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「あ、えっと……。す、済まない。勝手に──」

 アルファは慌てて、鬼の形相になった男に言い訳をしようとした。が、そんなことを言うにもう男は目の前にやってきていた。ぐいと左手首を掴まれる。

「見せてみろ! ……ああ、やったな。バカ皇子」
 言葉の間に舌打ちが挟まる。
「す、すまない……」
「包丁なんて握ったこともない坊ちゃんが、勝手に無茶をするからだ」
「そ、そんなことは……ないんだが」

 大嘘である。が、ベータにはそんなものはお見通しなのか、完璧に無視してのけた。その目が間違いなく怒っている。
 アルファは手首をつかまれたままシンクに引き寄せられ、傷ついた指をざっと流水で洗われた。そのまま清潔な布巾で傷の周囲を軽くふき取られる。一連のことをする間、男はずっと無言で、なおかつ目が据わっていた。
 やがてぶっきらぼうに「来い」とだけ言うと、ベータはもはや有無を言わさず、アルファをぐいぐいと医療カプセルのある部屋へと引きずっていった。

「あの……ベータ。こ、こんな大仰おおぎょうなことはしなくていいよ。こんな傷は──」
 さすがに「舐めておけば治る」とまで言わないが、医療用のテープでも貼っておけば済む話だ。医療カプセルだなんて、冗談じゃない。
「黙れ。どうせこの程度なら、ものの五分もあれば治療できる。その間に朝食は作っておく」
「で、でも……あっ!」

 あまりに強い力な上に、いつも以上に大股で歩くものだから、アルファの足はもつれてしまった。そうでなくても今の自分の下半身は、相当に不安定な状態なのだ。
 どすんとベータの背中に顔からつっこむような形になって、ようやく彼が足を止めた。見上げると、多少「しまった」という目をしているようだ。

「……すまん」

 幸い、こちらがまともに歩けない理由についてはちゃんと自覚しているらしい。こんな男でも一応、責任は感じてくれているようだ。ベータはそのまま、こともなげにアルファの体を抱き上げた。

「うわ……! いや、ベータ! そんなことまでは──」

 たかが指先の傷ひとつのことで、いちいち人を抱き上げるな。
 過保護にも程がある。こっちはいい歳をした男だぞ。
 が、ベータはこちらよりもはるかに強い視線で睨みかえしてきただけだった。

「いいから黙ってろ」

 おろおろしているうちに、すぐに医務室に着いてしまう。
 ベータはそこでアルファをおろすと、医療カプセルのフードを開いて手早くパネルを操作した。次にはもうくるりと振り向き、無言でどんどんアルファの着ているものを脱がしていく。

「ちょ、ベータ……!」
「やかましい」

 医療カプセルには基本的に、着衣のままでは入れないのだ。まあ子供たちだって普通に使うものなので、そうしたからといって事故などの大ごとになるわけではない。しかし、それでは確実に治療時間が長くなる。それは限られたエネルギーの無駄遣いというものだ。
 「どんどん」とは言ったけれども、いま自分が着ているものといったら夜着と下着にエプロンのみだ。あっという間に一糸まとわぬ姿にされて、アルファはカプセルに入れられた。いや、ほとんど「放り込まれる」に近かった。
 静かな振動音がして、カプセルのフードが閉じていく。それが完全に閉じきる前に、アルファはやっとこう言えた。

「そのっ。……済まない。ベータ──」

 言い終わるころにはカプセルの蓋はぴたりと閉じられ、内臓コンピュータが「お静かに願います。治療を開始いたします」とコールしてきた。透明なその窓から、ベータがふたたび大股に部屋を出ていく背中がちらりと見えた。





 五分後。
 「治療が完了いたしました」という女性の声とともに、カプセルのフードが静かにあがった。見れば確かに、指先の傷は痕ものこさずに消えていた。
 アルファは先ほど男にひんかれた自分の服を引き寄せて身に着けはじめた。と、軽くドアをノックする音とともにベータがひょいと入ってきた。
 アルファが何かを言う前に、もう男は目の前にやってきている。そのまま無造作に左手を持ち上げられて検分されてしまった。

「……よし」

 が、一瞬満足げになったその目がアルファのほうを見てぴたりと止まった。
 眉間にぎゅっと皺が刻まれるのを見て、アルファは首をかしげる。

(何だ……?)

 何を見られているのかと自分の体を見下ろして、アルファはハッとした。確かに先ほどまではあったはずのものが肌の上から消えている。
 まだ合わせていなかった夜着の襟の陰から見ても、先ほどまで体じゅうに散っていた花弁のような痕がきれいに消えてしまっていた。

「……あ」

 ちくりと胸の痛みを覚える。我知らず、肩を落とした。もうなんの痕も残っていない自分の肌に、惜しむように指を這わせる。
 間違いない。これは、喪失感だ。
 たったこれだけのものだとは思う。でも、それでも自分にとっては、とても嬉しい痕だったのに。
 がっかりして俯いたアルファを見てどう思ったのか。ベータはそれについては特に何も言わず、むしろ明るい声音になって、まったく別のことを告げて来た。

「朝食はもうできてる。さっさと食え。冷めると不味まずい」
「あ、……うん。いや、えっと」

 離れて行こうとした彼の袖口をつい掴む。いまの彼はバーテン姿でこそないけれど、黒いスラックスにシャツという普段着姿だ。

「その、前に……。いいかな」
「なに?」

 着物の前を合わさないまま立ち上がり、怪訝な顔になったベータに向き合う。するりと夜着が肩からすべり落ち、肘のところで止まるのも気にしないで、男の肩に両手を回した。

「済まない。全部、私のせいなのだけど」
 ベータは沈黙したままアルファを見ている。
「消えて……しまったから。だから」
 首を傾け、少し甘えるように顔を寄せた。

けて……? もう一度。私に──」

 そう耳もとで囁いたら、ぐわっと男が目をいた。
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