わたしの名前を呼ばないで

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 シャワーを浴び手早く身支度を済ませると玄関に向かう。

「今日は必ずハロワ行きなよ」

 欠伸をしトランクスの中に手を突っ込んでボリボリ股間を掻きながら、ご丁寧にもわたしを見送りに出て来る。

「朝飯ぐらい食って行けよ。体に悪いしさ」

「その時間を失くしたのは誰?」

 それには応えずヤリオは黙って手を差し出す。

「昨日あげた三千円があるでしょ」

「あれっぱかじゃパチンコの種銭にもなりゃしねえ。ガキじゃねえんだぜ」

「ガキじゃないんなら、まともに仕事探しなね。もういい歳なんだから」

 細い目を空とぼけ布袋腹を叩くヤリオ。

 ハンドバックから財布を取り出し五千円札を抜いた。

「出かけるならちゃんとスーツ着て行きなよ。ご近所の目もあるし。気持ちも引き締まるよ」

「いいのかよ」と、お札をひらひらさせるヤリオ。

「なんとなく」ベージュのコートに袖を通しながらわたしはドアを開けた。

「火の元、戸締り。しっかりね」


 

 混んだ通勤快速のドアに快く疲労した体をもたれさせ、嘆息。窓が曇る。

 三月前、まるで野良犬を拾うようにヤリオを拾った情景をリフレインしてみる。

 わたしは体を動かすのが好きだ。

 日課として毎朝五キロほど走っていた。途中公園の芝生広場で簡単なエクササイズメニューをこなす。ひとつしかないベンチを使ってストレッチをしたり腹筋を鍛えていたが、その朝は布袋腹のオッサンが寝ていた。どうやら酔払ってそのまま寝てしまったものらしかった。上下色違いの汚らしいジャージを着て革靴を履いた片方の足を背もたれに引っ掛けていた。触らぬ神に祟りなし。エクササイズを省略して走り去ろうとすると、ベンチの足元にスマートフォンが落ちているのに気付いた。

 この男のものだろうか。電源を入れると生きていた。ロックもかかっていなかった。待ち受けに、五歳ぐらいのおさげの女の子の写真があった。チェックの愛らしいワンピースにぼんぼんりぼんの付いた白いソックス。ピカピカの靴を履いて誰かと笑い合っている。滅茶苦茶かわいい。

 この頭の禿げかかった白豚のようなオッサンとは似ても似つかない。よく見るとオッサンの目尻から耳に幾筋もの涙の川のようなものがあった。単なる幼女趣味の変態では無さそうだった。

 もしもし。

 汚らしかったが、勇気を出して肩を揺すった。

「スマホ、あなたのですか」

 男はゆっくりと目を覚ました。わたしの手にあるスマートフォンを目にするや慌てて奪い返そうとして取り落とし「あーっ」と叫んだ。

 その後の経緯はよく覚えていない。

 結論を言えば、その日のうちにわたしはこの男と寝た。

 それから男は「ヤリオ」になった。

 ヤリオを風呂に入れている間に持ち物をチェックした。財布も運転免許証も保険証も鍵も持っていなかった。ズボンのポケットに幾許かの小銭があるだけ。ほとんど無一文。

 どこから来たのか、何者なのか。仕事は?

 風呂から出たヤリオに尋ねた。彼は一切答えず、その代りにわたしを襲ってきた。

 こんな風に殺される女もいるのだろうな。

 ヤリオに押し倒されながらそんなことを考えた。自分の責任だ。どこの誰ともわからない。素性の知れない他人を安易に家に上げたのだから自業自得だ。不思議に恐れは無かった。二年前に恋人と別れてからしていなかったせいもある。最初から何度も昇りつめた。何よりもそれまで経験のなかった「乱暴にモノのように扱われる」スタイルに早速溺れた。

 ジョギングで汗ばんだ、お風呂にも入っていないわたしの足、その足の指をヤリオは執拗に舐めた。驚いて顔を蹴とばしたら、

「お前の足は美味い」

 再び頬張り嬉しそうに笑った。背中に悪寒が走った。

 それでも追い出さなかった。

 全てを受け入れたわけではない。感極まってキスを求めて来た時、ヤリオの体を再び思い切り蹴り飛ばし、キッチンに行き包丁を取った。

「キスはダメ」

 追いかけて来たヤリオの腹に包丁を突き付けた。

「あんたのを口でするのもイヤ。変態なコトはイヤ。ゴムなしでするのもイヤ」

 ヤリオはムスコさんをおったてたまま床に正座して大人しく聞いていた。

「それでもいいなら居てもいい。どうする?」

 彼はゆっくりと頷いた。そして、

「足を舐めるのはいいのか」と真面目な顔で尋ねた。

 わたしは返事をしなかった。無言の同意をしたことになるのだろう。

 契約が、成立した。

 それからまた散々やられ、ヤリオが逝って寝入ってしまった後、悪いとは思ったがスマートフォンを覗いた。もう一度あの女の子の写真が見たかったからだがすでに消されていた。SIMカードもミニSDも抜かれていた。

「悪いが、それ捨てといてくれ」

 寝入ったはずのヤリオは、私に背を向けたまま小さく呟いた。

 

 わたしの勤める会社は大手通信会社の子会社になる。わたし自身はハードにもソフトにも詳しくないが会社のツテを辿ればこのスマートフォンの素性を探ることは難しくない。本体にはLOTナンバーが付いている。そこから契約者を遡ることは物理的には出来るだろう。ただその場合、わたしとヤリオとの関係が会社や周囲に知れる。何故このスマートフォンを持っているのかを問われ、わたしは困った立場に追い込まれるに違いない。素性調査のプロに頼むという手段もあったが、馬鹿らしくなってやめた。

 通帳印鑑、マンションの権利書、個人年金の証書、その他貴重品は全て貸金庫と会社の机の中に避難させた。机の引き出しにワザと五万円ほどいれた封筒を入れ放してみもした。一週間たっても一月経ってもそれに手が付けられることはなかった。

 それどころか、ヤリオは健気にも部屋の掃除をするようになり、うっすらと埃の積もっていたはずの調度類は丁寧に磨かれて輝き、いつの間にか簡素な朝食まで用意してくれるようになった。

「あんた、お金はどうしたの」

「ちょっと稼いできた」

「どこで。何して」

「そこらへんで。適当に」

 万事、こういう具合だった。

 頭の禿げかかった不細工な中年男が日銭を稼ぐと言えば大方の察しはつくが、それにしても不思議な男だった。申し訳なかったので一万円あげた。

「住民票はどこにあるの」

「実家」

「それってどこ」

「舞浜の海辺のお城」

 バカにされてキレた。

「ちゃんと就職活動してまともな仕事する気はないの。スーツぐらい買ってあげるのに」

 ヤリオは何も言わずニタニタ笑いながらわたしの足指を舐めた。

 ふらっといなくなったこともあった。

 例の五万円を確認したがそのままあった。一抹の寂しさと体の疼きが堪えた。やっぱりこんなもんか。そう思った。失踪から一週間ほど経って会社から帰るとジャージ姿の布袋腹が玄関のドアに凭れて鼾をかいていた。手には膨らんだレジ袋。中に大量のお札がぐしゃぐしゃになって入っていた。隣近所の手前恥ずかしかったがすぐに部屋に入れた。

「どこ行ってたの。このお金、どうしたの」

 ヤリオを問い詰めた。

「ちょっと稼いできた」

 前に聞いたセリフを繰り返した。

「いかがわしい金じゃない。お前にやる。今までの礼だ」

 すぐに例の五万円を心配したことを恥じた。

「嬉しいけど受け取れないよ。自分のために使えばいいのに。何か資格を取るとかさ」

 わたしがそういうと、なんだいらないのかと言い、レジ袋を持って出て行き、次の日に手ぶらで帰って来た。

「お馬さんに献上してきた」とヤリオは言った。

 今までにヤリオには二十万ほど支出した。月にしてみれば六七万だ。それで朝食を作ってくれて完璧な掃除もしてくれて十分以上に体の満足も与えてくれる。おまけに、

「揉んでよ」

 そう言うだけで全身マッサージさえしてくれる。頭の禿げかかった不細工な中年男であることさえ我慢すれば、会社の同年代独身女性同僚十人中四五人は興味を示し、一人か二人は羨ましがるかもしれない。面倒な家事は全て任せ、彼氏彼女結婚するしないの面倒抜きでセックスが楽しめるのだから。

「わたしね、今ね、ハゲの中年男飼ってるの。家政夫兼セフレ!」

 もちろん、同僚たちにカミングアウトするつもりはさらさらないけれど。
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