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1.ラ・メール・カルム

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「――千鶴」

 その声は、ひどく遠かった。
 まるで夏のプールサイド、耳に水が入った時のようにもわもわと響いて聞こえる。

 これは死んだ祖父母の声だったりするのだろうか。俺が小さいときに死んでしまったから会った記憶はないけど、墓参りには毎年欠かさず行っていたし、もしかして迎えにきてくれたのか。

「……千鶴さま」

 いや、これは子供の声だ。しかもなぜか様付け。

 不意にぴくりと瞼が痙攣する。どうやら、身体は普通に動かせるようだ。足の指先を僅かに動かしてみる。事故に遭う前と同じ、靴を履いている感触が伝わってきた。

 もしや死んではいなかったのだろうか。この声は看護師さんで、ここも病室のベッドだったりして。

 寝転んだ体勢のままそっと目を開けるが、光が眩しくて思わず目を瞑った。朝起きてすぐの、その日初めて目を開けたときみたいな眩しさだ。

「千鶴さま! ……ああよかった、やっとお目覚めですか」

 再度おそるおそる目を開けると、10歳ほどの子供が、太陽を背にして立っていた。

 人間離れした白髪に紫の瞳。白髪は白髪でも老人のそれとは違って艶がある。しらが、じゃなくてはくはつ、の方か。

 そして、その真っ白な頭ににょっきり生えた、鹿の角。
 鹿……だと思う、色は白いけど。トナカイとかヘラジカとかバイソンの角ではないと思うし。
 鹿なんて修学旅行の奈良公園で吹っ飛ばされた以来かもしれない。あれから鹿がトラウマで、友達各位には未だにネタにされる。いや、それは置いといて。

 梅雨の紫陽花のような瞳が、きらきらとこちらを見つめていた。ストライプのシャツの首元には大きなリボン。
 最初は迷ったのだが、しばらく見てやっと男だろうなと確信する。女子にしても違和感はあるし、男子だというのも信じがたい感じだ。
 相当じろじろ見てしまったけれど、その少年は朗らかに笑った。

「よかった、このまま目を開けなかったらどうしようかと思っていたところでしたよ」

 やはり屋外のようで、柔らかな芝生が手に触れる。

 ここが天国なら、目の前のこの少年は天使かなにかかもしれない。角が生えてるから悪魔なんてのは安置か。あれは羊の角だし。

「きみは、」

 喉がひりつき、そこまで言ってげほげほ咳き込む。少年が心配そうに背中をさすってくれた。

「ありがとう、……俺は、死んだのかな」

 自分でもびっくりするくらい掠れた声が出た。喉が渇ききっている。だが、身体には傷ひとつなく、服もパーカーにジーンズのままだった。微妙にダサいけどDVD借りに行く途中だったし仕方ない。

「ええ……ですがまあ、諸々の事情があり……千鶴さまには、この世界で蘇生する権利が与えられました」
「蘇生……? 生き返るってこと?」
「はい! 蘇生と言えど元の世界の千鶴さまは亡くなっていますから、この世界の住民として余生を満喫していただく形になります」

 この世界の住民として生き返る。いや、いくらなんでも話が良すぎないだろうか。こんな小さな子供の前で取り乱せないから深呼吸をして、出来るだけ優しい声でその諸々の事情、を訪ねようとしたところで気づく。

「俺の名前、なんで知ってるんだ……?」
「え、だって書類に書いてありましたから。伊万里千鶴さまで間違いないですよね?」

 少年が手に持った数枚の書類をひらひらと揺らす。それを受け取って見ると、そこには俺の顔写真――といっても横顔だ、学ラン着てるからたぶん学校での写真。
 そして名前、生年月日、死亡時刻や原因が書いてあった。次のページを捲ろうとすると半ば強制的に奪い取られる。

「この顔写真、明らかに盗撮じゃ……」
「まあまあ。こんなところで話すのもなんですし、詳しいことは歩きながら話しましょう? 住民票の登録もしないといけませんからね」
「住民票……」

 なぜかどことなくアニマルな森っぽい。たぬきのコンビニ店員とかいるのだろうか。
 未だによく事情が掴めていないし糾弾したいことはやまやまなのだが、これから教えてくれるそうなのでひとまず黙っておく。

 少年の後を追うように歩き出した。ここは野原らしく、見たこともないくらい広い原っぱが広がっていた。
 あちこちに木が点々と生えているけれど、迷ったときの目印になりそうなものは何もない。

 目の前には白っぽい町が見えた。建物は全体的にまるっこく、白いつるつるの石で出来ているようだ。
 なんか海外にこういう遺跡あった気がする。

「そういえば、自己紹介をまだしてませんでした……申し訳ありません。僕はラ・メール・カルム。水の精霊をやらせて頂いております。お気軽に、メリィちゃんとお呼びください!」
「……それ、ちゃん付けないと駄目?」
「ダメです!メリィはメリィちゃんなのですから」

 メリーなのに羊じゃなくて鹿なのかぁ、とか思ったけど伝わるかどうかわからないし黙っておこう。

 それにしても水の精霊とは、なんだかファンタジックな展開だ。人間離れした髪と目のおかげで普通の人間じゃないのは予想はついていたけれど、天使じゃなくて精霊だったか。
 驚いてはいるけど、それより好奇心の方が強い。魔法とか使えるのかな。

 しかし、高校生になってちゃん付けは流石にきついぞ。よく考えたら相手は男だし。
 ……男、だよな?一人称は僕だし。

「め、メリィちゃんってさ……男だよね?」

 気まずい沈黙、会ったばかりの相手にこういうことを聞いていいのだろうか。でも正直、本当に自信がない。メリィは言っている意味がわからないというふうにきょとんと首を傾げる。

「やだなあ、僕はそりゃあかわいいですけどばっちり男ですよ」
「よかった! めちゃくちゃ安心したよ……」

 よかった、本当によかった。まだ心臓がばくばく言っている。
もし女子だったらまずいことになってたぞ。女子に「男だよね?」なんて聞いたらおそらく、殺されるか泣かれるかのどちらかだ。

「……そういえばメリィちゃん、さっき言ってた諸々の事情ってなに?」

 気になっていたことを問いかけてみる。意外と歩くのが速くて、気を付けないとけっこうな距離が開いてしまう。

「あー、千鶴さまの死因に関してなのですが、交通事故でよろしかったですよね?」

 その声は少しだけ、強ばっているように聞こえた。

「え、うん。DVD借りに行く途中、車に」

 メリィがくるりと振り向いて、先程の書類、死因のところを指でなぞった。なんだか汚い走り書きで交通事故と書かれている。

「死因や寿命というのは、予め決められているものなのです。それは死を司る神々によって厳重に管理され、本来ならばその……このようなミスは起きないはずだったのですが……」
「うわ、死神ってほんとにいるんだ……え、ミス?」

 水の精霊、ラ・メール・カルムは、いかにも居心地悪そうに目を逸らす。

「……千鶴さまの死因は、本来は老衰だったはずなのです。おそらく、上がミスを隠蔽するために千鶴さまをこの世界に転生させたのだと……」
「え……それ、俺は死ぬはずじゃなかったってことか!?」

 ついに声を荒らげてしまった。子供の前だということを気づいた時にはもう遅い。やっと収まった心臓の鼓動は、先程よりばくばくと五月蝿い。

 まて、落ち着け俺。さっきまで死をどうにか受け入れていたのに、今更騒ぐことでもないだろうに。本来死ぬはずじゃなかったなんて言われて平気なはずないし、家族も友達も心配だし迷惑かけたろうと思うけれど、せめて平静を保て。
冷静でいなければ、正確な判断はできないなんて、中学生でもわかることだ。

 深呼吸をした。空気が肺に染み渡る気がする。

「千鶴さま」
「ごめん、ちょっと取り乱した」
「いえ、これだけで済むなんて大したものです。普通の人間はもうちょっと取り乱します」
「…………そうなの?」

 そうらしい。なんか恥ずかしい。俺の葛藤などつゆ知らず、メリィが少しも怯む様子のなく微笑んでいるものだからすこし驚いた。普通目の前で年上が怒鳴ったらビビるのではなかろうか。
 見た目10歳くらいだけど、もしやもうちょっと上だったりするのだろうか。精霊だし。

「千鶴さま、あなたはこれからこの世界で生きていくことになります」
「うん、どうやらそうらしいね」
「元の世界以上とまではいかなくても、この世界で幸せに生きてほしいのです。ここには僕の大切な友人たちもいますから。それが案内役兼、友達第1号としての僕の使命です!」

 あ、この世界での友達第1号ですよ!?と慌てて訂正する。メリィのその姿を見ていると、自然とどこか癒されるようで、口角が上がっていく。

「よっしゃー、友達作るぞー!」
「作りましょー! ……そのためにまずは住民登録です!」

 拳を突き上げて叫ぶ。
 俺の異世界転生は、小さな精霊と共に始まった。


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