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第三章 宇宙の涯(はて)で
4 疑念
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《ユーリ。……ユーリ》
寝具にもぐりこんでいるユーリの耳に、玻璃の穏やかで悲しげな声が響く。
《ユーリ。返事をしてくれ。体はどうだ? 大丈夫か》
《……はい。どうかご心配なく》
あれから男は、ユーリをまるで猫の子かなにかのようにつまみ上げ、浴室に放りこんで、さっさと部屋から出て行ってしまった。大人の親指よりも一回りも大きなカプセル状のものを手にしていて、懐に入れるのが見えたようだったが、それが何なのかは分からなかった。そこから数日、顔を見せない。
「幸いに」とまでは思えなかったが、ユーリは玻璃の目の前で射精させられただけのことで、後ろに異物を突っ込まれることはなんとか免れた。が、だから傷つかないという話でもない。むしろ、まったくその逆だった。
ユーリはどうにかこうにか《電子シャワー》で体を清め、それからしばらく浴室に籠って外に出ることもできなかった。何度も玻璃に促され、やっと着替えてからは、今度はずっと寝具に潜りっぱなしでベソをかいている。もちろん、食事もほとんどしていなかった。
玻璃に合わせる顔がなかった。いけないことだとは思いながらも、「あのまま死んでいたらよかったのに」とさえ、ちらりと考えたほどである。
《俺のことはどうか、気にするな。気持ちはわかるが、早く元気になって欲しい。食事も摂らねば、体に毒だぞ》
玻璃の思念はこの上もなく優しくて、申し訳なさそうだった。
《そなたがあんな目に遭っているというのに、なにひとつ助けることもできず……まことに申し訳ない。この通りだ。許して欲しい》
寝具の中にいるので玻璃の様子は分からなかったが、きっとこの人は《水槽》の中で深々と頭を下げているに違いなかった。
《玻璃殿のせいではありません。……ごめんなさい。私こそ……私こそ、こんな不甲斐のない王子で》
そう思念を送るだけで、またぶわっと目から涙が溢れた。せめても嗚咽を洩らすまいと、必死になって衣服の袖を噛みしめる。
だが、少し心にひっかかることはあった。
玻璃皇子は、非常に落ち着いているように見える。いや、ちょっと落ち着きすぎではないだろうか? いやしくも自分の配偶者たる人が、目の前で淫靡に犯されかかっているというのに、あまりに泰然としすぎなのでは。
(玻璃どのは──)
もしかして、さほど自分のことなど大切に想ってくださってはいなかったのだろうか。いや、自分にそんな資格があるなんて露ほども思うわけではないけれど。
なにかもやもやと重苦しいものが胸を占領しはじめて、ユーリは寝具の中でさらに身を縮こまらせた。
考えたくない。今は、何も考えたくなかった。
《ユーリ……》
頭の中に響く玻璃の声が、さらに悲しげなものになった。
《ユーリ、頼む。ほんの少しでよい。俺に顔を見せてくれぬか……》
《いやです》
《ユーリ──》
《こ、こんな顔……玻璃殿にはお見せできません。こんな……醜くて卑しい顔》
《そなたが卑しいなどということがあるものか。醜いなどということも、あるはずがない。どうか、頼む。本当に少しで良いから》
それでもユーリは、しばらく寝具の中で鬱々と考えた。ようやくそこから少し顔を覗かせようと思ったのは、静かで優しい玻璃の言葉があったからこそである。
ユーリはそろそろと、寝具の中から目だけを覗かせた。《水槽》の中でこちら側に身を寄せて膝立ちをしている玻璃の姿が目に入る。あの時からこっち、まともに見られなかった彼の顔を、ようやくきちんと見た気がした。
(玻璃どの……?)
そこで初めて気がついた。
玻璃は今まで見たこともないほど憔悴した顔をしていた。髪は乱れ、目の下には隈ができ、少し頬がこけている。下唇にひどく切れた痕があって、まだ血が滲んでいるようだった。
「あ……」
ハッとした。その唇が切れたのは、恐らくあの時だろう。
玻璃はあの行為の間ずっと、必死で唇を噛みしめていたのに違いない。
《は……玻璃どの》
思わず寝具から首を出し、上掛けを被ったままでのそのそと《水槽》に近づいた。引き寄せられるようにしてその表面に両手をつける。玻璃がすぐ、内側から同じ場所に手を添わせてくれた。
その手のひらには、ぎざぎざした赤い傷痕が横向きに走っている。
(これは──)
ユーリは目を見開いた。全身に震えが走る。
あの時だ。きっと、あの時にできたのだ。
あまりにも強く、拳を握りしめていたために──。
「ご……、ごめんなさ……っ」
喉がひきつり、声が掠れた。
目からはまた、ぶわっと涙が溢れだした。
「ごめんなさい。ごめんなさいいっ……! 私は……わた、しは──」
彼は誇り高き滄海の皇太子だ。次期海皇になる御方なのだ。
そんな人が呆気なく、また情けなくも「やめてくれ、許してくれ」とあんな男に泣きつけるはずがないではないか。どんなに愛する人のためとは言え、彼の立場で簡単に「なんでもするから」「後生だから許してやってくれ」などと言えるはずもないことなのに。
だが、目をそらすわけにもいかない。だから必死で歯を食いしばり、拳を握りしめてあの時間を共に耐えてくださった。ユーリの試練を共に味わってくださった。……つまり、そういうことなのだろうに。
それを、自分という奴は。
「ごめん、なさっ……うわ……あああっ。ふあ、あああああああっ……!」
ろくに水も飲んでいないのに、両目からとめどもなく熱い雫が滴り落ちていく。
無様な声が部屋に満ちていくのにも構わずに、ユーリはそのまま、赤子に戻ったみたいにわあわあ泣いた。
「ゆるして」にも「ごめんなさい」にもなりきれない歪んだ言葉が、冷たく虚しい部屋の中に長く尾を引いて響き渡った。
寝具にもぐりこんでいるユーリの耳に、玻璃の穏やかで悲しげな声が響く。
《ユーリ。返事をしてくれ。体はどうだ? 大丈夫か》
《……はい。どうかご心配なく》
あれから男は、ユーリをまるで猫の子かなにかのようにつまみ上げ、浴室に放りこんで、さっさと部屋から出て行ってしまった。大人の親指よりも一回りも大きなカプセル状のものを手にしていて、懐に入れるのが見えたようだったが、それが何なのかは分からなかった。そこから数日、顔を見せない。
「幸いに」とまでは思えなかったが、ユーリは玻璃の目の前で射精させられただけのことで、後ろに異物を突っ込まれることはなんとか免れた。が、だから傷つかないという話でもない。むしろ、まったくその逆だった。
ユーリはどうにかこうにか《電子シャワー》で体を清め、それからしばらく浴室に籠って外に出ることもできなかった。何度も玻璃に促され、やっと着替えてからは、今度はずっと寝具に潜りっぱなしでベソをかいている。もちろん、食事もほとんどしていなかった。
玻璃に合わせる顔がなかった。いけないことだとは思いながらも、「あのまま死んでいたらよかったのに」とさえ、ちらりと考えたほどである。
《俺のことはどうか、気にするな。気持ちはわかるが、早く元気になって欲しい。食事も摂らねば、体に毒だぞ》
玻璃の思念はこの上もなく優しくて、申し訳なさそうだった。
《そなたがあんな目に遭っているというのに、なにひとつ助けることもできず……まことに申し訳ない。この通りだ。許して欲しい》
寝具の中にいるので玻璃の様子は分からなかったが、きっとこの人は《水槽》の中で深々と頭を下げているに違いなかった。
《玻璃殿のせいではありません。……ごめんなさい。私こそ……私こそ、こんな不甲斐のない王子で》
そう思念を送るだけで、またぶわっと目から涙が溢れた。せめても嗚咽を洩らすまいと、必死になって衣服の袖を噛みしめる。
だが、少し心にひっかかることはあった。
玻璃皇子は、非常に落ち着いているように見える。いや、ちょっと落ち着きすぎではないだろうか? いやしくも自分の配偶者たる人が、目の前で淫靡に犯されかかっているというのに、あまりに泰然としすぎなのでは。
(玻璃どのは──)
もしかして、さほど自分のことなど大切に想ってくださってはいなかったのだろうか。いや、自分にそんな資格があるなんて露ほども思うわけではないけれど。
なにかもやもやと重苦しいものが胸を占領しはじめて、ユーリは寝具の中でさらに身を縮こまらせた。
考えたくない。今は、何も考えたくなかった。
《ユーリ……》
頭の中に響く玻璃の声が、さらに悲しげなものになった。
《ユーリ、頼む。ほんの少しでよい。俺に顔を見せてくれぬか……》
《いやです》
《ユーリ──》
《こ、こんな顔……玻璃殿にはお見せできません。こんな……醜くて卑しい顔》
《そなたが卑しいなどということがあるものか。醜いなどということも、あるはずがない。どうか、頼む。本当に少しで良いから》
それでもユーリは、しばらく寝具の中で鬱々と考えた。ようやくそこから少し顔を覗かせようと思ったのは、静かで優しい玻璃の言葉があったからこそである。
ユーリはそろそろと、寝具の中から目だけを覗かせた。《水槽》の中でこちら側に身を寄せて膝立ちをしている玻璃の姿が目に入る。あの時からこっち、まともに見られなかった彼の顔を、ようやくきちんと見た気がした。
(玻璃どの……?)
そこで初めて気がついた。
玻璃は今まで見たこともないほど憔悴した顔をしていた。髪は乱れ、目の下には隈ができ、少し頬がこけている。下唇にひどく切れた痕があって、まだ血が滲んでいるようだった。
「あ……」
ハッとした。その唇が切れたのは、恐らくあの時だろう。
玻璃はあの行為の間ずっと、必死で唇を噛みしめていたのに違いない。
《は……玻璃どの》
思わず寝具から首を出し、上掛けを被ったままでのそのそと《水槽》に近づいた。引き寄せられるようにしてその表面に両手をつける。玻璃がすぐ、内側から同じ場所に手を添わせてくれた。
その手のひらには、ぎざぎざした赤い傷痕が横向きに走っている。
(これは──)
ユーリは目を見開いた。全身に震えが走る。
あの時だ。きっと、あの時にできたのだ。
あまりにも強く、拳を握りしめていたために──。
「ご……、ごめんなさ……っ」
喉がひきつり、声が掠れた。
目からはまた、ぶわっと涙が溢れだした。
「ごめんなさい。ごめんなさいいっ……! 私は……わた、しは──」
彼は誇り高き滄海の皇太子だ。次期海皇になる御方なのだ。
そんな人が呆気なく、また情けなくも「やめてくれ、許してくれ」とあんな男に泣きつけるはずがないではないか。どんなに愛する人のためとは言え、彼の立場で簡単に「なんでもするから」「後生だから許してやってくれ」などと言えるはずもないことなのに。
だが、目をそらすわけにもいかない。だから必死で歯を食いしばり、拳を握りしめてあの時間を共に耐えてくださった。ユーリの試練を共に味わってくださった。……つまり、そういうことなのだろうに。
それを、自分という奴は。
「ごめん、なさっ……うわ……あああっ。ふあ、あああああああっ……!」
ろくに水も飲んでいないのに、両目からとめどもなく熱い雫が滴り落ちていく。
無様な声が部屋に満ちていくのにも構わずに、ユーリはそのまま、赤子に戻ったみたいにわあわあ泣いた。
「ゆるして」にも「ごめんなさい」にもなりきれない歪んだ言葉が、冷たく虚しい部屋の中に長く尾を引いて響き渡った。
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