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第一章 彼方より来たりし者

14 海の父

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 青鈍、藍鼠と別れて、ユーリは改めて群青陛下の御座所へ回った。
 先触れされた通り、水槽に入る前に尾鰭を装着する。若者は上半身に腕輪や首輪といったもの以外はつけないのが通例なのだが、不慣れなためなんだか恥ずかしい。いくらここでは普通でも、人前でこんな格好、アルネリオではありえないことなのだ。
 どうしたものかともじもじしていたら、女官の一人が助け船を出してくれた。

「女人やご高齢の皆様は薄絹をつけられます。よろしければ、殿下もそうなさいますか」

 すぐにそう提案してくれたのは、事前に予想されていたことだからなのだろう。もしかしたら、玻璃の指示なのかも知れなかった。鷹揚でありながらも目下の者へのこまやかな気遣いを忘れないあの人のことを思い出して、ユーリの胸はまたちりちりと痛んだ。
 用意されていた白い薄絹は、群青陛下がお召しのものとよく似ていた。触れてみると、こちらの昔話に出てくる天女の羽衣のように薄くて軽く、つややかな手触りがした。ユーリは尾鰭をつけてそれを羽織ると、ようやく水に入った。

 以前は怖かった水が、不思議なほどに怖くない。以前やったとおり、鼻と口をつけてゆっくりと呼吸すると、自然と鰓が機能しはじめる。
 女官たちに案内されて、ユーリはそのまま奥へ進んだ。後ろからロマンと黒鳶もついてくる。黒鳶は上半身裸だが、ロマンは側仕えの者がつける薄絹を羽織った姿だ。

(うわあ……すごいな)

 水の中とはいえ、やっぱり御殿は御殿だった。紅く塗られた太い柱がずっと続く長い回廊。みなが水の中を泳ぎ回るためだからか、天井はずいぶん高い。それでも空気中と同じようにうつくしいいらかが並び、海の植物による庭がしつらえられている。そのもとを尾鰭をつけた女官や男たちが優美な姿で泳ぎ回っていた。
 なにもかも、目にしみるように美しい。
 それはもしかしたら、ユーリ自身がこれを見納めと思っているからかもしれなかった。

《こちらです。陛下から、殿下おひとりでとうかがってございます》

 水の中では声帯を使って言葉をやりとりするのが難しいので、みな耳の中に通信機をはめ込んでいる。音声はそこから聞こえて来た。こちらも同じものを着けている。以前、はじめて会ったときに玻璃が着けていたのと同じものだ。
 言われた通りロマンと黒鳶を部屋の外に残して、ユーリは開かれた扉のなかに進んでいった。

 陛下のお部屋は、さすがにご高齢の方らしく落ち着いた雰囲気だった。調度はすべて、水を通して入り込んでくる光の加減をじゅうぶんに加味した色合いでまとめられている。素材はなんだかわからなかったが、どうかするとゆらゆら、ちらちらと控えめに光る。一部は恐らく、螺鈿らでんとよばれるものが使われているらしい。

 部屋のいちばん奥に少し高くなった雛壇があり、その上に柔らかそうな滄海式の長椅子が据えられている。
 群青陛下はそこにおられた。ほかには誰もいなかった。
 いつ拝謁しても思うけれど、本当に神々しいまでの見事な白髪とお髭である。海の皇そのものといったお姿だ。

《おお。ユーリか》

 こちらを見ると、陛下はもともと優しい瞳をさらに優しくして、ゆったりと両手を広げられ、ユーリをさし招いた。

《このような刻限に呼び立てて、まことにあいすまなかったな。……さあ、よければこちらへおいで》
《陛下……》

 つい逡巡して俯いてしまったが、何度か優しい声音でいざなわれて、とうとうユーリは恐るおそるそちらに泳ぎ寄った。
 泳ぎはやっぱり、下手くその極みである。よろよろと不格好に水をかくが、どうかするとすぐにくるりとあおむけになりそうになる。それでもどうにか陛下の足元の段下にたどりついて、改めて深々とこうべを垂れた。

《ユ、ユーリ、参りましてございます……》

 いや、それでは終わらなかった。頭を下げた拍子に尻が浮き上がって、非常に不格好なことになるのだ。慌ててわたわたしていたら、余計にどんどん変な姿勢になっていく。
 群青陛下がくすくすとお笑いになったようだった。

《ほれほれ。そのようなつまらぬところではなく。遠慮などせぬがよい。さあさあ、余の隣へおいで。ここなら落ち着こうほどに》
《え、あの……。でも》

 ユーリはもうし、目を白黒させている。
 隣というのは、そのお椅子のお隣へということだろうか。

(群青陛下の……お隣へ?)

《いっ、いえ! いえいえいえ!》

 そんなこと、とんでもない!
 畏れ多すぎて、身が縮むなどというものではない。
 まったくもって勘弁していただきたい。

《わ、わたくしはこちらで。どうか──》
《まあそう言わず。そのために、斯様に人払いをいたした。玻璃の配偶者となってくれたからには、そなたはもはや我が息子も同じ。だから、さあ、さあ……父のもとへおいで》
《お、畏れ多く……お許しを》

 そこでちょっと陛下は黙った。じっとユーリを見つめて、やや悲しげな瞳になられたようだ。

《左様か。やはり、こんな爺いのそばなどつまらぬか》
《そっ、そそ、そういうことではなく! 全然なくっ……!》

 両手を振り回してじたばたしすぎたせいで、ユーリはその場で今度こそ、体ごとぐるんと回ってしまった。水中なればこその大失態である。

(ひ、ひいっ……!)

 余計にばたばたすればするほど、体のバランスが崩れてぐるぐる回るばかりで、さらに変な格好になっていく。真っ赤になって慌てていたら、大きな手がぐいと腕を掴んで引っ張ってきた。
 気が付いたらもう、すとんと群青の隣に座らされていた。

《まあまあ、落ち着かれよ。すまぬな、急に呼び立てたゆえよなあ》

(ひいいいっ……!)

 ユーリの脳は、完全に真っ白になった。
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