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第四十七椀
皮も手づくり「もっちりギョーザ」。お部屋に初訪問って緊迫です
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初めて伊緒さんの部屋にお邪魔したとき、本当に緊張したのをよく覚えている。
その時はまだ正式にお付き合いしているわけではなくて、本とかマンガとかの貸し借りを通じてだいぶ仲良くなってきたかなあ、という程度の関係だった。
なので"伊緒さん"なんてなれなれしく呼べるはずもなく、旧姓である「上月(こうづき)さん」と呼んでいた。
珍しい苗字だし、字面がなんかかっこいいので彼女の雰囲気によく似合っていると思ったものだった。
彼女は派遣社員として働きながら、自宅では歴史関連のライターのお仕事をしていることを知っていたので、よく資料用の貴重本についての話題が出ていた。
ぼくの密やかな趣味である小説書きのことを、なぜか上月さんにはぽろっとしゃべってしまったこともあって、「資料」に関する情報交換も貴重なお話の種になっていたのだ。
その当時、ぼくは時代物を構想していてしきりに刀のことを調べていた。
刀剣写真をまとめた大判の本が図書館にあったのだけど禁帯出で、ちょくちょく通っては目を通している、ということを何の気無しに上月さんに話した。
すると、
「それって国宝のシリーズのやつですよね。うちにあったかもしれません。よかったらお貸ししましょうか」
と、思わぬ申し出をしてくれたのだ。
会社に持ってきてくれようとしたのだけど、すごく大きくて重たい本なのであんまりにも申し訳ない。
そこで、失礼でなければ近くまで受け取りに伺います、と打診したのだった。
「そうですか。わかりました」
あっさりそう言って、では改めて予定を合わせましょうか、ということになった。
その晩、上月さんから「次の土曜のお昼は空いていますか」とメールが入った。
空いていますと返信すると、「では11時頃、下記まで来られたし」と集合場所の指定があった。
だが、その所在地に目を通したぼくは、ガクガクブルブルとわなないた。
それは多分、というかもう絶対、上月さんの住所だったから。
――さて。
困ったことになった、と思いました。
そのときのわたしはたいへん冷静なつもりだったのですが、メールを送信してしまってから急に緊張してきたのです。
もちろん本を貸す、という大義名分があってのことでしたが、わざわざ自分の部屋に呼びつけるというのはさすがにやり過ぎではないか。
いまさらながらそう思われて、悶々としていたのです。
いやいや、でもまあ、大きいし重いし、取りに来てもらうだけだし。
そう何度も自分にいいわけをしましたが、少し後悔していました。
付き合ってもいない男の子を部屋に呼ぶなんて、いやらしい女だと思われたのではないか。
そんなことばかり考えてしまいました。
恥ずかしながら、わたしはいい歳をしてこれまで男の人を部屋に上げたことはありませんでした。
でも、常々彼とはもう少しお話がしたいと思っていたのです。
会社ではやっぱり人目もあるし、話せるとしてもお昼休みのひとときだけか、偶然廊下で行きあったときくらいです。
仕事中に原稿の受け渡しはしますが、業務連絡くらいしか言葉を交わせません。
ですので、安心してお話ができるとしたら、自分の部屋しかないと思っていたのです。
これはごく自然に遊びに来てもらうための、千載一遇のチャンスでした。
そもそも昼日中のことですし、もうひとつ思いついた大義名分もあったので、気をしっかり持とうと心がけました。
だから彼から、
「承知しました。ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」
と、淡々とした返信を受け取ったときは思わず小さくガッツポーズをしたものでした。
――ここか。上月さんのお住まいは。
カタカタと震えつつ彼女の部屋のインターフォンを押す。
おみやげのケーキを渡して、本をお借りしてすぐ帰る、本をお借りしてすぐ帰る……と唱えている間にドアがかちゃりと開いて、上月さんが顔をのぞかせる。
「いらっしゃい。わざわざごめんなさいね。さあ、上がってください」
いえ、玄関先で結構ですので、と何度もシミュレーションした台詞を言い終わる前に、上月さんはずんずん奥へと先導していく。
結局は「お邪魔します」と上がらせてもらったのだけど、しっかり噛んで「おにゃまします」になってしまった。
上月さんはジーンズに白いチュニックというリラックスした出で立ちで、会社ではいつも後ろでまとめている髪も下ろしている。
こんなに髪が長かったんだ、と新鮮な姿にすっかり見惚れてしまった。
メインの要件だった資料本を拝見しつつ、会社でよりもずっとくだけた感じのおしゃべりをしていると、あっという間に1時間ほどが経っていた。
これは浦島太郎になってしまうわなあと思いつつ、つい長居してしまったことに恥じ入った。
お昼どきなのでさすがにお礼を伝えて辞去しようとしたのだけど、思いがけない彼女の言葉に、今度こそ足腰が立たなくなった。
「おなかすいたでしょう。お昼、用意してますから」
そう、本を貸すこと以外のわたしのもうひとつの大義名分。
それは「ご飯を食べさせてあげる」ことでした。
会社では、彼があんまりお昼ご飯をちゃんと食べていないことにわたしは気付いていました。
お昼休みは本を読んでいるか仮眠をとっているか、何か食べているとしてもコッペパン(古いか)的な簡単なものだけでした。
これはいけない、彼くらいの年齢の男性がそんなことでは、今後の活躍に支障をきたすに違いないと思ったのです。
じっさい、大きなお世話であって、わたしも他の人だったら気にもとめなかったはずですが、彼については妙に心に引っかかってしまったのです。
これはいわば寮母さんとか親戚のおばさんとかの心情に近いもので、なんの他意もありませんからね、とわたしは自分に言い聞かせていました。
彼に食べてもらうにはなにがいいか、答えはすぐに出ました。
おいしくて栄養があって、なおかつ決して気取ったものではない、わたしの得意料理。
それは祖母直伝の皮から手づくりする「ギョーザ」です。
正確には中国のギョーザではなく、ロシア風の「ペリメニ」というお料理なのですが、焼いて酢醤油で食べるとたちどころに中華になるすぐれものなのです。
わたしはこれを、焼きとスープの両方で食べさせてあげようと思ったのでした。
魔法のような手際で、上月さんがギョーザの皮を手づくりしている。
耳たぶほどのかたさに捏ねた小麦粉を、お団子大に丸めてぺしゃっと平たくする。
麺棒を前後に動かしてローラー代わりにし、片手でくるくると生地を回転させながら伸ばしていくとあっという間に、皮ができあがる。
すごいすごい!
ぼくは恐縮するのも忘れてその技に見入ってしまった。
なし崩し的に上月さんと一緒にあんを包んでいく。
豚肉に粗みじんの玉ねぎ、湯通しして水気を切った刻みキャベツ。
臭いに配慮してニンニクは本当にほんの少し。
彼女ともくもくとギョーザを包んでいるのが不思議で、なんだか夢見心地だ。
「あんにほんの少しお水を加えると、出来上がりがジューシーになりますよ」
彼女のそんな言葉だけが、鮮明に記憶されている。
わたしのギョーザは、自分でいうのもなんですが会心の作だったと思います。
皮はもっちりとして、噛みしめるとあんからちゅわっ、と肉汁があふれ出てきました。
彼にもたいへん好評で、最初はぎこちなかったわたしたちも、これを機にすっかり打ち解けたのです。
彼が持ってきてくれたケーキもおもたせで一緒に食べて、もう少しいてほしかったのですが2度目の暇ごいは引き留めないようにしました。
なぜなら、わたしも彼も本を持っていくことをコロリと忘れていたので、近いうちにまた遊びに来てもらえばいいやあ、と愉快な余韻に浸っていたからなのでした。
その時はまだ正式にお付き合いしているわけではなくて、本とかマンガとかの貸し借りを通じてだいぶ仲良くなってきたかなあ、という程度の関係だった。
なので"伊緒さん"なんてなれなれしく呼べるはずもなく、旧姓である「上月(こうづき)さん」と呼んでいた。
珍しい苗字だし、字面がなんかかっこいいので彼女の雰囲気によく似合っていると思ったものだった。
彼女は派遣社員として働きながら、自宅では歴史関連のライターのお仕事をしていることを知っていたので、よく資料用の貴重本についての話題が出ていた。
ぼくの密やかな趣味である小説書きのことを、なぜか上月さんにはぽろっとしゃべってしまったこともあって、「資料」に関する情報交換も貴重なお話の種になっていたのだ。
その当時、ぼくは時代物を構想していてしきりに刀のことを調べていた。
刀剣写真をまとめた大判の本が図書館にあったのだけど禁帯出で、ちょくちょく通っては目を通している、ということを何の気無しに上月さんに話した。
すると、
「それって国宝のシリーズのやつですよね。うちにあったかもしれません。よかったらお貸ししましょうか」
と、思わぬ申し出をしてくれたのだ。
会社に持ってきてくれようとしたのだけど、すごく大きくて重たい本なのであんまりにも申し訳ない。
そこで、失礼でなければ近くまで受け取りに伺います、と打診したのだった。
「そうですか。わかりました」
あっさりそう言って、では改めて予定を合わせましょうか、ということになった。
その晩、上月さんから「次の土曜のお昼は空いていますか」とメールが入った。
空いていますと返信すると、「では11時頃、下記まで来られたし」と集合場所の指定があった。
だが、その所在地に目を通したぼくは、ガクガクブルブルとわなないた。
それは多分、というかもう絶対、上月さんの住所だったから。
――さて。
困ったことになった、と思いました。
そのときのわたしはたいへん冷静なつもりだったのですが、メールを送信してしまってから急に緊張してきたのです。
もちろん本を貸す、という大義名分があってのことでしたが、わざわざ自分の部屋に呼びつけるというのはさすがにやり過ぎではないか。
いまさらながらそう思われて、悶々としていたのです。
いやいや、でもまあ、大きいし重いし、取りに来てもらうだけだし。
そう何度も自分にいいわけをしましたが、少し後悔していました。
付き合ってもいない男の子を部屋に呼ぶなんて、いやらしい女だと思われたのではないか。
そんなことばかり考えてしまいました。
恥ずかしながら、わたしはいい歳をしてこれまで男の人を部屋に上げたことはありませんでした。
でも、常々彼とはもう少しお話がしたいと思っていたのです。
会社ではやっぱり人目もあるし、話せるとしてもお昼休みのひとときだけか、偶然廊下で行きあったときくらいです。
仕事中に原稿の受け渡しはしますが、業務連絡くらいしか言葉を交わせません。
ですので、安心してお話ができるとしたら、自分の部屋しかないと思っていたのです。
これはごく自然に遊びに来てもらうための、千載一遇のチャンスでした。
そもそも昼日中のことですし、もうひとつ思いついた大義名分もあったので、気をしっかり持とうと心がけました。
だから彼から、
「承知しました。ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」
と、淡々とした返信を受け取ったときは思わず小さくガッツポーズをしたものでした。
――ここか。上月さんのお住まいは。
カタカタと震えつつ彼女の部屋のインターフォンを押す。
おみやげのケーキを渡して、本をお借りしてすぐ帰る、本をお借りしてすぐ帰る……と唱えている間にドアがかちゃりと開いて、上月さんが顔をのぞかせる。
「いらっしゃい。わざわざごめんなさいね。さあ、上がってください」
いえ、玄関先で結構ですので、と何度もシミュレーションした台詞を言い終わる前に、上月さんはずんずん奥へと先導していく。
結局は「お邪魔します」と上がらせてもらったのだけど、しっかり噛んで「おにゃまします」になってしまった。
上月さんはジーンズに白いチュニックというリラックスした出で立ちで、会社ではいつも後ろでまとめている髪も下ろしている。
こんなに髪が長かったんだ、と新鮮な姿にすっかり見惚れてしまった。
メインの要件だった資料本を拝見しつつ、会社でよりもずっとくだけた感じのおしゃべりをしていると、あっという間に1時間ほどが経っていた。
これは浦島太郎になってしまうわなあと思いつつ、つい長居してしまったことに恥じ入った。
お昼どきなのでさすがにお礼を伝えて辞去しようとしたのだけど、思いがけない彼女の言葉に、今度こそ足腰が立たなくなった。
「おなかすいたでしょう。お昼、用意してますから」
そう、本を貸すこと以外のわたしのもうひとつの大義名分。
それは「ご飯を食べさせてあげる」ことでした。
会社では、彼があんまりお昼ご飯をちゃんと食べていないことにわたしは気付いていました。
お昼休みは本を読んでいるか仮眠をとっているか、何か食べているとしてもコッペパン(古いか)的な簡単なものだけでした。
これはいけない、彼くらいの年齢の男性がそんなことでは、今後の活躍に支障をきたすに違いないと思ったのです。
じっさい、大きなお世話であって、わたしも他の人だったら気にもとめなかったはずですが、彼については妙に心に引っかかってしまったのです。
これはいわば寮母さんとか親戚のおばさんとかの心情に近いもので、なんの他意もありませんからね、とわたしは自分に言い聞かせていました。
彼に食べてもらうにはなにがいいか、答えはすぐに出ました。
おいしくて栄養があって、なおかつ決して気取ったものではない、わたしの得意料理。
それは祖母直伝の皮から手づくりする「ギョーザ」です。
正確には中国のギョーザではなく、ロシア風の「ペリメニ」というお料理なのですが、焼いて酢醤油で食べるとたちどころに中華になるすぐれものなのです。
わたしはこれを、焼きとスープの両方で食べさせてあげようと思ったのでした。
魔法のような手際で、上月さんがギョーザの皮を手づくりしている。
耳たぶほどのかたさに捏ねた小麦粉を、お団子大に丸めてぺしゃっと平たくする。
麺棒を前後に動かしてローラー代わりにし、片手でくるくると生地を回転させながら伸ばしていくとあっという間に、皮ができあがる。
すごいすごい!
ぼくは恐縮するのも忘れてその技に見入ってしまった。
なし崩し的に上月さんと一緒にあんを包んでいく。
豚肉に粗みじんの玉ねぎ、湯通しして水気を切った刻みキャベツ。
臭いに配慮してニンニクは本当にほんの少し。
彼女ともくもくとギョーザを包んでいるのが不思議で、なんだか夢見心地だ。
「あんにほんの少しお水を加えると、出来上がりがジューシーになりますよ」
彼女のそんな言葉だけが、鮮明に記憶されている。
わたしのギョーザは、自分でいうのもなんですが会心の作だったと思います。
皮はもっちりとして、噛みしめるとあんからちゅわっ、と肉汁があふれ出てきました。
彼にもたいへん好評で、最初はぎこちなかったわたしたちも、これを機にすっかり打ち解けたのです。
彼が持ってきてくれたケーキもおもたせで一緒に食べて、もう少しいてほしかったのですが2度目の暇ごいは引き留めないようにしました。
なぜなら、わたしも彼も本を持っていくことをコロリと忘れていたので、近いうちにまた遊びに来てもらえばいいやあ、と愉快な余韻に浸っていたからなのでした。
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