見えない。
親方はまだ接近者にまったく気付いていないらしい。この男もまた、人間の部分の多い獣人だ。混ざっているのがなんの生き物かはわからないが、耳や鼻の形は人間のもの。能力的にはかなり低いはずである。
親方は不機嫌そうに鼻を鳴らし、それと同時にぶよついた腹を揺すりあげた。空はすっかり夜の闇に包まれている。いつも通りなら、これから男は出店で適当に自分の食事や酒を買い、檻車をひかせて自分の売春宿へ戻るのだ。子どもらの仕事ぶりを監視し、客からしっかりと代金を徴収するために。
少年はハラハラしはじめた。
もしも男が今すぐ「引き返す」と言ったら? いや、今にも言い出しそうだ。
もしもそうなったら、近づいてくるその存在を見ることは叶わないだろう。
(……イヤだ!)
「グルルルウッ」
思わず少年は唸った。いや、唸ってしまった。ひと目でもいいからその相手を見てみたかったという、悔しさのあまりに。やってしまってから「しまった」と思う。
「てめえ! いま、唸りやがったな!?」
案の定だった。親方は奴隷たちが反抗的な態度に出るのを決して許さない。腰紐にはさんだ鞭に手をかけて振り返り、殺意のこもった視線で少年を射る。
ビシッと鞭が地面を打った。少年は本能的に、びくっと跳ねあがる。
「客の前で粗相をするんじゃねえといつも言ってるだろうが! 貴様はいつになったらその小せえ頭に俺の教えをきざみこむんだ? ええ?」
「きゃうん……」
少年は檻の隅へ飛びすさって縮こまったが、ムダだった。親方はすぐさま檻の入り口を開けると、有無を言わさず少年を外へひきずりだした。
「ごめんなさい、もうしません」と言いたいのは山々だ。だが、歯のない少年に明瞭に言える言葉は少ない。「あう、ひゃうあう、わう……」と意味不明の音を並べ、哀れっぽく鳴いたり頭をさげたりするぐらいのことしかできない。
親方は当然、容赦などしてくれなかった。いつものように。
鞭が空気を切り裂いてうなる音がすれば、すぐにやってくるのはあの衝撃と痛み。そのはずだった。
(えっ……?)
ところが、いつまでたってもそれはやってこなかった。
むしろ「ん? うぐうっ」という親方の戸惑ったような声と、周囲の人々の不思議そうなひそひそ声が聞こえただけだ。
少年はおそるおそる目を上げてみた。
あの匂いがきつくなる。
(……!)
生まれてはじめてなほど、大きく目を瞠る。
その目に飛び込んできたのは「太陽」だった。
どこにも「黒い」ものがない姿。癖のない太陽の色をした髪と、涼しい紫色の瞳。宝石がきらめくような美しい色だった。もとは白い色だろう肌は健康的に日に焼けている。威風堂々たる青年だった。どこにも獣としての特徴がないところを見ると、純粋な人間のようである。
この国では貴族階級が身につける長衣とマントに身を包み、凝った彫刻のほどこされたサンダルを履いている。周囲には彼に従う者らしい、ごつい体をした兵士然とした男たちが数名立っていた。青年をはじめ、みな帯剣している。
青年は親方の腕をつかみ、他の者が鞭を抑えている。
親方も、少年以上に面食らった様子だった。
「な、なんですかい、旦那がた? ええと、この者をご所望で……?」
「とりあえず鞭をしまえ。……所望、と言えばまあ所望だがな」
「へ、へえ……」
親方はにやにや、へこへこしながら鞭を腰にもどす。「よしよし、どうやら商売になるぞ」と言わんばかりのにやけ顔だ。
どんなに奴隷たちに偉そうにしていても、親方とて庶民のひとりだ。貴族階級の者にはどうしても諂わざるを得ない。この国での身分差は絶対的なものである。ぶあつい手をしきりに揉みあわせながら頭をさげ、下卑た笑いをはりつけてにやにやと青年を見上げている。
「さすがお目が高うございますな、旦那さま。こやつはこの辺りではなかなか珍しい『呪われた仔』にございまして──」
「余計な講釈はいい」
少年にとっては聞きなれた口上を述べかけた親方に、青年はさもうるさそうに片手をふった。
その目は厳しく、少年のちぎられた耳や尻尾に向けられている。
「それより、ずいぶんと体に傷をつけられているようだが。これをやったのは誰だ。お前か?」
「へあ? ……い、いえいえ!」
親方が必死に首をふると、顎の下の醜くたるんだ肉がぶるぶる揺れた。
「お客様の中には色々とその……ちょっと乱暴なお方がおられまして──」
「ふむ」
そう言いつつ、青年の目はまったく親方の言うことなど信じていない様子だ。
「ならばその下手人の具体的な人相風体を教えよ。のちほど私の部下が詳しく話を聞く。みな、それ相応の罰を受けさせねばならぬゆえな」
「へ、……へえ? 罰と申されますと──」
「ところでこの者への鞭打ちは日常的に行われていたようだな? それについては貴様の所業ということで間違いないか」
「いっ、いえ! これはその……」
言いかけて、親方はやっと状況のまずさに気付いたらしい。慌てて鞭をごそごそと衣の下に隠している。
「自分のところの稼ぎ手どもをしつけるのは、主人としての勤めにございまするゆえ──」
青年はその言葉を鋭い眼光ひとつで黙らせた。
美しい紫の瞳は、明らかに怒りの炎に燃え上がっているように見えた。
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