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おけいこは続く

81 悪魔は来た

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 赤い熊は橋を渡った。


 

 雪が降り始めたら定期的にラッセルをしてくれるように業者に頼んではいた。

 しかし、ガードレールもないその曲がりくねった山道は所々危険なほど凍り付き、ともするとゴツイ赤い熊の脚を滑らせた。

 山の陽は、特に冬は釣瓶落としのように急速に落ちる。

 母は慎重に車を進め、ようやく頂上の開けた地に着いた時にはもう、早くも陽が向こうの山の稜線に隠れようとしていた。

 その小屋は一面の雪の中にポツンと埋もれていた。

 下半分はレンガを積み上げ、上は長い歳月風雪に曝された木造りの家で、屋根は地面と同じくらいの雪に覆われている。軒の下には束ねた薪がズラリと積み上げられていて煙突までちゃんとある。

 頂上まで登って来たラッセルはその平屋建ての山荘のエントランスまでやってきてUターンして戻っていったのだろう。そのロータリーのようになったところに車を止め、エントランスまで膝まで積もった雪をブーツでラッセルしながら歩いた。庇の下でダンダンと雪を落とし、丸太を組んで作られたドアのカギを、母は開けた。

「さあ、どうぞ。ついてきたからには、働いてもらうからね」

 母の声は心なしか華やいで、橋の手前ででサキの逡巡を待ってくれていたときよりも若々しく見えた。あの橋はまるで母だけを若返らせるタイムトンネルみたいだ。まるで娘のように、母は輝いていた。

「あんたは荷物を運んで。運び終わったら裏の貯水槽から水を汲んできて。傍に桶がある。氷が張っていたらハンマーがあるからそれで割って。わたしは発電機とストーブを起こすから。明るいうちにやらないとね。真っ暗闇で凍え死にしたくないでしょう」

 バッグや買って来た食料品などの荷物を運び入れ終えると外からぶおーんと音がしてリビングに灯りが付いた。

 外から見ると小さく見えたのに、中は意外に広い。間取りでいえば2LDKか。キッチンとダイニングを合せたリビングは30畳ほどはあるだろうか。煉瓦の壁際に薪ストーブがあり、その壁の向こうに寝室が二つある。ダイニングテーブルにストーブを囲うように置かれたL字型のカンヴァス地のソファーの他はこれといった調度はない。

 家の中でも息は白い。食料でパンパンになったトートバッグをテーブルの上に置くと、母は早くも両手に薪をぶら下げてきてストーブにくべ始めた。

「この薪ね、タダなのよ。この辺りで間伐した売れない端材をもらってきたの。裏に小屋があってね、そこにもため込んでる。3シーズン分ぐらいはあるかな」

 こんなに楽しそうな母を、初めて見る。

 薪はすぐにパチパチと勢いよく爆ぜ、赤々とした炎を上げ始めた。母の紅潮した顔をさらに赤く染めた炎は次第に冷えた山荘の中を温めはじめた。

 耐熱ガラスのドアを閉め、両手を揉み翳しながら、母は微笑んだ。

「ほら、温かいよ。あたりなさい」


 



 窓の外はマイナスの真冬の夜。しかし部屋の中はストーブの火が燃え盛り、Tシャツ一枚でも過ごせそうなほど暖められている。

 その傍にクッションを持ち寄り、二人で胡坐をかいて寛いだ。

 TVもない。携帯端末の電波も届かない。ラジオはあるが、あえてつけていない。発電機はさっき止めた。部屋はストーブの炎と床に置いた白灯油のランタンの意外なほど明るい灯りだけ。

 そして、ここ最近摂った中ではもっとも粗末な夕食を楽しんだ。

「どうしても陽のあるうちにここに来たかったの。なんとかぎりぎりで間に合ったわ」

 ワイングラスなどはない。琺瑯びきのカップに注いだワインを傾けながら、母はぽつりと呟いた。

「タチバナの会長という立場にありながら東アジアの本社にも顔を出さず、あんたの生みの母のレナにも会わず、孫のカオルの顔すら見ようとしない。

 わたしは酷い女よね・・・」


 

 今日、ずっと知りたかった、母の空白の8年間。その間の出来事を初めて、全て聞いた。

 17歳で家出し、ある男性の性的な相手をしてその人の「スレイヴ」となり、非合法な活動もし、そして共にスレイヴとなったサキの生みの母であるレナと出会い、自分が生まれた。

 わたしももう、三十路を目前にした成熟した女だ。それなりに男性経験もあるし、十代の娘だっている。世にあるいくつかの特殊な性的嗜好のことも知識としては知っている。それに、他人のそうした趣味には興味が無い。

 ただ、自分の二人の母と、彼女たちにわたしの命を残した父親がその性癖の持ち主であるとは。自分がその結果生まれてきたものであるとはいささか驚くべきことではあった。

 これで母の身体を飾るアクセサリーの謎も解けた。同じようなピアスをギフの母もしていた。それが二人の母の、サキの父に対する愛の証なのだということも、知った。

 母は数十年ぶりにその男性に会う。わたしもまた、初めて「父」と呼べる男性にまみえる。

「それに、今まであなたにずっと黙っていた男性を突然引っ張ってきて『この人があなたのお父さんよ』なんて引き合わせる・・・。最低の母親よね。エゴもいいとこだわ」

「もう、やめなよ」

 母と同じ琺瑯カップの中のスコッチをあおり、立って窓を開けた。

 そこから手を伸ばせば軒からぶら下がっている氷柱を折ることが出来る。

 ボキッ。

 窓を閉め、さっきよりも少し母の近くに座ってカップに氷柱を割り入れ、琥珀色の液体をボトルから注いだ。芳醇な香りが漂う。自分はいつになく、酔っている。しかし悪い酔いではなかった。

「自虐ショーはもう止めな。その出会いが無ければ、わたしもカオルも今この世にいないんだから」

 と、わたしは言った。

「たしかにビックリはしたよ。それに、まだ『お父さん』と会うってのがしっくり来てない。ここいらへんにね」

 わたしはコットンシャツの上から胸を押さえた。

「でもこんな話なんて、そこら中に転がってるじゃないの。子供が生まれる前に蒸発した亭主がある日突然帰ってくる。そして初めて自分の娘と対面する、なんてさ。その程度のことで落ち込むなんて、タフなお母さんらしくないよ。第一、お母さんのせいじゃないじゃん」

 黙ってわたしを見つめている、母。

 こんな風に、母としんみりとお酒を飲む、なんてのも、もしかすると、初めてかもしれない。

「そりゃね、子供のころは寂しい夜もあったよ。正直に言えば、何度かギフのお母さんの所へ帰りたいって、泣いたこともある。

 だけどね、わたし、思うの。お母さんの娘だったからカオルに会えた。お母さんの娘だったから、今のわたしがいる。本当に、そう思ってるんだよ、今もね」

「サキ・・・」

「ありがとう。話してくれて、よかった」

 母の手は温かかった。ギュッと握られて、なんだかとても恥ずかしくなった。スン。母が鼻をぐずらすと、なんだか自分も妙なしょっぱい気持ちになる。

 母は言った。

「・・・あんたって、いいところもあるのね」

「何言ってんの! いいところだらけじゃないの。失礼しちゃうわ、その言い方!」

 やっといつもの母娘のテイストが戻って来て、わたしも少し、気がラクになった。


 


 


 

 サキの顔は父親に似て彫りが深い。中東系とのミックスだから当たり前だが、レナに似たのか目も大きい。その目で睨まれると、時々スミレでも押し黙るときがある。

    ああ、サキさんの目だ・・・。

「なあに?  どうしたの?」

「ううん」

 サキはそんなスミレに気づくとすぐに表情を崩す。これまでの人生の中で、娘も自分の目力が強すぎるのを和らげる術を学んできたのだろう。

 もう日付は変わったろう。

 陽が昇るころには起きていたい。うつらうつら始めたサキの手からカップを取り、肩を揺すってベッドを勧めた。

「もう寝なさい。あとは明日の朝よ。寝不足のまま腫れぼったい顔をお父さんに見せる気?」

「下から車で来るのよね」

「そこしか道はないもの。生きてるとしたら70近いおじいさんよ。歩いて昇ってくるわけないよ」

「もし寝てたら起こして。じゃあ、寝るね」

「シーツはクローゼットの中よ。おやすみ」

「おやすみ、お母さん。・・・連れて来てくれて、ありがとうね」


 

 サキに彼を会わせるのを躊躇していたが、おかげで話も出来た。スミレの過去をカミングアウトすることも出来た。長年積み重なったシコリも取れた。今は連れて来てよかったと思う。

 娘を寝室へ追いやった後、ボトルを見るともう三分の一ぐらいしか残っていなかった。いつのまにこんな酒豪になったのか。明日の朝肝心な時に二日酔いで起きれなくなるのではないかと心配した。

 なぜか目が冴えてしまい、ワインのボトルの残りを空けた。一本飲んでしまったが、それでも眠気がこない。気が昂って仕方がなかった。それで、いつもならポジティヴなスミレなのに、妙にいろいろ気になりだして治まらなくなった。

 もし仮にスミレの解読が間違っていて彼が現れなかったらどうするか。一度気になりだすとさらに冴えてしまい、いっそ起きていようかと立ち上がり、コーヒーを淹れるためにストーブのケトルに手を掛けようとした時だった。

 キーン。

 耳慣れない金属音がして窓が少し揺れた。

 耳鳴りだろうか。それとも風で山荘の建物の一部が壊れでもしたのだろうか、と窓の外を覗こうとした時、

 コンコン。

 木造のドアがノックされた。

 ギョッとした。まだ日が昇るまではだいぶある。こんな夜更けに真っ暗な山道を昇ってくるなんて、一体・・・。

 恐る恐るドアに近づく。外を確認してからと、ドアの小窓に手をかけ、

「どなたです?」

 と声を出した。

「僕だよ」

 小窓を開けた。

 白髪の、西洋の老人が立っていた。
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