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第一章 海の皇子と陸の王子

4 小舟

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 それは、数千年も昔の話。
 かつて北と南に大量にあったという氷山の多くが溶けだして、この惑星は水浸しになったのだという。
 それまで陸地は、この惑星全体の三割を占めていた。つまりはその時点でも、海は七割を占めていたことになる。
 だが今、陸地はたった一割にまで減少し、海は九割を占めるまでになってしまった。

 残されたわずかの陸地をめぐって、人類は恐るべき争いを始めることになった。信じられない話だが、当時何十億もいたという人口は、その時の残虐無比な「口減らし」によって激減した。まさに弱肉強食である。
 弱い者、老いた者から次々に死んでいき、肉体的、また知的に強者だったものたちだけが世界を席巻することになった。
 現在、地上の人口は全体で三億に満たない程度といったところらしい。とはいえ山奥の寒村などに隠れ住んでいる者たちもいるようなので、実際のところは分からないのだが。

 ともかくも。
 その大恐慌が終了してしばらくは、人類の文明は相当に衰退した。当時は高度な科学力を誇っていたという話だが、それらの知識や技術が失われ、何百年も文明が後退したというのだ。
 わずかに残った陸地を切り分け、いくつかの法治国家が成立するのに、さらに数百年の時間を要した。
 自分が所属する帝国アルネリオは、その中でも第一等の国土面積と人口を誇る国だ。海に沈み、島々となってしまった周辺の地域をも傘下に従えている。
 皇帝と貴族による政治が行われ、少数の商人や職人たちを別にすれば、領民のほとんどは農奴である。基本はそれら農奴からの租税を徴収することによって成り立つ、農業立国だ。
 国民の髪の色、肌の色、目の色などは多種様々だ。海に沈んだ陸地に住んでいた人々が、もとは高地であった地域へと移動してきて集まりあい、人種は混沌とまざりあって現在に至ったからである。

 ただこの惑星には、その当時からとある伝説が存在していた。
 減少していく陸地、つまり食物の奪い合いが起こった当時、持っていた高い科学技術を使って海へ活路を見出した人々がいたというのだ。
 彼らはいわば、空気から酸素を得ることを放棄した。自らの体を作りかえ、魚のように水から酸素を得るようになり、密かに海底へと住処を移したというのである。
 水の中に生きるため、彼らは腰から下の足を尾鰭に変えたという噂もあった。
 それはさながら、古代の伝説の生き物「人魚」と呼ばれたものに酷似していたというのである──。





「ま……まさか。まさか、そなたは──」

 がたがたと全身を震わせ、真っ青になっている王子を見やって、筋骨隆々の男性体をしたその人魚は、またにかりと笑った。

「〇〇、〇〇〇?」

 謎の言語でまた話しかけられるが、もちろん意味は分からない。
 だが、男の手が自らの尾鰭をぴたぴた叩いていることで、なんとなく意図は察した。

「その、つまり……。そなたはあの『人魚』なのか……?」

 掠れた声でやっとそう訊いたときだった。
 岩の向こうから、ぱしゃんと水音が響き、男の目がそちらを向いた。と、ひょいと片腕をそちらに伸ばして何かを取り上げている。
 それは、なにやら透明な容器だった。片腕で抱き込める程度の大きさの、卵型をしたものだ。中に何かが入っている。
 男はそれを少しいじっていたが、やがてぽんと二つに開いた。本当に、ちょうど卵を割るような感じだった。中から取り出したものを、ぐいとこちらに押し付けるようにする。

「えっ……」

 それは、王子の衣服だった。帝国の王族や武人たちがよく着る、詰襟のついた軍装である。肩や胸の金糸の飾り紐や刺繍ししゅうが豪華になればなるほど、身分の高さを示している。さらに黒い革製の長靴ちょうかや靴下などまであった。これも脱がされていたらしい。
 海に落ちてぐっしょり濡れていたはずのそれらは、綺麗に乾いていて汚れのひとつも見当たらなかった。
 王子が恐る恐る受け取ると、男はくいと顎を動かした。「着ろ」と言っているらしい。

「あ。えっと……ありがとう」

 どうにかこうにか礼を言い、男の動きから目を離さないように慎重に気を付けながら、ユーリは服を身に着けた。
 乾いた衣服は気持ちよかった。心がやっと落ち着いてくる。
 服を身に着け終わってから、ユーリはおずおずと岩の縁へ這い寄った。
 すると、男の眼下すぐのところに、何人かの──いや「何匹かの」と言うべきか──人魚が頭を出していた。様々な髪色の者がいる。この男のような長い髪の者もあれば、ごく短く刈り上げた者もいたが、すべて男性体のようだった。どうやら彼らが先ほどの卵を運んできたのであろう。
 男がくいと顎を揺らすと、彼らはさっと頭を垂れ、するっと海中に消えて行った。それはいかにも、上位者に対する礼を示すものに見えた。
 ユーリは不思議に思って、精悍な男の横顔を盗み見た。

「あの……。すまない、そなたは」
「〇〇〇」

 男はユーリの問いには無反応で、ひょいと片腕を上げて遠方を指さした。
 見ればそちらの空はゆるゆると朝を運んでくるところだった。そちらが東なのであろう。濃紺が少しずつ駆逐され、ぼんやりと橙色に雲が光り始めている。
 が、ユーリはすぐに気が付いた。
 その明るくなりかけた空の下、水平線上に、小さく黒い点が見えるのだ。

「あっ! あれは……!」

 思わず飛び上がりそうになった。
 あれは船だ。
 しかも、自分が乗っていたあの大型帆船である。
 まだろくに動かない身体で小躍りしそうになっている王子を、隣の人魚男は目を細めて見つめているようだった。

《あれで無事に帰れるであろう。そこまで送ろう》

「えっ!?」

 いきなり頭の中に低い声が響いて、王子はびっくりした。
 思わず男を見返すと、やっぱり微笑みを絶やさない男らしい瞳がこちらを見て笑っていた。
 その指が、長い髪の間から自分の耳をとんとんと軽く叩いている。
 耳の中に、金色の丸い何かが詰められているのが見えた。
 どうやらそれを使えば、こうして話ができるらしい。

「い、今のは……そなたか?」

 男の笑みがさらに深くなった。
 「応」という意味なのだろう。
 その耳につけた何かによって、互いの心を通わせることができるのだろうか。

《ここは岩礁だ。あの船では、ここへはまっすぐ来られまい》

 言って、男の目線がするっと足もとへ動いた。
 岩場の縁に、優美な形をした小舟が一艘、浮かんでいる。

《乗れ。兵どもが曳いてゆく》

 そう言ったかと思うと、男はさっと海に飛び込んだ。
 海に棲む生き物としての優美さと、勇壮さを兼ね備えた俊敏な動きだった。
 ユーリはしばらくきょとんとしていた。
 だが、頭の中で「早くせよ」という男の声が急き立ててきて、慌ててごそごそと立ち上がった。
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