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第二十一椀
渾身の「焼きさば」。火加減にすべてを懸けます
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郷愁を誘う夕食どきの香りといえば「カレー」ともうひとつ、「焼き魚」があげられると思う。
こどもの頃のことだから、まさか特別に焼き魚が好物だったということはないのだろうけど、一人の帰り道でよそのお家から香ばしく魚の焼ける匂いがただよってくるときの、切ない気持ちは忘れようがない。
でも、焼き魚を本当においしいと思ったのは大人になって、結婚した後のことだ。
それまでぼくが知っていた焼き魚というのは、コンビニ弁当の幕の内なんかにちょろっと入っていたりするもので、たしかに焼き目は見えるけどどちらかというと蒸したんじゃないか、というような代物だった。
食堂なんかでたまに口にする焼き魚も、火の通りが均一でぱさぱさした味気ないものだった。
そんな先入観が一変したのは、やっぱり伊緒さんが焼いてくれたお魚をいただいてからのことだ。
「晃くん、焼き魚のお魚はなにが好き?」
結婚したての頃に、伊緒さんがそう尋ねてくれたことがあった。
当時はお互いの味の好みを完全には把握していなかったので、よくそうやってヒアリングをしてくれたのだ。
とはいえ、ぼくはその時まで焼き魚の種類について思いを馳せたことなどなかったので、えーと、えーと、と心の中で自問して、
「塩サバです」
という答えを導き出した。
ぼくの育った地域では、まだ流通が発達していなかった時代に「塩サバ」が貴重な海の魚として、特別な日の食べ物となっていたという。
だからお祭りの日のお膳には一本まるまるの塩サバを焼いたものがでたり、塩サバを酢〆めにした「きずし」を使った鯖寿司などがハレの郷土料理になっていたのだ。
なので、改めて考えるとぼくにとっての焼き魚といえばやっぱり塩サバなんだろうと思う。
「そっかあ。そういえばわたしはほとんど焼きサバって食べたことないかも」
伊緒さんが興味深そうに食いついてくる。
彼女の家庭での焼き魚は、「鮭」だったそうだ。
それもぼくのイメージするような塩鮭ではなくて、脂がじゅんじゅんにのった生の鮭だ。
さすが鮭の本場たる北国のこと、食卓にのぼる素材そのものが違うんだと感心してしまった。
伊緒さんは扱い慣れないはずの塩サバを、それはそれは丁寧に焼いてお膳に添えてくれた。
皮目はパリッと香ばしく、でも箸を入れると中はふんわりとやわらかい。
口に含むと甘い脂をまとった魚肉の繊維が、ほろりほろりとほどけていった。
さらに、ほどよい塩気と焦げ目の薫香が食欲を刺激して、ご飯が何杯でも食べられそうだった。
その時のあまりのおいしさに、ぼくは恥ずかしながら「ものすごくいいサバ」を焼いてくれたのだと勘違いしてしまったのだ。
「特価のノルウェーさばよ?でも脂のってておいしいね!」
屈託なくそう言って笑った伊緒さんが火加減にどれほどの心配りをしてくれていたのか、その時はまだ分かっていなかったけれど、焼き方ひとつでここまでお魚の味が変わることがとても神秘的に感じられた。
すっかり焼き魚が大好物になったぼくのために、伊緒さんはいろんな種類のお魚を焼いてくれた。
さんまの塩焼き、アジの一夜干し、さわらの味噌漬け、ブリかまの照り焼き、塩糠にしん、ニジマスの香草焼き……等々。
「川は皮から、海は身から」
と、伊緒さんがおまじないように唱えているコツも耳に残った。
切り身の場合、川魚は皮目から、海の魚は身の側から焼くというポイントのことだ。
どんな風に火加減をするのか興味がわいて、伊緒さんの手際を見学させてもらっているとある法則に気がついた。
最初は強めの中火くらいで表面を焼きかためて、あとはじんわりと弱火で中身に熱を通していくのだ。
そうするとぱさぱさにならず、しっとりジューシーな焼き魚に仕上がる。
言葉にするのは簡単だけど、切り身の厚さや味付けの違いによって、実に繊細な仕事を伊緒さんはやってのけていた。
ブリかまのように部位によって厚みが違えば、均等に火が回るようにこまめに位置を変えたり、焦げやすい味噌漬けは火から遠めに焼き網を調整して炭化しないように等々、その心配りは並大抵ではない。
「焼き魚は料理ではない」などという人もいるらしいけれど、それは多分、誰かのために魚を焼いたことのない人の言葉だろうと思う。
さて、これほどまでの腐心はひとえに、「一番おいしい状態で食べさせたい」という心遣いゆえのことだ。
だからこそ、頂く側としてもその焼き上がりを待ち構えて、まだ脂がじうじうと音を立てている間においしく食べるのがマナーだと思う。
だから晩ご飯のおかずが焼き魚の日は、帰宅時間をできるだけ正確に伊緒さんにお知らせするようにしている。
でもいつだったか、ぼくがぼんやりして「8時に帰ります」というべきところを「7時」と言い間違えてしまい、伊緒さんをやきもきさせてしまったことがあった。
焼き方の苦労を知らなければレンジでチンすればいいじゃん、くらいの軽い気持ちになれただろうけれど、彼女の心配りを無碍にしたことに胸が痛んだ。
かなり真剣に対応策を考えたぼくは、やがて自身も時間を確認しながら、間違いなく伝える方法に思い至った。
「もしもし伊緒さん、晃平です。お仕事終わったのでこれから帰りますね」
「お疲れさま!今夜は晃くんの好きな焼きサバだよ!」
「おお、やったあ!それでは・・・19時20分、ひときゅう・ふたまる現着予定」
「了解。ひときゅう・ひとまる?」
「もとい。ひときゅう・ふたまる」
「ああ、了解。ひときゅう・ふたまる現着予定。ヨーソロ」
と、自衛隊でも採用されている旧海軍の数字読みで伝えることにした。
なんだか大げさだなあ、と思いつつもこれが結構分かりやすい。
昔の艦隊勤務では風や波浪、機関音などで伝達の声が掻き消されてしまうため、確実に相手に届くようにはっきりと分かるような読み方をしたのだという。
大おじさんが海軍の主計兵だったという伊緒さんもこのお話をよく知っており、面白がって「ふたまる・ひとごお」「ひとふた・まるまる」などと繰り返してだんだんよく分からなくなってきたりしている。
ぼくは「ひときゅう・ふたまる、ひときゅう・ふたまる」と口の中で呟きながら、飛ぶような足取りでオンボロアパートの階段下まで到達した。
ここまですでにお魚の焼ける芳しい香りが漂ってきている。
現着予定時刻にまだ間があることに安堵しながら、ぼくの鼻がひこひことうごめいた。
こどもの頃のことだから、まさか特別に焼き魚が好物だったということはないのだろうけど、一人の帰り道でよそのお家から香ばしく魚の焼ける匂いがただよってくるときの、切ない気持ちは忘れようがない。
でも、焼き魚を本当においしいと思ったのは大人になって、結婚した後のことだ。
それまでぼくが知っていた焼き魚というのは、コンビニ弁当の幕の内なんかにちょろっと入っていたりするもので、たしかに焼き目は見えるけどどちらかというと蒸したんじゃないか、というような代物だった。
食堂なんかでたまに口にする焼き魚も、火の通りが均一でぱさぱさした味気ないものだった。
そんな先入観が一変したのは、やっぱり伊緒さんが焼いてくれたお魚をいただいてからのことだ。
「晃くん、焼き魚のお魚はなにが好き?」
結婚したての頃に、伊緒さんがそう尋ねてくれたことがあった。
当時はお互いの味の好みを完全には把握していなかったので、よくそうやってヒアリングをしてくれたのだ。
とはいえ、ぼくはその時まで焼き魚の種類について思いを馳せたことなどなかったので、えーと、えーと、と心の中で自問して、
「塩サバです」
という答えを導き出した。
ぼくの育った地域では、まだ流通が発達していなかった時代に「塩サバ」が貴重な海の魚として、特別な日の食べ物となっていたという。
だからお祭りの日のお膳には一本まるまるの塩サバを焼いたものがでたり、塩サバを酢〆めにした「きずし」を使った鯖寿司などがハレの郷土料理になっていたのだ。
なので、改めて考えるとぼくにとっての焼き魚といえばやっぱり塩サバなんだろうと思う。
「そっかあ。そういえばわたしはほとんど焼きサバって食べたことないかも」
伊緒さんが興味深そうに食いついてくる。
彼女の家庭での焼き魚は、「鮭」だったそうだ。
それもぼくのイメージするような塩鮭ではなくて、脂がじゅんじゅんにのった生の鮭だ。
さすが鮭の本場たる北国のこと、食卓にのぼる素材そのものが違うんだと感心してしまった。
伊緒さんは扱い慣れないはずの塩サバを、それはそれは丁寧に焼いてお膳に添えてくれた。
皮目はパリッと香ばしく、でも箸を入れると中はふんわりとやわらかい。
口に含むと甘い脂をまとった魚肉の繊維が、ほろりほろりとほどけていった。
さらに、ほどよい塩気と焦げ目の薫香が食欲を刺激して、ご飯が何杯でも食べられそうだった。
その時のあまりのおいしさに、ぼくは恥ずかしながら「ものすごくいいサバ」を焼いてくれたのだと勘違いしてしまったのだ。
「特価のノルウェーさばよ?でも脂のってておいしいね!」
屈託なくそう言って笑った伊緒さんが火加減にどれほどの心配りをしてくれていたのか、その時はまだ分かっていなかったけれど、焼き方ひとつでここまでお魚の味が変わることがとても神秘的に感じられた。
すっかり焼き魚が大好物になったぼくのために、伊緒さんはいろんな種類のお魚を焼いてくれた。
さんまの塩焼き、アジの一夜干し、さわらの味噌漬け、ブリかまの照り焼き、塩糠にしん、ニジマスの香草焼き……等々。
「川は皮から、海は身から」
と、伊緒さんがおまじないように唱えているコツも耳に残った。
切り身の場合、川魚は皮目から、海の魚は身の側から焼くというポイントのことだ。
どんな風に火加減をするのか興味がわいて、伊緒さんの手際を見学させてもらっているとある法則に気がついた。
最初は強めの中火くらいで表面を焼きかためて、あとはじんわりと弱火で中身に熱を通していくのだ。
そうするとぱさぱさにならず、しっとりジューシーな焼き魚に仕上がる。
言葉にするのは簡単だけど、切り身の厚さや味付けの違いによって、実に繊細な仕事を伊緒さんはやってのけていた。
ブリかまのように部位によって厚みが違えば、均等に火が回るようにこまめに位置を変えたり、焦げやすい味噌漬けは火から遠めに焼き網を調整して炭化しないように等々、その心配りは並大抵ではない。
「焼き魚は料理ではない」などという人もいるらしいけれど、それは多分、誰かのために魚を焼いたことのない人の言葉だろうと思う。
さて、これほどまでの腐心はひとえに、「一番おいしい状態で食べさせたい」という心遣いゆえのことだ。
だからこそ、頂く側としてもその焼き上がりを待ち構えて、まだ脂がじうじうと音を立てている間においしく食べるのがマナーだと思う。
だから晩ご飯のおかずが焼き魚の日は、帰宅時間をできるだけ正確に伊緒さんにお知らせするようにしている。
でもいつだったか、ぼくがぼんやりして「8時に帰ります」というべきところを「7時」と言い間違えてしまい、伊緒さんをやきもきさせてしまったことがあった。
焼き方の苦労を知らなければレンジでチンすればいいじゃん、くらいの軽い気持ちになれただろうけれど、彼女の心配りを無碍にしたことに胸が痛んだ。
かなり真剣に対応策を考えたぼくは、やがて自身も時間を確認しながら、間違いなく伝える方法に思い至った。
「もしもし伊緒さん、晃平です。お仕事終わったのでこれから帰りますね」
「お疲れさま!今夜は晃くんの好きな焼きサバだよ!」
「おお、やったあ!それでは・・・19時20分、ひときゅう・ふたまる現着予定」
「了解。ひときゅう・ひとまる?」
「もとい。ひときゅう・ふたまる」
「ああ、了解。ひときゅう・ふたまる現着予定。ヨーソロ」
と、自衛隊でも採用されている旧海軍の数字読みで伝えることにした。
なんだか大げさだなあ、と思いつつもこれが結構分かりやすい。
昔の艦隊勤務では風や波浪、機関音などで伝達の声が掻き消されてしまうため、確実に相手に届くようにはっきりと分かるような読み方をしたのだという。
大おじさんが海軍の主計兵だったという伊緒さんもこのお話をよく知っており、面白がって「ふたまる・ひとごお」「ひとふた・まるまる」などと繰り返してだんだんよく分からなくなってきたりしている。
ぼくは「ひときゅう・ふたまる、ひときゅう・ふたまる」と口の中で呟きながら、飛ぶような足取りでオンボロアパートの階段下まで到達した。
ここまですでにお魚の焼ける芳しい香りが漂ってきている。
現着予定時刻にまだ間があることに安堵しながら、ぼくの鼻がひこひことうごめいた。
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