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第一章 予感
1 黒い少年 ※
しおりを挟む少年はのろのろと、ゆるく下っていく坂をおりて行った。
親方は水浴びのために少年を外に出すとき、足枷に長い鎖をつなぎ直す。鎖はいつも、ちゃりちゃりと自分のあとをついてくる。
シンチェリターテ帝国の中央を流れる大河は、民から《フルーメン》、つまりただ「川」とだけ呼ばれることが多い。見たところ流れているように見えないほどの大きな川だった。だが、それでも上流と下流がある。
上流は王侯貴族たちのもの、中流は庶民のもの。そして下流は自分たちのような最下層の民のための洗い場となっている。王侯貴族たちはずっと上流の方に自分たちのためだけの水場や井戸などを持っているが、庶民はすべてこの川が頼りである。
もしも万が一この川が干上がりでもすれば、即座に庶民の命は失われる。それほど尊いものなのだ、川というのは。
上流から流れてきた様々な汚物が含まれた茶色い水で、少年は体を洗うし、少し澄んだ部分を見つけて水を飲みさえする。
仲間の少年少女たちはよく腹をくだしたし、それが元で熱病にかかって命を落とす者さえあった。それもしばしば。けれど、なぜか少年は無事だった。
少しぐらい腹が痛くなったことは何度もあったけれども、特に命にはかかわらなかったのだ。まあ運がよかっただけだろうが。
周囲で何かを洗ったり水浴びをしている下層民たちが、胡散臭い目をしてこちらを見ている。忌むべき者に対する恐れと憎しみと、見下して小馬鹿にする気分とを存分に混ぜ込んだいやな視線だ。
だがそんなものにはとっくに慣れっこだった。
今日は石や罵倒が飛んでこないだけマシというものだ。
帝国が奉じ、民にも信仰を要求するテラ神信仰では、黒いものは忌むべきもの、恐るべきものとされてきた。闇夜には神に対抗するどす黒い勢力が力を増し、あちこちで人を攫ったり傷つけたりすると信じられている。
髪だけだとか、目だけだとか、どこかしら「黒い部分」を持つ民は多かったけれど、少年は特別だった。
なにしろ髪も目も、肌もが黒い。普通は色が薄くなるはずの爪すらも黒かった。
頭ににょきりと生えているふさふさした大きな耳も黒ければ、尻から伸びている尻尾も黒い。獣の形質を体のどこかに備えている者は多いのだったが、ここまで全身がどこもかしこも真っ黒なものは珍しかった。
……ゆえに、捨てられた……のだろう、と思う。
なにしろ生まれて物心がつくまでの記憶がない。気がついた時にはもう、自分はあの親方のもとでこき使われ、ある程度育ったころからは客の相手をさせられるようになっていたから。
人には必ず親がいるのだそうだが、少年にはそんな人たちを思い出す縁すらなかった。
生まれたころには揃っていたのであろう両耳は、片側がちぎれてぎざぎざした変な台形になってしまっている。尻尾も本来なら長く大きなものだったはずなのだが、途中でぶつりと途切れたぶかっこうな状態だ。どちらも客の仕業だった。
こんなにも忌み嫌われる姿をしている少年を、親方はどこかの奴隷商人から買ったのであるらしい。物好きなものだ。だが、客にも物好きは多かった。
世の中には、ここまで他人から忌み嫌われ、恐れられる姿をした者を思う存分に虐げて、ついでに性的な満足も得ようとする男というのがいるのだ。しかも、かなりの数で。
少年は朝方から昼ごろまで寝て、その後はまだ日の高いうちから客の慰みものになった。
単純に尻に突っ込まれるだけならばまだいい。
男たちは妙に嗜虐的だった。まるでなにかに復讐するかのように、好き放題に少年を苛み、苦しがったり痛がったりする姿を見てさらに興奮するのだ。
そのためなら平気で毛をむしり、爪を剥ぎ、皮膚に刀傷をつける。殴る蹴るなどは日常茶飯事。
思うように泣き叫ばないと、当然、容赦ない罰が待っていた。
片耳にされたのも尻尾をぶつ切られたのもそのためだ。
「さあ、泣け! もっと啼け、このケシズミ野郎が!」
もっとずっとひどくて汚い言葉を吐き散らされながら、髪をつかまれて好き放題に突っ込まれ、汚いモノを舐めさせられる。
客のイチモツに思わず歯を立ててしまってからは、きつい罰のあと、牙をきれいに抜かれてしまった。
だから少年はうまくしゃべれない。「ふが、ふが」と変な声が出るばかりで、だれにも意思が伝わらず、とうとうしゃべることをやめてしまった。
客を十分に悦ばせることができなければ、当然、親方からの罰も待っていた。ただでさえ少ない食事を抜かれ、鞭を受ける。
だから親方に飼われている少年少女は、必死で客と親方に媚びた。
だが、少年はそうすることがうまくなかった。したいという気持ちはあったが、どうも得意ではないらしいのだ。
こんな風に忌み嫌われる黒い顔でどんなにお追従の笑顔を浮かべてみても、相手にはほとんど見えもしないらしかった。
「こいつは本当に愛想のないヤツでね。まあ呪われてる野郎だからしょうがねえんですが」
親方はでっぷりと太った腹を揺らし、客に向かって両手を揉みながら、しばしばそんなことを言うのだった。
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