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03 罪悪

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「そんなの卑怯ですっ! 消してください、今すぐ」

 慌ててシーツをかき集めて身体を隔し、加奈子は渋谷を詰った。

「誰にも見せません。お約束します」

「信じられません。今すぐ消してください!」

 渋谷は返事の代わりにルームキーのカードをベッド際に置いた。

「どうしてもご納得いただけないのなら、逃げも隠れもしません。その名刺のところへご連絡ください。この部屋の代金は私に請求が来ますからご心配なく。それでは、私はここで」

「ちょっと待って!」

 そう言ってスッと椅子を立ち部屋を出て行ってしまった。

 この格好ではすぐには追っていけない。

 カードがここにあるから、もう彼がさっきのように部屋に入ってくる気遣いはない。

 が、問題はそこではない。

 写真を撮られた。弱みを握られてしまった。

 加奈子がバスルームに入った一瞬の間。彼があの短時間でカバンを漁ることはできなかったろう。だから素性は知られていないはずだ。だがもし彼が好色漢で、知り合った女の裸をネットに上げるような男だったとしたら・・・。

 言い訳の効かない姿。友達や加奈子を知る会社の同僚や上司、保育園の保育士や子供を預ける母親たち。何よりも、夫に知られたら・・・。

 絶望感が加奈子を襲った。

 ふと彼の言葉の中に気になるものがあったのを思い出す。手を差し伸べて股間を確かめた。

 ウソ・・・。

 彼の言葉通り、そこはしっかり潤っていた。

 指先に着いた自分の淫らな液体を、加奈子は呪った。


 

 とにかく急がねば。

 不愉快極まりなかったが、あの男のくれた服を身に着け簡単に髪を乾かして梳かし、身支度を整えた。下着も服も不気味なほどに身体にフィットしている。それまで身に着けていたブラジャーは少しアンダーが小さくて今度新調するときは大きめを買おうと思っていた。その加奈子の意図を汲み取ったかのように、それはジャストサイズだった。

 あまりにピッタリ過ぎて、むしろゾッとした。

 フロントにカードを返すときに、

「ありがとうございました」と慇懃に言われ、いやな気持ちがした。


 

 雨は嘘のように上がっていた。

 不安定な心持のまま会社に戻り、訊かれもしないのに同僚たちに服が変わった理由をさりげなくふれた。急に夕立に襲われて高い買い物をさせられたと、さもウンザリしたように。担当営業や上司に復命し、若干遅れ気味で会社を出て保育園に向かった。

 郊外に向かう電車の中で改めてあの男の名刺を見た。

 この「株式会社スピリット・オブ・ワンダー」という怪しげなネーミングの会社がどんな分野の事業をしているのか知らない。何かアパレルに関係するものなのだろうか。だとすれば一目で加奈子の服のサイズを当てたのも納得がいく。それとも、日常的にああいうことを繰り返していて、慣れているとか。そこに加奈子も嵌められた、と。

 加奈子は首を振って不快な考えを振り払った。

 あれは事故だ。

 もう二度とあの街には行かない。そう思うことで少し留飲を下げた。が、すぐに正反対の考えになる。行かないわけにはいかない。そのことに気づき、また気分が落ち込んだ。

 あの写真を処分するように約束させねばならない。

 それにこの、妙に体にフィットする不快な記憶の沁み込んだ服も返したい。

 でもしっかりクリーニングすれば二三日どころか一週間ほどはかかるだろう。やはりこれは捨ててお金で済ませよう。彼が言ったように、安物なのだから。すぐにも、明日にもお金を返して写真を処分するように頼まなければ・・・。でも・・・。

 思考が千々に乱れる。どうしようもなくイライラする。自分は今、正常じゃない。不安に押しつぶされそうになりながらも、加奈子は耐えた。耐えねば家庭が崩壊する。

 ぐちゃぐちゃの頭を抱えたまま保育園に着く。やはり遅れた。毎度のお詫びをして頭を下げ、迎えに来た母を見つけて駆け寄る里香を抱き上げる。

「ママ、おかえりなさーい」

 栗色のツインテールを揺らして里香が微笑んでくれる。

 その小さな柔らかいからだを抱くと少し安心する。やっと本来の自分に戻ってこれたような気がする。胸いっぱいに可愛い娘のほのかな香りを嗅いだ。

「いい子だった? さ、おうちに帰ろうね。ばんごはん、なににしようかー」

「オムライスとビーフシチューとおさしみ!」

「おさしみー? そうねえ、じゃあ、オムライスにビーフシチュー添えにしようかなあ。お刺身はまた今度にしよう」

「やったー」

 この幸せだけは絶対に守らねば。加奈子は固く心に誓った。


 

「遅いじゃないか。何をしていたんだ」

 たった十分。たったそれだけの帰宅の遅れ。

 それでも夫の達彦は一言ある。

 ここ二年ほど「おかえり」も「今日は暑かったねえ」「寒かったねえ」「外回りも疲れるだろう」そうした労いの言葉は一つも聞いていない。

 在宅勤務が長引いて一日中家にいてイライラする気持ちはわかる。だが、加奈子も働いている。一言ぐらいは言い返したいのをいつもグッと我慢をする。

「ごめんなさい。すぐ夕食作るね。お風呂、洗ってくれた?」

「いや・・・」

「今からでもしてくれると助かんるんだけどな。洗濯物は、取り込んだ?」

「・・・まだ」

「そう・・・」

 前もってお願いすればやってくれる。今朝出がけにバタバタしていてお願いするのを忘れてしまった。だから自分が悪いのだと言い聞かせる。でも一日中家にいるのなら言われなくても掃除や洗濯物の取り込みや風呂の掃除ぐらいは・・・。自分は仕事中でも夕飯の献立を考えたり街角で可愛い子供服を見ると買ってやりたくなったりするのに。せめて家にいる時ぐらい里香の遊び相手ぐらいはしてくれてもいいのに。そう思いたくなる前に考えるのをやめる。いつしかそういうクセが付いてしまっていた。それ以上話すと時間がもったいない。

「里香。おうちに帰ったら手洗いうがい。毎日のことだよね。ちゃんとやろうね」

「うん。わかったー」

 きっと洗濯物は夕立で濡れてしまったのではないだろうか。髪をまとめてベランダに出てみると、意外にもみんな陽の香りがした。夕立はたぶん、あの街だけだったのだろう。

 そう。

 自分だって一言ぐらい「今日すごい夕立だったねえ」夫に訊けばよかったのだ。今からでも遅くない。訊けばいいのだ。でも、いつしかそれが面倒になっていた。

 それに今日は「夕立」の話はしたくない。

 渇いた洗濯物の柔軟剤と太陽の匂いを嗅いだだけでまた少し元気をもらえた。


 
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