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17 チナ王国と帝国

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 帝国の首都カプトゥ・ムンディーの郊外にある飛行場を飛び立ち、真っすぐに西に向かう。

 歩けば十日ほど。早馬でも三日はかかる。西駅からの急行列車でも、安い三等車なら半日は固い座席を耐えねばならない終点駅をほんの一時間少々で真下に見下ろせる。その先には国境があり、今眼下には第一軍二万が南北に細長く布陣して進撃命令を待っている。

 そこからさらに非武装地帯を飛び越えれば、そこはもうチナの領土である。延々と続く広大なブドウ畑を飛んでいると、すぐ目の前に雪を頂いた四千メートル級の山々が連なるチンメイ山脈が立ちはだかる。

 残念ながらまだ帝国の航空機はこれを飛び越えてさらに西に向かうことが出来ない。そのためにはエンジンにより改良が必要だった。

 が、想像の翼はその山々を飛び越える。

 白く高い尾根を越えればその西にはチナ王国の心臓部、中核をなす広大な土地が広がっていた。

 山の麓から梨園、タカキビ(高黍、コウリャン)畑が緩やかな斜面に作られ、その終わりほどから長閑な田園が広がる。そこここにはいくつかの集落も見える。二毛作が可能な水稲も今は農閑期を迎えて田畑に出ている農民の姿も少ない。

 そしてさらにその向こうの空を黒いもうもうたる煙が覆っていた。

 近年拡張されてきつつあったチナの大工業地帯である。帝国と同じくチナの主要なエネルギー源は奴隷と石炭である。その石炭を動力に使った原料、加工の重軽工業がひしめき合っている上を飛び越えれば、その霞の向こうに巨大な碁盤の目のような大都市が広がっていた。

 それがチナの王都、ピングーであった。

 高貴な色とされる紫と金で葺かれたひときわ目を惹く壮大な王宮は王都の北にあった。その左京右京南京を黒い甍が整然と埋め尽くしていた。ピングーは温暖で、冬でも雪は降らない。

 今、その王都を取り囲む城壁の外には夥しい軍勢が終結し、軍馬が群れと集い、あちこちから兵たちの炊爨の煙が上がっていた。

 早朝から、王宮は戦闘詳報を携えてやってきた北からの伝令を迎え、騒然としていた。

 王宮の広大な書院の奥を隔てる御簾の左右には、揃いの黒色の直衣を着た大臣たちと光り輝くカラフルな直衣を身に着けた大勢の豪族の長たちが居並び、つい先ほどまで下座で宦官が奏上していた、北の大都クンカーを襲いつつある危機の情報について皆口角泡を飛ばして激論の最中にあった。

「だからわしは申していたのだ。進軍してきた敵の、帝国の狙いは北からこの王国の中心部を貫通することにあると!

 これ以上は待てん。早急にクンカーに増援部隊を出すべきだ。それも、陛下直属の王党軍を、だ!」

 彼の直衣は黄金がかった山吹色の目が覚めるようなものだった。だがあまりの昂奮に身振り手振りが大きくなりすぎ、そのせっかくの直衣に描かれた天女の美しい刺繍柄がしわくちゃになって台無しになっていた。

「ドン大人(たいじん)。少し落ち着きなさい。まだクンカーが陥ちたと決まったわけでもあるまいに・・・」

 ドン、と呼ばれた男の真向かいに座を占める渋い銀の直衣の老人が鷹揚に諫めた。

「当然だ! 陥ちてたまるか」

 ドンは、激高のあまり膝前の小卓をドンッ、と叩いた。載っていた茶の器が飛び、せっかくの旨茶がこぼれ、床を濡らした。

「ミン大人。貴殿は海の者。だから山の危機にそのように暢気なのであろう」

「ドン大人。今の一言、聞き捨てなりませんな」

 ミンと呼ばれた鬢の白い老人は、ゆっくりと席を立って居並ぶ高官たちの背後を半ばまで歩き、立ち止まって御簾の奥の上座に向かい拝跪した。

「国王陛下。陛下はご存じでありましょう。

 先だっての帝国の戦艦を奪う謀事(はかりごと)。それはこのドン大人の持ち込んだものでした。帝国の上級士官が、軍艦の艦長がこの王国に亡命を希望しておると。しかも帝国の多額の国費を投じて建造された最新鋭の戦艦一隻手土産に持参すると。

 輩は申しました。そのようなことは必ず帝国の上層部に露見する。しかも、戦艦というもっとも大きな軍艦を手土産になど絶対にあり得ないと。そんなことは帝国が許すはずがない。そう申したのでございます。

 しかるに、ドン大人は自説を曲げず、しかも海のことは海に詳しい者が処決すべきだと。それで輩は国王陛下への忠義のため、それにとりかかったのでございます」

「フンッ! 失敗した者が何を言うか。あわよくば分捕った戦艦をわがものにしようとしておったのではないか?」

 ミンは礼を欠いた揶揄には取り合わず、言葉を繋いだ。

「ですがやはり輩の危惧した通り、事は最初から露見していたのです。

 帝国はこの一事を逆手に取り、ワザと戦艦を囮にし、しかも武術の手練れを潜ませて輩の計画を妨害してきました。それだけではありません。事が発覚したあおりでそれまで帝国に潜ませてあった情報資産すべて悉くを失いました。陛下御苦心の、営々とお育てなされた王国直属の海軍兵力も、全てでございます。

 結果についての責めは甘んじて受ける所存でございます。

 が、不確かな情報に基づいて陛下の御心を惑わせ、陛下の資産を悉く失わせておきながら、今また自領のあるクンカーが危ういからと陛下の兵を無心するとは・・・。

 輩はつくづく、このドン大人に失望しております」

「何を言うか、ミン大人! そちらこそ、今の御発言、聞き捨てなりませぬぞ!」

「ですが、事実を申したまで。他意はござらん」

 クッ!

 ドンは言葉を呑み込み、奥歯を噛み締めた。

「陛下。畏れながら私見を申し述べます」

 ミンは再び首を垂れた。

「思うに、今回の帝国の北の侵攻は囮ではございますまいか。

 我らの気を北に引いておいて、その実は南から、王国の天領であるアルムを狙ってのことではありますまいか。先にハイナンの島々を奪ったのは戦艦の一件の単なる報復ではなく、向かうところ敵なしとなった帝国の海軍部隊がアルムを狙ってその根拠地を得ようとのことなのではありますまいか。

 残念ながら帝国に潜ませてあった手下どもが悉く捕縛された今、確かな情報が手に入りにくくなっております。ですが、東の国境に配置しておる輩が手の者の話では北を上回る軍勢が国境の向こうに集められているとか・・・。

 さらに、でございます。

 帝国は飛行機なるものを作り、ここのところ頻繁にわが王国上空に飛来させてこちらの動静を探っているやに見受けられます。つい先日もチンメイ山の南にその飛行機が落ちました。

 北ではないのであります、陛下。明らかに帝国が狙っているのは南であると、輩は断言致します。

 かくなる上は陛下の天領をお守りするため輩も手勢を率い南に向かいたく、陛下の御裁可を希(こいねが)うものでございます」

「それは詭弁であろう。その実は貴殿の自領であるナイグンからゾマにかかる一帯を守らんがためであろうが!」

「なにが詭弁でありましょうや」

 ミンは蔑みの目でドンを一瞥した。

「輩の陛下と王国への忠誠は不変でございます。この老体の後継者にと目しておった我が掌中の珠、レイまで捧げ、不憫にも娘はもう貴人に文も書けぬ身体になりました。

 自身は何もせず、不確かな情報をもたらして王国と陛下の富を損ない、今また私利を守らんがために陛下の兵を無心する方とは違うのでございます」

「私利を守らんがためだと? ええい、無礼者! 今の一言、もはやカンベンならぬ!」

「ドン大人!」

 成り行きを見守っていた黒衣の大臣がようやく声を上げた。

「ドン大人。陛下の御前ですぞ。お控えあれ」

 そう言って席を立ち、恭しく御簾に寄り、その奥のチナの支配者に伺いを立てた。御簾の奥から弱々しい少年の声が流れて、その場にいた一同の耳にも微かに届いた。

 大臣は御簾に一礼し、再び席に戻って一同に一礼し、言った。

「今、ご聖断が下りました。国王陛下はこのように仰せられました。

 ミン大人、」

「はは~っ・・・」

 ミンは拝跪した。

「ミン大人。即刻軍を率い、南から来るものと思われる敵に備えよ」

「謹んでお下知承りました。この上は天領アルム防衛のため、この老体に鞭打ち、粉骨砕身、見事敵を迎え撃って御覧に入れまする。そこで、大臣閣下、お願いの儀がございます。

 王党軍に貸し出したる我が兵ら二万を、一時お返しいただきたいのでございまする。

 アルムは国王陛下の直轄地。我がチナの牙城であります。ここを陥とされればこのピングーは丸裸同然になります。しかも重要な兵器廠もある。我が手の者だけでは兵力が心もとないのでございまする。

 アルムの前哨であるナイグンは死守せねばなりません。ドン大人が自領を守ると仰せなら、我らミン一党は王国と国王陛下をどこまでもお守りする所存でございまする! 」


 

 よきに計らえ。

 国王のその一言を得て、ミンは王宮を後にした。

 ミンは、勝った。

 この上は、得られた王宮内での勝利を確実に形にするために、是が非でも自領を守る。それがひいては王国を守ることに繋がるのだ。そうすれば、数多の豪族中のミンの力はもはや誰にも追随することのできぬ巨大なものとなる。

 そしてその果てには・・・。

「父上!」

 城壁から出てきたミンは愛すべき娘、レイの出迎えを受けた。

「すぐ馬車を出せ。急ぎナイグンに戻るぞ。話は馬車の中でしよう」

「わかりました、父上」

 そう言うとレイは手首の無い右腕を翳し、集結していたミン一党の軍勢に下知した。

「皆の者、帰るぞ!」

 ミンは、多くの彼の子たちのうちで最も知力と胆力に秀でた愛娘が馬車のステップに立って全軍に号令するのを眩しく見上げた。

 老い先短い今のミンの、まだ絶対に誰にも明かすことのできない夢。それは、是非ともこのレイを新しい王国の女王として君臨させることだった。

 帝国の戦艦を強奪しそこない、一度は挫折を見たその夢が、今一度叶う機会を得られたことは僥倖に近いものだった。

 だが、それは叶う。必ずや実現して見せる。この目の黒いうちに、必ずや・・・。

 ミンは密かな決意を深く胸に刻み込み、娘と共に馬車に乗り込んだ。

 

 あくまでもチナ王国内の内紛であり、豪族同士の力のせめぎ合いの結果だった。

 ところが、その内紛が図らずも帝国の意図を見破ったものとなりチナをして利することになるのだから、歴史とは過ぎてしまわねばその全容がわからない、不可思議なものなのだった。


 


 


 

 今を遡ること三千年前。

 古代ローマの最大版図は、帝都ローマを中心にして東は属州ユダヤ、西はスペイン、南はかつてカルタゴのあった、旧文明ではチュニジアと呼ばれた属州アフリカ、北はイギリスのイングランドとスコットランドとを隔てるハドリアンズ・ウォール(ハドリアヌス帝の長城 Hadrian's Wall)からドーバー海峡を渡ってガリアとゲルマニアの間に横たわる線まで。地中海を全て抱え込む、当時の地球上で最大と言われる領土を治めていた。その総人口は約三千万余りだったという。


 

 現在の帝国は面積ではほぼ古代ローマと互角ながら、人口は少なかった。徴兵制は敷いていたが男女とも二十歳からの二年間のみに限定されていてその中核を担うのは数少ない職業軍人だった。動員できる兵力も三十万がやっと。だが、その科学技術によっていにしえのローマとは比べ物にならないほどの強大な軍事力を誇っていた。戦力差を弓と剣だけに頼るローマ軍と比較すればおそらくは十倍以上の開きがあるだろう。すなわち、古代ローマの時代で言えば三百万以上の兵力を持っていることと同じになるのだった。

 対するチナは総人口四千万あまり。だが、当初こそ帝国を凌駕していたその国土面積は、度重なる割譲によって今やかつての三分の二ほどに落ちていた。動員できる兵力は総計五十万を超えるが、そのうち国王直轄の正規軍は三十万に満たなかった。残りは軍閥の率いる私兵で国王の統制が及ばない。国王もまたそれら軍閥の後ろ盾を失えば立場が危うくなる道理だった。政権基盤が弱いのだ。軍閥たちは互いに疑い深く、常に競い合い、反目し合っていた。

 そして、チナは焦っていた。

 これ以上押されればやがて帝国の軍門に下ることになる・・・。

 三十年前の無謀な『盾の子供たち』を生んだ侵攻はその焦りから来たものだったし、あからさまな帝国技術の盗奪も同じ動機から生まれていた。

 話し合い、理解し合い、認め合い、尊重し合う。

 帝国の根底にあるその行き方は、ついぞチナには生まれなかったし、根付かなかった。

 その要因はどこにあったのだろうか。


 

 ヤヨイが度々「昼寝してても単位がもらえる」ことから好んで聴講していた、バカロレアの「ナガオカ先生の人類史Ⅰ」の講義によれば次のようになる。

 帝国は元々大災厄によって北から逃れてきた欧州人たちが寄り集まって中核となった国だった。どこへ行くという当てもなく、ただとにかく寒波を逃れたい一心で南へ逃げてきた人たちの子孫、それが帝国人だった。

 必然的に遊牧民的な行き方を取らざるを得ず、その点、元は羊飼いの小さな村であった、ロムルスとレムスの二人の兄弟の神話から始まるローマとは、ヒツジやヤギを追っているうちに野生の馬が多く生息するこの地に移り住んだ「羊飼いの子孫」であるところもそのルーツが似ていた。

 帝国人は元々の自分たちが異邦人でありエイリアンであり、余所者であることから、他の余所者たちと争うことはあっても気が合えば快く迎え入れる方を選んで生きてきた。言わば、土地ではなく人と馬について生きてきたのが帝国人だった。奇しくもその昔モンゴルと言われたその土地は、いにしえの大モンゴル帝国の中心地であり、全地球の半分を恐怖に陥れたチンギス・ハーンの騎馬隊の故郷だった。

 一方のチナもまた大災厄に見舞われたが、なんとか父祖伝来の地にしがみつくことが出来た。

 が、それまで彼らを治めてきた強大な政府が倒れ統治機構が消滅し、その土地ごとに勝手気ままに様々な勢力が林立し力の支配がはじまった。暗黒の争いの時代が始まり、合従連衡を繰り返したのち、ある部族が勝ち残り王となったがその王権は短命に終わった。

 王が立つたびに地方から反乱がおこり王が斃され別の王が立った。そのいくつかの王朝の王たちにとって幸いだったのは王権を継いだ自分の孫が首を切られるのを見ずに死ねた事ぐらいだった。故に千年のうちに覚えきれないほどの王国が勃興しては滅んでいった。

 王朝は何度も変わったが、彼らチナ人の根底に流れるこの、「力の支配」の構図だけは変わらなかった。それだけは大災厄前も後も変わらず、彼らは、大災厄から何も学ばなかったことがわかってもなお、自分たちを変えることが出来なかったのだった。


 


 


 

 第二軍のクンカー攻略着手の一報が電信で帝都の統合参謀本部に届き、その上の巨大なエンタシスの奥のドームの中では元老院議員たちによる討議が行われていた。

 時に帝国は宣戦布告をし、いくさに突入していた。元老院は帝国最高の立法機関であり、司法機関も兼ね、統合参謀本部の上位に位置することから、交戦中の帝国皇帝インペラトール最高司令官の補佐機関としての役割も担う、はずなのだが・・・。

 チナ王国と交戦中の今、当然議題に上るのは戦争に関する喫緊の議題であるべきはずだった。

 しかるに。

 ヤンは演壇最前列にある第一人者プリンチペスの席のやや斜め後方の自席から、演壇でふるわれる弁舌に耳を傾けつつ、父帝の足元のサンダルを見ていた。父帝の癖になっている、イライラすると発生する貧乏ゆすりが出ないことを念じながら。

 その日招集された元老院は、開会が宣言されるや統合参謀本部から上がって来た情報に一気に沸き立ち、累積していた懸案事項を差し置いて急遽東の地方から選出された議員による緊急動議を審議、討議することになってしまっていた。

「・・・であるからして、私はこの帝国の国号をこの際一考するべきと考えるのであります。

 帝都の呼称である『カプトゥ・ムンディー』然りなのであります。これは『世界の首都』という意味であり、固有の精神を表現したものではないのであります。我々はその建国以来、古のローマを目指し、新しきローマたらんと日々を精進してまいりました。スブッラ、パラティーノ、カピトリーノ・・・。全て自然発生的に帝国の人々が言い慣わして来た呼び名であります。

 チナ相手に挑戦するという、この帝国の一大跳躍の時、我が帝国もまた、帝国に生きる人々の心の声が望むごとく、その国号も改める必要があるのではないかと愚考する次第です。

 それは、『ナイエス・ローム(新しきローマ)』! 

 これであります! 」

 東の地方選出議員の発言が終わるや、少年廷吏が進み出た。

「ただいまの親愛なる議員サー・ヨハンの動議に対する意見を求めるものである」

 帝国最高の立法機関である元老院には議長というものがなかった。

 議事進行を担う少年廷吏や帝国皇帝の儀式で付き従うリクトルを捧げ持つ警吏たちは、毎年帝都の小学校の最上級生から選抜されて担当することになっていた。その理由は「無垢にして、無私」だからである。

 議長を同僚議員から選出すれば選挙をしなければならないし、選挙をすればしたで勝ち負けが生まれ、遺恨が残る。一つの集団があれば必ず派閥が生まれるのは人間世界の常であるが、それがために元老院の中で要らぬ対立が生じるのは好ましくない。

 さらに、儀式だけにもせよ皇帝を守る警吏を、例えば儀仗兵から選抜すればそれがあたかも特別な職であり誰かの意思によって為された人選であるかのような猜疑を元老院議員たちに生む。儀式という市民たちが目にする晴れがましい場だけに、リクトルという皇帝の権力を示す権票を捧げ持つ者が固定化するのを上流階級たちは避けてきたのである。

 しかも、過去何人かの皇帝が在職中に暗殺されたが、二百年以上前の皇帝の一人は警吏のリクトルで撲殺されたのである。

 それが皇帝の任命であればよい。ただ、いちいち議会の廷吏や儀式の時だけしか使わない警吏たちを皇帝が任命するのもホネだった。それに皇帝の背が高ければよいが、不幸にして背の低い者が皇帝になった場合、プリンチペスの姿がリクトルの中に埋もれてしまってはどうにも具合が悪かった。

 自分の学校から元老院廷吏を出した小学校の校長ともなれば、子供たちの保護者に対して大いに鼻を高くすることが出来るし、学校の校庭に飾る歴代の校長の胸像の下に「ルディー七年度元老院廷吏ジョン何某輩出」と刻むことが出来るのだ。名誉には違いない。

 議場の中で手が挙がった。

「親愛なる議員サー・エドモンド、発言を許可します」

 だが、元老院の廷吏に選ばれる少年少女たちも苦労した。

 学校の勉強の他に、六百人はいる議員たちの顔と名前を暗記しなくてはならない。名前を間違えたら大変である。だから彼ら彼女らは毎年その学校の最も成績優秀な者が選ばれた。ヤヨイも成績は良かったが、幸か不幸か、廷吏や警吏に選ばれたことはなかった。

 名を呼ばれた議員は颯爽とトーガの裾を払って登壇し、意気揚々と、述べた。

「いにしえのローマを標榜するというならば帝国語はおかしい。それならば、

『ノバ・ローマ(Nova Roma)!

 ラテン語にするべきである。『パラティーノ』イタリア語の古語でパラティヌス(Palatinus)のことであり、カピトリーノはカピトリヌス(Capitolinus)である!」

 この、ラテン語の「オタク」であるらしい彼の発言は、たったそれだけだった。

 少年廷吏は目をぱちくりさせた。まだ小学生の子供の目にさえも、この議員たちの体たらくがアホらしく映っていたのである。

 ついに父帝のサンダルの踵がカカカカカ、と鳴り始めたのに、ヤンは首を落とし額を抱えた。

 その後、ニ三の議員が登壇してあーでもないこーでもないとやり始め、常ならば全ての議員が発言を終えてから発言するプリンチペスの手が重々しく挙がったのを廷吏は見つけた。

「敬愛なる第一人者の発言を許可します!」

 元老院第一人者にして帝国皇帝はその疲れた身体に鞭打って、重々しく登壇し、議場を厳しい目で見渡した。

「まだ討議の最中であるのは承知しているが、発言をお許し願いたい。また私の発言に拘わらず、この後もこの議題についての討議は続けられたい」

 彼は厳かに話しはじめた。

「この一国の国号という大変に重要なものの討議は尊重されてしかるべきと考える。第一人者としてこの議案を提起された親愛なるサー・ヨハンにも深く感謝するものであることをまず最初に申し述べておく」

 ここで皇帝は一息入れた。常日頃、息子であるヤンから口喧しく言われていることを思い出し、なるべく激高すまいと心を抑えるのに大きなエネルギーを使いつつ、言葉を継いだ。

「しかるに。

 今は、戦時である。

 今我々が討議しているこの最中にも、北の第二軍では我が将兵たちが凍えそうなほどの寒さの中で砲を撃ち、重い砲弾を込め、塹壕を掘り、手に張り付いてしまいそうなほど冷たいライフルの銃身を握って敵と戦っているのは諸氏も十分にご承知のことと思う。

 諸氏は皆軍務経験者である。交戦中の軍隊にとって最も大切なものは士気の維持であることも敢えて言及するまでもないことと思う。その士気を鼓舞するために、軍旗がある。兵たちは皆その軍旗を仰ぎ、軍旗の元で戦い、その軍旗を穢すまいと今この時も奮闘しているのである。

 諸君らが今討議しているのは、いくさの最中にその崇高なる軍旗を変えようとするものだ。

 この元老院議場の外に翻る帝国旗を変えるのならば、それがここに集う議員諸氏の総意であるならば、私は異議無く従うものである。

 だが、三十年前にチナとのいくさに大隊を率いて参戦し、十五年前の北の野蛮人戦役にも混乱する戦線の収拾に苦労した記憶を持つ私には、いくさの最中に軍旗を変える話にはどうしても賛同できない。今、これ以上この議題の討議に加わる気持ちは、私にはない。

 元老院第一人者として親愛なる議員諸氏に申し上げたい。

 今、階下の統合参謀本部ではスタッフたちが第二軍から来た情報を受けて最終決定をせんと私を待ってくれている。

 戦時国債の発行や募集の検討。戦時動員の可否やその適用範囲の検討、軍から上がっている追加戦費予算の承認の可否、帝国国民の開戦後の動静の報告に対する議員諸氏との情報の共有・・・。

 私は、それらも戦争指導と同じく重要だと思い、参謀本部のスタッフを待たせてまでもこの討議に参加していたのだ。

 私には議員諸氏の討議を妨げる意図はない。だが、今、これ以上この議題を討議されたいならば、私は退席させていただく。この国号の問題も重要なものである。だから、このいくさが終わって後、この議題についての討論と決議の結果を伺うこととしたい」

 そう言って皇帝は演壇を降り、そのまま議場の外へ、地下の参謀本部へ降りる階段のある方へ歩み去った。廷吏の何人かがそれに付き従い、進行役の少年が静まり返った議場に、こう叫んだ。

「プリンチペスが退席されます。では、親愛なる元老院議員、サー・ヨハンの発議に他に意見のある議員の発言を求めます。

 静まり返り続ける議場のどこを見渡しても、いつまで待っても、その少年廷吏の目には発言を求める挙手は上がらなかった。


 

 議場を出れば少年廷吏たちの付き添いはなくなる。

 父帝の後を追って来たヤンは、足早に階下へ急ぐ父の背中に語り掛けた。

「陛下、お召替えは?」

「いや、いい。時間が無い。参謀本部の後は十人委員会に行く。緊急議題の原案作成を指示せねばならんからな」

 いささかも歩調を緩めない父に、ヤンは言った。

「ご立派であられました、陛下」

 フン。

 父帝は鼻を鳴らした。

「ヤン。あのかわいい廷吏くんの目を見たかね。あの目を見て、少年のころ白い碁石を掴んで初めて議場に立った時の感動を思い出した」

 海の底に国土が沈んだヤーパンの生き残りたちは、自分たちの命と共に、非常にシンプルで奥の深い戦略ゲーム、すなわち「囲碁」を帝国に持ち込んだ。その魅力はたちまちのうちに帝国中に広まり、今もその愛好者を増やし続けていた。

 帝都の各小学校から選抜された少年少女たちは元老院の議場に集められ、帝国皇帝が議場を背にして親しく後ろへ投げ上げた白と黒の碁石を競って拾う。白も黒も同じ十二個ずつ。白を拾ったものが議場の廷吏、黒はリクトルを捧げ持つ警吏となる。その廷吏警吏選抜の風景が、毎年の年度初めの元老院の風物詩になっていた。

「あの愚かな議員たちを蔑んでいた少年の目があれば、大丈夫だ。まだ帝国も捨てたものではない。そうは思わんかね、ヤン。もしかすると、あの進行役の少年が未来のプリンチペスになるかもしれんな」

 地下へ降りる階段を下りながら、父帝は言った。

「ヤン。私はお前から褒めてもらえるだけで、充分だよ」

 


 

 十一月十三日。

 第二軍のクンカー攻略開始と敵主力との会敵、交戦開始の報を受け、中央軍である第一軍と南方軍第三軍が揃って西に向かって進撃を開始した。

「連隊ーィ、前へっ!」

 第二軍の時と同じく、両軍は連隊単位で前進を開始した。

 長距離砲はそのほとんどを第二軍に回してしまった。砲が無い代わりに大口径のグラナトヴェルファーをトラックに積載して自走砲化し、前進する歩兵の援護に当てた。すぐ目の前が山脈の麓で行き止まりになる第一軍に比べ、今次戦役主役の第三軍のほうが進撃速度が速く、予定より一日前倒しで最初の河であるアイエンの東岸に達した。目立った反撃はそれまでのところ、皆無だった。

 歩兵部隊はすぐに陣営地の構築にとりかかった。

 焦点である既存の橋は木造で、機甲部隊の渡河には適しなかった。予定の通り工兵隊が味方の援護の元、仮設橋を渡して機甲部隊の進撃に備えた。

 その夜。

 アイエン川河口の小さな街にほとんど無血で入った第三軍司令部は、当初の予定の通り十一月十五日早朝を期して「マーケット・ガーデン作戦」の発動を決定した。

「年明けを待つまでもない。来月の初旬にはチナは降伏するだろう。今では数も少なくなったそうだが、キリスト教徒は喜ぶだろうな。なにしろクリスマスを家族一緒に迎えることが出来る」

 第三軍司令官モンゴメライ大将は居並ぶ幕僚たちの前でそう、豪語した。
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