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第四十九椀
お疲れに「レバニラ炒め」。心身のストレスもすっ飛ばします
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疲れた。
あんまり疲れた疲れたと口に出すのもよくないのだけど、今日はほんとうに疲れてしまった。
会社ではこってりと神経をすり減らし、ようやく仕事を終えて家路につくと、そんな時に限って電車はいつにも増して混んでいる。
超満員、乗車率120%、立錐の余地もない、さまざまな表現があるけれど、実際に経験しないとわからないだろう。
人間同士が直方体の箱にぎゅうぎゅう詰めになり、四方八方から圧迫されて、とんでもない格好のままじっとしていなくてはならない。
小柄なぼくはよくおじさんの肘がみぞおちに食い込んだり、おじさんの鼻息が脳天にふかふかかかったり、肩のあたりにスポーツ新聞を置かれたりしてなかなかスリリングだ。
そういう自分ももう立派なおじさんなのだから偉そうに言えないけど、まあお互いさまだと諦めることにしている。
ぜんたい、車内でのマナーがよろしくないのは我々おじさん世代が目立つように思えて仕方がない。
むしろぼくの印象では最近の若い人たちのほうがしゃきっとしていて、さりげなくお年寄りに席を譲ってあげるのも若者が多い。
いろいろと気になる車内での態度のうちで、ぼくがいちばん引っかかるのは座席で大股を開いて幅を取っている人だ。
ちょいと脚を閉じれば他の人が座れるのに。
たぶん内股の筋肉が退化してうまく閉じられなくなっているのだろうけど、前から見ると脚が「ひし型」のおじさんが結構いらっしゃる。
写メでも撮って一度見せてあげたいと思うのだけど。
いやはや、気が弱っているのかついつい愚痴っぽくなってしまう。
満員電車に揺られる、というのもサラリーマンの風情だと思えるほど達観できるといいのだけど、これがじわじわとストレスになって溜まっていくのだ。
誰かのスマホがぴろぴろ鳴ったり、すぐ近くの人のくちゃくちゃ口を動かす音が聞こえたりして、まともにいらいらすることも少なくない。
イヤホンで音楽を聞いてやり過ごすようにしているけれど、ぼくが朝早めに会社に行くようにしているのは、ひとつには満員電車のピーク時を避ける意図もある。
しかし、なんだかんだと言いながらも仕事があってご飯が食べられるというのは、本当にありがたいことなのだ。
ぼくは最初に就職した会社でうまくやっていくことができず、心身ともにぐたぐたに疲れ切ってやめてしまった。
その後、派遣社員としてほかの会社に勤め、正規雇用の話が出始めた頃にまだ記憶に新しい世界的な金融恐慌に見舞われた。
社員登用の件は白紙に戻り、いわゆる派遣切りの形で契約期間満了となった。
その後は就職活動はおろか、派遣やアルバイトの仕事もなかなか得られないという状態がしばらく続いた。
スポットや短期の校正業務でなんとか食いつなぎ、その間に何社も面接を受けたけど、当時の企業側の対応はほんとうに厳しかった。
「あなたのキャリアでは非常に不利です」
「最初の会社、やめなきゃよかったのにね」
「一度レールから外れると、ねえ」
どれも実際に面接官に言われたことで、くやしいとかどうとかよりも、ただひたすら情けなかった。
選ぶ側と、選んでもらおうとする側の圧倒的な立場の差があって、ぼくには選んでもらえるだけの力がなかっただけなのだ。
小説を書く、という趣味ができたのはなぜかそういう時期だった。
思うようにならない現実から目を背けたかったのか、毎日悶々としていた副作用が創作意欲として表れたのか、今となってはもうわからない。
けれど、自分のなかからとめどなくあふれてくる様々な世界や、魅力的な人々が織り成す物語は、ぼくにとってささやかな勇気になったのは確かだ。
それからある派遣先の職場で伊緒さんと知り合って、結婚して、いまの会社に入社した。
小説は相変わらず賞には落選し続けているけど、いくつかの投稿サイトに発表したものをたくさんの人が読んでくれて、すごく励みになっている。
ぼくは超満員の電車でサンドイッチになるたび、繰り返しそんな来し方を思い出すのだった。
ヨタヨタとオンボロアパートの階段下までたどり着くと、芳しく刺激的な匂いが漂ってきた。
ほかに何部屋にも住人がいて、それぞれご飯時だろうに、不思議なことに伊緒さんがつくってくれた料理の匂いがぼくにははっきり分かる。
途端に覚醒して、なるべく元気よく帰宅できるよう曲がっていた背筋をしゃんと伸ばして、ネクタイも整える。
「ただいまですー」
明るい声で玄関ドアを開けると、いつものように伊緒さんが出迎えてくれた。
「おかえりなさい、晃くん」
ふわっと小さな花が咲くような彼女の笑顔を見ると、いまだに胸がきゅうん、としてしまう。
今日みたいに弱っているときはなおさらで、自分で照れてとっさに、
「めちゃくちゃいい匂いですね!」
と、結局ご飯の話題にしてしまった。
でもほんとうに、中華屋さんののれんをくぐったときのような食欲をそそる香りが立ち込めている。
「ふふ。そうでしょう!すぐ食べられますからね」
伊緒さんはそう言って、ぼくが着替えたり手洗いうがいをしたりしている間にとんとんとん、と食卓を整えてくれている。
いつもながらまったくお大尽だなあ、と感謝しながら席につく。
「おお!レバニラ炒めですか!」
そこにはスタミナ料理の金字塔がででん、と鎮座していた。
「明日はおやすみだから、いいよね?」
伊緒さんがニコニコしながらご飯をよそって手渡してくれる。
ぼくは仕事で人と会うことが多いので、普段はあまり匂いの強いものは控えるように彼女も配慮してくれている。
でも、ほんとうはこんな力のつきそうなものを食べたくて仕方ないときもあるのだ。
まさしく今宵はそんな日だ。
喜んで手を合わせて、ふたり同時に「いただきます」と元気よく唱える。
レバー、ニラ、もやし、たまねぎ。
シンプルな材料だけどいずれも疲労回復にぴったりな、栄養満点のお料理だ。
箸先でがばっ、と野菜を摘むと、閉じ込められていた湯気とともに一層強く香りが立った。
ほおばって噛みしめると、しゃきりっしゃきりっ、と歯切れのいい音が響いてなんだか耳からも栄養をとっているみたいだ。
主役のレバーも、一口かじった瞬間に
「むっ!できる!」
という雰囲気を感じさせる、ひと味違った食感をまとっている。
火を通すとパサつきがちになるのに、全体にもっちりとやわらかく、厚手のハムのような口当たりだ。
「片栗粉をはたいて、サッと揚げてあるの」
伊緒さんの解説で、このレバーのおいしさに得心がいく。
それで表面が香ばしくコーティングされて、ふんわり旨みが閉じ込められているんだ。
ご飯がものすごくよく進む。
「よかった。たくさん食べてくれて。ここ最近お疲れのようだったから」
さらりと言った伊緒さんの言葉に、内心ギクッとした。
お家ではあんまり疲れた顔を見せたくないので、いつもどおりに振る舞うよう心がけていたはずだ。
ちゃんと、見てくれているんだ――。
さりげなく、でも温かく自分を待ってくれる人がいる。
それだけでもう、どんなにしんどくても頑張れると思う。
じっとりと染みついた疲れは、いつの間にかどこかへ吹き飛んでいた。
大きな声で
「おかわり!」
と差し出したお茶碗を、伊緒さんが弾けるような笑顔で受け取った。
あんまり疲れた疲れたと口に出すのもよくないのだけど、今日はほんとうに疲れてしまった。
会社ではこってりと神経をすり減らし、ようやく仕事を終えて家路につくと、そんな時に限って電車はいつにも増して混んでいる。
超満員、乗車率120%、立錐の余地もない、さまざまな表現があるけれど、実際に経験しないとわからないだろう。
人間同士が直方体の箱にぎゅうぎゅう詰めになり、四方八方から圧迫されて、とんでもない格好のままじっとしていなくてはならない。
小柄なぼくはよくおじさんの肘がみぞおちに食い込んだり、おじさんの鼻息が脳天にふかふかかかったり、肩のあたりにスポーツ新聞を置かれたりしてなかなかスリリングだ。
そういう自分ももう立派なおじさんなのだから偉そうに言えないけど、まあお互いさまだと諦めることにしている。
ぜんたい、車内でのマナーがよろしくないのは我々おじさん世代が目立つように思えて仕方がない。
むしろぼくの印象では最近の若い人たちのほうがしゃきっとしていて、さりげなくお年寄りに席を譲ってあげるのも若者が多い。
いろいろと気になる車内での態度のうちで、ぼくがいちばん引っかかるのは座席で大股を開いて幅を取っている人だ。
ちょいと脚を閉じれば他の人が座れるのに。
たぶん内股の筋肉が退化してうまく閉じられなくなっているのだろうけど、前から見ると脚が「ひし型」のおじさんが結構いらっしゃる。
写メでも撮って一度見せてあげたいと思うのだけど。
いやはや、気が弱っているのかついつい愚痴っぽくなってしまう。
満員電車に揺られる、というのもサラリーマンの風情だと思えるほど達観できるといいのだけど、これがじわじわとストレスになって溜まっていくのだ。
誰かのスマホがぴろぴろ鳴ったり、すぐ近くの人のくちゃくちゃ口を動かす音が聞こえたりして、まともにいらいらすることも少なくない。
イヤホンで音楽を聞いてやり過ごすようにしているけれど、ぼくが朝早めに会社に行くようにしているのは、ひとつには満員電車のピーク時を避ける意図もある。
しかし、なんだかんだと言いながらも仕事があってご飯が食べられるというのは、本当にありがたいことなのだ。
ぼくは最初に就職した会社でうまくやっていくことができず、心身ともにぐたぐたに疲れ切ってやめてしまった。
その後、派遣社員としてほかの会社に勤め、正規雇用の話が出始めた頃にまだ記憶に新しい世界的な金融恐慌に見舞われた。
社員登用の件は白紙に戻り、いわゆる派遣切りの形で契約期間満了となった。
その後は就職活動はおろか、派遣やアルバイトの仕事もなかなか得られないという状態がしばらく続いた。
スポットや短期の校正業務でなんとか食いつなぎ、その間に何社も面接を受けたけど、当時の企業側の対応はほんとうに厳しかった。
「あなたのキャリアでは非常に不利です」
「最初の会社、やめなきゃよかったのにね」
「一度レールから外れると、ねえ」
どれも実際に面接官に言われたことで、くやしいとかどうとかよりも、ただひたすら情けなかった。
選ぶ側と、選んでもらおうとする側の圧倒的な立場の差があって、ぼくには選んでもらえるだけの力がなかっただけなのだ。
小説を書く、という趣味ができたのはなぜかそういう時期だった。
思うようにならない現実から目を背けたかったのか、毎日悶々としていた副作用が創作意欲として表れたのか、今となってはもうわからない。
けれど、自分のなかからとめどなくあふれてくる様々な世界や、魅力的な人々が織り成す物語は、ぼくにとってささやかな勇気になったのは確かだ。
それからある派遣先の職場で伊緒さんと知り合って、結婚して、いまの会社に入社した。
小説は相変わらず賞には落選し続けているけど、いくつかの投稿サイトに発表したものをたくさんの人が読んでくれて、すごく励みになっている。
ぼくは超満員の電車でサンドイッチになるたび、繰り返しそんな来し方を思い出すのだった。
ヨタヨタとオンボロアパートの階段下までたどり着くと、芳しく刺激的な匂いが漂ってきた。
ほかに何部屋にも住人がいて、それぞれご飯時だろうに、不思議なことに伊緒さんがつくってくれた料理の匂いがぼくにははっきり分かる。
途端に覚醒して、なるべく元気よく帰宅できるよう曲がっていた背筋をしゃんと伸ばして、ネクタイも整える。
「ただいまですー」
明るい声で玄関ドアを開けると、いつものように伊緒さんが出迎えてくれた。
「おかえりなさい、晃くん」
ふわっと小さな花が咲くような彼女の笑顔を見ると、いまだに胸がきゅうん、としてしまう。
今日みたいに弱っているときはなおさらで、自分で照れてとっさに、
「めちゃくちゃいい匂いですね!」
と、結局ご飯の話題にしてしまった。
でもほんとうに、中華屋さんののれんをくぐったときのような食欲をそそる香りが立ち込めている。
「ふふ。そうでしょう!すぐ食べられますからね」
伊緒さんはそう言って、ぼくが着替えたり手洗いうがいをしたりしている間にとんとんとん、と食卓を整えてくれている。
いつもながらまったくお大尽だなあ、と感謝しながら席につく。
「おお!レバニラ炒めですか!」
そこにはスタミナ料理の金字塔がででん、と鎮座していた。
「明日はおやすみだから、いいよね?」
伊緒さんがニコニコしながらご飯をよそって手渡してくれる。
ぼくは仕事で人と会うことが多いので、普段はあまり匂いの強いものは控えるように彼女も配慮してくれている。
でも、ほんとうはこんな力のつきそうなものを食べたくて仕方ないときもあるのだ。
まさしく今宵はそんな日だ。
喜んで手を合わせて、ふたり同時に「いただきます」と元気よく唱える。
レバー、ニラ、もやし、たまねぎ。
シンプルな材料だけどいずれも疲労回復にぴったりな、栄養満点のお料理だ。
箸先でがばっ、と野菜を摘むと、閉じ込められていた湯気とともに一層強く香りが立った。
ほおばって噛みしめると、しゃきりっしゃきりっ、と歯切れのいい音が響いてなんだか耳からも栄養をとっているみたいだ。
主役のレバーも、一口かじった瞬間に
「むっ!できる!」
という雰囲気を感じさせる、ひと味違った食感をまとっている。
火を通すとパサつきがちになるのに、全体にもっちりとやわらかく、厚手のハムのような口当たりだ。
「片栗粉をはたいて、サッと揚げてあるの」
伊緒さんの解説で、このレバーのおいしさに得心がいく。
それで表面が香ばしくコーティングされて、ふんわり旨みが閉じ込められているんだ。
ご飯がものすごくよく進む。
「よかった。たくさん食べてくれて。ここ最近お疲れのようだったから」
さらりと言った伊緒さんの言葉に、内心ギクッとした。
お家ではあんまり疲れた顔を見せたくないので、いつもどおりに振る舞うよう心がけていたはずだ。
ちゃんと、見てくれているんだ――。
さりげなく、でも温かく自分を待ってくれる人がいる。
それだけでもう、どんなにしんどくても頑張れると思う。
じっとりと染みついた疲れは、いつの間にかどこかへ吹き飛んでいた。
大きな声で
「おかわり!」
と差し出したお茶碗を、伊緒さんが弾けるような笑顔で受け取った。
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