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第三十八椀
たかが、されどの「ゆでたまご」。伊緒さんとイースターの思い出
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伊緒さんはたまご好きだ。
オムレツとか茶碗蒸しとか、さまざまな卵料理ももちろん得意なのだけど、「たまご」そのものが好きなのだという。
かわいらしい楕円形の理由は、巣から転げ落ちないため。
その中身は世界で一番大きな単細胞。
そういったところが、いろんな方面から伊緒さんの琴線に触れているみたいだ。
それにたまごについては、彼女にとってたいへん思い出深いエピソードがあるという。
伊緒さんがこどもの頃、とても楽しみにしていた行事のひとつに「イースター」があった。
日本ではまだあんまりメジャーではないけれど、クリスチャンにとってはすごく大切なお祭りで、「復活祭」という名前でもよく知られているものだ。
伊緒さん自身は洗礼を受けていないそうだけど、彼女のおばあちゃんが敬虔なクリスチャンだった。
それもカトリックとかプロテスタントとかのいわゆる「西方教会」じゃなくて、ギリシャ正教とかロシア正教とかの「正教会」のほうだったというからぼくにはすごく珍しいお話だ。
伊緒さんの故郷では、昔からロシアより移住してきた人たちが多く、自然にロシア正教の教会も建てられるようになったのだという。
正教会では復活祭のことをあまりイースターとは呼ばず、「パスハ」というそうだ。
同じ名前の白いチーズケーキみたいなお菓子が欠かせないものとして用意され、伊緒さんはこどもの頃それをとっても楽しみにしていたのだ。
復活祭の日取りは西方教会と正教会では異なり、伊緒さんに何度聞いても覚えられないのだけど、そのまま請け売りをすると、
「復活祭は春分の日の後、直近の満月の次の日曜日なの。でも、西方教会はグレゴリオ暦、正教会はユリウス暦で数えるからそれぞれ日付が違うのよ」
だ、そうだ。
グレゴリオ暦はぼくたちが今まさに使っている西暦のことで、ユリウス暦はそれより古い歴史をもつ紀元前からの太陽暦だそうだ。
なんのことかあんまりよく分からないけど、日本の行事でも旧暦でやるところもあるのと似ているかもしれない。
伊緒さんはおばあちゃんがつくってくれるお菓子も楽しみだったけど、それ以上に彼女を魅了したのがいわゆる「イースターエッグ」だった。
色とりどりに彩色されたたまごの数々は、もちろん「復活」を意味する縁起物なのだけど、こどもの伊緒さんはこれが大好きだった。
かつては赤一色で染められるのが普通だったそうで、染料として玉ねぎの皮を一緒に入れてゆでたのだという。
でも徐々に美しく装飾されるようになって、伊緒さんのおばあちゃんは口に入っても大丈夫なように、さまざまな色の食紅でたまごを彩ってくれたそうだ。
庭なんかに隠したたまごを探す、というイベントはイギリスとかアメリカが盛んだそうで、伊緒さんの故郷ではしていなかったとのこと。
パスハの日、教会にたまごをもっていくと司祭さまがお祈りしてくれ、それは神聖なものになるという。
ぼくの感覚では「お祓い」とか「加持祈祷」みたいなものかと思ったけど、ちょっと違うのかもしれない。
外国の乾燥地帯だと、生のたまごを用いても中身が干からびて長期保存できるそうだけど、伊緒さん家ではゆでたまごを使い、もちろんその後はおいしく食べる。
こどもの伊緒さんはたまごをもって、おばあちゃんにくっついて教会へと出かけたのだろう。
そんなことを想像するとなんともほほえましい。
正教会ではこのときの挨拶が独特で、信者同士が出逢うと、
「ハリストス復活!」
「実に復活!」
と、声を掛け合うそうだ。
"ハリストス"とはキリストのギリシャ語読みが訛ったもので、日本語で書くとイエス・キリストは"イイスス・ハリストス"となる。
こどもだった伊緒さんはもちろん何のことか分からなかったけれど、おもしろがっておばあちゃんの真似をして、
「じつにふっかつ!」
と、誰かれ構わず声をかけたという。
すごくかわいい。
「……というわけで、わたしは今でもゆでたまごには目がないのです」
たまごの殻をむきながら、伊緒さんが思い出に目を細める。
おばあちゃんは伊緒さんにとって料理の師匠でもあり、もっとも敬愛する人物のひとりだそうだ。
この伊緒さんに料理を直伝した方、というだけでもぼくも尊敬の念を抱いてしまう。
お会いしてみたかったものだ。
ゆでたまご、といえばそれこそ鶏卵を茹でたもののことで、料理とは呼ばない人もいるだろう。
ところが、こういったシンプルかつ"火加減"がすべてを左右するような食べ物こそ奥が深いというのは、伊緒さんの数々のお料理で証明済みだ。
固茹でにしたのを「煮抜き」などといい、茹で上がった直後に冷水で急速に締めると殻がきれいにむけるのはよく知られている。
難しいのは半熟で、いったいどれくらいの火加減で何分茹でればどうなるか、というのはもう個人の経験則と好みによるしかないのではないか。
ところが、伊緒さんはこの加減がすごくうまい。
ぼくは「固茹でになる一歩手前くらいの半熟」という、じつにややこしい茹で加減が好きなのだけど、もちろん自身で狙って成功したことは稀だった。
でも伊緒さんは、まず間違いなくその加減でたまごを茹でてくれるのだ。
どうしてそんなことができるのか、不思議に思って聞いてみると、
「うーん、だいたいの目安でしかないのだけど、水からたまごをゆで始めて、沸騰後3分で黄身がとろとろの半熟、って思ってるの。晃くんの好みだとそれからプラス1~2分かなあ」
というご回答だった。
なるほどなるほど、基準になる茹で加減を決めて、それから時間を加減するのか。
「伊緒さん、そういえばラーメンに"煮たまご"ってついてますけど、なんで煮てるのに半熟なんでしょう」
これも不可解に思っていた。
あんなに味が染みるまで煮たら、黄身は固茹でになるはずだ。
「あれは半熟にゆでたたまごの殻をむいて、タレに浸けてあるのよ。だから本当は"煮"じゃないのね」
ははあ、納得。ひとつスッキリしたぞ。
ではもうひとつ質問。
「じゃあ、駅の売店なんかで昔よく味付きのゆでたまごがありましたけど、あれはどうして殻付きなのに中に味がついてるんでしょう」
「わあ、なつかしいねえ!」
味付きゆでたまごは伊緒さんにとってもノスタルジックみたいだ。
いまではコンビニにも売っているけど、かつて駅の売店では冷凍みかんと並んで伝統的なおやつだった。
ぼくらの親、またはその親世代の人たちにはもっと馴染み深いのだろう。
「あれはね、ゆでたまごをうーんと濃い塩水に浸けておくと、味だけが中身に染みていくそうよ。不思議ね。こんどつくってみようかな」
そうか。そういうことだったのか。
おかげさまでまたひとつ謎が解けましたぞ。
実は伊緒さんのおばあちゃんがつくってくれたイースターエッグも、あらかじめ塩味がついたゆでたまごだったという。
こどもの伊緒さんもすごく不思議で、しばらくの間は神父さんがお祈りしてくれることで塩味がつくという、奇蹟の一種だと信じていたそうだ。
もう、すごくかわいい。
来年は一緒に味付きゆでたまごをつくって彩色し、イースターエッグにしてどこかに隠してみようかなあ、と思っている。
オムレツとか茶碗蒸しとか、さまざまな卵料理ももちろん得意なのだけど、「たまご」そのものが好きなのだという。
かわいらしい楕円形の理由は、巣から転げ落ちないため。
その中身は世界で一番大きな単細胞。
そういったところが、いろんな方面から伊緒さんの琴線に触れているみたいだ。
それにたまごについては、彼女にとってたいへん思い出深いエピソードがあるという。
伊緒さんがこどもの頃、とても楽しみにしていた行事のひとつに「イースター」があった。
日本ではまだあんまりメジャーではないけれど、クリスチャンにとってはすごく大切なお祭りで、「復活祭」という名前でもよく知られているものだ。
伊緒さん自身は洗礼を受けていないそうだけど、彼女のおばあちゃんが敬虔なクリスチャンだった。
それもカトリックとかプロテスタントとかのいわゆる「西方教会」じゃなくて、ギリシャ正教とかロシア正教とかの「正教会」のほうだったというからぼくにはすごく珍しいお話だ。
伊緒さんの故郷では、昔からロシアより移住してきた人たちが多く、自然にロシア正教の教会も建てられるようになったのだという。
正教会では復活祭のことをあまりイースターとは呼ばず、「パスハ」というそうだ。
同じ名前の白いチーズケーキみたいなお菓子が欠かせないものとして用意され、伊緒さんはこどもの頃それをとっても楽しみにしていたのだ。
復活祭の日取りは西方教会と正教会では異なり、伊緒さんに何度聞いても覚えられないのだけど、そのまま請け売りをすると、
「復活祭は春分の日の後、直近の満月の次の日曜日なの。でも、西方教会はグレゴリオ暦、正教会はユリウス暦で数えるからそれぞれ日付が違うのよ」
だ、そうだ。
グレゴリオ暦はぼくたちが今まさに使っている西暦のことで、ユリウス暦はそれより古い歴史をもつ紀元前からの太陽暦だそうだ。
なんのことかあんまりよく分からないけど、日本の行事でも旧暦でやるところもあるのと似ているかもしれない。
伊緒さんはおばあちゃんがつくってくれるお菓子も楽しみだったけど、それ以上に彼女を魅了したのがいわゆる「イースターエッグ」だった。
色とりどりに彩色されたたまごの数々は、もちろん「復活」を意味する縁起物なのだけど、こどもの伊緒さんはこれが大好きだった。
かつては赤一色で染められるのが普通だったそうで、染料として玉ねぎの皮を一緒に入れてゆでたのだという。
でも徐々に美しく装飾されるようになって、伊緒さんのおばあちゃんは口に入っても大丈夫なように、さまざまな色の食紅でたまごを彩ってくれたそうだ。
庭なんかに隠したたまごを探す、というイベントはイギリスとかアメリカが盛んだそうで、伊緒さんの故郷ではしていなかったとのこと。
パスハの日、教会にたまごをもっていくと司祭さまがお祈りしてくれ、それは神聖なものになるという。
ぼくの感覚では「お祓い」とか「加持祈祷」みたいなものかと思ったけど、ちょっと違うのかもしれない。
外国の乾燥地帯だと、生のたまごを用いても中身が干からびて長期保存できるそうだけど、伊緒さん家ではゆでたまごを使い、もちろんその後はおいしく食べる。
こどもの伊緒さんはたまごをもって、おばあちゃんにくっついて教会へと出かけたのだろう。
そんなことを想像するとなんともほほえましい。
正教会ではこのときの挨拶が独特で、信者同士が出逢うと、
「ハリストス復活!」
「実に復活!」
と、声を掛け合うそうだ。
"ハリストス"とはキリストのギリシャ語読みが訛ったもので、日本語で書くとイエス・キリストは"イイスス・ハリストス"となる。
こどもだった伊緒さんはもちろん何のことか分からなかったけれど、おもしろがっておばあちゃんの真似をして、
「じつにふっかつ!」
と、誰かれ構わず声をかけたという。
すごくかわいい。
「……というわけで、わたしは今でもゆでたまごには目がないのです」
たまごの殻をむきながら、伊緒さんが思い出に目を細める。
おばあちゃんは伊緒さんにとって料理の師匠でもあり、もっとも敬愛する人物のひとりだそうだ。
この伊緒さんに料理を直伝した方、というだけでもぼくも尊敬の念を抱いてしまう。
お会いしてみたかったものだ。
ゆでたまご、といえばそれこそ鶏卵を茹でたもののことで、料理とは呼ばない人もいるだろう。
ところが、こういったシンプルかつ"火加減"がすべてを左右するような食べ物こそ奥が深いというのは、伊緒さんの数々のお料理で証明済みだ。
固茹でにしたのを「煮抜き」などといい、茹で上がった直後に冷水で急速に締めると殻がきれいにむけるのはよく知られている。
難しいのは半熟で、いったいどれくらいの火加減で何分茹でればどうなるか、というのはもう個人の経験則と好みによるしかないのではないか。
ところが、伊緒さんはこの加減がすごくうまい。
ぼくは「固茹でになる一歩手前くらいの半熟」という、じつにややこしい茹で加減が好きなのだけど、もちろん自身で狙って成功したことは稀だった。
でも伊緒さんは、まず間違いなくその加減でたまごを茹でてくれるのだ。
どうしてそんなことができるのか、不思議に思って聞いてみると、
「うーん、だいたいの目安でしかないのだけど、水からたまごをゆで始めて、沸騰後3分で黄身がとろとろの半熟、って思ってるの。晃くんの好みだとそれからプラス1~2分かなあ」
というご回答だった。
なるほどなるほど、基準になる茹で加減を決めて、それから時間を加減するのか。
「伊緒さん、そういえばラーメンに"煮たまご"ってついてますけど、なんで煮てるのに半熟なんでしょう」
これも不可解に思っていた。
あんなに味が染みるまで煮たら、黄身は固茹でになるはずだ。
「あれは半熟にゆでたたまごの殻をむいて、タレに浸けてあるのよ。だから本当は"煮"じゃないのね」
ははあ、納得。ひとつスッキリしたぞ。
ではもうひとつ質問。
「じゃあ、駅の売店なんかで昔よく味付きのゆでたまごがありましたけど、あれはどうして殻付きなのに中に味がついてるんでしょう」
「わあ、なつかしいねえ!」
味付きゆでたまごは伊緒さんにとってもノスタルジックみたいだ。
いまではコンビニにも売っているけど、かつて駅の売店では冷凍みかんと並んで伝統的なおやつだった。
ぼくらの親、またはその親世代の人たちにはもっと馴染み深いのだろう。
「あれはね、ゆでたまごをうーんと濃い塩水に浸けておくと、味だけが中身に染みていくそうよ。不思議ね。こんどつくってみようかな」
そうか。そういうことだったのか。
おかげさまでまたひとつ謎が解けましたぞ。
実は伊緒さんのおばあちゃんがつくってくれたイースターエッグも、あらかじめ塩味がついたゆでたまごだったという。
こどもの伊緒さんもすごく不思議で、しばらくの間は神父さんがお祈りしてくれることで塩味がつくという、奇蹟の一種だと信じていたそうだ。
もう、すごくかわいい。
来年は一緒に味付きゆでたまごをつくって彩色し、イースターエッグにしてどこかに隠してみようかなあ、と思っている。
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