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第三十六椀
こっくり甘辛「カレイの煮付け」。白身と卵で二度おいしい
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もちろんお肉もお魚も好きなのだけど、さあ、どっちかひとつだけ選べ!と言われたら「お魚」と答えると思う。
お刺身よし、焼きよし煮付けよし、蒸そうが揚げようが、もうどう調理したっておいしい。
しかもものすごくたくさんの種類があって、ぜんぶ味が違うのも神秘的だ。
パリパリに揚げて頭からまるごと食べる小魚もおいしいし、とろりと脂の乗った大型魚のお刺身もこたえられない。
家族で毎日のように食卓を囲んだ、というわけではなかったけれど、父が魚好きだったので記憶の中のおかずはやっぱり魚が多い。
おぼろげに、父は特に煮魚を喜んで食べていたような気がする。
「ここが頭の付け根。ここが胸ビレの裏の肉」
などと言いながらていねいにホネを外して、"おいしいところ"とされる玄人向けの部位を幼いぼくに食べさせてくれた記憶がある。
もちろん子どもの頃のことだから、さほどにおいしいものと感じはしなかったと思う。
でも、舌が覚え込んだその味は、大人になってから唐突にぼくを魅了した。
社会人になったばかりのこと、遠方のお客さんを訪ねた帰りに食事をしようと、食べ物屋さんを探していた。
どこかに何かあるだろう、というのは存外甘かったようで、見知らぬ街で空腹を抱えてウロウロする羽目になってしまった。
ようやく探し当てた小さな食堂でありついたのが、唯一のメニューの煮魚定食だった。
たぶん赤魚か何かだったと思うけど、煮魚ってこんなにおいしかったっけ、と思うほど夢中になって食べたのを覚えている。
一人暮らしが長くなって、食事がいい加減になっていたのもあるし、久しく煮魚なんて食べていなかったということもある。
でも、ていねいにホネを外しながら口に運ぶ魚の滋味が、恍惚とするくらい心身に沁みわたった。
しかし魚を食べるのが苦手、という人は結構多いみたいだ。
その理由のひとつとして「うまく食べられない」との声を聞くことがある。
複雑に通っているように感じられるホネをよけるのが大変だったり、身をほぐそうとしてくちゃくちゃになったり、お肉と違って食べるのに手間がかかるというのだ。
でも、お魚が食べにくいというのは本当ではないとぼくは思う。
基本的なホネの構造が分かっていて、なおかつお箸をちゃんと持つことができれば、かんたんにおいしく食べられるはずなのだ。
お魚の肉身は繊維の方向が均一ではっきりしているため、うまくホネからはずせばぽこっ、ほろっ、とブロック状に剥離してくれる。
ホネも大きな背骨が通っていて、横方向にもぴょこんぴょこんと出ている部分もあることさえ分かっていれば、そんなに苦労せずとも箸先で取ることができる。
焼き魚でも煮魚でも、魚料理は嗅覚にも訴えてくるのがなんとなく郷愁を誘われる。
ぼくにとっては、伊緒さんがつくってくれる夕食の匂いがすでにそうで、メニューがお魚のときは特にノスタルジックな気もちになってしまう。
春になってずいぶんと日が長くなってきたなあ、と会社から帰ってきたときにしみじみ思うようになった。
同じ時間に帰宅しても、つい最近までは真っ暗だったのにいまや新聞でも読めるほどに明るい。
オンボロアパートの階段下までやってくると、ふわりと甘辛さを感じさせる匂いと、お魚の匂いが入り混じって漂ってきた。
もちろん他の部屋の人がこしらえた料理の可能性もあるのだけど、どういうわけかぼくには伊緒さんがつくってくれたご飯の匂いはきっぱりと分かるのだった。
「ただいまですー」
と玄関のドアを開けると、
「おかえりですー」
と、珍しく割烹着を着込んだ姿で伊緒さんが出迎えてくれた。
「わあ、どうしたんですか。今日はエプロンじゃないんですね」
手首まで覆う白い和風の割烹着は、レトロなようでいて意外なほどかわいらしく、とっても新鮮だった。
長い髪をまとめてアップにしているのも、なんだかイメージの中の"小料理屋さんの美人女将"みたいで素敵だ。
「えへへー。昭和のお母さんみたいでしょう」
伊緒さんも久しぶりに袖を通したそうだけど、改めて使い勝手がいいことに気が付いたという。
上半身をすっぽりカバーしてくれるので、油ハネや水しぶきにも強いすぐれものなのだと力説している。
じゃあ、ちょくちょく伊緒さんのこういう姿を見られるのかなあ、と嬉しくなってしまう。
「ちゃんと手を洗ってうがいをするのよ。風邪予防にはそれが一番ですからね!」
やや"お母さん化"した伊緒さんにそう言われて、ぼくは従順に洗面台へと向かった。
お家のなかで割烹着を着ている人は、絶対的にえらいのだ。
手洗いうがいを済ませて着替えると、どうしても晩ご飯のメニューが気になって、フラフラと台所に引き寄せられてしまった。
お醤油とみりんや砂糖などの甘辛い匂いと、お魚に火が通る匂い。
ぼくの大好きな煮魚だということは確実だけれど、さすがに何のお魚かまでは分からない。
伊緒さんの後ろ姿を見ると、お鍋の中の煮汁を一生懸命に魚の身へとかけ回しているところだった。
いったい何魚でしょうかー、と思ってひょいっとのぞき込もうとすると、
「だめ。ひみつ!」
と、フタをしてしまった。
……かわいい。
でも、お蔭で食卓に並べてくれるまでのわくわく感が増すというものだ。
伊緒さんはよくこういう風に、直前まで手の内を明かさないことで、料理を見た瞬間の楽しさを演出してくれる。
こういうことも、ぼくには本当にうれしい。
わくわくテカテカしながらおとなしく待っていると、やがて伊緒さんが和風の浅皿を手に台所から出てきた。
「はい、お待たせ!どじゃーん!」
ことん、ことん、とテーブルに置かれたお皿には、ふっくら肉厚なカレイの切り身がででん、と鎮座していた。
しかもたっぷりと卵を抱えた子持ちのカレイだ。
皮目に施されたバッテンの切り込みも鮮やかに、琥珀色の魅惑的な煮汁にたゆたっている。
なんて扇情的な煮魚!
「うわあ、おいしそう!いただきます!」
手を合わせていそいそと箸を入れると、煮上がりのふっくら感が指先にまで伝わってくるようだ。
豊かな白身を煮汁にたっぷり浸して口に運ぶと、甘辛さとカレイのふくよかさ、そして生姜の香りが溶け合って、舌の根がしびれるようなおいしさだ。
大ぶりの房状になった卵も、割り取って味わってみる。
たらこや鯛の子などよりも細かい、極小の粒々だけどもプチプチと歯ざわりよく、これもおいしい。
カレイの煮付けで特に好きなのは、ヒレの付け根の部分だ。
お刺身だといわゆる「エンガワ」のことで、コラーゲンたっぷりのちゅるんとした食感がこたえられない。
でも、これにはちょっとした食べ方のコツがいる。
ヒレの基部には細かく短いトゲのようなホネがびっしりあるため、身からはずしてちゅっ、と吸うようにするとうまく口に入る。
「じょうずに食べるのねえ。よっぽどお魚が好きなのね」
伊緒さんがそう言って喜んでくれる。
「はい。すごくおいしいれふ」
ぺろんぺろんと、夢中でエンガワを味わいながらぼくが答える。
「ねえ、ちょっとお行儀わるいかもだけど、試したいことがあるの。外したホネをちょうだいな」
そう言って伊緒さんが大きなホネを集めて、何やら台所でこしらえ始めた。
ほどなく戻ってきた彼女は、汁椀に満たされたスープ状の料理を差し出してくれた。
すすめられるままに一口飲んでみると、醤油風味の潮汁みたいでとってもおいしい。
「煮汁をお湯で割って、もう一度ホネからエキスを煮出した"骨湯(こつゆ)"よ。いっぺんやってみたかったの」
さっと一振りした黒胡椒がアクセントになって、上品なお吸い物に仕上がっている。
まさか煮汁とホネでもう一品できるなんて思いもせず、感動してしまった。
「余った煮汁は、明日になったらぷるぷるの煮こごりになってるわ。クラッシュして大根おろしにかけるとおいしいから、朝ごはんに用意するね」
おお、そんな食べ方もあるんだ!
すごくうまそう。
すでにたいへん楽しみで、晩ごはんをいただきながら翌日の朝ごはんに思いをはせるというのも、贅沢なことだと思う。
伊緒さんはその時も割烹着を着てくれるのかなあ、と、ついつい期待してしまうのだった。
お刺身よし、焼きよし煮付けよし、蒸そうが揚げようが、もうどう調理したっておいしい。
しかもものすごくたくさんの種類があって、ぜんぶ味が違うのも神秘的だ。
パリパリに揚げて頭からまるごと食べる小魚もおいしいし、とろりと脂の乗った大型魚のお刺身もこたえられない。
家族で毎日のように食卓を囲んだ、というわけではなかったけれど、父が魚好きだったので記憶の中のおかずはやっぱり魚が多い。
おぼろげに、父は特に煮魚を喜んで食べていたような気がする。
「ここが頭の付け根。ここが胸ビレの裏の肉」
などと言いながらていねいにホネを外して、"おいしいところ"とされる玄人向けの部位を幼いぼくに食べさせてくれた記憶がある。
もちろん子どもの頃のことだから、さほどにおいしいものと感じはしなかったと思う。
でも、舌が覚え込んだその味は、大人になってから唐突にぼくを魅了した。
社会人になったばかりのこと、遠方のお客さんを訪ねた帰りに食事をしようと、食べ物屋さんを探していた。
どこかに何かあるだろう、というのは存外甘かったようで、見知らぬ街で空腹を抱えてウロウロする羽目になってしまった。
ようやく探し当てた小さな食堂でありついたのが、唯一のメニューの煮魚定食だった。
たぶん赤魚か何かだったと思うけど、煮魚ってこんなにおいしかったっけ、と思うほど夢中になって食べたのを覚えている。
一人暮らしが長くなって、食事がいい加減になっていたのもあるし、久しく煮魚なんて食べていなかったということもある。
でも、ていねいにホネを外しながら口に運ぶ魚の滋味が、恍惚とするくらい心身に沁みわたった。
しかし魚を食べるのが苦手、という人は結構多いみたいだ。
その理由のひとつとして「うまく食べられない」との声を聞くことがある。
複雑に通っているように感じられるホネをよけるのが大変だったり、身をほぐそうとしてくちゃくちゃになったり、お肉と違って食べるのに手間がかかるというのだ。
でも、お魚が食べにくいというのは本当ではないとぼくは思う。
基本的なホネの構造が分かっていて、なおかつお箸をちゃんと持つことができれば、かんたんにおいしく食べられるはずなのだ。
お魚の肉身は繊維の方向が均一ではっきりしているため、うまくホネからはずせばぽこっ、ほろっ、とブロック状に剥離してくれる。
ホネも大きな背骨が通っていて、横方向にもぴょこんぴょこんと出ている部分もあることさえ分かっていれば、そんなに苦労せずとも箸先で取ることができる。
焼き魚でも煮魚でも、魚料理は嗅覚にも訴えてくるのがなんとなく郷愁を誘われる。
ぼくにとっては、伊緒さんがつくってくれる夕食の匂いがすでにそうで、メニューがお魚のときは特にノスタルジックな気もちになってしまう。
春になってずいぶんと日が長くなってきたなあ、と会社から帰ってきたときにしみじみ思うようになった。
同じ時間に帰宅しても、つい最近までは真っ暗だったのにいまや新聞でも読めるほどに明るい。
オンボロアパートの階段下までやってくると、ふわりと甘辛さを感じさせる匂いと、お魚の匂いが入り混じって漂ってきた。
もちろん他の部屋の人がこしらえた料理の可能性もあるのだけど、どういうわけかぼくには伊緒さんがつくってくれたご飯の匂いはきっぱりと分かるのだった。
「ただいまですー」
と玄関のドアを開けると、
「おかえりですー」
と、珍しく割烹着を着込んだ姿で伊緒さんが出迎えてくれた。
「わあ、どうしたんですか。今日はエプロンじゃないんですね」
手首まで覆う白い和風の割烹着は、レトロなようでいて意外なほどかわいらしく、とっても新鮮だった。
長い髪をまとめてアップにしているのも、なんだかイメージの中の"小料理屋さんの美人女将"みたいで素敵だ。
「えへへー。昭和のお母さんみたいでしょう」
伊緒さんも久しぶりに袖を通したそうだけど、改めて使い勝手がいいことに気が付いたという。
上半身をすっぽりカバーしてくれるので、油ハネや水しぶきにも強いすぐれものなのだと力説している。
じゃあ、ちょくちょく伊緒さんのこういう姿を見られるのかなあ、と嬉しくなってしまう。
「ちゃんと手を洗ってうがいをするのよ。風邪予防にはそれが一番ですからね!」
やや"お母さん化"した伊緒さんにそう言われて、ぼくは従順に洗面台へと向かった。
お家のなかで割烹着を着ている人は、絶対的にえらいのだ。
手洗いうがいを済ませて着替えると、どうしても晩ご飯のメニューが気になって、フラフラと台所に引き寄せられてしまった。
お醤油とみりんや砂糖などの甘辛い匂いと、お魚に火が通る匂い。
ぼくの大好きな煮魚だということは確実だけれど、さすがに何のお魚かまでは分からない。
伊緒さんの後ろ姿を見ると、お鍋の中の煮汁を一生懸命に魚の身へとかけ回しているところだった。
いったい何魚でしょうかー、と思ってひょいっとのぞき込もうとすると、
「だめ。ひみつ!」
と、フタをしてしまった。
……かわいい。
でも、お蔭で食卓に並べてくれるまでのわくわく感が増すというものだ。
伊緒さんはよくこういう風に、直前まで手の内を明かさないことで、料理を見た瞬間の楽しさを演出してくれる。
こういうことも、ぼくには本当にうれしい。
わくわくテカテカしながらおとなしく待っていると、やがて伊緒さんが和風の浅皿を手に台所から出てきた。
「はい、お待たせ!どじゃーん!」
ことん、ことん、とテーブルに置かれたお皿には、ふっくら肉厚なカレイの切り身がででん、と鎮座していた。
しかもたっぷりと卵を抱えた子持ちのカレイだ。
皮目に施されたバッテンの切り込みも鮮やかに、琥珀色の魅惑的な煮汁にたゆたっている。
なんて扇情的な煮魚!
「うわあ、おいしそう!いただきます!」
手を合わせていそいそと箸を入れると、煮上がりのふっくら感が指先にまで伝わってくるようだ。
豊かな白身を煮汁にたっぷり浸して口に運ぶと、甘辛さとカレイのふくよかさ、そして生姜の香りが溶け合って、舌の根がしびれるようなおいしさだ。
大ぶりの房状になった卵も、割り取って味わってみる。
たらこや鯛の子などよりも細かい、極小の粒々だけどもプチプチと歯ざわりよく、これもおいしい。
カレイの煮付けで特に好きなのは、ヒレの付け根の部分だ。
お刺身だといわゆる「エンガワ」のことで、コラーゲンたっぷりのちゅるんとした食感がこたえられない。
でも、これにはちょっとした食べ方のコツがいる。
ヒレの基部には細かく短いトゲのようなホネがびっしりあるため、身からはずしてちゅっ、と吸うようにするとうまく口に入る。
「じょうずに食べるのねえ。よっぽどお魚が好きなのね」
伊緒さんがそう言って喜んでくれる。
「はい。すごくおいしいれふ」
ぺろんぺろんと、夢中でエンガワを味わいながらぼくが答える。
「ねえ、ちょっとお行儀わるいかもだけど、試したいことがあるの。外したホネをちょうだいな」
そう言って伊緒さんが大きなホネを集めて、何やら台所でこしらえ始めた。
ほどなく戻ってきた彼女は、汁椀に満たされたスープ状の料理を差し出してくれた。
すすめられるままに一口飲んでみると、醤油風味の潮汁みたいでとってもおいしい。
「煮汁をお湯で割って、もう一度ホネからエキスを煮出した"骨湯(こつゆ)"よ。いっぺんやってみたかったの」
さっと一振りした黒胡椒がアクセントになって、上品なお吸い物に仕上がっている。
まさか煮汁とホネでもう一品できるなんて思いもせず、感動してしまった。
「余った煮汁は、明日になったらぷるぷるの煮こごりになってるわ。クラッシュして大根おろしにかけるとおいしいから、朝ごはんに用意するね」
おお、そんな食べ方もあるんだ!
すごくうまそう。
すでにたいへん楽しみで、晩ごはんをいただきながら翌日の朝ごはんに思いをはせるというのも、贅沢なことだと思う。
伊緒さんはその時も割烹着を着てくれるのかなあ、と、ついつい期待してしまうのだった。
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