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第四部 ついにもぐらとの死闘に臨むマルスの娘。そして、愛は永遠に。
44 女男爵のイビキと、留置場の歌姫の涙。そして、再び姿を眩ます「もぐら」
しおりを挟む
夜が、明けた。
ゴルトシュミット卿は2階の客間への廊下を小走り気味に急いでいた。あまりに慌てたためにナイトガウンを羽織ったままだった。仮にも帝国のレディーに対して非常な不躾であることは承知していたが、事は急を要する。
客間のドアの前に立った。
コンコン。
「バロネン! 朝早く申し訳ございません! もう、お目覚めでしょうか!」
一瞬の静寂の後。
んごごごごー・・・。
耳を疑った。
いびき?
間違った部屋に来てしまったかと疑った。
だが、間違いなくここは彼の屋敷の二階で、使用人たちの部屋は皆一階の、しかも別棟。
そのドアは、間違いなくバロネン・ヴァインライヒ、帝国の女男爵の客間以外にあり得なかった。
うおっほんっ!
咳ばらいをひとつ。そして、意を決して再びドアの向こうに尋ねた。
「バロネン! もうお目覚めでしょうか? お目覚めでしたら、恐れ入りますが、ドアを開けていただけますか?」
「んがががっ? ぐごおおおおっ・・・」
こ、これは・・・。
まことだろうか・・・。
彼女の従者の部屋は一階のはず。ということは、これは、彼女以外には、あり得ない・・・。
あの美しい女男爵と、この凄まじい、いびき・・・。
あまりにあんまりな、ミスマッチ・・・。
「ゴルトシュミット卿!」
二階の廊下を、息せき切って、そのバロネンの従者、アクセルがやってきた。
やはり・・・。
「今、お嬢様をお起こし致します! しばし、お待ちを!」
彼はにこやかにそう言うと、
「お嬢様! 失礼いたします!」
バロネンの部屋に消えた。
し~ん・・・。
あの、絶世の美女が・・・。
人は見かけによらぬものだ・・・。
それから小半刻(こはんとき)もしたころ。
ヤヨイはシレッと、ゴルトシュミット卿の馬車に乗っていた。
「いったい、どうしたというのでしょうね、ノラは・・・」
イビキをかいたのを知られたのも、決してマイナスにはならないだろう。むしろ卿には、「深窓の帝国貴族令嬢」の「意外で人間的な」一面として印象されたことだろう。
ま、ぶっちゃけ、そんなことを気にしている場合ではなかった。
ノラがペールを追って行ったのは薄々分かっていた。わかっているのに知らないふりをしてわざとらしいセリフを口にした。今はまだ、「何事にも鷹揚な帝国貴族ヴァインライヒ」を演じなければならない時だ。
要は、ペールを介してであろうが、ノラを介してであろうが、「もぐら」がこちらに接触してきてくれさえすれば、それでいいのだ。あとの他のことは、どうでもいい。
「さあ・・・。とにかく、訊かれたことにはなにも喋らず、『イングリッド様に一言お詫びせずには居られない』という一点張りだそうですので・・・。ご面倒をおかけして申し訳ありません、バロネン・・・」
ゴルトシュミット卿は恐縮することしきりだった。
「いいえ、そんな・・・。なにか深いわけがあるのでしょうねえ・・・」
昨夜から降り続く雨の中。ヤヨイたちが乗った馬車が向かっているのは、城壁内の旧市街にある、警察署だった。
また雨脚を強めた朝の暗い空を見上げながら、アンドレは深く、持て余していた。
つくづく、厄介な娘を捕縛したものだと。
ハーニッシュを追放されたペールの後を追って港近くの倉庫街に手下たちを配置し終え、
「さあ! イザ踏み込まん!」
このところずっとその所在を追っていた「もぐら」のアジトに突入しようとしていた、その矢先だった。
正直に言えば、気が逸(はや)っていた。
わざわざ帝国から来た助っ人の手を煩わせるまでもない。ノールのことはノール人が解決する! そして、あの小生意気な同僚アクセルなどの手柄にさせてなるものか!
気が逸っていた。それは、間違いなかった。
急に現れたノラという女が、何の警戒もなくズカズカ「13番倉庫」に向かってゆくのを見て肝を潰した。
ええい、仕方がない! そのまま突入しようか!
一瞬だが、そうも考えた。
だが、あのグロンダール卿の恐ろしいハゲ頭が脳裏に浮かんだ。
ここで急いては全てが水の泡になる!
ギリギリの接所で、アンドレは突入を断念。
ノラを捕縛し、ごくわずかの監視要員だけを残して、撤収したのだった・・・。
それはいい。過ぎたことだった。
だが、そこからがケチのつき始めだった。
このハーニッシュの娘をどうするか。
まさか秘密警察のオフィスにも連れて行けまい。ましてや、ゴルトシュミット卿の屋敷の人間を秘密裏に消してしまうわけにもいかない。
グダグダ思い悩んでいるうちに、大量の要員を集合させたことがグロンダール卿の耳に入り、急遽オフィスに呼ばれ、またまた大叱責と大説教を受けてしまった。
「お前は一体何を考えておるのか!
何のためにアクセルや帝国の助っ人を呼んだと思っているのか!
お前たち程度ではどうにもならない。またまた取り逃がしてしまうのがオチ。
だから、ではないか!
この、無能者めが!」
アンドレの面目は地に落ちた。
こんな屈辱を受けるぐらいなら、あの時いっそのこと倉庫の中へ突入しておけばよかった。
後の祭り、とはこのことだった。
で、とりあえず、この娘だ。
仕方なく内務省に話をし、王都の警察署へ連行した。
革命分子の協力者と疑われる者を拘束した。秘密警察の所管ではないので名目上警察の取り調べとして取り扱いたい、と。
だが、娘は一言も喋らなかった。
「わたしはゴルトシュミット卿のお屋敷のメイドです。お客様のイングリッド様に一言お詫びしたいのです。それまではここから出ませんし、何もしゃべりません!」
喋らずとも、知っていた。
名前はノラ・ムンク。
ハーニッシュを追放になり、現在はゴルトシュミット子爵の屋敷に奉公に上がっている。同じくハーニッシュを追放されたペールという男と恋仲にあり、ペールが心酔している男、まさにアンドレたちが躍起になって追っている「もぐら」と縁を切らせようと、雨の夜にもかかわらず、慣れない馬に乗ってやってきたことまでも、全て掴んでいる。
だが・・・。
内務省の伝手には話せないし、現場の警官にも、ましてや、アンドレ自身が尋問などできるわけがない。
で・・・。
ただひたすらに、あのノラとかいう若い女を持て余していた。どうしたものやら、と。
と、いうわけなのだった。
「わたしは何も知りません。ただ、恋人のペールを追って、彼が良からぬ者達とこれ以上付き合わないように、取り返しに来ただけなのです!」
一言でいい。そう言ってくれさえすれば、内務省の、警察の伝手の顔も立つし、アンドレも取りあえずはここを去れるのだ。
ちっ・・・。
またあの歌が、聴こえてきやがった。
冬も春もまた過ぎて行くのでしょう
冬も春も
そして次の夏も、丸一年が
丸一年が
だけどあなたはきっと帰って来る
私にはわかる
だから私は待つ。あなたと約束したから
約束したから・・・
ひとまず留置場に放り込んではみたものの、あの娘は夜通し、寝る間も惜しんであの歌を歌いやがる。ノールの伝統の歌だか何だか知らないが、頭の中にこびりついてしまいそうだ・・・。
もう、ウンザリ、だ・・・。
警察署の休憩室でアンドレが頭を抱えていると、
「ゴルトシュミット卿がお着きになったようです!」
若い警官が知らせてくれた。
やった! やっと来たか!
顔を上げたアンドレは、ほおおおおっと、息を吐いた。
やっと・・・。これでやっとあの忌々しい小娘から解放される!
警察署の地下の留置場は、ジトジト湿っていてカビ臭く、処決を待つ容疑者の重い吐息が吹き溜まったようなところだった。
歌い終えたノラに、鉄格子と通路を挟んだ反対側から乾いた拍手が起こった。
「どこの誰か知らないけどさ、あんた、いい声してるね」
しゃがれた中年女の声が、石積みの壁伝いに響いた。
「見れば、まだ若い子じゃないないか。いったい何をしでかしてこんな所へ放り込まれたんだい。盗みかい? 男がらみかい? それとも、流行りの革命騒ぎで、かね?
ところであんた、タバコ持ってるかい?」
ノラは、答えなかった。
歌は彼女の命だったから。
歌うことをやめれば、ノラはノラでなくなるから。
だから、歌っただけだ。
そうして、このジメジメした鉄格子の牢屋に入れられてから何度目かになる、膝を抱え、手を組み、目を閉じ、神への祈りを捧げ始めた時だった。
「天にまします、父なる神よ。この愚かなしもべの罪をお許しください・・・」
「ノラ・ムンク! 出ろ!」
留置場の看守の声が、響いた。
ノラは、顔を上げた。
屋敷に帰る馬車の中で、ヤヨイの袖にしっかり縋りついたノラは、ずっと泣き通しだった。
「もう泣かないで、ノラ。あなたはなにも悪いことはしていないわ」
「でも、でも!・・・ 」
ノラは泣きじゃくり、叫んだ。
「わたしはずっとイングリッド様を、騙していました!
あなたの様子を彼に、ペールに話していました。それを、ずっと、あなたに、隠して・・・。
お許しください、イングリッド様!
申し訳ありません、イングリッド様!」
うわああああんっ!
ヤヨイは、ノラの可愛い金髪を撫で、手を握ってやった。
ぜんぶ、知ってるのよ。だから、あなたは悪くないのよ。
そう言いたいのを、グッと堪えながら。
「じゃあ、王宮へのお使いをお願いするわね。それで今回のことはなかったことにしましょう。国王陛下がお認め下されば、わたしはこのノールにお家を再興できます。
そうすれば、あなたもペールも、わたしのお屋敷で働いてもらえるわ。
よろしいですわね、ゴルトシュミット卿」
「もちろんですとも、バロネン!」
卿も大きく頷いた。
「ノラ。ペールがどのような連中と付き合っているのかは知らんが、おおかた革命とか騒いでいる連中だろう。若い時はそういう騒ぎに惹かれるものだ。
それに、彼もバロネンが気になるのだろうな。ハーニッシュの里に歓迎されたとなればなおさらだ。バロネンがノールにノルトヴェイト家を再興されれば、彼のためにもなる。
過ぎたことはもう気にするな。バロネンのご希望通り、お使いをしておくれ」
「あ、あ、あり、ありがとうございます、旦那様!」
むしろ、ノラやゴルトシュミットを騙しているのは自分の方だ。
可愛いノラの震える肩を撫でながら、ヤヨイは思った。
つくづく、ツミな仕事だな、と。
これも、ノール王家の、ひいては帝国の、安寧のため、だ・・・。
黒猫は、再びハントを始めた。
夜明け前までいた、大勢の得体の知れない人間たちはみなどこかへ行ってしまったようだ。
まあいい。
オレにはカンケーない。
むしろ、ネズミのハントがしやすくなって好都合というものだ。
だが、バカに静かすぎるじゃないか。
黒猫は雨脚を強めた朝の石畳を走り、倉庫街の通りを横切った。
向かいの倉庫の軒に飛び込み、ぶるるるっと身を振って雫を飛ばした。
そして、そっと建物の陰を、垣間見た。
ここいらでは見たことのない人間が倒れていて、雨に打たれていた。もう冷たくなっていた彼の体からは赤い血が流れ出し、石畳を濡らす雨に薄められていった。彼の背中には鋭いナイフが、生えていた。
それは、アンドレが残したわずかな見張りの一人だったが、そんなことを黒猫が知るわけもない。
黒猫はいつものねぐらの倉庫に引き返した。
ふと、いつも聴こえていたあの陰鬱な音が、やけに大きく聞こえてくるのに気づいた。
ああ、あれは地の底の人間がいつも聴いていたヤツだ。音楽?
「アルビノーニのアダージョ」
音楽には名前があったが、そんなことを黒猫が知るはずもない。
黒猫はいつもの出入り口、つまり、第13番倉庫の横の窓の破れから中に入った。
そして、音楽とやらが聴こえてくる地の底に向かう螺旋階段を音もなく降りて行った。
すると、いつもは絶対に開くことのなかったドアが、開いていた。
好奇心の強い黒猫は、初めてその地の底の部屋に入った。
明かりがついていた。
彼はヒクヒクと鼻を、髭を動かした。
ネズミの気配は、ない。人間も、いないな・・・。
テーブルの上に、赤い服が脱ぎ捨てられていた。
それは、近衛騎兵連隊の厩の馬糞を運ぶ荷車の中から見つかった、あの不幸なズワルト一等兵が着ていたものだったが、そんなことも、黒猫が知るわけもない。
音楽はそのテーブルの上のなんだかわからないものが出していた。
それは蓄音器というものだったが、もちろん黒猫が知るわけもない。
やがて、音楽は終わった。なんだかわからないものは、沈黙した。
どうやら、ここにネズミはいないようだ。
アンドレは、むしろ突入すべきだった。
下手にノラを捕縛したりしたから、それを察知され、「もぐら」は隠れ家を変えた。
やっぱり、アンドレは使えない男だった。
だが、そんな人間の世界の些末なことも、黒猫が知るわけもない。
彼は大きな欠伸をした。
夜通し働いて、少し疲れた。
どれ。いつもの小麦袋の上で、ひと眠りするか・・・。
黒猫は、地の底の部屋から、出ていった。
ゴルトシュミット卿は2階の客間への廊下を小走り気味に急いでいた。あまりに慌てたためにナイトガウンを羽織ったままだった。仮にも帝国のレディーに対して非常な不躾であることは承知していたが、事は急を要する。
客間のドアの前に立った。
コンコン。
「バロネン! 朝早く申し訳ございません! もう、お目覚めでしょうか!」
一瞬の静寂の後。
んごごごごー・・・。
耳を疑った。
いびき?
間違った部屋に来てしまったかと疑った。
だが、間違いなくここは彼の屋敷の二階で、使用人たちの部屋は皆一階の、しかも別棟。
そのドアは、間違いなくバロネン・ヴァインライヒ、帝国の女男爵の客間以外にあり得なかった。
うおっほんっ!
咳ばらいをひとつ。そして、意を決して再びドアの向こうに尋ねた。
「バロネン! もうお目覚めでしょうか? お目覚めでしたら、恐れ入りますが、ドアを開けていただけますか?」
「んがががっ? ぐごおおおおっ・・・」
こ、これは・・・。
まことだろうか・・・。
彼女の従者の部屋は一階のはず。ということは、これは、彼女以外には、あり得ない・・・。
あの美しい女男爵と、この凄まじい、いびき・・・。
あまりにあんまりな、ミスマッチ・・・。
「ゴルトシュミット卿!」
二階の廊下を、息せき切って、そのバロネンの従者、アクセルがやってきた。
やはり・・・。
「今、お嬢様をお起こし致します! しばし、お待ちを!」
彼はにこやかにそう言うと、
「お嬢様! 失礼いたします!」
バロネンの部屋に消えた。
し~ん・・・。
あの、絶世の美女が・・・。
人は見かけによらぬものだ・・・。
それから小半刻(こはんとき)もしたころ。
ヤヨイはシレッと、ゴルトシュミット卿の馬車に乗っていた。
「いったい、どうしたというのでしょうね、ノラは・・・」
イビキをかいたのを知られたのも、決してマイナスにはならないだろう。むしろ卿には、「深窓の帝国貴族令嬢」の「意外で人間的な」一面として印象されたことだろう。
ま、ぶっちゃけ、そんなことを気にしている場合ではなかった。
ノラがペールを追って行ったのは薄々分かっていた。わかっているのに知らないふりをしてわざとらしいセリフを口にした。今はまだ、「何事にも鷹揚な帝国貴族ヴァインライヒ」を演じなければならない時だ。
要は、ペールを介してであろうが、ノラを介してであろうが、「もぐら」がこちらに接触してきてくれさえすれば、それでいいのだ。あとの他のことは、どうでもいい。
「さあ・・・。とにかく、訊かれたことにはなにも喋らず、『イングリッド様に一言お詫びせずには居られない』という一点張りだそうですので・・・。ご面倒をおかけして申し訳ありません、バロネン・・・」
ゴルトシュミット卿は恐縮することしきりだった。
「いいえ、そんな・・・。なにか深いわけがあるのでしょうねえ・・・」
昨夜から降り続く雨の中。ヤヨイたちが乗った馬車が向かっているのは、城壁内の旧市街にある、警察署だった。
また雨脚を強めた朝の暗い空を見上げながら、アンドレは深く、持て余していた。
つくづく、厄介な娘を捕縛したものだと。
ハーニッシュを追放されたペールの後を追って港近くの倉庫街に手下たちを配置し終え、
「さあ! イザ踏み込まん!」
このところずっとその所在を追っていた「もぐら」のアジトに突入しようとしていた、その矢先だった。
正直に言えば、気が逸(はや)っていた。
わざわざ帝国から来た助っ人の手を煩わせるまでもない。ノールのことはノール人が解決する! そして、あの小生意気な同僚アクセルなどの手柄にさせてなるものか!
気が逸っていた。それは、間違いなかった。
急に現れたノラという女が、何の警戒もなくズカズカ「13番倉庫」に向かってゆくのを見て肝を潰した。
ええい、仕方がない! そのまま突入しようか!
一瞬だが、そうも考えた。
だが、あのグロンダール卿の恐ろしいハゲ頭が脳裏に浮かんだ。
ここで急いては全てが水の泡になる!
ギリギリの接所で、アンドレは突入を断念。
ノラを捕縛し、ごくわずかの監視要員だけを残して、撤収したのだった・・・。
それはいい。過ぎたことだった。
だが、そこからがケチのつき始めだった。
このハーニッシュの娘をどうするか。
まさか秘密警察のオフィスにも連れて行けまい。ましてや、ゴルトシュミット卿の屋敷の人間を秘密裏に消してしまうわけにもいかない。
グダグダ思い悩んでいるうちに、大量の要員を集合させたことがグロンダール卿の耳に入り、急遽オフィスに呼ばれ、またまた大叱責と大説教を受けてしまった。
「お前は一体何を考えておるのか!
何のためにアクセルや帝国の助っ人を呼んだと思っているのか!
お前たち程度ではどうにもならない。またまた取り逃がしてしまうのがオチ。
だから、ではないか!
この、無能者めが!」
アンドレの面目は地に落ちた。
こんな屈辱を受けるぐらいなら、あの時いっそのこと倉庫の中へ突入しておけばよかった。
後の祭り、とはこのことだった。
で、とりあえず、この娘だ。
仕方なく内務省に話をし、王都の警察署へ連行した。
革命分子の協力者と疑われる者を拘束した。秘密警察の所管ではないので名目上警察の取り調べとして取り扱いたい、と。
だが、娘は一言も喋らなかった。
「わたしはゴルトシュミット卿のお屋敷のメイドです。お客様のイングリッド様に一言お詫びしたいのです。それまではここから出ませんし、何もしゃべりません!」
喋らずとも、知っていた。
名前はノラ・ムンク。
ハーニッシュを追放になり、現在はゴルトシュミット子爵の屋敷に奉公に上がっている。同じくハーニッシュを追放されたペールという男と恋仲にあり、ペールが心酔している男、まさにアンドレたちが躍起になって追っている「もぐら」と縁を切らせようと、雨の夜にもかかわらず、慣れない馬に乗ってやってきたことまでも、全て掴んでいる。
だが・・・。
内務省の伝手には話せないし、現場の警官にも、ましてや、アンドレ自身が尋問などできるわけがない。
で・・・。
ただひたすらに、あのノラとかいう若い女を持て余していた。どうしたものやら、と。
と、いうわけなのだった。
「わたしは何も知りません。ただ、恋人のペールを追って、彼が良からぬ者達とこれ以上付き合わないように、取り返しに来ただけなのです!」
一言でいい。そう言ってくれさえすれば、内務省の、警察の伝手の顔も立つし、アンドレも取りあえずはここを去れるのだ。
ちっ・・・。
またあの歌が、聴こえてきやがった。
冬も春もまた過ぎて行くのでしょう
冬も春も
そして次の夏も、丸一年が
丸一年が
だけどあなたはきっと帰って来る
私にはわかる
だから私は待つ。あなたと約束したから
約束したから・・・
ひとまず留置場に放り込んではみたものの、あの娘は夜通し、寝る間も惜しんであの歌を歌いやがる。ノールの伝統の歌だか何だか知らないが、頭の中にこびりついてしまいそうだ・・・。
もう、ウンザリ、だ・・・。
警察署の休憩室でアンドレが頭を抱えていると、
「ゴルトシュミット卿がお着きになったようです!」
若い警官が知らせてくれた。
やった! やっと来たか!
顔を上げたアンドレは、ほおおおおっと、息を吐いた。
やっと・・・。これでやっとあの忌々しい小娘から解放される!
警察署の地下の留置場は、ジトジト湿っていてカビ臭く、処決を待つ容疑者の重い吐息が吹き溜まったようなところだった。
歌い終えたノラに、鉄格子と通路を挟んだ反対側から乾いた拍手が起こった。
「どこの誰か知らないけどさ、あんた、いい声してるね」
しゃがれた中年女の声が、石積みの壁伝いに響いた。
「見れば、まだ若い子じゃないないか。いったい何をしでかしてこんな所へ放り込まれたんだい。盗みかい? 男がらみかい? それとも、流行りの革命騒ぎで、かね?
ところであんた、タバコ持ってるかい?」
ノラは、答えなかった。
歌は彼女の命だったから。
歌うことをやめれば、ノラはノラでなくなるから。
だから、歌っただけだ。
そうして、このジメジメした鉄格子の牢屋に入れられてから何度目かになる、膝を抱え、手を組み、目を閉じ、神への祈りを捧げ始めた時だった。
「天にまします、父なる神よ。この愚かなしもべの罪をお許しください・・・」
「ノラ・ムンク! 出ろ!」
留置場の看守の声が、響いた。
ノラは、顔を上げた。
屋敷に帰る馬車の中で、ヤヨイの袖にしっかり縋りついたノラは、ずっと泣き通しだった。
「もう泣かないで、ノラ。あなたはなにも悪いことはしていないわ」
「でも、でも!・・・ 」
ノラは泣きじゃくり、叫んだ。
「わたしはずっとイングリッド様を、騙していました!
あなたの様子を彼に、ペールに話していました。それを、ずっと、あなたに、隠して・・・。
お許しください、イングリッド様!
申し訳ありません、イングリッド様!」
うわああああんっ!
ヤヨイは、ノラの可愛い金髪を撫で、手を握ってやった。
ぜんぶ、知ってるのよ。だから、あなたは悪くないのよ。
そう言いたいのを、グッと堪えながら。
「じゃあ、王宮へのお使いをお願いするわね。それで今回のことはなかったことにしましょう。国王陛下がお認め下されば、わたしはこのノールにお家を再興できます。
そうすれば、あなたもペールも、わたしのお屋敷で働いてもらえるわ。
よろしいですわね、ゴルトシュミット卿」
「もちろんですとも、バロネン!」
卿も大きく頷いた。
「ノラ。ペールがどのような連中と付き合っているのかは知らんが、おおかた革命とか騒いでいる連中だろう。若い時はそういう騒ぎに惹かれるものだ。
それに、彼もバロネンが気になるのだろうな。ハーニッシュの里に歓迎されたとなればなおさらだ。バロネンがノールにノルトヴェイト家を再興されれば、彼のためにもなる。
過ぎたことはもう気にするな。バロネンのご希望通り、お使いをしておくれ」
「あ、あ、あり、ありがとうございます、旦那様!」
むしろ、ノラやゴルトシュミットを騙しているのは自分の方だ。
可愛いノラの震える肩を撫でながら、ヤヨイは思った。
つくづく、ツミな仕事だな、と。
これも、ノール王家の、ひいては帝国の、安寧のため、だ・・・。
黒猫は、再びハントを始めた。
夜明け前までいた、大勢の得体の知れない人間たちはみなどこかへ行ってしまったようだ。
まあいい。
オレにはカンケーない。
むしろ、ネズミのハントがしやすくなって好都合というものだ。
だが、バカに静かすぎるじゃないか。
黒猫は雨脚を強めた朝の石畳を走り、倉庫街の通りを横切った。
向かいの倉庫の軒に飛び込み、ぶるるるっと身を振って雫を飛ばした。
そして、そっと建物の陰を、垣間見た。
ここいらでは見たことのない人間が倒れていて、雨に打たれていた。もう冷たくなっていた彼の体からは赤い血が流れ出し、石畳を濡らす雨に薄められていった。彼の背中には鋭いナイフが、生えていた。
それは、アンドレが残したわずかな見張りの一人だったが、そんなことを黒猫が知るわけもない。
黒猫はいつものねぐらの倉庫に引き返した。
ふと、いつも聴こえていたあの陰鬱な音が、やけに大きく聞こえてくるのに気づいた。
ああ、あれは地の底の人間がいつも聴いていたヤツだ。音楽?
「アルビノーニのアダージョ」
音楽には名前があったが、そんなことを黒猫が知るはずもない。
黒猫はいつもの出入り口、つまり、第13番倉庫の横の窓の破れから中に入った。
そして、音楽とやらが聴こえてくる地の底に向かう螺旋階段を音もなく降りて行った。
すると、いつもは絶対に開くことのなかったドアが、開いていた。
好奇心の強い黒猫は、初めてその地の底の部屋に入った。
明かりがついていた。
彼はヒクヒクと鼻を、髭を動かした。
ネズミの気配は、ない。人間も、いないな・・・。
テーブルの上に、赤い服が脱ぎ捨てられていた。
それは、近衛騎兵連隊の厩の馬糞を運ぶ荷車の中から見つかった、あの不幸なズワルト一等兵が着ていたものだったが、そんなことも、黒猫が知るわけもない。
音楽はそのテーブルの上のなんだかわからないものが出していた。
それは蓄音器というものだったが、もちろん黒猫が知るわけもない。
やがて、音楽は終わった。なんだかわからないものは、沈黙した。
どうやら、ここにネズミはいないようだ。
アンドレは、むしろ突入すべきだった。
下手にノラを捕縛したりしたから、それを察知され、「もぐら」は隠れ家を変えた。
やっぱり、アンドレは使えない男だった。
だが、そんな人間の世界の些末なことも、黒猫が知るわけもない。
彼は大きな欠伸をした。
夜通し働いて、少し疲れた。
どれ。いつもの小麦袋の上で、ひと眠りするか・・・。
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