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第四部 道連れは可愛いくて逞しい

46 I forgot it・・・

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 山あいの山荘を囲む木々は幾度もの紅葉と冬枯れを経てまた新しい緑を纏い、初夏の朝の陽光を眩しく照り返していた。

 網戸にした窓から谷川を吹きわたる風がそよいでくる。

 まだ少し冷たいが、熱く火照った肌なら心地いいくらいだ。差し込んでいる陽光は既に広いその部屋の中ほどまでを照らしていた。

 部屋の片隅からは逞しい息遣いが聞こえてきていた。

 汗の浮き出た腕が、だいぶウェイトのあるバーを持ち上げている。

 筋肉が波打つ。胸も腹も全て割れていた。もう数十度にわたってリフトされているウェイトのせいで、その筋肉には乳酸が満ちている。しかし、その苦痛に耐えて、男はさらに筋肉を虐める。引き締まった凛々しい風貌(かお)。歳は三十の手前だろうか。歯を食いしばり、自らを鍛え続けていた。

 彼は下半身にも何も着けていなかった。まるきりの全裸。その分身は彼と同様に逞しく屹立していた。

「九十八、九十九、百・・・」

 男はようやくフックにバーを掛けた。

 これが、彼の朝のルーティンだった。どんな状況であろうが、欠かしたことはない。自宅のマンションにも、会社にも、そして、この週末を過ごす山荘にも。同じメニューをこなせるように、同じマシンを入れてある。

 男はワイヤレスのヘッドセットを着けていた。

 マシン群の横にはオーディオセットがある。大型のモニターにはコンサートのライブ映像が映っている。オーケストラの最前列には、あの黒光りする世界最高峰のピアノがあり、今ベンチプレスを終えたばかりの男に瓜二つの男性が、ディナージャケットに身を包み情感を込めて鍵盤に向かっていた。

 しばらくその映像を見ていた男は反対側に置かれていたベッドを顧み、睨んだ。

 ちっ!

 男の舌打ちが響いた。

 ベッドの上には、これも一糸まとわぬ全裸の女が大の字になって大口を開けていた。歳は三十代の初めくらいか。だが、こじんまりしたしかし形の整った乳房と、だらしなく開いた口のせいでやや若く見える。女はその整った胸を規則正しく上下させて、まだ深い夢の中にいた。

 男はヘッドセットを外した。手元のリモコンを操作して音声をヘッドセットではなくスピーカーに切り替えた。オーケストラの素晴らしい演奏が大音量でその部屋に流れた。曲はラフマニノフのピアノ協奏曲第二番。第三楽章のエンディングに差し掛かっている。

 しばらく女の反応を見ていたが、やはり全く起きる気配はなかった。スピーカーからの音量に負けないほど大きなイビキさえ聞こえてきた。憎たらしいほど幸せな眠りの中に女は浸っているように見えた。

 ちっ!

 もう一度舌打ちし、仕方なく立ち上がり顔の汗を払った。ベッドに歩み寄り、女が蹴飛ばして除けたブランケットをかけてやった。が、女はそれが鬱陶しかったようだ。せっかくかけてやったブランケットをまた蹴飛ばし、今度は寝返り伏せになってガゴー、グオー、を続けた。

 毎朝このイビキで起こされる。だが、寝室を分けようと思ったことは一度もない。この女の初めてを貰ったときから、それは変わらない。女はまだ、そのデカい尻を曝して夢の中にいた。

 ぺちぺちと尻たぶを叩いてやる。と、女は手を伸ばしてきてそこをぽりぽりと掻いた。

 諦めてオーディオをCDに切り替え、リモコンを持ってピアノに向かった。アップライトだが、音はいい。深呼吸してCDをスタートさせた。アップライトの上に置いたカウンターの数字盤がカウントダウンするのを注目する。

 3、2、1、

 重々しい四度五度の和音を弾く。

 古びた教会の錆びついた鐘か、地獄の番人の足音か。

 ピアノから始まる曲なので、CDに録音されたオーケストラと合わせるにはしっかりスタートをシンクロする必要があるのだ。

 そのピアノ協奏曲第二番の第一楽章はそのように静かに厳かに始まる。美しく可憐で優しい第二楽章に比べ、第一楽章は作曲者の故郷であるロシアの厳しい冬を思わせる、男性的な曲調がその特徴だった。やがて重々しい鐘の音は重厚なパッセージに変わり、CDに記録されていたオーケストラの弦楽が同じく分の厚いモティーフを奏で始める・・・。

 そのCDは男が大金を投じてわざわざ録音させたピアノ用の文字通りの「カラオケ」だった。

 ピアノコンクールに出るような上級のピアニスト用に、ピアノのパートを抜いた「カラオケ」があるのは知られている。ラフマニノフの「2番」も既製品があるのだが、そのオーケストレーションが気に入らず、ストリングスのサンプリングの音にも納得できず、世話になっているピアノの先生を通じて在京のフィルを紹介してもらい、しかもスタジオではなくコンサートホールを使って録音した。金と手間とヒマが途方もなくかかった。それでも、どうしても最高の演奏をバックに練習したかった。どうしても、上手くなりたかった。

 一緒に仕事をしている相棒には「オメーもしょーがねえなあ・・・」と文句を言われたけれども。

 さきほどまで観ていたビデオを手に入れてから、この曲を練習しないではいられなくなってしまったのだった。

 ビデオは二十年以上前のピアノコンクールで録画されたものだった。そのピアニストは惜しくもグランプリには届かなかったが、審査員からはその才能を惜しまれたという。

「これでもう二度と彼の演奏が聴けないと思うと、とても残念です」と。

 ピアニストの名前は、皆川洋介。夏樹というこの男にその名を授けた、この男の実の父親だった。


 


 


 

 あれから間もなく、母は密かに夏樹の家の近くの病院に移された。転院は夏樹にも知らされなかった。母の希望だったという。しばらくは父が仕事終わりに見舞っていた。その父から母の危篤を知らされ、再び奈美と共に病室を訪れた時にはすでに遅く、母は旅立ってしまったあとだった。12月23日。夏樹が14歳の誕生日を迎える、わずか一日前だった。

 母の少ない遺品を整理していた中に、母が病室で聴いていたというピアノコンクールの録音CDがあった。そして母と伯父と三人で撮った写真も。夏樹は『アダージョ』と共に毎日のようにそのCDを聴き続けた。

 叶という、母の親友だったという人が葬儀に来てくれた。

 妙齢の美人。母に会えたこと。母と一緒にピアノを弾いたことを話すと、興味深そうに耳を傾けてくれた。だから、思い切って訊いた。

「もしかして、オレは母とヨースケ伯父さんとの間の子ですか?」と。

 その女性の反応で、それがわかってしまった。

「そうなんですね? 事実なんですね?」

 後年、彼女は母の三回忌にも来てくれた。その時に夏樹の実の父親であり、母の実の兄の、コンクールのビデオを譲り受けた。

「あなたが持っているべきだと思ったから」と、彼女は言った。

 それが夏樹の問いかけに対する彼女の返事だった。

 父は離婚届を出していなかった。だから戸籍には死亡と記載されていた。だが、四十九日を過ぎても納骨しなかった。多少なりとも父を理解し始めていた夏樹は、父に頼んだ。

「おじさんのと母さんの、オレに任せてくれない?」

 それからしばらく、夏樹は二つの骨壺を自分の部屋に保管し、登校前と帰宅時、毎日線香をあげて供養した。


 

 夏樹は普通の中学生に戻った。

 普通に猛勉強をして普通の進学校に入り、普通に大学の工学部に入った。中学の時から弄り回していたパソコンやコンピュータソフトで身を立てようと思ったのだ。そして在学中に気の合う仲間と一緒に普通に遊びながら、普通にノリで小さな会社まで興してしまった。興したのはいいが、やりたいことをやるための金がなくて普通に困った。普通のバイト程度では到底追い付かず、かといってたかが学生の分際に、ハイどうぞと金を貸してくれる銀行など普通になく、普通に途方に暮れていたら父から呼び出された。

 目の前に見たこともない金額が印字された通帳を出された。

「お前、やりたいことがあるなら、それ使え」

「・・・どうしたの、この金」

「お母さんの遺産だ」

 あの、どうにも売れそうになかった山が売れたのだという。太平洋と日本海を結ぶ高速道路の建設計画がもちあがり、道路会社が高速道路の下になる山の買収をはじめたということだった。

「いいの?」

「いいのもなにも、お前のものだ。母さんがくれたと思って、大切に大事に活かせよ」

 父のそんな穏やかな笑顔を見たのは幼いころに母が出ていって以来のような気がする。亡くなる寸前、母と父は再び普通の夫婦に戻ったのだろう。そう、思っておいた。


 

 いわゆるITベンチャーの起業が流行っていた時期だった。夏樹と友人の会社はすぐに軌道に乗り、業務も拡張した。二人は大学を中退して会社経営に専念し、三年後にはなんとジャスダックに上場を果たしてしまった。

 そこでやっと待たせに待たせた奈美と入籍した。

 それまでの日々、陰に日向に支えてくれ応援してくれた糟糠の妻だった。奈美なしには今の自分はないと思っていた。その尊い労にやっと報いることができる時が来た。奈美の家に挨拶に行き、けじめをつけた。

「ナミを、いただきにきました」

 奈美と二人、並んで彼女の父と母に向き合い、小さいころから世話になりっぱなしの、これから「舅と姑」になる人に頭を下げた。そして、言った。

「でも、本当にいいんですか。オレは、母と、母の兄の間に生まれた、不義の子です」

 と。奈美は夫となる夏樹の腕を抱え、手をぎゅっと握り締めていた。

 大学の医学部を通じて伯父の遺骨と自分のDNA鑑定を依頼していた。結果は、叶という女性から聞いた通りだった。皆川洋介。母の実の兄が、夏樹の生物学上の父親だったのだ。

 奈美には最初に話した。いいのか、と。

「そんなの関係ないよ」と彼女は言った。

「でも、お前のお父さんとお母さんは反対するかもよ」

「そん時はそん時。そんな親なら、カンドーしてやる!」


 

「いいんですか、って・・・。今さら言われてもなあ・・・」

 奈美の父は困惑を装いながらもとぼけた表情で、言った。

「じゃあさ、もしオレがヨボヨボになったら、誰がオレをおんぶして釣りに連れてってくれるの? もうずっと前からウチの息子だと、思ってたんだけどなあ・・・」

「パパー!」

 奈美がテーブルを超えて父に飛びつき圧し潰している間に彼女の母にも質した。

「近親婚の奇形の出現率は高いです。染色体異常とか、ダウン症、口蓋裂とか。隔世遺伝で病気になりやすい子が生まれるかもしれません。それに、伯父も母も、遺伝性の病気で亡くなってます。オレがそうなる可能性は、そうでない人間より高いと思います」

「そんなの、そうなったらそうなったときの話じゃないの」

 奈美の母は彼女と同じようなことを言った。

「おい、いい加減降りろ。親を押し潰す気かって」

 奈美の父もデカい娘を払いのけると同じようなことを言ってくれた。

「そうだぞ。そん時はそん時だ。一緒に乗り越えよう。家族なんだから。な?」

 夏樹の目に涙が溢れた。そして、深く頭を垂れた。

「おじさん、おばさん・・・ありがとう、ございます・・・」

「ハイハイ。重い話はこれで終わり~。じゃ、そゆことだから。いっちょ、お寿司でも取る? 回らないヤツで・・・」

 盛り上げようとする奈美を制して、夏樹はもう一つ、切り出した。

「それと、入籍はするんですが、式と子供は、もう少し待っていただきたいんです」

「え?」

 と「舅」になる奈美の父が言った。

「どうして?」

 と「姑」になる奈美の母も言った。


 

 奈美との入籍を済ませると、会社近くのタワーマンションに新居を購入した。そしてそれとは別に不動産を購入した。

「これから週末はそこへ行って過ごしたいんだ。ヤマメやアユを釣ったり、冬はスキーしたり、夏は庭でバーベキューしたり・・・。お父さんお母さん招待したりさ」

「なに? つーことは場所もう決まってんの?」

 不思議なことに、あの山荘はまだ取り壊されていなかった。その理由はわからない。高速道路の着工で付近の地価が多少上がったが、きっとたぶん銀行も面倒くさかったのだろうと、それ以上考えるのをやめた。

 エクステリアを手直しするほか、大胆にリフォームをした。庭に面した二間をぶち抜いて一間とし、大きなベッドとトレーニングマシン、それにアップライトのピアノを入れるために床を補強した。二間の一画からはそのまま庭に出られるデッキを作り、ジャグジーを作らせた。

「やほー。これならすっぽんぽんで入れるね!」

 奈美は手放しで喜んだ。

 それほどに大胆に改造を加えたが、あのピアノのあった壁だけは補強を加えて残した。元の配置を再現したかったのだ。

 そしてジャグジーを置いた庭の一画の反対側には穴を穿って切り石を大量に敷き詰めた。

「あそこは何にするの?」

 と、奈美は訊いた。

「いまにわかるよ」

 と夏樹は答えた。
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