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第五話 ぼくの姉、一葉(後編の下)

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「センセ、お久しぶり!」

 振り返ってびっくりした。

 Tシャツにぱんつ一丁。太腿むきだしのまんまのふた姉が立っていた。

「おお! ・・・お前も元気そうだな」

 さすがのオニヅカ先生もふた姉のあまりなあられもなさに目を逸らしつつ、そう言った。かつての教え子には違いないけれど、もう生徒ではないし、ここはふた姉とぼくたちの家だ。自分の家でどんな格好で寛ごうと勝手だ。チューハイのカン片手、ヨユーの微笑みというか、少しばかり酔ってるふた姉はそんなことを言いたげに見えた。先生にしても夕飯時に訪ねてきている負い目があるのだろう。ふた姉の恰好を詰ることはなかった。

 ふた姉は対峙するひと姉と先生の間にズカズカ入って来ると、ローテーブルの上に唐揚げの皿をドンッ、と置いた。

「センセもどうぞ」

「ほお! 美味そうだな。お前が作ったのか」

「いいえ」

 と、ふた姉は答えた。

「あたしに作れるわけないじゃないですか。これ、タケルの力作です。あたしウソ吐くの、性に合わないんで」

 ゲッ! 

 ふ、ふた姉! なんでそれ言っちゃうの?

 そしてふた姉はぼくの隣にドカッ、とふんぞり返った。

 カンと度胸で図太く生きているふた姉は、先生に不敵な微笑を向けむきだしの太腿を組んだ。

「お前も相変わらずだな、フタバ。

 何度も授業をフケる。無断欠席も度々。赤点は取りまくり、補習も来ない。シブトいし、図太い。タイドもデカい。それでよく卒業できたものだと、職員室で未だに語り草になってるぞ」

「毎朝モノサシ持って校門に立ってるセンセの姿を見るたびにビビってました」

「当たり前だ。性懲りもなく毎朝短いスカートで来やがって。少しは大人になったかと思ってたが、やっぱり変わってないな。むしろ図太さパワーアップじゃないか」

「その節は大変にご迷惑おかけしましたわ。うふ・・・」

 フン。先生は鼻で笑った。

「もっとも、そのぐらいでないとレースみたいな男社会ではやっていけんのかもしれんな」

「あたしたち宴会してたんです。他にも美味しいお料理ありますよ。センセ、せっかくいらしたんなら、あっちで一緒に酒盛りしません? 」

  現役のぼくたちがビビりまくる鬼のオニヅカ先生をアッサリあしらうふた姉は、カンロクの一語に尽きた。

 ひと姉は依然突っ立ったまま。

 そして、みつ姉は。

 しばらくの間キョトンとぼくたちとオニヅカ先生のやり取りを見つめていたが、やがてやっと、自分がほとんどすっ裸のトップレスなのに気付いたらしい。気付くの遅すぎ。

「きゃあああああああっ!」

 いつになく女の子みたいな悲鳴を上げ、さらに奥のぼくの部屋へと逃げ込んでしまった。

 初めて会うオニヅカ先生という赤の他人の男が入って来てビックリしたんだろう。が、今更恥ずかしがってどーする、と思った。初めてみつ姉が歳相応の女の子に見え、やっぱりなぜかカワイイと思ってしまった。

 だが、同時に。

 これで、ぼくの姉たちの醜態は初めて家の外の他人に晒されたわけだ。

 ぼくは頭を抱えた。

「あれ全部、お前が、タケルが作ったのか」

 先生は仏間の宴会の料理の皿たちを見た。なんと答えていいかわからず、ぼくは黙っていた。

「弟に酒の肴作らせて、宴会か」

「はい」

 悪びれもせず、ふた姉は答えた。

 先生は目の前の唐揚げの皿に目を落とし、ひとつ、つまんだ。

「うむ・・・。たしかに、美味い」

 と、オニヅカ先生は言った。

「タケル、模試の成績が落ちたんだそうです。

 ヒトハと同じ、コクリツを目指してたみたいなんですが、今の成績じゃちょっとムリっぽいと。それまでそこそこの成績を維持してたのに、このところ野球にかまけてたせいです!」

「野球のせいで成績が落ちたというわけか」

「それ以外に何かありますか? センセ」

「それで、宴会か?」

「宴会でもあり、我が家の対策会議でもあるんです。これがあたしたち姉弟のコミュニケーションなんです!」

 キッパリとふた姉は言った。

「でもあたし、言ってやったんですよ。どこの大学に入るかよりも、将来何をしたいのか、のほうが先だって。勉強に集中するにしろ、野球に青春を賭けるにしろ、まずソレだと。

 そういう話をしていたんです。あたし間違ってますか? センセ!」

 先生はしばらくじっとふた姉を見つめ、次いで立ったままのひと姉を見つめ、そしてぼくを見た。

「仏壇がある。線香を、あげさせてもらっていいか」

 と言った。

「・・・どうぞ」

 おもむろに立ち上がった先生は仏間に入り仏壇の前に膝をそろえ、線香をあげ、ち~んして合掌した。

 厳かな線香の煙が漂う中、まずふた姉が、そしてひと姉とぼくも仏間に入り、手を合わせて瞑目を続ける先生の後ろに膝をついた。じいちゃんとばあちゃん、そして父の遺影がぼくたちを見下ろしていた。

 やがて先生は振り返った。

「タケル」

 と、先生は言った。

「はい」

「お前を野球部に誘った時、お前は『やることがあるんで』と言って断った。そうだな?」

「・・・はい」

「もしかして、これがそうなのか? 」

「ぱんつ会」の皿たちを顧み、次いでお盆を抱えたままのぼくを睨んだ。思わずぼくはお盆を手放し、畳の上に置いた。

「それが、お前にとっての『せねばならないこと』、お前の『やりたいこと』、なのか?」

 先生の問いに、すぐに答えることはできなかった。

 そうだとも言えないし、違うとも言えなかったからだ。

「この宴会だけじゃあるまい。これだけの技は日々続けていなくては出来るものじゃない。タケル。お前は日常的に姉たちの食事の世話までしているのか。

 フタバ、そしてヒトハ。

 お前たちはまだ高校生の弟に日々の自分たちの世話まで押しつけているのか。まさか、家のこと、掃除洗濯まで全部やらせているんじゃないだろうな」

 しーん・・・。

 この「し~ん」は、長かった。古い柱時計のコチコチがやけに大きく、響いた。

 長い沈黙を破ったのは、ふた姉だった。

「そうです」

 ふた姉は、答えた。

「あたしたちにはムリなんです。この家はタケルがいないと回らないんです!」

 ちょ、ヤバイよ、ふた姉!

 正直に言い過ぎだよ。それじゃあ、火に油になっちゃう・・・。

 ハラハラしたが、どうしようもなかった。

「弟に家事一切を丸投げしておいて、さらに自分たちの飲み会の用意までさせ、ドレイのように酷使しておきながら、成績が下がったのを野球のせいにするのか! ん? ヒトハ! どうなんだ!」

 ふた姉が「カンと度胸」、みつ姉が「野生と男気」だとすれば、ひと姉は「頭脳と努力」だと思う。

 それまでじっと黙っていた、「頭脳と努力」のひと姉が、やっと口を開いた。

「そのとおりです、先生」

 と、ひと姉は言った。

「先生の仰る通りです。

 あたしたちは、タケルに、甘えすぎていました」

 しこたま飲んでいるはずなのに、何故か彼女は覚めていた。仏間の畳の上の一点を見つめ、思いつめたように、つぶやいた。

「この子にもやりたいこと、したいことはある。一度きりしかない青春を謳歌する権利もある。でも・・・」

 そして、ひと姉は、キッと、まなじりを上げて、ぼくを見た。

 その瞳の凛々しさと目ぢからの厳しさが、古いヤクザ映画の緋牡丹お竜さん、藤●子のそれよりも、お竜さんに似たワカバのお母さんのチヒロさんよりも強く、ぼくの胸に刺さった。

「今やりたいことのために、目の前の課題をなおざりにするのは単なる『逃げ』です。

 あたしは、可愛い弟をそんな卑怯な漢(オトコ)にしたくはありません!」

 と、ひと姉は言った。

「タケルは、亡くなったあたしたちの父、ヤマトイサムのただ一つの希望だったんです。そしてあたしには、タケルを立派な漢(オトコ)に育てる、ギムがあるんです。

 それを、忘れていました。

 ありがとうございます、先生。先生のお陰で、今、それを思い出しました」


 


 


 

 ぼくの父、ヤマトイサム。

 彼は、最後の武闘派ヤクザとして名を馳せ、所属していた「関東ひよこ」組の古参幹部だったじいちゃんからも、なんと組長からも、「いずれこの組を背負って立つのはイサムだ!」と将来を嘱望されていたという。

 だから、もし父がまだ30代の若さで病に斃れるという悲劇さえ無ければ、このぼくも父の後を継いで任侠の世界に入っていた・・・、かもしれない。

 しかし、ぼくがまだ小学校にも上がらないうちに父はこの世の人ではなくなってしまっていた。遊んでもらった記憶もない。ぼくは仏壇の遺影でしか、父を知らない。


 


 

「突然ジャマして、悪かったな。さっきの唐揚げは、美味かった」

 オニヅカ先生はそう言って我が家を辞していった。

「・・・どうも」

 ひと姉もふた姉もなんだか落ち込んでしまったみたいで腰を上げようとすらしなかったのでぼくだけが先生をお見送りに立った。

 先生が帰った後のぱんつ会は、まるでお通夜みたいだった。まあ、仏壇の前の宴会だから、似つかわしいと言えば、そう言えなくもないけれど。


 


 

 次の日の日曜日。朝。


 

 朝の陽射しの眩しさで目を覚ましたぼくは、庭を見て仰天した。

 このところ雨が降っていなかった。こういう日はまず庭の芝生にホースで水撒きするのだが、そのぼくの日課を、なんとひと姉がしていたのだ! 

 彼女がぼくより先に起こされずに起きるなんて。こんなことは、いままでなかった。

 そしてこれもいつもと違い、ぼくが姉たちのぱんつを下洗いすることはなかった。洗濯機さえ回す必要はなかった。その辺りに脱ぎ散らかされていた姉たちの服はキレイに片付けられ、ル●バがウィーンと動き回っていた。

 それらをやってくれたのはみつ姉だった。

「みつっ! 洗剤はちゃんと計って入れれっ! いい加減にすんな、ボケっ!」

 みつ姉の後ろでひと姉がバッチシ監視していて、ともすると手を抜きがちなみつ姉のアタマをバシバシ叩きつつ怒鳴るのがリビングにまで聞こえて来ていた。

 二階では、ふた姉が3人分の布団のカバーを外し、シーツを外し、布団を窓から出して干し、掃除機をかけていた。

 あれほどにめんどくさがりだった、ズボラ女の身本のようだったぼくの二人の姉が、いつもぼくがしている日課である家事を、洗濯と掃除を、やっている・・・。

 驚天動地。前代未聞。

 もしかすると人類の滅亡は近いかもしれない、と思った。

 庭の水撒きの後、脱衣所で洗濯機を回すみつ姉を怒鳴りまくっていたひと姉がリビングに入って来た。Tシャツにハーフカットしたジーンズ。サイズがキツ過ぎるらしく、おなかの駄肉がハミ出ているのが目立っていた。

「出来た?」

 正座してリビングのローテーブルに向かっていたぼくは、取り組んでいた数学の問題集を示した。

「ここがわかんないんだけど・・・」

 縁側の外、朝の陽ざしをキラキラ照り返す青々とした芝生の庭に、洗いたての洗濯物のカゴを抱えたみつ姉が出て来た。もちろん、トップレスではない。ひと姉と同じく、ちゃんとTシャツを着て短パンも穿いている。

 緑の芝生の上に立てた物干しざおに洗濯物を干して行くのだが、振り捌きもせず、シワも延ばさず、イヤイヤながらヤッてるのが丸わかりだった。

 と。

 続いてサンダルをつっかけて庭に出て来た、同じくTシャツにホットパンツのふた姉が、イキナリ長い脚を伸ばし、みつ姉のプリンとしたケツを蹴っ飛ばした。

 バシッ!

「・・・ッテーなっ! なにすんだよっ、ふたちゃんっ!」

「マジメにやれ! 手抜いたらまたシバくよっ!」

 みつ姉のこと。それで反発して暴れるのかと思いきや、意外にも彼女は渋々ながらもバサバサとタオルを振り捌き、シワを伸ばして物干し竿にかけていった。

「やれば出来んじゃん! マジメにやれよ、みつ! 上から見てるからなっ!」

 そう言ってふた姉はトントン二階に上がって行った。

 再び掃除機の音が始まっても、ぼくはその一連の光景に唖然とし、目を釘付けにしたままだった。

「・・・ってなるわけ。・・・わかった?」

 ぼくの隣に座ってたひと姉が言った。

「へ?」

「お前ー・・・」

 エンピツを放り出したひと姉は、イキナリぼくのアタマを抱えてヘッドロックしてきた。

「ああああっ!」

 ひと姉は渾身の力を振り絞ってぼくを締め付けていた。ぼくのアタマは、ひと姉の、ふた姉ほどじゃないけれどそれなりに豊かなCカップのムネに押し付けられた。めっちゃ苦しいんだけど、何故かゾクゾク、気持ちいい・・・。

「ヒトがいっしょけんめ説明してんのに、聞いてなかったのかおまえわっ! くおらああああああああああっ!」

 ローテーブルを挟んだぼくの向かい側には、何故かワカバが同じ問題集を広げていた。そして、般若の形相でぼくを責めるひと姉と、甘んじて責められるぼくとを、じーっと、見つめていた。その視線が気になったけれど、ひと姉のヘッドロックのカイカンの方が勝ってしまって、どうすることもできなかった。

 ふう・・・。

 ひと姉の責めが終わった。

「じゃ、朝ごはんにしよ。タケル、悪いけどそれだけはあんたがやって。朝ごはん食べたら、続きやろう」

 


 

 ひと姉の個人授業「ワカバ付き」は、午前中一杯続いた。

「じゃ、あたし用があるから」

「あたしも、ダチと約束あるから」

 それぞれの役割を終えると、ふた姉とみつ姉は逃げるように家を出ていった。ひと姉も、

「ちょっと本屋さんに参考書買いに行って来るから。マジメにやんのよ。ワカちゃんもね」

 そう言って出かけて行った。

 それで、炎天下ではあったけれど、ぼくは近くの図書館に行った。電気代節約のために極力クーラー使用を制限してる我が家よりも涼しいからだ。もちろん、ウザい幼馴染付きで、だけど・・・。

 自習室で二時間ほど勉強した後、図書館の中庭に出てパーゴラの下のベンチで休んだ。もちろん、ウザいワカバ付きで。

「はああああああああああああ・・・」

 自動販売機で買ったコーラを一口飲むと、自然に溜息がこぼれた。

「たいへんだね」

 と、ワカバは言った。

「行けそう? 10番以内」

「んー・・・。そうだなあ・・・。塾の模擬テストはともかく、学校のはなあ・・・。今までの最高が28番だったから、まるっきりダメじゃないかもしんないけど、ここんとこオレ、チョーシ悪ィからなー・・・」

 

 ゆうべのこと。

 ひと姉は、言ってしまったのだ。

「わかりました、先生」

 その場に正座し、まっすぐにオニヅカ先生を見つめ、ひと姉は、言った。

「ブアイで10番以内をキープできれば、国立の上位大は確実に射程圏内に入ります。

 タケルが今度の定期テストで10番以内に入ったら、申し訳ありませんが野球部入部は諦めて下さい。

 でも、もし入れなかったら、その時は存分にタケルの野球の才能を伸ばしてやってください」

「ええっ? ちょ、ちょっと、ひと姉!」


 


 

 なんだか知らないうちに、そういうハナシになってしまったのだった。

 でも、ぼく自身、イマイチ実感がわかないのだ。

 ぶっちゃけ、どっちでもいいような・・・。

 それがぼくの、正直な気持ちだった。

 でも、それでいいんだろうか。


 


 

「なあ、ワカバ。訊いていいか」

「ん? なに?」

「お前さ、進路とか、決まってる?」

「えー? しんろー?」

 ワカバはちょろちょろと涼し気な水音をさせている中庭の噴水をぼんやり見つめていた。何かを考えている風に見えた。

「それはさー・・・。やっぱさー・・・。いわゆるさー・・・。なんての? うーんとね・・・」

「そうだよなー。ガチ決まってるってヤツのほうが少ないって。とりあえず、目先のコトだけで精いっぱいってのがフツーじゃねえの—・・・」

「結婚して家庭に入る」

「ええっ?」

 髪型はなぜかいつもふた姉と同じ。今はふた姉がショートにしてるから、コイツもショート。だけどお顔は、残念ながら到底ふた姉ほどの美人じゃなく、めっちゃ美形なワカバのお母さんのチヒロさんにも及ばず、失礼だけどひと姉やみつ姉にも届かない。

 でも、なんとなく愛嬌はある。

 美人は3日でアキるけど、ブスは3日で慣れる、と聞いたことがある。

 コイツにも、やっとカレシが出来たんだな。当然、ぼくはそう思った。

「そおかあ・・・。女はそういうテがあるよな。でも、スゲーよ! お前もうそういうヤツいるんだな。

 お前、卒業したら、結婚するのか? 」

「ええっ! まだそこまでは、さ。でも、そう出来たら、いいだろなー・・・」

 そう言ってワカバはぼくを上目遣いで見つめて来た。

「ま、結婚式には呼んでくれよ。陰ながら祝福してや・・・」

 すると、何を思ったのか、突然ワカバはぼくの太腿をイヤというほどに抓ったのだ。

「いてーーーーーっ!」

 当然にぼくの悲鳴は周囲の視線を浴びた。

「な、なにすんだおおおおっ! 」

「バカ! ボケナス! ヘンタイ! いっぺん、シネば?!」

 ひと姉ほどじゃないけれど、般若の小娘ほどに怒りの形相を浮かべ、ワカバはぼくを睨んだ。

 どうして突然怒り出すんだ?

 ホントに、ワカバは、ヘンなヤツだ。


 


 


 

 そんなこんなで、夏休みが終わった。

 夏期講習明けの模擬テストは、完全に納得いくものではなかったが、まずまず。最初に設定した第一志望大の合格可能性がほぼゼロだったのが60パーセント台まで回復した。

 その結果を知り、ひと姉はダサ●タマへ向かった。

「じゃあね、タケル。ガンバルのよ。あたしもガンバルから」




 そして迎えた定期テスト。

 なんとかベストは尽くした、と思う。


 

 そして、結果は・・・。


 

 辛うじて、ぼくは、学年9番の成績を取ることができた。

 オニヅカ先生は複雑な表情を浮かべつつも、

「ま、約束は約束だからな。ひとまずは身を引く。がんばったな、ヤマト!」


 そう言って国語科の指導教員室に入って行く先生の後姿が、ちょっと寂しげに見えた。そこはかとなく申し訳ない気がしないでもなかった。


 

 もちろん、ひと姉には真っ先に知らせた。

 電話の向こうで、彼女が泣いているのが、なんとなくわかった。

「よかった・・・。がんばったね、タケル。それでこそ、我がヤマト家のただ一人の男だよ。本当に、よかった・・・」

 それ以降は言葉にならず、しゃくりあげと鼻水を啜る音が続いた。

 ひと姉がそれほどにぼくのことを思っていてくれたのだということを。そして、家事負担を担ってくれたふた姉やみつ姉も。ぼくは、それを、知った。

「ありがとうね、ひと姉・・・。講習、頑張ってね!」

 


 


 

 ひと姉がダサ●タマに。ぼくが二学期の定期テストでなんとか10番入りを果たしてやれやれしていた土曜日の朝。

「おはようございます!」

 グレーのシルクのスーツでばっちりキメた、頬に切り傷のあるイカツイ顔の、任侠オーラをビシバシ放出しまくってる男が、やっぱり、玄関先に立っていた。

「ああ、ゲンゴロウさん! いらっしゃい!」

「若、毎度、おしさしぶりでござんす!」

 ゲンゴロウさんはぼくのことを「若!」と呼ぶ。

 階段を降りて来たぼくを見るなり、両脚を肩幅に拓き、いつものように深々と「ヤクザ風の」礼をした。

「会うたんび、若は亡くなったアニキに似て来られますねえ・・・」

 このセリフも毎回同じ。そして、急に目をウルウルさせ、ボロっと大粒の雫をこぼすのも、いつも同じ。

 ぼくの父が「最後の武闘派ヤクザ」として名をはせた男だったらしい、というのは何度も紹介した。

 この、不意の訪問者。池野源五郎さんは亡くなったぼくの父の「シャテー」だったひとなのだ。父の一番の子分として父の死に水まで取ってくれた人だと姉たちから聞いた。背中にちゃんと洗っても消えない絵が描いてあり、自ら好んでプールやサウナに行けない身体にしてしまった人でもある。

 今では真っ当なカタギの小さな会社を経営していて、時々こんな風に突然、家にやって来るのだ。兄貴分の父はとうに亡くなっているのに、彼は未だにぼくのことを「若!」と呼ぶのだ。

「あの、ゲンゴロウさん? ひと姉なら留守だよ。今司法修習生の最後の講習でダサ●タマ言ってるんだ」

「あ、そ、すか。・・・」

 実はこのゲンゴロウさんはひと姉ラブ、なのである。そりゃもう、イチズなのである。

 ひと姉の名前を呼ぶときは必ずドモる。本人を目の前にするとこのイカツイヤクザ顔が真っ赤になって俯いたまま黙ってしまう。

 でも、高校生のぼくにだってわかるけど、それほどまでにひと姉が好きなら、フツー本人にアポ取ってから来ればいいのに。彼が来るとき、大抵ひと姉は留守なのだ。

「じゃ、・・・毎度なんですが、こ、これ・・・」

 彼は後ろに回した手に隠し持っていた、ちゃんとセロハンラップしてピンクのリボンまでしてある一輪の赤いバラの花を、恥ずかしそうに差し出した。

「こ、これ、ひ、ひ、一葉さんに・・・」

「いつもありがとね、ゲンゴロウさん。ひと姉、いつも喜んでるよ」

 いつも通り、ぼくは、優しいウソを吐いた。ひと姉の眼中にゲンゴロウさんがいないのは百も承知だからである。

 で、この後、ゲンゴロウさんはいつもこう言う。

「あ、あの、アニキに、線香あげさせてもらって、いいスかね」


 

 オニヅカ先生が来た時も思ったけど、ムダにバカでかくてド古いぼくの家は、任侠オーラを放つ男の背中がよく似合う。

 線香をあげたゲンゴロウさんの背中に、ぼくは言った。

「いつもありがとうね、ゲンゴロウさん」

「志半ばで、若くして旅立って行っちまったアニキ・・・。

 そのアニキの血をひくお子さんらが、こんな世知辛い世の中で、健気にもたくましくいきてらっしゃる。それを思うだけで、あっしはもう・・・!」

 世の中には、一人で喋って一人で勝手に盛り上がって感極まってしまう人がたまにいる。

 このゲンゴロウさんもその一人だ。ぼくの父のことを思い出すたび、彼は涙腺が崩壊してしまうらしいのだ。

 この調子で放っておくと半日でもしゃべり続けかねないし、いずれ涙腺崩壊の危機を迎えるだろう。

 でも、その時のぼくは、どうしても彼に聞きたいことがあったのだ。

 お盆に載せたお茶を出して、ぼくは言った。

「ねえ、ゲンゴロウさん。いつか訊こうと思って、ずっとそのままだったことがあるんだけど・・・」

 仏壇に向かっていた、任侠オーラバリバリの漢(オトコ)が、振り返った。

「改まって、なんでござんすか、若」

 仏壇に深々と一礼したゲンゴロウさんは、キラキラ光沢を放つグレーのシルクのスーツの膝を回した。すでにヤクザの世界から足を洗って久しいとはいえ、頬に切り傷のある任侠オーラバリバリの漢(オトコ)の視線は、ハクリョク満点だった。

「あのね、ひと姉のことなんだけどね」

「ひ、ひ、ヒトハさん、の?・・・」

 このヒトは、何故かひと姉のことになると必ずドモる。

「うん・・・。

 ひと姉が大学生の時さあ、タイホされたことがあるでしょう?」

「・・・ああ、その話ですかい」

「うん・・・」

 ぼくは言った。

「それでね、ぼく、ずっとギモンに思ってたことがあるんだ。

 後遺障害の残るケガを負わせて、タイホまでされたのに、どうして相手の男の人は訴えを取り下げたんだろうな、って。

 その頃はウチはもうビンボーだったから、たぶん示談金も払えなかったと思うんだ。それなのに、どうしてなのかな・・・、ってさ。

「なんで、それを、あっしに?」

「いや、ゲンゴロウさんなら知ってるかな、って・・・」

 ぼくは、言った。

「だって、ゲンゴロウさんさあ、ひと姉のこと、大好きなんでしょ?」

 それまで任侠オーラバリバリ、目だけで人を殺せそうなほどの殺気を孕んだ目線が、にわかに赤くなり、和んだ。

「・・・はい」

 と、彼は言った。そして、続けた。

「こりゃあ・・・」

 しばらく畳に突いた膝をパンパン叩きながら言葉を探しているようだったが、やがて顔を上げ、話し始めた。

「若。こりゃあ、絶対に誰にも言わねえでおくつもりだったんでござんすが、若ももう高校生。そして、このヤマト家のただ一人の漢(おとこ)。3人のお姉さん方を守って行かなきゃならねえ立場ってもんがある。そういうお方です。若は知っておいてもらった方が、いいかもしれないですね。

 これからお話しすることは、生涯誰にも言わねえと、約束していただけますか? 特にヒトハさんには」

「うん。約束するよ」

 ぼくが頷くと、ゲンゴロウさんはホホ傷を緩ませた。

「ありゃあ、もう5、6年前に、なりやすかねえ・・・」

 

 父が亡くなり、ぼくのじいちゃんばあちゃんも相次いで鬼籍に入ったころ。ひよこ組の親分さんも失意のうちに世を去り、ゲンゴロウさんは残った組の若い衆をどうやって食わせて行こうか思案していた頃だった。

 ある時、組事務所にモロ筋もんみたいな男がやってきた。

「初めはね、ややっ! コアラ組のやつら、カチコミに来やがったかっ! てな感じで血が上りかけたんスが、ソイツは、

『ここはヤマトイサムが居た組かね』 

 とか言いやがったんで、だったらどうした。ナニもんだテメー、て言ったらね、急にソイツ土下座しやがってこう言いやがったんでさ。

『訳あって名前と職業は名乗れない。ヤマトイサムの娘ヒトハが大変なことになっている。なんとかならんものだろうか、とお願いしに来た』

 それだけ言って、帰っちまいましてね。

 何のことやらサッパリだったんですが、他ならぬヒトハさんの身に何かあったのかと居てもたってもいられなくて、ひとまず若いモンを使って調べさせたんス。

 そしたら・・・」

 ゲンゴロウさんは口をギュッと結んで腕組みをし、深く頷いた。

「あっしにも寝耳に水ってヤツで、思わずダンビラ掴んで立ち上がっちゃいましたけどね。でも、立ち上がっただけで、もちろん、何もしてませんよ。

 で、しばらく経ってからソイツの、ヒトハさんがタマ潰した野郎の所へお見舞いに行ったんス。もちろん、あっしひとりで。ちゃんと花束とケーキ持って。

 それだけですよ。

 そしたら、野郎勝手に被害届を取り下げたらしくて。しばらくしてヒトハさんが拘置所から帰って来られたって聞いて、ホッとしましたがね・・・」


 

 ゲンゴロウさんから聞いたのは、それだけだ。

 ゲンゴロウさんも漢(おとこ)だが、彼にそれを知らせに行ったヤツというのも漢だと思った。

 ゲンゴロウさんはそれ以外何も言わなかったけれど、ぼくにはそれが誰か、わかった。

 カレシには恵まれなかったけれど、ひと姉はいい先生に恵まれた。そう思った。先生に借りができた。




 


 


 で、その二か月後の土曜日。

 庭の芝生が冬枯れを始め、カエデやサクラの葉が色づき始めたころ。

 晴れて弁護士バッジを着けたひと姉が帰って来た。

 でも・・・。

 掃除機を持ったぼくが二階から降りて来て、縁側にまだ干し終わっていない洗濯かごがあるのを見て顔を曇らせた。

「ああ、ひと姉。お帰り! おめでとう!」

 ひとまずベンゴシになったお祝いを述べたのだが、ひと姉は、

「・・・ふたちゃんとみつは?」

 押し殺した声で尋ねた。

 ぼくは黙って二階を指さした。

「もしかして、まだ、寝てるの?」

「・・・うん。・・・まあ」

 その後に起こるだろう悲劇は予想できたけれど、事実だから仕方ない。正直に、ぼくは、うなづいた。

「なんだってェええええええええええええっ?!」

 ゴゴゴゴゴゴゴおおおおおおおおおおっ!

 家の周囲何十メートルかに渡って、怒りの活火山の噴火を予感させる地鳴りが響いた。

「フタバっ! ミツっ! おまえらあああああああああああああっ!」

 ダンダンダンッ!

 活火山は勢いつけて二階へ上がって行った。

 二か月ぶりの大噴火。あまりなケンマクにいささかビビったけれど、今回はひと姉の怒りの矛先はぼくではない。そこだけは、助かった。

 間もなく、二階からぼくの3人の姉たちの怒号が響いて来た。

「くおらあああああっ、おまえら! なんで寝てるんだああああああっ!」

「ちょっとお! あたしだけじゃないじゃん! ふたちゃんだって」

「おま、なんで姉ちゃんのせいにするっ!」

「やかましいっ! サッサと起きて縁側のゾーキンガケでもしろっ!」

 姉たちのみにくい言い争いを聴きつつ、洗濯物を干し終えたぼくは、キッチンに向かった。朝ごはんを作らねばならなかった。

 水を満たしたお鍋をグリルに載せ、火を点けつつ、思った。

 ちょっと、痩せたかな、と。

 Cは変わらず、でいいかもしれないが、アンダーは78か79ぐらいでもよかったかもな。でもヒップは依然ヨユーで100オーバー、だな、と。

  色もババ臭いベージュじゃなくて、少し淡いめのブルーのにしといた。怒鳴り合いを終えたひと姉が、ぼくがタンスにしのばせて置いた新しい下着に気が付くのは、いつだろうか。

 ゾクゾク、それを楽しみにしつつ、カウンターの上の赤いバラの一輪挿しに水を差し、お味噌汁の具の油揚げを刻む、ぼくなのだった。


 


 


 


 


 


 


 

      第五話 ぼくの姉、一葉 終り
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