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第12章 紀伊のローレライと裏九鬼船団。新宮城のあらたなる丹鶴姫

南海のローレライ

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この岩はかつて、弘法大師・空海がこの地に住まう天邪鬼あまのじゃくと競って建てたものという伝説がある。
夜明けを迎えるまでの間に海岸から沖の島へと橋を架けられるかという賭けだったが、凄まじい法力で岩の杭を立てていく空海。
敗北を悟った天邪鬼はそこで夜明けを示す鶏の鳴き声を真似、制限時間と誤認した空海が途中で工事を止めたためその岩杭だけが残ったというものだ。

そういえば以前に裏葛城修験の若い行者たちと登った不動山にも、役小角が一言主神に命じて大峰山までの橋を架けようとした伝承があるのを聞いた。
紀伊では巨岩についての信仰と言い伝えにこうしたパターンがあるみたいで、とても興味深い……と感じ入っていたその時。

「出てきやった……!佐門、由良さん、頼むで!」

九鬼さんが指し示したその先、橋杭岩の上に人影が立っている。

髪の長い、女の姿だ。
霧の狭間に浮かび上がるだけで全貌は見えないはずだけど、不思議なことにそれがとても美しいものだと感じている自分がいた。
その女は岩の上から、おいで、おいで、と手招きをしている。

すると船が、ぐぐーっと橋杭岩の方へと引っ張られるように向きを変えた。
舌打ちして舵をめいっぱい右へと切っていく九鬼さん。が、何か見えない力に捕らえられたかのように、じりじりと船は岩へと吸い寄せられていく。

「あれが串本の海のあやかし、"いしなげんじょ"。沖をゆく船を招き寄せて沈めるさかい、"紀伊のローレライ"と呼ばれることもあるんよ。そして……」

ユラさんが説明しかけてくれた時、風を切るような音がして前方の海面にボチャッと水柱が立った。
続けて2つ、3つと音がして、その都度水柱は船へと近付いてくる。

「…こうして石を投げて船に穴を開けてしまうんよ。今はまだ間合いをはかってる。けどもう危ないさかい先生のこと頼みます、護法さん」
「もちろん!」
「受けたもう!」

コロちゃんとマロくんがぴょいっ、とわたしの肩に乗り、あやかしからの攻撃を警戒してくれている。
なるほど、それで"いしなげんじょ"というのか。
その間にも石礫は次々に打ち込まれ、ほどなく船のすぐ近くに水柱が上がるようになった。

大きさを増した風切り音に首をすくめたとき、いつの間にか長弓を手にしたオサカベさんが船縁に立ち、今しも一矢を放とうと狙いすましているところだった。

「オン――アミリタテイセイ カラウン!」

霊矢は霧を割いて真っ直ぐに飛翔し、いしなげんじょの立つ岩杭のひとつに過たず突き立った。
一瞬紫電のような光が霧に反射し、あやかしが石を投げる風切り音はぴたりと止まった。

「封――」

オサカベさんが弓の構えを解く。
が、その時。

ガツン、と船体に何かが当たる音がして、クルーザーが大きく揺れた。
次の瞬間、おびただしい数の石礫が次々に降り注いでくる。

霧の向こうを見やると、40本ほどある橋杭岩の上それぞれに女の姿のあやかし達が立っていた。
いしなげんじょらはこの船目掛けて、今まさに凄まじい勢いで石を投げつけていた。

「なんてよ!」

九鬼さんが叫び、船の速度をさらに上げようとした。
が、見えない引力のようなものに捕まったのか、船足は遅々として伸びることはない。

「オサカベ!」

ユラさんが檜扇の霊刃で飛来する石礫を払い、コロちゃんとマロくんも次々にそれらを跳ね返している。
わたしも檜扇を振るって石を弾こうとしたけど、高速で打ち込まれるそれらからは自分の身を守るので精一杯だ。

「あかん、矢をつがえる間があらへん!」

石礫の集中砲火をかわしながら反撃を試みていたオサカベさんだったが、一矢放つ間にその数十倍の攻撃が飛んでくる。なんとかさらに数本の岩杭を封じてはいるが、やがて弓構えをとることすらままならなくなっていった。
そして徐々に、船体へと直撃する石も数を増していく。

「九鬼さあん!まっと船足上がらんかいー!?」
「あかな!こえで全速でんそくや!」

しかしあやかし達の引力に絡め取られた船は喘ぎながらも進むことをやめず、オサカベさんもほんのわずかな隙を捉えては射を放つ。

と、その時、進行方向の先で大きく霧の塊が動いたような気がした。
続いて重く低く、ボォォォォォウッ、と汽笛の音が鳴り響いた。

妖気が充満する結界内の霧を割いて、大きな白い船がその舳先を現した。
3本のマスト、装甲で鎧われたかのような硬質な船体、舷側に穿たれたいくつもの砲口。

わたしはその船の名を、歴史書を通じて知っていた。

「――エルトゥールル……!」

それは紛れもなく、オスマン帝国海軍のフリゲート艦、エルトゥールル号の姿だった。
紀伊大島沖で海に消えたあの艦が、いしなげんじょ達の攻撃からわたしたちをかばうように割って入った。

あやかし達は突如出現した軍艦に、石礫の矛先を向け直した。
しかし雨霰と浴びせる石の弾丸もフリゲートの装甲にはまったく効かず、エルトゥールル号はあたかも悠々と海上に聳える城のようだ。

「今のうちに!オン――!」

こちらへの攻撃が止まった瞬間を逃さず、オサカベさんが間髪入れず霊矢を連射していく。
端から順に岩杭へと矢が突き立ち、紫電の光とともに次々とあやかし達は封じられていった。

最後の岩に矢が放たれた直後、クルーザーはぐんっと急加速してあやうく後ろへ投げ出されそうになる。
みるみるスピードを上げた船は、長大なフリゲートの艦体に沿って走った。
すれ違うその艦を見上げると、舷側にびっしりと精悍な髭面の士官たちが居並んでいるのが見えた。

「エルトゥールルの英霊たち……!」

ユラさんが、感極まったように呟く。
艦上の士官たちは一斉に抜剣し、体前に掲げる礼でわたしたちを見送ってくれた。

「おおきに!ありがとうー!」

わたしたちは口々に手を振って叫び、九鬼さんに倣って右手を左胸に添える礼を返した。
遠ざかっていくエルトゥールル号は、きっとずっと紀伊の海を護り続けてくれていたのだろう。

わたしたちの進行方向には、再び青い空が広がっていた。
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