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第四部 ついにもぐらとの死闘に臨むマルスの娘。そして、愛は永遠に。
82 罪と罰。そして、むべなるかな
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ヤヨイは駆けた! 駆け上がった!
螺旋の階段をただひたすらに、上へ! 尖塔の上へ!
「もぐら」の潜んでいるだろう、鐘楼へ!
登っている途中で、鐘が鳴り始めた。
りんご~ん、りんご~ん、りんご~ん・・・。
複数の鐘の音は急な螺旋階段が巡らされた尖塔の中に響き、増幅しながら階下に舞い降りてきた。上るほどに鐘の音は大きく強くなった。螺旋の中央を降りている鐘撞きのロープを見下ろしても誰もいない。上は?
もちろん、誰の姿も見えない。
ロープの先は鐘の下がる掛け金のようなものにかかってゆらゆら揺れているだけだった。
今は昼の礼拝の時刻ではない。というより、今礼拝どころではない。司祭の何割かは「もぐら」の手下たちで、それ以外はカタがつくまでグロンダール卿の配下たちによってお縄になっているはずなのだから。
だから、鳴らしているのはあの男しかいない。
いったいどのようなオプションを考えているのか。この追い詰められた情況で、それでも起死回生の一手、あるいは再び何処かへ逃げ切れる奥の手があるというのだろうか。
鐘の音は様々ないくつかの色を持っていた。重い音から軽やかな音。音階? 大きいのもあれば小さいのもある、ということか?
考えられ得る情況を想像しつつ、螺旋の階段を上り詰めた。
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鐘楼のトップに出た。
雨はもう峠を過ぎ、小雨も次第に明るく旧市街の古い歴史を刻む街並みを照らしつつあった。
揺れ幅を小さくしながらも、鐘たちはなおも揺れていた。
中央の大きな重い鐘の周囲に中小の鐘が纏わりつくように並んでいる。おかげで向こう側が見えない。
大きな鐘の真下はグランドフロアまで200フィートはある空洞。まるで深い井戸。落とし穴だ。鐘の音はその穴に反響して増幅される理屈なのだろう。
鐘が揺れるたび、木の梁(はり)と心棒とが摩擦する、「ぎいこぎいこ」という音も出る。その上、大小様々な鐘の音。空気も揺れ、音波も乱れる。
なかなかに、気配を感じにくい情況だな・・・。
だが、こういう時こそ、感覚を研ぎ澄まさねば!
ヤヨイのカラテの師匠はリセ在学中の体育の教師で、イマム先生という人だった。
これは後で知ったが、イマム先生はウリル少将の異父弟。同時に現皇帝陛下の甥御でもあった。当時はそれを知らなくて、ただカラテの強い、頼れる大人のオトコだと憧れて積極的にアタックしたりしたのも、もういい思い出になっていた。
そのイマム先生は、こう教えてくれた。
「一対一の純粋な戦いというものは、現実の戦闘ではまず、あり得ない。
一対多数、時には争いとはまったく無関係の雑踏の中で、あるいは前後左右ほとんど視界の効かぬジャングルの中で。そんな聴覚や視覚の効かぬ状況の中で、敵は突然襲って来るだろう。
目や耳に頼るな。
五感を総合した第六の感覚で敵を掴むのだ!
次第に鐘のベロが当たる力が減衰していき音が小さくなってゆく。外部からの力が無くなれば、物体はやがて停止する。ごく初歩的な熱力学の法則。
極度の緊張状態にあって、しかしリセの物理の時間を懐かしむくらい、ヤヨイはリラックスできていた。
そのお陰だろうか。
ふっ!
背後に気配を感じ、ヤヨイはわずかに身体を振った。
シュッ!
右耳1、2インチを何かが空気を切り裂いて飛び、目の前の中ぐらいの鐘に当たった。
かんっ! 鐘は可愛く鳴った。
振り向いた!
が、誰もいない。
ということは・・・。
鐘楼の上か!
国王の正式礼装、近衛騎兵の赤いジャケットを脱いだ。立てかけてあった暖炉の火掻き棒のような、鐘を吊るすロープをひっかけたり捌くための棒だろうが、それをとって赤い服をかけ、鐘楼の軒の外に出した。
さくっ!
すぐに反応があった。火掻き棒の先にひっかけた赤いジャケットに小さなナイフが突き立った。
ははん。案の定だ!
だが同時に、思った。
これは、「もぐら」ではない! 反応があまりにも稚拙すぎる!
真上。ドームになった鐘楼の屋根の上を歩く気配を感じた。
やはり・・・。
「もぐら」なら、こんなヘマはしないだろう。
とすると・・・。
回廊の壁には何本もの幾重にも巻かれたロープが掛けてあった。
おそらくは鉄ではなくブロンズだろうが、何年も何十年も鳴らしているうちに鐘は傷む。
重さが1トンくらいもありそうな一番大きなのをはじめ、中小の鐘も全て最下のグラウンドフロアまで降ろして修理したり新しいのに交換するのだろう。そのためのロープだと知れた。だから、それぞれの鐘の重さに見合う分銅が結ばれていて鐘楼の天井に取り付けてある滑車を使って上げ下ろしする。これならば、たとえ非力な女性でも楽に重い鐘を上げ下ろしできる工夫だ。
ヤヨイは一番小さな分銅のロープを取り、鐘楼の縁に立った。それでも3~4キロはあるだろうか。
鐘楼の上には十字架が立っている。上手くすれば十字架にロープの先の分銅が巻き付いてくれるはず!
ハーニッシュがその生活スタイルを模倣した、18世紀のアメリカ・アーミッシュが生きていたころ。広大な大陸を西へ西へと土地を開拓し、ネイティヴ・アメリカンたちを追い詰めていった新教徒カウボーイたちのように。ロープの先の分銅をぐるんぐるんと回して、いいころ合いで放った。
がしっ!
うん! 手応えあり!
何度か引いて巻き付いたのを確認! 思い切って鐘楼の外に飛び出した!
ナイフでロープを切られてしまう恐れはある。だが要はそれよりも早く上に上がってしまえばいいのだ!
ロープを持って、鐘楼の壁を真横に走りながらロープを曳く。そうすれば、ロープを切る人間がロープに押されるかロープを追うかしているうちに十字架にロープが巻き付く方が早いはず!
その読みは当たった。
ヤヨイが鐘楼のドーム屋根の縁に上がってしまったとき、ペールはまだロープを完全に切れないでいた。
「やっぱり、あなたね、ペール」
ペールは十字架の陰に隠れた。隠れた、といっても直径1フィートもない十字架の柱である。身を隠すにはまったく細すぎた。そこからヤヨイの顔を驚いたように見つめていた。
「・・・ノルトヴェイトじゃない! 」
「そうよ。わたしはニセモノ。150年前に帝国に亡命したクラウスに似せてメイクしてただけ。あなたと、あなたの主人を、逮捕するためにね」
「なんだって? ・・・だましたのか! 」
「そんなことは、もうどうでもいいわ」
と、ヤヨイは言った。
「ペール。もう諦めて降伏なさい。そうすれば、命までは取らない」
「オレは、オレは、このノールを真に神の国にするために!・・・」
ヤヨイはブーツを脱いで下に落とした。雨上がりのドーム屋根の上は滑りやすく、ともすると足を取られがちになる。ついでにソックスも脱ぎ、裸足になった。これなら、大丈夫!
「それが、神の国が、何になるの、ペール?
人を殺し、多くの人を争いに巻き込み、今また、多くの人が争いで死のうとしている。神の名のもとに。
それが、何になるの?
ノールがどうとかよりも、一人の女の子を幸せにする方が、二人で暖かい家庭を築く方が、何倍も価値のあること。そしてそれは、あなたにしかできないこと。
どうしてそれが、わからないの? 」
「うるさい! 」
ペールはナイフを投げた。
が、その技量は彼の師匠である「もぐら」には到底及ばない。
このペールという青年は、地道に技を磨いて己を高めたり、地道に働いて自分の足元を固めたりするよりも、見せかけの華美に酔い、酔いながら自分を無為にすり減らしていく、世の中によくいる、ただそれだけのヤツなのだ。
可哀そうだが、哀れとしか、言いようがなかった。
ここはいっそ、殺してしまった方がいい。
ごめんね、ノラ・・・。
「じゃあ、仕方ないわね」
十字架に捉まっているペールに一歩近づいた。
と、その時。
バサッ、バサッ!
見上げると、大きな鷲がヤヨイたちの頭上を悠々と輪を描いて降りてきて、ペールのアタマのはるか上、十字架の横棒の上にガッ、と止まった。
「(まあっ!)」
さすがに声はたてなかったものの、その雄姿はヤヨイを驚かせるには十分すぎた。
このミッションに入る前。
北の野蛮人の土地の上を偵察機で飛んだ時、ヤヨイとしばしランデブーした、そのお方だったからだ。
特徴のある鋭い眼と男性的に張り出した胸の羽毛でそれとわかった。
ミッション中、しかも、最後のどん詰まりのクライマックスであるにもかかわらず、ヤヨイはしばし、その厳かでさえある姿に見惚れた。
刹那。ヤヨイと鷲は、目が合った。
そのせいかどうか、わからない。
でも、気が変わった。
屋根への登攀に使ったロープを手繰り、ヒュッ、ヒュッ、と振り回したかと思うと、あっという間もなくペールごと十字架に巻き付けた。ペールは尖塔の上の十字架に拘束された。
ロープの端を留めて、ヤヨイは一度だけ、ペールの頬を叩いた。
ぺち、と。
「気が変わったわ。
ペール。あなたをノールの官憲に引き渡す。死刑になるか、懲役刑に服すかはわからない。これだけの騒ぎを起こしたわけだしね。あなたは裁きを受けるべき。
そしてもし、刑期を終えて出られたら、今度こそノラと添い遂げ、幸せな家庭を作りなさい。ノラは、きっと待っていてくれるわ、あなたを」
ペールはもう、反駁はしなかった。黙ってニセモノの「ノルトヴェイト公爵家の末裔」「帝国貴族ヴァインライヒ女男爵」のまっさらの素顔を見つめていた。
ヤヨイはペールを一瞥し、ふと頭上の大鷲を見上げた。
大鷲は変わらずヤヨイを見下ろしひときわ大きく胸を張った。
うん! これで、よし!
ズダダダーンッ!
背後で複数の銃声が響いた。
そうだ!
もう一棟の尖塔に向かわねばならない!
ヤヨイの倒さねばならない、真のターゲット。「もぐら」はそこにいるのだ! 早く行かねば!
だが、このバカ高い尖塔を駆け下りて、また向かいの塔に駆けあがっていては時間が掛かりすぎ、それに先行しているグロンダール卿の配下たちも皆殺しにされるかもしれない。
ひとまず屋根から下り鐘楼に入った。
ロープはまだある。しかし向かいの尖塔までの距離は30フィート、10メートル以上はある。ロープは届くにしても、そこまで投げる腕力がヤヨイにあるか? 男手でもムリだろう。
大鷲さんにロープを咥えて行ってもらうとか。・・・さすがに、ムリよね。
埒もない冗談を浮かべつつ、一番低い音を奏でる巨大な鐘を見上げながら、考えるよりも足の方が速いかな、などと思案しているところに、
「マルス! 無事ですか?! 」
バタバタとグロンダール卿の配下たちが上がってきた。皆、手に銃を持って。
それに、おそろいの黒い官服、マントを着て。
それで、ぴん、と閃いた。
急にしゃがみ込んで回廊の床に指で文字を書き始めた。
「えーと重力加速度は9.8m/s² 鐘の重量は1トンくらいかしら。で、わたしの重量、最近ちょっと太ったから・・・。で、鉛直投げ上げ運動で・・・、おっと! その前に等加速度直線運動・・・」
「あの、マルス。いったい、何を・・・」
スタッフの一人が訝しんで質問すると、
「だー、ちょっと黙ってて! あ、屋根の十字架に『もぐら』の手下を一人縛り付けてるから。それから、あの滑車の真上の屋根を撃って! 」
「は? 屋根を?」
「屋根を撃って、穴をあけて欲しいの! いい? 間違っても滑車に当てないでよ! それ壊したらオジャンだからね」
「何をするんですか? 」
「今説明してる暇ない! 黙って言うとおりにして! あ、そして、あなた! 」
「え、オレすか? 」
「脱いで」
「え? 」
帝国の「ぱっと見可愛い女エージェント」の言葉に、スタッフの中で一番大柄な男が、その図体にもごっついカオにも似合わず、派手な赤面をした。
ズダダダーンッ!
数フィートという至近距離。しかも複数のライフルの連続射撃は、鐘楼のドーム屋根に直径一メートルほどの穴をあけた。
曇ってはいるが、穴の上に雨の止んだ空が覗いた。天井の木材や屋根瓦の破片が鐘に当たって200フィートほど下のフロアにバラバラと落ちて行った。
「もう一度聞きます! ホンっ・・・・・・とに、やるんですねっ?! 」
銃の発射煙もさめやらぬなか、冷汗を拭きながら、黒装束のスタッフの一人が叫んだ。
「やるわ! 合図したら、クサビを外して! 」
「も、むちゃくちゃだ! 帝国人はいったいなに考えてるんだか・・・」
ヤヨイは最も巨大な釣り鐘に結んだロープの反対側に垂れているロープに飛び移り、
「時間がないわ! 言われた通りサッサとやる! じゃ、お願いね! 」
それをスルスルと降りて行った。
計算では200フィートの半分より少し、約32メートルほど降りればいいはず! あとは、大鐘の重量が予想を下回らなければ!
そして、目分量ではあるがだいたい所定の位置に着いた。
「いいわ! やって! 」
はるか下の暗い井戸の底から、ヤヨイの叫びが上がった。
「じゃ、や、やりますっ! 」
グロンダール卿の配下の一人、ヤヨイに「脱いで」と言われた最も大柄な男が太い梁に上って大鐘の真上に行き、鐘を吊っている輪っか、西洋の鐘では「耳」、東洋の鐘では「竜の頭」リュウズという部分に刺さっているクサビをハンマーで逆に打った。彼は力自慢ではあったのだが、長い年月で硬く入ったクサビはビクともせず。しかし、それにもめげずにガンガン打ち込むと、やっとクサビは動き、外れ始めた。
「外れそうです! 落ちますよ! 」
「いつでもいいわ! 急いで! 」
と、
すこんっ!
クサビは外れるとともに強く弾け飛んだ。一トンはあると思われる、大の男が二人でようやく抱えられるほどの大鐘は、重力の法則に忠実に、尖塔の中を自由落下し始めた。
グンッ!
自分の体重分以上の凄まじい衝撃に一時は弾き飛ばされそうになった。だが、比較的軽い体重が幸いしてロープに引っ張られたヤヨイの身体は重力加速度に従ってどんどん速度を上げ上昇し始めた。もちろん、握力だけでは把持できない。ロープを身体に巻き付けていた。そうして下に落ちる鐘とすれ違うころには、凄まじいほどのスピードに達していた。
終点である滑車が急速に目の前に近づいて来た。そのままならば、滑車に巻き込まれて手や身体が寸断される! 絶妙なタイミングで、ヤヨイは手を離した。
鐘楼の天井に激突することなく、ヤヨイの身体は弓から離れた矢のように虚空へ飛び出した。
ドスンッ!
凄まじい轟音、そして地響きで尖塔が揺れた。大鐘はグランドフロアの石畳に落ちてめり込んだ。
反対に、猛烈な加速度を得て弾き飛ばされたヤヨイは、計算で導き出した鉛直投げ上げ運動に忠実に、オスロホルム一の高さを誇る大聖堂の尖塔はおろか、旧市街新市街港まで全て視界に収めるほどの、それらをはるか下にみるほどの高空の頂点に達した。
一瞬の浮遊状態が訪れた。
ガバッと両手両足を大きく開いた。
あらかじめ大柄のスタッフから奪っていた大きな黒のマントを、腰と両手首両足首に結び付けていたのだ。
まるでムササビのように、ヤヨイはオスロホルムの空を滑空した。
偵察機を操縦するよりも、空挺部隊で落下傘で降りるよりも、さらに「空を飛ぶ」というイメージに近かった。
ヤヨイは、鳥になっていた。
鳥のままどこかへ、そのまま月へ行ってしまえそうなほどに。
だが、ヤヨイには果たさねばならない任務がある。
一直線に、「もぐら」の籠る東の尖塔の頂上、鐘楼のドーム屋根の上に飛んで行った。
「・・・なんなんだ、・・・あれは! 飛んでいるぞ!」
「まさか!」
事情を知らないグロンダール卿の配下たちは自分の目を疑った。
十字架から降ろされてあらためて手錠を掛けられたペールも、見た。
もちろん、グロンダール卿自身も、それを目撃した。
「もはや、人間ではないな、あのような荒業は・・・。まるで、魔人か、悪魔だ。
やはり、正真正銘の『軍神マルスの娘』なのかもしれん・・・」と。
そうして、ターゲット「もぐら」もまた、鐘楼の螺旋階段を登って来ようとするアンドレたちをナイフを投げて威嚇し階段に釘付けにしつつ、ヤヨイの飛行を目の当たりにした。
ただし、ニコライは、「もぐら」は、何も言わなかった。
ダンッ!
鐘楼の天井に衝撃があったが。長年のホコリがパラパラと落ちたのを見ただけだった。
ヤヨイは無事に東の尖塔の上に着地した。
伸るか反るか。どれか一つでも齟齬があれば死んだかもしれないような離れ業の果てに。
しかし、そこから先は、考えていなかった。
とにかく、行かねば! それだけだったからだ。
だが、不利ではない。
下からはグロンダール卿の配下が。上からはヤヨイが。
もう「もぐら」は進退窮まっていた。
迂闊に下の鐘楼に降りればナイフが飛んでくる。下のスタッフたちと息を合わせればそれも躱せそうだが、そこまでは期待できまい。
黒のマントを外しながら、ヤヨイは突破口を探っていた。すると、
「ヤヨイ殿。先ほどの身のこなしは実に見事だった」
下から「もぐら」の声が聞こえた。
「そして、今のムササビのような飛翔も。
これほどの手練れはノールにはいない。やはり貴女は帝国の最強のエージェントであったのだな。
降りて来ないか。もう、ナイフも尽きた。
この際、投降する。相応しい罰も、受ける覚悟だ」
本当だろうか。
当然、疑う。
だが、これ以上膠着状態が続いても仕方がない。
屋根の庇から鐘楼の中に入る時が一番無防備になる。思い切って庇を掴み、えいっ、と身を躍らせて鐘楼の中に入った。
「もぐら」は、ニコライは、鐘楼の手すりに凭れ、目を閉じていた。
大聖堂の周囲は全て地下通路まで閉鎖されている。グランドフロアにはグロンダール卿の手の者たちが多数詰めてヤヨイの成り行きを見守っているし、すぐ階下にも、そしてヤヨイが至近に張り付いている。
なにもかも観念して漂白されたような、「もぐら」のいるそこだけが別世界のような静けさの中にあった。
「用意周到に事を運んできたつもりだったが、最後の最後で、欲が出た」
彼は、語り始めた。
もう大司教のカズラも脱ぎ、白いシャツにビロードの半ズボンだけの軽装になっていた。見たところ、彼の言葉通り、身に寸鉄も帯びてはいない。
「ハーニッシュを味方につけられるか否か。それが、カギだった。そのために追放されたペールを手元に置き、長老にも渡りをつけた。彼らも私と同じ、現王家に不満を持っていたのを知っていたから、そこまでは計画通りだった。
しかし、貴殿が現れた」
ニコライと反対側。回廊の奥の階下に向かう螺旋階段に気配を感じた。
「まだ来ないで! 彼は投降の意思を持っている! もう少し、待って! 」
グロンダール卿が「アンドレ」と呼んでいた配下だろう。気配は鎮まり、少し階下に下がったのを感じた。
「ありがたいな。私の最後の告解、懺悔を尊重してくれるのだな」
ヤヨイは応えなかった。
大捕り物になるよりかは、穏便にお縄に着こうとしている下手人に言いたいだけ喋らせる方がいいと思ったのだ。彼にはもう、逃げ場はない。
「貴殿の背後にいるノールと帝国の連係プレーは完璧だった。私がイヤでも食指を動かすよう工夫したのだな。
ハーニッシュ達が神同様に崇めるノルトヴェイトを使ったのは上出来だった。貴殿の演技も、最高だった。まさに女優だったよ、ヤヨイ殿。
それ、ノルトヴェイトの存在があれば、自由自在に彼らを使える。まさか、その末裔が貴殿のようなエージェントだとは夢にも思わなかったがね。
わたしはそれに、まんまと引っかかったわけだ。
お! 化粧を落としたのだな」
ふいにニコライが顔を上げた。
彼の目はもう、メデューサではなくなっていたのを知った。ごく普通の、30代前半の男性。その優しい瞳がヤヨイをみつめていた。
「アクセルもそうだが、帝国のメイクアップ技術というのは目を見張るものがあるな。その小さな一事を取ってみても、素晴らしいの一語に尽きる。もう一度同じことを企てたとしても、私にはきっと見破れないだろう。
私にはもう、心残りなどはない」
「最後に一つ、訊いていいか」
何故かはわからない。なんとなく、胸騒ぎを感じた。例の、第六感というヤツが、警報を発していた。
「なんなりと答えよう」
と、ニコライは言った。
「お前は、帝国だけでなくノールもチナも、全ての人間を抹殺したいと、そう言った」
「ああ」
「なぜだ」
ヤヨイは、その第六感に従って、裸足の足を一歩前に進めた。
「なぜだろう。実は、私にもよくわからない。
ただ・・・」
「ただ? 」
「なぜだかわからないが、時に何もかもぶっ壊してしまいたくなる。
そんなことはないか?
私は、幼少のころからずっとそれがあった。そして、次第にその思いを募らせていった。
生まれ育ったのは帝国だった。だから、何よりも帝国をぶっ潰してやりたかった。
でも、帝国はあまりに強すぎ、大きすぎ、懐が深すぎた。ともすると、帝国に飲み込まれ、そこに安住したくなる。それが帝国の強みであるわけだが、結局私はその帝国の良さに、馴染めなかった。
だから、ノールに来た。
ノールは帝国よりも小さい。しかも、脆弱な面がある。それに、ハーニッシュがいた。
帝国よりは、よほど与し易く、扱いやすく、倒しやすい。
まずはノールを我が手に収め、帝国にけしかけ、その間に西からチナを焚きつけ北の野蛮人たちを暴れさせる。
そうすれば、さしもの帝国も疲弊し、倒れる。
そう思ったのだ」
これは、危険だ!
なぜだか理由はわからないが、ヤヨイの「第六感」がそう叫んでいるのだ。
危ない! と。
「私自身がそれを知りたかったから。なぜ全ての人間を殺したいのか、を。
強いて言えば、それが理由かもしれない 」
ヤヨイは、叫んだ。
「全員! この鐘楼から離れろ! 」
「やはり、優秀だな」
ニコライは白いシャツのボタンを外した。彼の裸の腹には、いくつもの茶色い紙で包まれたものがベルトで巻かれ張り付いていた。
爆薬だ!
やはり!
ニコライは、自爆、自決するつもりなのだ!
ヤヨイも鐘楼の端に寄った。
西も東も。大聖堂の尖塔の造りは同じだった。尖塔はいわゆる「筒」で、鐘楼の鐘たちの真下は200フィートほどの空洞が落ちている「井戸」だった。
ニコライは腰を上げ、大鐘のそばに寄った。
「私のこの世での最後に、貴女のような美しく優秀な女(ひと)と出会えたのは幸運だったかもしれない」
ニコライは、あの、ヤヨイから奪ったライター、アクセルからもらった帝国兵支給のオイルライターを取り出した。そして親指でフリントホイールを回した。
シュボッ!
ナフサの香りが漂った。
「もし来世というものがあるのなら、今度はもう少し早く貴女と巡り合えたらと思わぬでもないけれど」
もうメデューサの瞳ではない、優し気な黒髪の男は、持っていたライターを腹に近づけた。ライターの火が、導火線に着火した。
「では、さらばだ、ヤヨイ殿! 」
そうして、ニコライは鐘楼の中央の「井戸」に身を躍らせた。
逃げねば!
「爆発するぞ! 全員、退避! 」
ヤヨイもまた、爆風の影響を最小限にするべく、鐘楼の外へ身を躍らせ、縁にぶら下がった。すぐに、それは来た!
ズドオオオオオンッ!
ヤヨイはまだ、大地震というものを文献でしか知らない。
王都全てを揺るがした大きな振動は、鐘楼の縁に掴まっていたヤヨイを吹き飛ばし、大聖堂の正面ドアの上、二階のバルコニーの上の庇に振り落とした。
「井戸」を下に抜けた爆風はグランドフロアに居たグロンダール卿と彼の配下のほとんどをなぎ倒してホコリまみれにし、上に抜けた爆風は鐘楼の屋根の一部を破壊し、大中小と並んだ鐘を全て鳴らし、からんごろんと奇妙な音楽を奏でた。
しばし意識が飛びそうになったが、アタマを振って尖塔を見上げれば、爆発が起きたと思われる尖塔の腹の部分のレンガが少し膨らんで「でぶ」になっているのがわかるほどだった。
ニコライは、「もぐら」は、死んだ。
ヤヨイの長いミッションも終わった。
そう、思いたかった。
だが、まだ終わりではなかった。
落ちた衝撃で痛む尻を擦りつつ、ヤヨイは正面のバルコニーに飛び降り、次いで階下に降りた。
「あの、すいません! 靴と馬を貸してください!」
その辺りにいる誰だかわかんないホコリまみれのヤツに声をかけた。
なんと、グロンダール卿だった。
「『もぐら』は? 死んだか? 」
「たぶん、ミンチになってると思います。閣下、馬と靴をください! 」
「は? 」
「は、じゃなくて! ハーニッシュですよ! このままにしておいていいんですか? わたしはどっちでもいいですけど!」
爆発で多少ボケたみたいなグロンダール卿だったが、やっと事態をのみこめたらしく、
「おい、誰か! マルスに馬と靴を! 」
そして、ヤヨイは騎乗のひとになった。
「陛下にお目通りするなら、侍従のクリストフェルを。彼は私のスタッフだ。内密だがな」
スキンヘッドに積もったホコリを払いながら、グロンダール卿は言った。
「ああ、あの背がめっちゃ高い・・・」
「めっちゃ?」
「あ、いいです。わかりました! 」
そうしてヤヨイは西へ。
ハーニッシュと王国兵とが対峙する前線へと向かった。
一時は最前線にまで身を運んだものの、周囲の諫めで不承不承王宮に戻ることにしたスヴェンだった。
だが、もどかしい!
16歳の若い血潮は、王宮に戻る道をゆっくりと騎乗しつつ、この身より大切なノールの秩序を脅かすこの非常事態に対しておのれの無力を感じ、何度も西の前線、ハーニッシュと王国軍が対峙する戦場を振り返っていた。
「それは違います、陛下。陛下は、臣下をして事に当たらしめるためにおわすのです。御存在になっておられるのです。王宮にあって不動のお姿をしめされるのもまた、最前線にて陣頭指揮を取られるのと同様大切なお役目なのです。どうか、ご懸念なさいませんよう! 」
いつも傍らにいて補佐してくれるクリストフェル。
しかし、だが・・・。もどかしい!
「申し上げます! 前方より一騎、全速力でこちらにやってきます! 」
国王護衛の近衛騎兵の小隊長が声を張り上げた。
しかし、すぐに。
「あれは近衛騎兵です! 」
「いや、待て! なにか様子が変だぞ! 」
「何事であるか! 陛下の御前であるぞ! 止めて下馬させよ! 情況を的確に報告せよ! 」
国王に同道していた軍務大臣ビョルンソン大将もまた声を張り上げた。
そうするうちに、高速で接近する赤いジャケットの騎兵が、軍装であるピコルヌも被らず、サーベルも銃も持たず、美しい金髪を靡かせている女性であることが一行の誰の目にも見えてきた。
「陛下! 国王陛下! ヴァインライヒでございます! イングリッドでございます! 」
「なにっ?! 」
その可愛らしい、しかし緊張した声が、愛するイングリッドであることを知ると、スヴェンの心は俄かに浮き立った。
「イングリッド?! 」
雨は、ようやく上がった。陽も、上った。
ノール軍と対峙するハーニッシュ陣営には、里から彼らを追ってきた糧食が配られ、腹を満たしつつある民たちはみな、静かに決戦の時を待っていた。
使いに出したペールたち若い衆は誰一人戻らなかった。それもまた、むべなるかな。
ペールたちは一足先に神の御許に旅立ったのだ。
長老ハンヴォルセンは瞑目し、胸の上で十字を切った。
そろそろ、号令の刻限になる。
神の御業か、雨も上がった。
今こそ、積年の願い、ノールを神が治める国へと導くときである!
ハンヴォルセンが里の衆たちに号令すべく立ち上がったとき。
「長老! あれを! あれを見て下さい! 」
向かうノール軍の陣営の右手に小高い丘があった。
その上に、華麗な赤い軍装に身を包んだ若い騎兵と、それよりはやや華奢な、美しい金髪を風に靡かせた姿があった。
「あれは、国王。その横にいるのは・・・」
ハーニッシュの皆さん!
ふいに、遠望する丘の上の姿から声が響いた。
男の声ではない。束の間ではあったが、聞き覚えのある女性の声だった。
その声は大軍同士が対峙した戦場に静けさをもたらし、誰の貌にも何か神々しいものを間近にしたときのような、無垢で真摯な色が浮かんでいた。
みなさん! 聞こえますか!
わたしは、イングリッド・マリーア・ノルトヴェイト・フォン・ヴァインライヒです!
おおっ!
国王に従い、共に同道したクリストフェルの双眼鏡には、対峙する黒装束の万を超える軍勢が一斉にどよめき、次いで皆が皆、黒い鍔広帽を取って片膝付いて両手を組むのが見えた。
すごい・・・!
名を名乗っただけで、この威力!
ノルトヴェイトの末裔という「伝説の威力」か、はたまた、この帝国の女エージェントの持つ、摩訶不思議な神通力にも似た力か。
その名前の威力を初めて、間近に見た。
最初、単騎無帽で接近する近衛騎兵のユニフォームの女性を訝しんだクリストフェルだった。だが、近づくにつれ、彼女が件の帝国のエージェントであることがわかった。
「陛下、バロネン・ヴァインライヒ閣下でございます! 」
は?
きょとん、としているスヴェンに、クリストフェルは畳みかけた。
「バロネンがおいでになったのです! このノールの危急を救わんと、お出ましなったのです、陛下! 」
「だが、クリストフェル。あれは、イングリッドでは・・・」
ともするうちに騎乗の女性は馬を降りてつかつかと歩み寄り、騎乗のノール国王に恭しく礼をし、手を差し出した。
「陛下、どうか、お手を。そうすれば、思い出していただけましょう」
未だ半信半疑の国王に、クリストフェルは促した。
「陛下。どうぞお手を。バロネンの、イングリッド様のお手をお取りください」
不承不承。スヴェンは白い手袋を脱ぎ去り、優し気な、どちらかと言えば丸顔の、何故か親しみを抱かせる、近衛騎兵の赤いジャケットを着た女性の手を取った。
すると、国王の顔がにわかにほころび、すぐに満面の笑みに変わった。
「イングリッド! そなたはイングリッドだな?! この手の感触。そして、そなたのその甘い香り! 間違いない! そなたは余の愛するイングリッドである!
だが、なぜにそのように顔が変わっておるのか? 」
丘の上。
騎乗のまま、イングリッドは対峙するハーニッシュの軍勢に対して、叫んだ。
「ハーニッシュの皆さん! 今から、みなさんに、わたくしから、わたくしたちからご報告申し上げたいと思います!
まもなくわたくしの夫となられる、ノール国王、スヴェン27世陛下より、親しくお言葉をいただきます! 」
対する陣からにわかにどよめきが沸き起こった。
それを見て、ヤヨイは傍らの若き国王に頷いた。
辺りが鎮まるのを待って、若きノール国王は、宣言した。
「ハーニッシュの里の民にお知らせする! 余はノール国王、スヴェンである!
ここに、余は、これなる帝国貴族ヴァインライヒ女男爵をわがノール王家に后として迎えるべく、近々に帝国に対し勅使を遣わすものである! 」
し~ん・・・。
両軍が対峙する最前線が静まり返った。
そこでヤヨイは小さく呟いた。
「国王陛下。いいえ、スヴェン。キスしてください! いますぐ! 」
「・・・なんと!
わかった! 愛している、イングリッド! 」
馬を寄せた国王が馬上ノルトヴェイトの肩に手をかけ、そして、熱いキスを捧げる姿もまた、全てのハーニッシュ達が目にした。
そこで初めて、対面する西の陣営から大きな歓声が上がった。
うぉおおおおおおおおおおおおおおおおっ!
それを手を上げて抑えようとしたスヴェンだったが、もう不可能に近かった。それでも、辛うじて国王としての義務を思い出した彼はさらに声を励ました。
「その儀に先立ち、余ノール国王スヴェンは、ここに断絶したノルトヴェイト公爵家の再興を差し許し・・・」
またもハーニッシュたちの陣営からまるで鬨の声のような大歓声が上がり、国王の残りの言葉は全てかき消されてしまった。
こうして、両軍の本格的な戦闘は暴発寸前で回避された。
クリストフェルはもちろん、居並ぶ軍務大臣や近衛軍団の司令官、士官たちもみな一様に安堵の吐息を漏らし胸を撫で下ろした。
スヴェンは、隣で同じく安堵の笑みを浮かべるイングリッドの栗毛の手綱を取り、引き寄せた。そして、今にも爆発しそうな喜びを抑えかねるように呟いた。
「イングリッド! 余は、ボクは、これほどに感動したことは今までかつてないっ!
嬉しくて、飛び上がりたい気分なんだっ!
今は大臣たちがいるから、出来ないけど、でも、嬉しくて、嬉しすぎて、いますぐにキミを抱きしめてしまいたいぐらいなんだっっっ! 」
初めて意中の女の子に告白し、それが受け入れられた時の喜び。
いっぱしの男子ならば誰でも一度はその生涯に持っている、甘くて、バカバカしいほど純粋で真剣で無垢な、天にも昇るほどの幸福感に包まれる、あの喜びに、スヴェンは大きく浸っていた。
もう、なぜ顔が変わっているのかなど、どうでもいいっ!
この子は、イングリッドだ! ぼくの、想い人だっ!
単騎駆けつけてくれ、しかもこうしてノールの悲劇を未然に回避してくれ、しかも結婚まで了承してくれ、しかも、キスまでっ!!!
顔だって、よく見れば可愛い! いや、よく見なくても可愛いっ!
ノルトヴェイト家伝統の切れ長の眼に惚れた彼だったが、ちょっとばかりのタレ目もまた愛嬌があっていいっ!
いささかいい加減なところがないでもなかったが、あまりの感動ゆえか、感涙にむせぶスヴェンの手がぐい、とイングリッドの手を掴んだ。
帝国の深窓におわした貴族令嬢は、彼女自身の素のままの笑顔を向けた。
だが・・・。
そこまでだった。
「ありがとうございます、陛下。わたくしも・・・、わたくしも、同じく・・・」
あろうことか、満面の笑みを浮かべたまま、イングリッドは急に頽れるように目を閉じ、スヴェンにしなだれかかった。
慌てて彼女を抱きとめ、声をかけた。
「どうしたのだ! いかがしたのかイングリッド! イングリッド! イングリッドっ! 」
何度も声をかけ、ぺちぺち頬まで叩いても、スヴェンにぐったりと身を預けたまま、イングリッドは目を覚まさなかった。
しかも、
「ぐううっ・・・」
あり得ないことに、イビキまでかきはじめた。
こうして、ヤヨイのミッションは、終わった。
「もぐら」を追った物語は、終わった。
だが、この物語のもう一つの焦点。どこにでもいる、ごくありふれた男と女の愛の結末も、語っておかねばならない。
なぜイングリッドの顔が変わっていたのかは、ペールは知らない。
でも、彼女の言葉は真実だと思った。
衆望を集める目先の華麗さが手に入ればいい。
なるべく辛抱と鍛練は避け、手っ取り早く目先の富さえ手に入ればいい。
そんな生き方を送ってきたペールは、最後の最後で、目を覚ました。
イングリッドの言葉もある。
だけど、それより大きいのは・・・。
後ろ手の戒めを受け、屈強な黒装束に左右を挟まれたペールは大聖堂の一階に降りた。
だが、降りた途端に、東の塔で起きた大きな爆発に、ペールも巻き込まれた。
「逃げろ! コイツは自爆する! 」
左右の男たちに追い立てられ、側廊の陰に押し込まれた。
ズドオオオオオンッ!
ある意味で「闇の稼業」に手を染め、人も殺し、剰(あまつさ)え無用の諍(いさか)いを導き、幼馴染の命をムダに失い、追放されたとはいえ生まれ故郷の里の民人たちの命をも危機に曝した。
神は、そのすべてをご覧になって、正しい裁きを下された。
主身廊も側廊も、舞い上がる粉塵が酷すぎてまるでわけがわからなかった。
後ろ手の戒めのまま身を起こした。
左右に居た男たちはどちらも死んだように眠っていて動かなかった。
立ち上がり、明るい光の方へ向かって歩き出した。
ふいに、目の前がぱあっと開けた。
大聖堂の外に出たと思った。
外は粉塵も風に吹かれたのか消えていた。辺りを見回すと、誰もいないように見えた。
ふと、西を見た。
それまでに見たことのない大きな、美しい虹がかかっていた。王宮の建物よりもはるか上から、旧市街を取り囲む城壁の彼方に、虹は落ちていた。
「なんて、キレイなんだ・・・」
ふらふらと虹のほうへ歩き出した時、
黒装束の男たちに囲まれた、愛しい影。
ずっと彼を慕ってくれ、ずっと彼を支え信じてくれてきたノラの姿が目に留まった。
「ノラ・・・。ノラッ! おい、お前ら! ノラに、オレのノラに触るなっ! 」
「止まれっ! 止まらないと、撃つ! 」
背中から声を聴いたような気がしたけど、気のせいだ。
「ペール! 止まって! 言うことを聞いて! ペール! ペール! 」
ノラの叫ぶ方に、ただ黙々と、歩いた。
急に、目の前が弾け、視界を星が乱舞した。
背中が燃えるように熱かった。その凄まじい熱さは、やがて全身に広がっていった。
ペールは、倒れた。
すぐに、愛しい顔が目の前に現れた。
「ペール! ペール! 」
その柔らかな身体、白い手は、もう何度も愛し、確かめた、ペールを包んでくれた女神のものだった。
「ノラ・・・」
できることなら、その白い柔らかな手を取りたかった。その白い頬に触れたかった。
「ノラ・・・。ごめんね」
燃えるように熱かった炎が急速に冷めていった。星が乱舞していた視界も急速に狭まり、色を、明るさを失っていった。もう音も聞こえなかった。触れ合った肌の感触もなくなった。
暗黒の、無音の、一切の感覚が失われた世界に、ペールは落ちていった。
彼が、その生前の行いによって天へ召されたか、もしくは地獄へ落ちたかは、誰も知らない。
誰かが言った。
「神はそれを信じる人の心のうちにおわしますのだ」
だとすれば、それもまた、むべなるかな。
だけど神様よく見てた。
一攫千金金持ちに、なるもおけらになったとさ。
不埒なペールは夢破れ、ボタンにされる呪い受け、
人に縋るも皆裏切られ、あわれ最後は命尽き、
最後に残ったソルヴェイは、ペールを見捨てず膝の上、
身まかる男を子守唄、歌って彼を見送った。
次回、最終話、エピローグです。
螺旋の階段をただひたすらに、上へ! 尖塔の上へ!
「もぐら」の潜んでいるだろう、鐘楼へ!
登っている途中で、鐘が鳴り始めた。
りんご~ん、りんご~ん、りんご~ん・・・。
複数の鐘の音は急な螺旋階段が巡らされた尖塔の中に響き、増幅しながら階下に舞い降りてきた。上るほどに鐘の音は大きく強くなった。螺旋の中央を降りている鐘撞きのロープを見下ろしても誰もいない。上は?
もちろん、誰の姿も見えない。
ロープの先は鐘の下がる掛け金のようなものにかかってゆらゆら揺れているだけだった。
今は昼の礼拝の時刻ではない。というより、今礼拝どころではない。司祭の何割かは「もぐら」の手下たちで、それ以外はカタがつくまでグロンダール卿の配下たちによってお縄になっているはずなのだから。
だから、鳴らしているのはあの男しかいない。
いったいどのようなオプションを考えているのか。この追い詰められた情況で、それでも起死回生の一手、あるいは再び何処かへ逃げ切れる奥の手があるというのだろうか。
鐘の音は様々ないくつかの色を持っていた。重い音から軽やかな音。音階? 大きいのもあれば小さいのもある、ということか?
考えられ得る情況を想像しつつ、螺旋の階段を上り詰めた。
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鐘楼のトップに出た。
雨はもう峠を過ぎ、小雨も次第に明るく旧市街の古い歴史を刻む街並みを照らしつつあった。
揺れ幅を小さくしながらも、鐘たちはなおも揺れていた。
中央の大きな重い鐘の周囲に中小の鐘が纏わりつくように並んでいる。おかげで向こう側が見えない。
大きな鐘の真下はグランドフロアまで200フィートはある空洞。まるで深い井戸。落とし穴だ。鐘の音はその穴に反響して増幅される理屈なのだろう。
鐘が揺れるたび、木の梁(はり)と心棒とが摩擦する、「ぎいこぎいこ」という音も出る。その上、大小様々な鐘の音。空気も揺れ、音波も乱れる。
なかなかに、気配を感じにくい情況だな・・・。
だが、こういう時こそ、感覚を研ぎ澄まさねば!
ヤヨイのカラテの師匠はリセ在学中の体育の教師で、イマム先生という人だった。
これは後で知ったが、イマム先生はウリル少将の異父弟。同時に現皇帝陛下の甥御でもあった。当時はそれを知らなくて、ただカラテの強い、頼れる大人のオトコだと憧れて積極的にアタックしたりしたのも、もういい思い出になっていた。
そのイマム先生は、こう教えてくれた。
「一対一の純粋な戦いというものは、現実の戦闘ではまず、あり得ない。
一対多数、時には争いとはまったく無関係の雑踏の中で、あるいは前後左右ほとんど視界の効かぬジャングルの中で。そんな聴覚や視覚の効かぬ状況の中で、敵は突然襲って来るだろう。
目や耳に頼るな。
五感を総合した第六の感覚で敵を掴むのだ!
次第に鐘のベロが当たる力が減衰していき音が小さくなってゆく。外部からの力が無くなれば、物体はやがて停止する。ごく初歩的な熱力学の法則。
極度の緊張状態にあって、しかしリセの物理の時間を懐かしむくらい、ヤヨイはリラックスできていた。
そのお陰だろうか。
ふっ!
背後に気配を感じ、ヤヨイはわずかに身体を振った。
シュッ!
右耳1、2インチを何かが空気を切り裂いて飛び、目の前の中ぐらいの鐘に当たった。
かんっ! 鐘は可愛く鳴った。
振り向いた!
が、誰もいない。
ということは・・・。
鐘楼の上か!
国王の正式礼装、近衛騎兵の赤いジャケットを脱いだ。立てかけてあった暖炉の火掻き棒のような、鐘を吊るすロープをひっかけたり捌くための棒だろうが、それをとって赤い服をかけ、鐘楼の軒の外に出した。
さくっ!
すぐに反応があった。火掻き棒の先にひっかけた赤いジャケットに小さなナイフが突き立った。
ははん。案の定だ!
だが同時に、思った。
これは、「もぐら」ではない! 反応があまりにも稚拙すぎる!
真上。ドームになった鐘楼の屋根の上を歩く気配を感じた。
やはり・・・。
「もぐら」なら、こんなヘマはしないだろう。
とすると・・・。
回廊の壁には何本もの幾重にも巻かれたロープが掛けてあった。
おそらくは鉄ではなくブロンズだろうが、何年も何十年も鳴らしているうちに鐘は傷む。
重さが1トンくらいもありそうな一番大きなのをはじめ、中小の鐘も全て最下のグラウンドフロアまで降ろして修理したり新しいのに交換するのだろう。そのためのロープだと知れた。だから、それぞれの鐘の重さに見合う分銅が結ばれていて鐘楼の天井に取り付けてある滑車を使って上げ下ろしする。これならば、たとえ非力な女性でも楽に重い鐘を上げ下ろしできる工夫だ。
ヤヨイは一番小さな分銅のロープを取り、鐘楼の縁に立った。それでも3~4キロはあるだろうか。
鐘楼の上には十字架が立っている。上手くすれば十字架にロープの先の分銅が巻き付いてくれるはず!
ハーニッシュがその生活スタイルを模倣した、18世紀のアメリカ・アーミッシュが生きていたころ。広大な大陸を西へ西へと土地を開拓し、ネイティヴ・アメリカンたちを追い詰めていった新教徒カウボーイたちのように。ロープの先の分銅をぐるんぐるんと回して、いいころ合いで放った。
がしっ!
うん! 手応えあり!
何度か引いて巻き付いたのを確認! 思い切って鐘楼の外に飛び出した!
ナイフでロープを切られてしまう恐れはある。だが要はそれよりも早く上に上がってしまえばいいのだ!
ロープを持って、鐘楼の壁を真横に走りながらロープを曳く。そうすれば、ロープを切る人間がロープに押されるかロープを追うかしているうちに十字架にロープが巻き付く方が早いはず!
その読みは当たった。
ヤヨイが鐘楼のドーム屋根の縁に上がってしまったとき、ペールはまだロープを完全に切れないでいた。
「やっぱり、あなたね、ペール」
ペールは十字架の陰に隠れた。隠れた、といっても直径1フィートもない十字架の柱である。身を隠すにはまったく細すぎた。そこからヤヨイの顔を驚いたように見つめていた。
「・・・ノルトヴェイトじゃない! 」
「そうよ。わたしはニセモノ。150年前に帝国に亡命したクラウスに似せてメイクしてただけ。あなたと、あなたの主人を、逮捕するためにね」
「なんだって? ・・・だましたのか! 」
「そんなことは、もうどうでもいいわ」
と、ヤヨイは言った。
「ペール。もう諦めて降伏なさい。そうすれば、命までは取らない」
「オレは、オレは、このノールを真に神の国にするために!・・・」
ヤヨイはブーツを脱いで下に落とした。雨上がりのドーム屋根の上は滑りやすく、ともすると足を取られがちになる。ついでにソックスも脱ぎ、裸足になった。これなら、大丈夫!
「それが、神の国が、何になるの、ペール?
人を殺し、多くの人を争いに巻き込み、今また、多くの人が争いで死のうとしている。神の名のもとに。
それが、何になるの?
ノールがどうとかよりも、一人の女の子を幸せにする方が、二人で暖かい家庭を築く方が、何倍も価値のあること。そしてそれは、あなたにしかできないこと。
どうしてそれが、わからないの? 」
「うるさい! 」
ペールはナイフを投げた。
が、その技量は彼の師匠である「もぐら」には到底及ばない。
このペールという青年は、地道に技を磨いて己を高めたり、地道に働いて自分の足元を固めたりするよりも、見せかけの華美に酔い、酔いながら自分を無為にすり減らしていく、世の中によくいる、ただそれだけのヤツなのだ。
可哀そうだが、哀れとしか、言いようがなかった。
ここはいっそ、殺してしまった方がいい。
ごめんね、ノラ・・・。
「じゃあ、仕方ないわね」
十字架に捉まっているペールに一歩近づいた。
と、その時。
バサッ、バサッ!
見上げると、大きな鷲がヤヨイたちの頭上を悠々と輪を描いて降りてきて、ペールのアタマのはるか上、十字架の横棒の上にガッ、と止まった。
「(まあっ!)」
さすがに声はたてなかったものの、その雄姿はヤヨイを驚かせるには十分すぎた。
このミッションに入る前。
北の野蛮人の土地の上を偵察機で飛んだ時、ヤヨイとしばしランデブーした、そのお方だったからだ。
特徴のある鋭い眼と男性的に張り出した胸の羽毛でそれとわかった。
ミッション中、しかも、最後のどん詰まりのクライマックスであるにもかかわらず、ヤヨイはしばし、その厳かでさえある姿に見惚れた。
刹那。ヤヨイと鷲は、目が合った。
そのせいかどうか、わからない。
でも、気が変わった。
屋根への登攀に使ったロープを手繰り、ヒュッ、ヒュッ、と振り回したかと思うと、あっという間もなくペールごと十字架に巻き付けた。ペールは尖塔の上の十字架に拘束された。
ロープの端を留めて、ヤヨイは一度だけ、ペールの頬を叩いた。
ぺち、と。
「気が変わったわ。
ペール。あなたをノールの官憲に引き渡す。死刑になるか、懲役刑に服すかはわからない。これだけの騒ぎを起こしたわけだしね。あなたは裁きを受けるべき。
そしてもし、刑期を終えて出られたら、今度こそノラと添い遂げ、幸せな家庭を作りなさい。ノラは、きっと待っていてくれるわ、あなたを」
ペールはもう、反駁はしなかった。黙ってニセモノの「ノルトヴェイト公爵家の末裔」「帝国貴族ヴァインライヒ女男爵」のまっさらの素顔を見つめていた。
ヤヨイはペールを一瞥し、ふと頭上の大鷲を見上げた。
大鷲は変わらずヤヨイを見下ろしひときわ大きく胸を張った。
うん! これで、よし!
ズダダダーンッ!
背後で複数の銃声が響いた。
そうだ!
もう一棟の尖塔に向かわねばならない!
ヤヨイの倒さねばならない、真のターゲット。「もぐら」はそこにいるのだ! 早く行かねば!
だが、このバカ高い尖塔を駆け下りて、また向かいの塔に駆けあがっていては時間が掛かりすぎ、それに先行しているグロンダール卿の配下たちも皆殺しにされるかもしれない。
ひとまず屋根から下り鐘楼に入った。
ロープはまだある。しかし向かいの尖塔までの距離は30フィート、10メートル以上はある。ロープは届くにしても、そこまで投げる腕力がヤヨイにあるか? 男手でもムリだろう。
大鷲さんにロープを咥えて行ってもらうとか。・・・さすがに、ムリよね。
埒もない冗談を浮かべつつ、一番低い音を奏でる巨大な鐘を見上げながら、考えるよりも足の方が速いかな、などと思案しているところに、
「マルス! 無事ですか?! 」
バタバタとグロンダール卿の配下たちが上がってきた。皆、手に銃を持って。
それに、おそろいの黒い官服、マントを着て。
それで、ぴん、と閃いた。
急にしゃがみ込んで回廊の床に指で文字を書き始めた。
「えーと重力加速度は9.8m/s² 鐘の重量は1トンくらいかしら。で、わたしの重量、最近ちょっと太ったから・・・。で、鉛直投げ上げ運動で・・・、おっと! その前に等加速度直線運動・・・」
「あの、マルス。いったい、何を・・・」
スタッフの一人が訝しんで質問すると、
「だー、ちょっと黙ってて! あ、屋根の十字架に『もぐら』の手下を一人縛り付けてるから。それから、あの滑車の真上の屋根を撃って! 」
「は? 屋根を?」
「屋根を撃って、穴をあけて欲しいの! いい? 間違っても滑車に当てないでよ! それ壊したらオジャンだからね」
「何をするんですか? 」
「今説明してる暇ない! 黙って言うとおりにして! あ、そして、あなた! 」
「え、オレすか? 」
「脱いで」
「え? 」
帝国の「ぱっと見可愛い女エージェント」の言葉に、スタッフの中で一番大柄な男が、その図体にもごっついカオにも似合わず、派手な赤面をした。
ズダダダーンッ!
数フィートという至近距離。しかも複数のライフルの連続射撃は、鐘楼のドーム屋根に直径一メートルほどの穴をあけた。
曇ってはいるが、穴の上に雨の止んだ空が覗いた。天井の木材や屋根瓦の破片が鐘に当たって200フィートほど下のフロアにバラバラと落ちて行った。
「もう一度聞きます! ホンっ・・・・・・とに、やるんですねっ?! 」
銃の発射煙もさめやらぬなか、冷汗を拭きながら、黒装束のスタッフの一人が叫んだ。
「やるわ! 合図したら、クサビを外して! 」
「も、むちゃくちゃだ! 帝国人はいったいなに考えてるんだか・・・」
ヤヨイは最も巨大な釣り鐘に結んだロープの反対側に垂れているロープに飛び移り、
「時間がないわ! 言われた通りサッサとやる! じゃ、お願いね! 」
それをスルスルと降りて行った。
計算では200フィートの半分より少し、約32メートルほど降りればいいはず! あとは、大鐘の重量が予想を下回らなければ!
そして、目分量ではあるがだいたい所定の位置に着いた。
「いいわ! やって! 」
はるか下の暗い井戸の底から、ヤヨイの叫びが上がった。
「じゃ、や、やりますっ! 」
グロンダール卿の配下の一人、ヤヨイに「脱いで」と言われた最も大柄な男が太い梁に上って大鐘の真上に行き、鐘を吊っている輪っか、西洋の鐘では「耳」、東洋の鐘では「竜の頭」リュウズという部分に刺さっているクサビをハンマーで逆に打った。彼は力自慢ではあったのだが、長い年月で硬く入ったクサビはビクともせず。しかし、それにもめげずにガンガン打ち込むと、やっとクサビは動き、外れ始めた。
「外れそうです! 落ちますよ! 」
「いつでもいいわ! 急いで! 」
と、
すこんっ!
クサビは外れるとともに強く弾け飛んだ。一トンはあると思われる、大の男が二人でようやく抱えられるほどの大鐘は、重力の法則に忠実に、尖塔の中を自由落下し始めた。
グンッ!
自分の体重分以上の凄まじい衝撃に一時は弾き飛ばされそうになった。だが、比較的軽い体重が幸いしてロープに引っ張られたヤヨイの身体は重力加速度に従ってどんどん速度を上げ上昇し始めた。もちろん、握力だけでは把持できない。ロープを身体に巻き付けていた。そうして下に落ちる鐘とすれ違うころには、凄まじいほどのスピードに達していた。
終点である滑車が急速に目の前に近づいて来た。そのままならば、滑車に巻き込まれて手や身体が寸断される! 絶妙なタイミングで、ヤヨイは手を離した。
鐘楼の天井に激突することなく、ヤヨイの身体は弓から離れた矢のように虚空へ飛び出した。
ドスンッ!
凄まじい轟音、そして地響きで尖塔が揺れた。大鐘はグランドフロアの石畳に落ちてめり込んだ。
反対に、猛烈な加速度を得て弾き飛ばされたヤヨイは、計算で導き出した鉛直投げ上げ運動に忠実に、オスロホルム一の高さを誇る大聖堂の尖塔はおろか、旧市街新市街港まで全て視界に収めるほどの、それらをはるか下にみるほどの高空の頂点に達した。
一瞬の浮遊状態が訪れた。
ガバッと両手両足を大きく開いた。
あらかじめ大柄のスタッフから奪っていた大きな黒のマントを、腰と両手首両足首に結び付けていたのだ。
まるでムササビのように、ヤヨイはオスロホルムの空を滑空した。
偵察機を操縦するよりも、空挺部隊で落下傘で降りるよりも、さらに「空を飛ぶ」というイメージに近かった。
ヤヨイは、鳥になっていた。
鳥のままどこかへ、そのまま月へ行ってしまえそうなほどに。
だが、ヤヨイには果たさねばならない任務がある。
一直線に、「もぐら」の籠る東の尖塔の頂上、鐘楼のドーム屋根の上に飛んで行った。
「・・・なんなんだ、・・・あれは! 飛んでいるぞ!」
「まさか!」
事情を知らないグロンダール卿の配下たちは自分の目を疑った。
十字架から降ろされてあらためて手錠を掛けられたペールも、見た。
もちろん、グロンダール卿自身も、それを目撃した。
「もはや、人間ではないな、あのような荒業は・・・。まるで、魔人か、悪魔だ。
やはり、正真正銘の『軍神マルスの娘』なのかもしれん・・・」と。
そうして、ターゲット「もぐら」もまた、鐘楼の螺旋階段を登って来ようとするアンドレたちをナイフを投げて威嚇し階段に釘付けにしつつ、ヤヨイの飛行を目の当たりにした。
ただし、ニコライは、「もぐら」は、何も言わなかった。
ダンッ!
鐘楼の天井に衝撃があったが。長年のホコリがパラパラと落ちたのを見ただけだった。
ヤヨイは無事に東の尖塔の上に着地した。
伸るか反るか。どれか一つでも齟齬があれば死んだかもしれないような離れ業の果てに。
しかし、そこから先は、考えていなかった。
とにかく、行かねば! それだけだったからだ。
だが、不利ではない。
下からはグロンダール卿の配下が。上からはヤヨイが。
もう「もぐら」は進退窮まっていた。
迂闊に下の鐘楼に降りればナイフが飛んでくる。下のスタッフたちと息を合わせればそれも躱せそうだが、そこまでは期待できまい。
黒のマントを外しながら、ヤヨイは突破口を探っていた。すると、
「ヤヨイ殿。先ほどの身のこなしは実に見事だった」
下から「もぐら」の声が聞こえた。
「そして、今のムササビのような飛翔も。
これほどの手練れはノールにはいない。やはり貴女は帝国の最強のエージェントであったのだな。
降りて来ないか。もう、ナイフも尽きた。
この際、投降する。相応しい罰も、受ける覚悟だ」
本当だろうか。
当然、疑う。
だが、これ以上膠着状態が続いても仕方がない。
屋根の庇から鐘楼の中に入る時が一番無防備になる。思い切って庇を掴み、えいっ、と身を躍らせて鐘楼の中に入った。
「もぐら」は、ニコライは、鐘楼の手すりに凭れ、目を閉じていた。
大聖堂の周囲は全て地下通路まで閉鎖されている。グランドフロアにはグロンダール卿の手の者たちが多数詰めてヤヨイの成り行きを見守っているし、すぐ階下にも、そしてヤヨイが至近に張り付いている。
なにもかも観念して漂白されたような、「もぐら」のいるそこだけが別世界のような静けさの中にあった。
「用意周到に事を運んできたつもりだったが、最後の最後で、欲が出た」
彼は、語り始めた。
もう大司教のカズラも脱ぎ、白いシャツにビロードの半ズボンだけの軽装になっていた。見たところ、彼の言葉通り、身に寸鉄も帯びてはいない。
「ハーニッシュを味方につけられるか否か。それが、カギだった。そのために追放されたペールを手元に置き、長老にも渡りをつけた。彼らも私と同じ、現王家に不満を持っていたのを知っていたから、そこまでは計画通りだった。
しかし、貴殿が現れた」
ニコライと反対側。回廊の奥の階下に向かう螺旋階段に気配を感じた。
「まだ来ないで! 彼は投降の意思を持っている! もう少し、待って! 」
グロンダール卿が「アンドレ」と呼んでいた配下だろう。気配は鎮まり、少し階下に下がったのを感じた。
「ありがたいな。私の最後の告解、懺悔を尊重してくれるのだな」
ヤヨイは応えなかった。
大捕り物になるよりかは、穏便にお縄に着こうとしている下手人に言いたいだけ喋らせる方がいいと思ったのだ。彼にはもう、逃げ場はない。
「貴殿の背後にいるノールと帝国の連係プレーは完璧だった。私がイヤでも食指を動かすよう工夫したのだな。
ハーニッシュ達が神同様に崇めるノルトヴェイトを使ったのは上出来だった。貴殿の演技も、最高だった。まさに女優だったよ、ヤヨイ殿。
それ、ノルトヴェイトの存在があれば、自由自在に彼らを使える。まさか、その末裔が貴殿のようなエージェントだとは夢にも思わなかったがね。
わたしはそれに、まんまと引っかかったわけだ。
お! 化粧を落としたのだな」
ふいにニコライが顔を上げた。
彼の目はもう、メデューサではなくなっていたのを知った。ごく普通の、30代前半の男性。その優しい瞳がヤヨイをみつめていた。
「アクセルもそうだが、帝国のメイクアップ技術というのは目を見張るものがあるな。その小さな一事を取ってみても、素晴らしいの一語に尽きる。もう一度同じことを企てたとしても、私にはきっと見破れないだろう。
私にはもう、心残りなどはない」
「最後に一つ、訊いていいか」
何故かはわからない。なんとなく、胸騒ぎを感じた。例の、第六感というヤツが、警報を発していた。
「なんなりと答えよう」
と、ニコライは言った。
「お前は、帝国だけでなくノールもチナも、全ての人間を抹殺したいと、そう言った」
「ああ」
「なぜだ」
ヤヨイは、その第六感に従って、裸足の足を一歩前に進めた。
「なぜだろう。実は、私にもよくわからない。
ただ・・・」
「ただ? 」
「なぜだかわからないが、時に何もかもぶっ壊してしまいたくなる。
そんなことはないか?
私は、幼少のころからずっとそれがあった。そして、次第にその思いを募らせていった。
生まれ育ったのは帝国だった。だから、何よりも帝国をぶっ潰してやりたかった。
でも、帝国はあまりに強すぎ、大きすぎ、懐が深すぎた。ともすると、帝国に飲み込まれ、そこに安住したくなる。それが帝国の強みであるわけだが、結局私はその帝国の良さに、馴染めなかった。
だから、ノールに来た。
ノールは帝国よりも小さい。しかも、脆弱な面がある。それに、ハーニッシュがいた。
帝国よりは、よほど与し易く、扱いやすく、倒しやすい。
まずはノールを我が手に収め、帝国にけしかけ、その間に西からチナを焚きつけ北の野蛮人たちを暴れさせる。
そうすれば、さしもの帝国も疲弊し、倒れる。
そう思ったのだ」
これは、危険だ!
なぜだか理由はわからないが、ヤヨイの「第六感」がそう叫んでいるのだ。
危ない! と。
「私自身がそれを知りたかったから。なぜ全ての人間を殺したいのか、を。
強いて言えば、それが理由かもしれない 」
ヤヨイは、叫んだ。
「全員! この鐘楼から離れろ! 」
「やはり、優秀だな」
ニコライは白いシャツのボタンを外した。彼の裸の腹には、いくつもの茶色い紙で包まれたものがベルトで巻かれ張り付いていた。
爆薬だ!
やはり!
ニコライは、自爆、自決するつもりなのだ!
ヤヨイも鐘楼の端に寄った。
西も東も。大聖堂の尖塔の造りは同じだった。尖塔はいわゆる「筒」で、鐘楼の鐘たちの真下は200フィートほどの空洞が落ちている「井戸」だった。
ニコライは腰を上げ、大鐘のそばに寄った。
「私のこの世での最後に、貴女のような美しく優秀な女(ひと)と出会えたのは幸運だったかもしれない」
ニコライは、あの、ヤヨイから奪ったライター、アクセルからもらった帝国兵支給のオイルライターを取り出した。そして親指でフリントホイールを回した。
シュボッ!
ナフサの香りが漂った。
「もし来世というものがあるのなら、今度はもう少し早く貴女と巡り合えたらと思わぬでもないけれど」
もうメデューサの瞳ではない、優し気な黒髪の男は、持っていたライターを腹に近づけた。ライターの火が、導火線に着火した。
「では、さらばだ、ヤヨイ殿! 」
そうして、ニコライは鐘楼の中央の「井戸」に身を躍らせた。
逃げねば!
「爆発するぞ! 全員、退避! 」
ヤヨイもまた、爆風の影響を最小限にするべく、鐘楼の外へ身を躍らせ、縁にぶら下がった。すぐに、それは来た!
ズドオオオオオンッ!
ヤヨイはまだ、大地震というものを文献でしか知らない。
王都全てを揺るがした大きな振動は、鐘楼の縁に掴まっていたヤヨイを吹き飛ばし、大聖堂の正面ドアの上、二階のバルコニーの上の庇に振り落とした。
「井戸」を下に抜けた爆風はグランドフロアに居たグロンダール卿と彼の配下のほとんどをなぎ倒してホコリまみれにし、上に抜けた爆風は鐘楼の屋根の一部を破壊し、大中小と並んだ鐘を全て鳴らし、からんごろんと奇妙な音楽を奏でた。
しばし意識が飛びそうになったが、アタマを振って尖塔を見上げれば、爆発が起きたと思われる尖塔の腹の部分のレンガが少し膨らんで「でぶ」になっているのがわかるほどだった。
ニコライは、「もぐら」は、死んだ。
ヤヨイの長いミッションも終わった。
そう、思いたかった。
だが、まだ終わりではなかった。
落ちた衝撃で痛む尻を擦りつつ、ヤヨイは正面のバルコニーに飛び降り、次いで階下に降りた。
「あの、すいません! 靴と馬を貸してください!」
その辺りにいる誰だかわかんないホコリまみれのヤツに声をかけた。
なんと、グロンダール卿だった。
「『もぐら』は? 死んだか? 」
「たぶん、ミンチになってると思います。閣下、馬と靴をください! 」
「は? 」
「は、じゃなくて! ハーニッシュですよ! このままにしておいていいんですか? わたしはどっちでもいいですけど!」
爆発で多少ボケたみたいなグロンダール卿だったが、やっと事態をのみこめたらしく、
「おい、誰か! マルスに馬と靴を! 」
そして、ヤヨイは騎乗のひとになった。
「陛下にお目通りするなら、侍従のクリストフェルを。彼は私のスタッフだ。内密だがな」
スキンヘッドに積もったホコリを払いながら、グロンダール卿は言った。
「ああ、あの背がめっちゃ高い・・・」
「めっちゃ?」
「あ、いいです。わかりました! 」
そうしてヤヨイは西へ。
ハーニッシュと王国兵とが対峙する前線へと向かった。
一時は最前線にまで身を運んだものの、周囲の諫めで不承不承王宮に戻ることにしたスヴェンだった。
だが、もどかしい!
16歳の若い血潮は、王宮に戻る道をゆっくりと騎乗しつつ、この身より大切なノールの秩序を脅かすこの非常事態に対しておのれの無力を感じ、何度も西の前線、ハーニッシュと王国軍が対峙する戦場を振り返っていた。
「それは違います、陛下。陛下は、臣下をして事に当たらしめるためにおわすのです。御存在になっておられるのです。王宮にあって不動のお姿をしめされるのもまた、最前線にて陣頭指揮を取られるのと同様大切なお役目なのです。どうか、ご懸念なさいませんよう! 」
いつも傍らにいて補佐してくれるクリストフェル。
しかし、だが・・・。もどかしい!
「申し上げます! 前方より一騎、全速力でこちらにやってきます! 」
国王護衛の近衛騎兵の小隊長が声を張り上げた。
しかし、すぐに。
「あれは近衛騎兵です! 」
「いや、待て! なにか様子が変だぞ! 」
「何事であるか! 陛下の御前であるぞ! 止めて下馬させよ! 情況を的確に報告せよ! 」
国王に同道していた軍務大臣ビョルンソン大将もまた声を張り上げた。
そうするうちに、高速で接近する赤いジャケットの騎兵が、軍装であるピコルヌも被らず、サーベルも銃も持たず、美しい金髪を靡かせている女性であることが一行の誰の目にも見えてきた。
「陛下! 国王陛下! ヴァインライヒでございます! イングリッドでございます! 」
「なにっ?! 」
その可愛らしい、しかし緊張した声が、愛するイングリッドであることを知ると、スヴェンの心は俄かに浮き立った。
「イングリッド?! 」
雨は、ようやく上がった。陽も、上った。
ノール軍と対峙するハーニッシュ陣営には、里から彼らを追ってきた糧食が配られ、腹を満たしつつある民たちはみな、静かに決戦の時を待っていた。
使いに出したペールたち若い衆は誰一人戻らなかった。それもまた、むべなるかな。
ペールたちは一足先に神の御許に旅立ったのだ。
長老ハンヴォルセンは瞑目し、胸の上で十字を切った。
そろそろ、号令の刻限になる。
神の御業か、雨も上がった。
今こそ、積年の願い、ノールを神が治める国へと導くときである!
ハンヴォルセンが里の衆たちに号令すべく立ち上がったとき。
「長老! あれを! あれを見て下さい! 」
向かうノール軍の陣営の右手に小高い丘があった。
その上に、華麗な赤い軍装に身を包んだ若い騎兵と、それよりはやや華奢な、美しい金髪を風に靡かせた姿があった。
「あれは、国王。その横にいるのは・・・」
ハーニッシュの皆さん!
ふいに、遠望する丘の上の姿から声が響いた。
男の声ではない。束の間ではあったが、聞き覚えのある女性の声だった。
その声は大軍同士が対峙した戦場に静けさをもたらし、誰の貌にも何か神々しいものを間近にしたときのような、無垢で真摯な色が浮かんでいた。
みなさん! 聞こえますか!
わたしは、イングリッド・マリーア・ノルトヴェイト・フォン・ヴァインライヒです!
おおっ!
国王に従い、共に同道したクリストフェルの双眼鏡には、対峙する黒装束の万を超える軍勢が一斉にどよめき、次いで皆が皆、黒い鍔広帽を取って片膝付いて両手を組むのが見えた。
すごい・・・!
名を名乗っただけで、この威力!
ノルトヴェイトの末裔という「伝説の威力」か、はたまた、この帝国の女エージェントの持つ、摩訶不思議な神通力にも似た力か。
その名前の威力を初めて、間近に見た。
最初、単騎無帽で接近する近衛騎兵のユニフォームの女性を訝しんだクリストフェルだった。だが、近づくにつれ、彼女が件の帝国のエージェントであることがわかった。
「陛下、バロネン・ヴァインライヒ閣下でございます! 」
は?
きょとん、としているスヴェンに、クリストフェルは畳みかけた。
「バロネンがおいでになったのです! このノールの危急を救わんと、お出ましなったのです、陛下! 」
「だが、クリストフェル。あれは、イングリッドでは・・・」
ともするうちに騎乗の女性は馬を降りてつかつかと歩み寄り、騎乗のノール国王に恭しく礼をし、手を差し出した。
「陛下、どうか、お手を。そうすれば、思い出していただけましょう」
未だ半信半疑の国王に、クリストフェルは促した。
「陛下。どうぞお手を。バロネンの、イングリッド様のお手をお取りください」
不承不承。スヴェンは白い手袋を脱ぎ去り、優し気な、どちらかと言えば丸顔の、何故か親しみを抱かせる、近衛騎兵の赤いジャケットを着た女性の手を取った。
すると、国王の顔がにわかにほころび、すぐに満面の笑みに変わった。
「イングリッド! そなたはイングリッドだな?! この手の感触。そして、そなたのその甘い香り! 間違いない! そなたは余の愛するイングリッドである!
だが、なぜにそのように顔が変わっておるのか? 」
丘の上。
騎乗のまま、イングリッドは対峙するハーニッシュの軍勢に対して、叫んだ。
「ハーニッシュの皆さん! 今から、みなさんに、わたくしから、わたくしたちからご報告申し上げたいと思います!
まもなくわたくしの夫となられる、ノール国王、スヴェン27世陛下より、親しくお言葉をいただきます! 」
対する陣からにわかにどよめきが沸き起こった。
それを見て、ヤヨイは傍らの若き国王に頷いた。
辺りが鎮まるのを待って、若きノール国王は、宣言した。
「ハーニッシュの里の民にお知らせする! 余はノール国王、スヴェンである!
ここに、余は、これなる帝国貴族ヴァインライヒ女男爵をわがノール王家に后として迎えるべく、近々に帝国に対し勅使を遣わすものである! 」
し~ん・・・。
両軍が対峙する最前線が静まり返った。
そこでヤヨイは小さく呟いた。
「国王陛下。いいえ、スヴェン。キスしてください! いますぐ! 」
「・・・なんと!
わかった! 愛している、イングリッド! 」
馬を寄せた国王が馬上ノルトヴェイトの肩に手をかけ、そして、熱いキスを捧げる姿もまた、全てのハーニッシュ達が目にした。
そこで初めて、対面する西の陣営から大きな歓声が上がった。
うぉおおおおおおおおおおおおおおおおっ!
それを手を上げて抑えようとしたスヴェンだったが、もう不可能に近かった。それでも、辛うじて国王としての義務を思い出した彼はさらに声を励ました。
「その儀に先立ち、余ノール国王スヴェンは、ここに断絶したノルトヴェイト公爵家の再興を差し許し・・・」
またもハーニッシュたちの陣営からまるで鬨の声のような大歓声が上がり、国王の残りの言葉は全てかき消されてしまった。
こうして、両軍の本格的な戦闘は暴発寸前で回避された。
クリストフェルはもちろん、居並ぶ軍務大臣や近衛軍団の司令官、士官たちもみな一様に安堵の吐息を漏らし胸を撫で下ろした。
スヴェンは、隣で同じく安堵の笑みを浮かべるイングリッドの栗毛の手綱を取り、引き寄せた。そして、今にも爆発しそうな喜びを抑えかねるように呟いた。
「イングリッド! 余は、ボクは、これほどに感動したことは今までかつてないっ!
嬉しくて、飛び上がりたい気分なんだっ!
今は大臣たちがいるから、出来ないけど、でも、嬉しくて、嬉しすぎて、いますぐにキミを抱きしめてしまいたいぐらいなんだっっっ! 」
初めて意中の女の子に告白し、それが受け入れられた時の喜び。
いっぱしの男子ならば誰でも一度はその生涯に持っている、甘くて、バカバカしいほど純粋で真剣で無垢な、天にも昇るほどの幸福感に包まれる、あの喜びに、スヴェンは大きく浸っていた。
もう、なぜ顔が変わっているのかなど、どうでもいいっ!
この子は、イングリッドだ! ぼくの、想い人だっ!
単騎駆けつけてくれ、しかもこうしてノールの悲劇を未然に回避してくれ、しかも結婚まで了承してくれ、しかも、キスまでっ!!!
顔だって、よく見れば可愛い! いや、よく見なくても可愛いっ!
ノルトヴェイト家伝統の切れ長の眼に惚れた彼だったが、ちょっとばかりのタレ目もまた愛嬌があっていいっ!
いささかいい加減なところがないでもなかったが、あまりの感動ゆえか、感涙にむせぶスヴェンの手がぐい、とイングリッドの手を掴んだ。
帝国の深窓におわした貴族令嬢は、彼女自身の素のままの笑顔を向けた。
だが・・・。
そこまでだった。
「ありがとうございます、陛下。わたくしも・・・、わたくしも、同じく・・・」
あろうことか、満面の笑みを浮かべたまま、イングリッドは急に頽れるように目を閉じ、スヴェンにしなだれかかった。
慌てて彼女を抱きとめ、声をかけた。
「どうしたのだ! いかがしたのかイングリッド! イングリッド! イングリッドっ! 」
何度も声をかけ、ぺちぺち頬まで叩いても、スヴェンにぐったりと身を預けたまま、イングリッドは目を覚まさなかった。
しかも、
「ぐううっ・・・」
あり得ないことに、イビキまでかきはじめた。
こうして、ヤヨイのミッションは、終わった。
「もぐら」を追った物語は、終わった。
だが、この物語のもう一つの焦点。どこにでもいる、ごくありふれた男と女の愛の結末も、語っておかねばならない。
なぜイングリッドの顔が変わっていたのかは、ペールは知らない。
でも、彼女の言葉は真実だと思った。
衆望を集める目先の華麗さが手に入ればいい。
なるべく辛抱と鍛練は避け、手っ取り早く目先の富さえ手に入ればいい。
そんな生き方を送ってきたペールは、最後の最後で、目を覚ました。
イングリッドの言葉もある。
だけど、それより大きいのは・・・。
後ろ手の戒めを受け、屈強な黒装束に左右を挟まれたペールは大聖堂の一階に降りた。
だが、降りた途端に、東の塔で起きた大きな爆発に、ペールも巻き込まれた。
「逃げろ! コイツは自爆する! 」
左右の男たちに追い立てられ、側廊の陰に押し込まれた。
ズドオオオオオンッ!
ある意味で「闇の稼業」に手を染め、人も殺し、剰(あまつさ)え無用の諍(いさか)いを導き、幼馴染の命をムダに失い、追放されたとはいえ生まれ故郷の里の民人たちの命をも危機に曝した。
神は、そのすべてをご覧になって、正しい裁きを下された。
主身廊も側廊も、舞い上がる粉塵が酷すぎてまるでわけがわからなかった。
後ろ手の戒めのまま身を起こした。
左右に居た男たちはどちらも死んだように眠っていて動かなかった。
立ち上がり、明るい光の方へ向かって歩き出した。
ふいに、目の前がぱあっと開けた。
大聖堂の外に出たと思った。
外は粉塵も風に吹かれたのか消えていた。辺りを見回すと、誰もいないように見えた。
ふと、西を見た。
それまでに見たことのない大きな、美しい虹がかかっていた。王宮の建物よりもはるか上から、旧市街を取り囲む城壁の彼方に、虹は落ちていた。
「なんて、キレイなんだ・・・」
ふらふらと虹のほうへ歩き出した時、
黒装束の男たちに囲まれた、愛しい影。
ずっと彼を慕ってくれ、ずっと彼を支え信じてくれてきたノラの姿が目に留まった。
「ノラ・・・。ノラッ! おい、お前ら! ノラに、オレのノラに触るなっ! 」
「止まれっ! 止まらないと、撃つ! 」
背中から声を聴いたような気がしたけど、気のせいだ。
「ペール! 止まって! 言うことを聞いて! ペール! ペール! 」
ノラの叫ぶ方に、ただ黙々と、歩いた。
急に、目の前が弾け、視界を星が乱舞した。
背中が燃えるように熱かった。その凄まじい熱さは、やがて全身に広がっていった。
ペールは、倒れた。
すぐに、愛しい顔が目の前に現れた。
「ペール! ペール! 」
その柔らかな身体、白い手は、もう何度も愛し、確かめた、ペールを包んでくれた女神のものだった。
「ノラ・・・」
できることなら、その白い柔らかな手を取りたかった。その白い頬に触れたかった。
「ノラ・・・。ごめんね」
燃えるように熱かった炎が急速に冷めていった。星が乱舞していた視界も急速に狭まり、色を、明るさを失っていった。もう音も聞こえなかった。触れ合った肌の感触もなくなった。
暗黒の、無音の、一切の感覚が失われた世界に、ペールは落ちていった。
彼が、その生前の行いによって天へ召されたか、もしくは地獄へ落ちたかは、誰も知らない。
誰かが言った。
「神はそれを信じる人の心のうちにおわしますのだ」
だとすれば、それもまた、むべなるかな。
だけど神様よく見てた。
一攫千金金持ちに、なるもおけらになったとさ。
不埒なペールは夢破れ、ボタンにされる呪い受け、
人に縋るも皆裏切られ、あわれ最後は命尽き、
最後に残ったソルヴェイは、ペールを見捨てず膝の上、
身まかる男を子守唄、歌って彼を見送った。
次回、最終話、エピローグです。
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